・1991年、41歳の陽子は、高校を卒業したばかりの紫穂と紫穂の弟を連れて夫のもとを離れ、二人の子どもとともに新しい生活を始めた。紫穂は18歳、弟は14歳だった。もちろん母子3人の生活は決して楽ではなかったが、就職したばかりの紫穂の二人で三人家族の暮らしを支えた。その翌年、陽子は夫との結婚生活に正式に終止符を打った。
・1994年、紫穂は21歳で夫と職場結婚。夫の実家近くの藤沢市内にアパートを借りて新婚生活を始めた。・・・。1997年、紫穂は長男を出産。・・・。2000年には次男が生まれた。
・紫穂の命を奪った事故は、三菱自動車が製造した大型トレーラーの車輪と車軸をつなぐ「ハブ」とよばれる部品に欠陥があったために起きたことが判明する。
・あの事故が起きるはるか以前から同社は、自社製の車に構造上の欠陥があることを認識していたにもかかわらず、それを放置してきたという事実が明らかになっていった。
・1996年、アメリカの同社子会社で、管理職が約300人の女性授業員からセクハラ事件で訴えられている。・・・。この事件は2年後に会社側が総額3400万ドル(約48億6000万円)を原告に支払うことで和解が成立している。
・国内では1997年に、同社が総会屋の経営する「海の家」に「使用料」名目でおよそ1000万円の資金を提供していたことが明らかになり、総会屋に対する利益供与事件として警視庁に摘発されている。
・2000年には、今回の事件にもつながっていく会社のリコール隠しが発覚する。
・「いまは辛いだろうけど、時間が解決してくれる。時間が経てば元気になれるよ。だから頑張って」
陽子は事故の後、何人もの人からこのような言葉をかけられた。事故で娘を亡くさなければ、自分んも子どもを亡くした人に同じような言葉をかけていただろう。だが、慰めようとしてかけてくれる善意の言葉が、何の慰めにもならないことを陽子は思いしらされた。娘を亡くした悲しみは、時間が経っても消えなかった。むしろ、その悲しみは時の流れとともに、ますます深まっていくような気がする。
・友人からその弁護士を紹介してもらえることになった。それが交通事故の裁判を得意とし、『交通事故とPTSD』という著書をもつ弁護士、青木勝治だった。
・三菱自動車製の欠陥トレーラーのユーザーだったがゆえに事故の当事者となってしまった運転手の生活も、あの忌まわしい事故によって一変してしまっていた。事故当初、三菱自動車が「事故はユーザーの整備不良が原因」だったと主張して、一方的に悪者に仕立て上げられてしまったからである。紫穂に対する加害者であった運転手は、欠陥車を交わされたという意味では被害者でもあった。
事故直後、運転手の自宅周辺には「人殺し」などと書かれたビラがまかれ、自宅の堀は赤のスプレーで何者かにいたずら書きされた。
・「もう車の運転はしたくない・・・」
事故当時55歳だった運転手は、長年続けてきた運転手の仕事を辞め、溶接の仕事を始めた。そんな彼をさらなる不運が襲った。慣れない仕事によって左足が低温火傷になり、つま先の左部分を切断することを余儀なくされた。左足をひきずりながら歩くようになってしまったのである。
・被告同士の間でも「事故原因は整備不良ではない」と主張する運転手・有限会社に対し、三尾自自動車は社員の実況検分の結果として「重大な整備不良が判明」したと主張していた。しかし当時、三菱自動車は多数の事故が発生していたことから、すでにハブの欠陥を認識していながら、それを隠していたことが後にに判明する。
・この家宅捜査の結果、実はハブの強度不足により破損事故が続発していたことを知っていたにもかかわらず、三菱自動車はそのことを組織的に隠ぺいしていたという驚くべき事実が判明する。
・こうした事実(一転して構造上の欠陥を認め)を公表し、構造上の欠陥を認めてリコールを届け出るという、これまでの同社からすればドラスティックともいえる方針の転換にはどんな背景があったのか。有力な見方として、ダイムラークライスラー社の意向ということがある。
・2004年1月に実施された二回目の大規模な家宅捜索がきっかけとなり、状況が急展開することになった。ハブのサンプルの三割に亀裂が見つかったという検査結果や、当時三菱自動車の常務だった花輪亮男被告人が社内調査スタッフに欠陥の隠ぺいを指示した文書のデータが、社員の私物のパソコンのなかに残っていることがわかった。この捜索によって、捜査は大きな進展を見せ、この日の七人の逮捕へとつながっていったのである。
・「提示した金額は、今回限りです。今回しか私は代理しません。ここから担当役員に電話してくれませんか」
しかし、回答はこうだった。
「残念ですが、それは無駄です」
私の提示した和解金額は青木弁護士の要求額をはるかに下回るものであったにもかかわらず、なぜ、三菱自動車は、ろれすらも払いたくなかったのだろうか。これは推測だが、ここで一歩でも譲ってしまえば、堰を切ったように他からも同じような要求が出てくるかもしれないい、ということを恐れていたのであろう。だが、もしそうだとしたら、三菱は状況を読み違えていた。
・三菱には、企業にとって消費者の信頼が最も大切であるという大局的な見地が欠けていた。おそらく、三菱は官僚的な組織的な体質が強く、そこまで責任をとろうという人がいない面もあるだろう。三菱にとっては和解金の出費など大したことではないはずなのに、「ここは俺が話をまとめる。責任を取る」と言える人がいなかったのだろう。
あの若い交渉の後、三菱は全国の新聞に全面の謝罪広告を再三にわたって出したりもしていた。増田陽子への損害賠償金を一銭も支払わないのに、何十億円かの巨額のお金を投じて謝罪広告を出し、「隠しごとをしないメーカーになる」「お客様の厳しい声を大切にする自動車メーカー』になる」などと並べてみたところで、世間の目には白々しく映ったに違いない。
・三菱は、とにかく裁判に勝つことだけを考えていた。・・・
単に裁判で勝つことだけを目的にするのではなく、裁判の外に目を向けて、広い視野から企業にとって何が本当に利益になるのかを考えるのも経営者の大きな役割である。
・最終報告書を読んで読者はどう思われただろうか。この期に及んで、なお三菱自動車が肝心のハブの問題についてさえ、真摯に向き合っていないことに驚かれたのではないだろうか。
感想;
そしてその事故は、まともな対応していたら起きない事故でした。
不正は経営トップの考え方と行動の結果だと思います。
何度も不正を繰り返しています。
三菱自動車は日産自動車の傘下に入りましたが、日産自動車も過去に不正がありました。
民事裁判の最高裁で550万円の賠償金が確定しました。