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「心病む母が遺してくれたもの-精神科医の回復への道のり-」夏苅郁子著 ”その環境だからこそ何かできることがある”

2017-07-16 09:00:28 | 本の紹介
著者が10歳の時、著者の母は統合失調症を患い、それもあり、著者が大学に入ったころ、両親は離婚しました。父はその後、子ども二人いる女性と再婚。父と義母に反抗的になり、家には居場所がなくなってしまった。
必至でもう一度大学を受け直して、学費のこともあり国立大学の医学部に入学した。しかし、父はほとんど家に帰って来なかったし、母はほとんど家から出ない状況で、人ととの付き合い方を親から学ぶことがなかった。

講義で統合失調症のことを学び、いつか自分も発症するのではないかの不安。「一生、自分は幸せになれないだろう」「私がいないほうが、父の新しい家族にとっても良いかもしれない」と悲観的になった。そのうちに過食・拒食が始まり、34Kgまで体重が減った。
「生きているより死んだほうが楽だ」と思いはじめ、当時常用していた市販の睡眠薬を二瓶飲み干して、手首を切った。かなり深く切った。大学五年生だった。この時は、「もう二度と来ないでください」と玄関に張り紙をした友人が心配して、周りに聞いて、私がアパートにいないのを知り、直ぐに泊まっていたホテルに電話したら、風呂場で血だらけで倒れている著者が発見され助かった。

何を見ても心を閉ざし、何も考えずに淡々とやり過ごした。自分の心をごまかしながら精神科医を続けていたが、研修医二年目の時に再び自殺未遂を起こした。大量の薬を飲んでガスホースを部屋に引き込んだ。先輩医師が心配して下宿先で意識を失っている私を発見した。
私は、患者さんが「死にたい」と何度も言う気持ちがよくわかる。「死にたい」と声に出すと気持ちが楽になる。聞いている方がたまったものではないが。

自分と同じように絶えず死にたいと思っていた女性医師がいて、親しくなった。二人で「どうやって、死のうか」と話し込んでいた。その彼女が親しくなって一年くらい経った時、彼女は首をつって死んでしまった。しばらくして、遠く離れた土地に眠る彼女のお墓参りをしたが、案内してくれた、ご両親のやつれた姿が今も目に焼き付いている。自ら命を断ち切ってしまうことが、どれほどたくさんの人の人生を変えてしまうかを私は彼女から教えてもらった。当時の「待ったなし」だった私の自殺願望を、とりあえず止めてくれた。

ある医師の紹介で、花街に嫁いだ若奥さんに会った。彼女から、きちんとしつけられずに育った私に、女としての気の遣い方・立ち振る舞い・料理の仕方や皿の洗い方まで、全てを教えてくれた。彼女のおかげで、「人との付き合い方がわからない」私の劣等感は、いつの間にか消えていた。
二回目の自殺未遂をした時、彼女は「あなたは、お母さんと会わないと幸せになれないよ」と言われ母に10年ぶりに会いに行った。

私の変化は、後に治療者として患者さんと接するようになった時、依存させてばかりいるのは決して良い治療ではないと考える根拠になった。前にも後ろにも行くことが出来ない時、どこへ向かって進めばいいのかわからない時がある。でも「とりあえず一歩踏み出す」ことが回復へとつながるのだと思う。「昨日と違った“何か”を“一歩ずつ”やってみる」ことを提案している。

体操教室で、ぶつかった人と目が合った瞬間、「この人は私と同じ目をしている」と思った。そのことがお互い気になり、友達になった。彼女(すみちゃん)は在日韓国人二世だった。知り合ったのは昭和60年代で、彼女のような人たちに対する偏見が根強い時代だった。彼女には恋人がいたが妻子ある男性だった。16歳で結婚、高校を中退、19歳で出産し、離婚も経験していた。彼女から「いっちゃんは絵が好きなんだから、絵を習ってみたら」と勧めてくれた。それが縁で夫と知り合った。

柏木哲夫先生から「ターミナルケアはチーム医療」を学んだ。

30歳で自ら死を選んだ同僚、進行がんとわかっても最後まで真剣に生きたすみちゃん。私はこの二人の死に、ほんの少しの時間だったけれど関われたことで、あれほど「死」を望んでいた自分の生き方が、大きく変わった。

夫が母に会った翌日、「怖い面もあるけれどね・・・」と言った。私は「怖い」という言葉は統合失調症という「病気が怖い」と理解していた。この本を執筆する時に、21年ぶりに夫に尋ねた。夫は「お母さんの病気が怖いと言ったのではなく、自分も敏感で弱いところがあるから、支えていけるかなという意味でいったんだよ」と答えた。思い込んで誤解していた。

中村ユキさんのマンガ「わが家の母はビューキです」と出会った。母のことを公表したら、精神科医としての自分の地位や評判が落ちるのではないか、患者さんが来てくれなくなるのではないか、という恐怖と、かろうじて保っている「自分の心の蓋をあけてしまう不安
があった。ユキさんのマンガは、私のそんな感情を一気に突き抜けて心に飛び込んできた。このマンガを読んだ瞬間が私のグラン・ジェテ(跳躍)だった。迷いや葛藤から数十年ぶりに解放された。自分がやるべきこと、やりたいことがはっきり見えてきた。私は臆することなく母のことを話すようになった。感謝の心は人にエネルギーを与えてくれる。感謝して話すたびに、私は現気になった。人はいつだって変れれる!

成功体験だけでなく、挫折体験を味わってこそ、病者の痛みのわかる医療者になれるのではないか。
患者さんの厳しい行動をすべて「再発」「悪化」と捉え、当事者のチャレンジを抑制するのではなく、病状には意味があると捉え、患者の希望に耳を傾ける必要性を医療者やご家族にも繰り返し訴え続けていきたい。
医師もまずは一人の人間として「人と関わる」のであるならば、患者さんをその「病い」も含めて尊重すべきだと思う。

大きな声で叫ぶ。「人生って、素晴らしい」と私は言えるようになった。
だから、「あなた」も、前を向いて歩んでください。

人が回復するのに、締め切りはない。私は、中村ユキさんのマンガによって、54歳で「跳躍」できた。

感想
著者はお母さんが統合失調症だから精神科医になられたのでしょう。
二度の自殺未遂という苦しい体験、亡くなってもおかしくないのに生かされました。

いろいろな人との出会いが、彼女を変えました。
彼女の考え方が変わりました。
そして、一歩踏み出しました。

彼女だからこそ、彼女ができることがあります。
苦しい出遭いも、考えるきっかけを与えた出逢いも、その両方があり、彼女は患者さんのために、多くの人のために今活動されています。

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