幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

「金澤翔子、涙の般若心経」金澤泰子著 ”翔子ちゃんの子育てで気付いたこと”

2024-05-11 10:35:20 | 本の紹介
・生まれなければよかった
 それまでの42年間の人生で、私が初めて「どうしようもない」という絶望感を味わったのが、翔子の出産でした。それまでは、怖いものなど無い、望みはなんでも叶う、何事も思い通りにいくという、申し分のない人生を歩んでいたのです。

・若い頃から知性に憧れて、「知的でないものは、美でない」などとうそぶいていた私です。そんな私が知的障害の子を授かった。
 我儘な生き方をしてきた私への、神様の鉄槌に違いない!と打ちひしがれました。

・もし羊水検査を受けて、障害が判明していたら、あの頃の私ならおそらく翔子を中絶していたでしょう。

・出産も予定外の連続でした。
 高齢出産ですので、私は自然分娩が怖くて、帝王切開を望んだのですが、かかりつけの医師は、四十二歳といっても体は若いからと自然分娩を勧めてくれました。結局、私はその病院に内緒で、千葉の実家に里帰りをして、地元の産院で帝王切開をお願いしたのです。
 ところが、担当医となった医師の学会の都合で、予定日より八日も早い手術日が決まりました。さらに海外出張へ行っていて、立ち会えなかったはずの主人が、スケジュールを調整して手術の日に間に合わせ帰国してくれました。

・翔子は敗血症も起こしていて、一日でも遅れていれば死んでいたという仮死状態で生まれました。・・・
 医師は主人に、生まれてきた子がダウン症であることを告げて、交換輸血の必要性を説明したそうです。帝王切開だったため、私は麻酔でまだ意識が戻っていませんでした。
 医師はきわめて冷静に、主人に説明したそうです。「敗血症ですから今すぐ交換輸血を行わなかければ、生命の火は消えます。しかし、お子さんはダウン症です。知能が無くて、たぶん歩けないでしょう。交換輸血をしてまで助けるのはいかがなものでしょう」
 その言葉を一人で聞いた主人の気持ちはいったどんなものだったでしょうか。クリスチャンだった主人は窓辺に行きました。
 そして、神に向かって迷わず言ったのです。
「主よ、私はあなたの挑戦を受け入れます」
 主人は向かってきっぱり答えました。
「どうか生かしてください。私の血液を使ってください」
 主人の申し出を受けて、ただちに交換輸血が実施され、翔子の命は救われたのです。

・私は恐怖の思いをなんとか抑え込み、医師に訊ねました。
「翔子はダウン症なのでしょうか?」
「そうです」と、医師はあっさり告げました。その躊躇のなさには憎しみを覚えたほどです。
「この子には知能がありません。たぶん、歩くこともできないでしょう」
 真っ暗な奈落の底に突き落とされたようでした。涙が溢れ、背筋が凍り、私はずるずるとその場に倒れ込みそうになりました。
 知能も無く、歩くこともできない、なにを頼りにこの先、育てていったらよいというのでしょう。深い絶望が襲ってきました。
 そして、しばらくすると今度は、恐ろしい自責の念にとらわれたのです。すべて自分の責任なのだと自分自身を激しく責めました。主人や両親をはじめとする周囲の人々に対して、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。主人の両親には会わせる顔がない・・・。・・・ 
そして、翔子がダウン症だという事実を、夫婦で共有するまでに出産から二か月以上もの時間がかかったのです。

・里帰り出産をしていたので、最初の恐怖は「世間体」でした。顔見知りのご近所の方々に、翔子のダウン症を隠さなければなりません。

・知能が無い子をどうして育てられるだろう、と私は絶望していました。
「希望が無いから、育てられない」
 周りに迷惑をかける前に、二人で死んでしまわなくては。ゆりかごの中にいるうちに、私が始末しなければ。
 衰弱死を願って薄いミルクを与えました。
 しかし、ある時、翔子が小さな手を私の頬に伸ばし、私をいさめるかのような仕草をしたのです。まるで「お母さま、駄目。それは愚かなことよ」と訴えるような仕草でした。仕方なく薄いミルクを与えることは諦めたのです。
 しかし、それでも私はひたすら母娘二人で死ぬことばかり考えていました。

・後に主人の母から聞いたのですが、主人は両親に生まれた子がダウン症であったことを泣いて謝ったそうです。
「その大きな目からハラハラと涙と流しながら、裕は手をついて謝ったのよ」
 私たち二人の両親のうち、翔子がダウン症であることをそのまま受け入れてくれたのは主人の母だけでした。エリート志向の強かった主人の父は困った様子でしたし、私の母も困り果てていました。

・暗闇の中で、三年という歳月が流れた頃のことです。「医師になったダウン症者がいる」という話をきいたのです。
 ダウン症でも医者になれる!
 それは深い絶望の底に、差し込んできた一筋の光でした。
 その後、ダウン症の医師の話はまったく聞きませんので、おそらく偽の情報だったのでしょう。しかし、今となってはその真偽はどうでもいいことです。毎日悲嘆に暮れていたあの頃、希望が持てたということがありがたいのです。・・・
 そして私は、翔子をきちんと育てようと立ち上がっていたのです。

・そんなある日、主人が私に言いました。
「やっと、僕が翔子を助けたことに感謝してくれたね」・・・ 主人はよく言っていました。
「生まれなかったより、生まれた方が良かったんだよ」
「僕と君の子なんだから、普通の子が生まれるわけないじゃないか」
 いつでも主人は、なにかと私を気遣い励まして、翔子と私を見守ってくれていました。

・翔子が五歳の時、私は翔子に書道を教えることにしました。友達関係を築くのが不得意な翔子が、いつか私がいなくなった時、孤独な時間にも耐えられるようにと考えたのです。

・「先生、翔子に並ぶことを教えてあげてください」
 すると、園長先生はこう答えたのです。
 「並ばなければ、翔子ちゃんは永久に縄跳びの輪に入れません。そんなことを毎日繰り返しているうちに、自分で並ばなければいけないと判るのです。そのうち自分で判るからいいのよ」
 私はカルチャーショックを受けました。
 たとえダウン症の子供であっても、手鳥足取り教えるのではなく、本人が「気付く」ことが大切なのです。・・・
 ダウン症だからと、これまで私はなにかにつけて翔子に手を貸していました。もしかしたら、そうすることで、翔子の伸びようとする芽を私が摘んでいたのではないか、と思いました。

・また、雪の降る寒い日、私が保育園へ迎えに行った時のことです。
 園舎の入り口で、翔子が小さな手を赤く腫らして雑巾を握りしめ、下駄箱を吹いている姿を見つけました。他の園児たちはみんな、暖かい部屋に集まって親のお迎えを待っているのに、いったいなにをしているのか。
 心配と苛立ちと悲しみが込み上げて、私は思わず声を荒げてしまいました。
「翔子、どうしてそんなことをしているの! やめなさい!」
 すると、私の声が聞こえたのでしょうか、園長先生が出ていらして笑顔でおっしゃったのです。
「金澤さん、みんなが嫌がる掃除をする翔子ちゃんを見て、好きになる人はいても、嫌いになる人はいないわよ。やらせなさい」
 ここで、またカルチャーショックです。
 確かに、人の嫌がることを率先してやる人を誰も非難はしないでしょう。私は、翔子を大事にし過ぎていたのかもしれない、と反省しました。
 この二つの出来事は、その後、翔子を育てる上での基本的な心構えになりました。園長先生は私に重要なことを気付かせてくれたのです。
 先生が常々、おっしゃっていたことがあります。
「教えなくても、子供は自分が体験したら、どうすればよいか気づいて行動できるのです。親はそれを見守って、待っていればよいのです」

・料理も、保育園時代からやらせました。・・・
 幸いにも翔子は料理が好きになり、得意になりました。今ではお客様のおもてなしもできるぐらい上手に、美味しい食事を作ります。得意のメニューはカレー、チャーハン、ハンバーグ、ホイコーロー、等々。
 掃除も、家の中でどんどんやらせました。自分の部屋は当たり前、バス・トイレ掃除、ベッドメイク、庭掃き、洗濯、靴磨き・・・、なんでも上手にこなすようになりました。

・小学一年生の一年間は、まさに学校側との戦いの日々で、さすがに疲弊しました。
 しかし、二年生に進級した時、新しい担任の女の先生から「学校は親が来るところではないので、付き添う必要はありません」との言葉をいただいたのです。普通の小学生にとって当たり前の言葉を、普通にもらえた。その時の喜ぼ歯今でもよく覚えています。
 その先生は健常者と同じように、翔子を扱ってくれました。そして、二年生の一年間、なんと事故もおきなかったのです。
 ある時、その先生に「翔子がいつもお手数掛けてすみません」と謝ったことがありました。すると、「そんなことはありませんよ。翔子ちゃんのいるクラスは、とても穏やかになるのよ」と言われたのです。
 私はたいへん救われた気持ちになったのでした。

・ある時、高まった感情の勢いにまかせ「もう翔子なんか嫌いだ!」と、うっかり言ってしまったことがありました。
 すると、翔子は涙を溜めて、片言で一生懸命、言いました。
「お母さまが大好きだから、私、お母さまのところに生まれてきたのよ」
 その言葉に私はハッとして、胸を打ち抜かれたように思いました。そして、次の瞬間、翔子を力いっぱい抱きしめていました。・・・
 翔子ちゃん、ありがとう。母さまはあの言葉を一生忘れない。

・個展を開いた大きな収穫の一つが、三、四年来の「爪噛み」が止んだことです。・・・
このようにして、翔子に「一人前の書家になる」という目標が生まれました。

・私は、翔子の存在に希望の光を見出していただきたいとの一心で、まだ悲しみの淵にいるお母さんたちのもとに翔子を引き連れて回りました。
「大丈夫! こんなに元気で、輝き、想像を絶するほど優しい娘に成長するのよ」というメッセージを込めて。
 ダウン症のお母さんたちにメッセージを送ることは、私が天から与えられた役目なのでしょう。

・京都・建仁寺のお坊様で、翔子を「普賢菩薩」とおっしゃってくださる方がいらっしゃいます。この方によれば、翔子は「両忘(りょうぼう」という、禅の境地を地で行っているのだそうです。
「両忘」とは両方を忘れる。過去も未来も、善いも悪いも忘れる。あるのは今だけ。それが禅では理想的な状態とされているのです。
 確かに、翔子には過去も未来もありません。今だけを見て、今を一生懸命に生きています。
 禅だけでなく、神道の世界でも、これはたいへん重要だとされていて、「中今(なかいま)」の精神と言うのだそうです。

・これからも、翔子と私の人生にはなにが待ち受けているかしれません。しかし、私たちはそこにまた必ず活路を見出せる、と信じています。
 生きていれば、絶望は無いのです。
 闇の中には、必ず大きな光があるのです。
 そのことを知れば、どんな状態に追いやられても、いずれ活路がも言い出せます。絶望することもないのです。

・NHK大河ドラマ「平清盛」の題字
 文字を書くにあたって、NHKの方々が2012年の秋、翔子と私を清盛ゆかりの地へ案内してくれました。京都の六波羅蜜寺から広島の厳島神社へまわり、広島の素敵なホテルにも泊まらせていただきました。・・・
 ゆったりと二人で湯船に浸かっていた時、翔子がふと言いました。
「お母さま、幸せ?」
 翔子は中空の月を見上げていました。淡い光を受けて、翔子の横顔が輝いています。
「母さまは幸せよ」と私は答えました。心の底から出た言葉でした。
 すると、翔子がまた訊ねてきました。
「お母さま、楽しい?」
「うん、楽しいよ」
「お母さま、嬉しい?」
「嬉しいよ」
 そんな会話に、私は涙が止まりませんでした。翔子と過ごしたこれまでの二十六年間が走馬灯のように脳裏を駆け巡りました。
 何度も死のうとしながらも死にきれなかった日々。そして、翔子を育てていく中で、「生きてさえいれば、絶望は無い」ということを知りました。
「禍福はあざなえる縄のごとし」
 幸福と不幸はまさに隣合わせであり、今では、幸福と不幸は同じなのだ、とさえ思っています。
「今、私は日本一幸せな母親だ」と心から思いました。

・二百人を超える規模となった私の書道教室には、知的障害を持った生徒さんもたくさん通っており、ダウン症の子だけでも三十人はいます。・・・
 そんな中で、驚くような出来事があったのでした。
 半年以上教室に通っているのにいまだに一枚も書かず、ずっと室内をただふらふらと歩き回っていた自閉症の生徒さんがいました。
 ある日のこと、その生徒さんはいつものように筆に一切触れることなく、ひたすら歩き回っていました。すると突然、翔子が、静かですがはっきりした声で言ったのです。
「書きなさい」
 その途端、その生徒さんは席に着き、さっと筆を持ちました。そのぴしっとした様子はまるで別人のよう。そして、翔子がゆっくりとそばに座ると、待っていたかのように字を書き始めたのです。
 私は、奇跡でも見ているような心境でした。
 以来、その生徒さんが来ると、翔子を呼ぶようにしました。そのうちに、「翔子が来るよ」というだけで、大人しく席に座るようになったのでした。

・新たな奇跡
 東京・銀座の画廊におけるセレモニー、集まってくれた大勢の方々の中に、ダウン症の子供を連れたご家族がいました。・・・
「いくつ?」と私がその子に訊ねると、お母さんの方が「三歳になるのに、まだ歩けないんです」と答えてくれました。
 三歳になるに抱かれているのか・・・、私はそのことに少し不満を感じました。
 だから、その子に「おいで」と手を差し伸べてみたのです。彼がとても素直に私の胸に来てくれたので、試しに床にそっと立たせてみました。私の支えもあって、とりあえず立つことができました。
 そこへ、翔子がなにかを感じて素早く飛んできたのです。そして、その子を抱きしめるようにして、背中に手を置き、「歩けるよ、歩ける」と何度も辛抱強く、まるで呪文のように彼の耳に囁きかけました。
「歩ける、歩けるよ、歩ける、歩け・・・」
 その時、周りにいた人たちはみんな、目を見張りました。つい先ほどまで抱っこされ、立つこともおぼつか無かった子供が、一歩また一歩と足を踏み出し、歩いたのです。
 なんと十三歩も。その後、足が崩れてしまし、いったんはお母さんに抱っこされました。しかし、お母さんの足元からまた彼は歩き出したのです。周りの人々からは拍手が巻き起こりました。
 お母さんは翔子に向かって「ありがとう、ありがとう」と何度も言い、涙をこぼしたのです。
「奇跡を目のあたりにしました」と、私に興奮した様子で言ってくれた方も何人かいました。 
 驚きは、それだけではありません。
 初めお母さんの胸に抱かれていた時、その子の顔は左右バランスが少し悪いようで、片方の目だけが細く見えました。また顔色も悪く、あまり元気には見えなかったのです。
 しかし、歩いた後の顔を目にして、驚きました。バランス良く整った顔。いつの間にかハンサムなお父さんに似た顔立ちに変わっていたのです。
 そして、左目の下に赤い一センチくらに傷があったはずなのに、それまで消えていました。・・・・
 今でも、お母さんから時折メールが届きます。
「欧太はその後、ひたすら歩き続けています。翔子さんの魔法の手を忘れません」


感想
 「生きていさえすれば、絶望はない」
翔子さんのお母様から発せられた言葉だけに重みがあります。
そのお母さんでさえ、翔子ちゃんを殺して自分も死のうと必死に思われていました。

 「ダウン症の子が医者になった」
偽情報でも信じたことで希望が芽生え、生きることができました。
希望を持つことがいかに大切かを物語っているように思います。

 翔子さんとお母さまは、書家と育てた母親だけでなく、多くのダウン症だけでなく、障害を持って生まれた子どもと、それに苦しみかつ自責の念を抱いている母子に希望という種を蒔かれているように思いました。
 そしてその種は、私もいただいたように思います。
自分にも何かできることがあるかもしれない。
そう信じて一歩一歩歩むと、振り返って歩いた足跡を見ると、きっとステキな風景が見られるのでしょう。
 信じるか信じないかはまさに自分の選択なのだなと思いました。

 ロゴセラピーでは「人生が自分に問いかけてくる。その問いかけにどう応えるか」と考えます。その問いかけに必死にもがき歩いていると、そこには意味が、価値が生まれてくると考えます。
 まさに翔子ちゃんとお母さん、そして早く亡くなられたお父様がそれを証明されているように思いました。

 NHK「こころの時代~宗教・人生~」では『夜と霧』の著者のヴィクトール・フランクルを6回にわたって毎月放映されます。4月から始まっています。
 ぜひ見ていただけると嬉しいです。 

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