旅は続きそうだ
金澤ひろあき
もうずいぶん昔のことになるが、ゴッホが広重の浮世絵を模写した絵を見た。「タンギー爺さんの肖像」の背景にも浮世絵を描いているのを見て、ゴッホはよほど日本に来たかったのではないかと思ったりした。
今、マブソン青眼というフランス人が長野にいる。金子兜太さんの弟子の俳人である。
一時、日本で嫌なことがあったらしく、ゴーギャンのようにマルキーズ諸島に移ったが、日本を愛して下さっているようで、日本に戻って来て下さった。
本当は日本人が主体的にしっかりやらなければならないのにやろうとしないこと、具体的にいうと、アジア太平洋戦争の反省、ファシズムによる言論弾圧犠牲者の名誉回復を行っている。長野の上田に「俳句弾圧不忘の碑」を立て、犠牲者のための文学館を建てて活動している。
初雪積もれ俳句弾圧不忘の碑 マブソン青眼(以下引用句はすべて青眼句)
そしてマブソン青眼俳句の特長は「文学としての俳句」。強く文学を感じるのだ。平和、共生、アニミズムなどの強いメッセージが伝わって来る。
妖精の女王はMABとや蝶とぶつかる
億万の蕾抱えて大地(モシリ)
上空から墓場と化せし聖母町(マリウボリ)
切株や戦死者靴を天に向け
プラスティック袋の遺体寒いだろう
泣いている木 笑っている木 みな木
時代や生き方を問うてくる。私達のありようは何なのか。違和感の正体を内側から問うてくる。
草一本一本が人類滅亡を待つ
選挙終えセシウムしみる枯野かな
ニホンという広き刑務所月朱し
以前、「俳句は文学ではない。」という意見を聞いたことがある。俳句は短い文体なので、社会性や思想、生き方を問うことを盛り込むと無理が来るという意見だった。この俳句非文学の線をおし進めると、常識に沿った程好い、心地よい空間の中で、表現の面白味の追求に向かう。そんな「表現お上手コンテスト」「面白味コンテスト」の中で生まれる句は、私の内面を揺さぶらなかった。むしろ思想性にこだわった口語俳句や一部の自由律などの、現代では傍系の作品に、内面を揺さぶられて来た。
今回、同じ揺さぶりを、マブソン青眼俳句から感じる。
「俳句を文学に」。これも日本人が主体的にしっかりやらなければならないのに、やろうとしないことではないか。
このデジタル全体主義を蜘蛛渡る
地球を覆う人類という湿疹
舞う鶴の夢果てし無く旅寝
外国出身の人が日本語で表現すると、「越境文学」というカテゴリーで括られたりする。これはリービ英雄氏以来かと思うが、マブソン青眼を「越境文学」て括って良いのかどうか、私には断言できない。「越境」という表現に、「自国文化中心」の匂いがあるように感じる。
先に挙げたゴッホは、浮世絵を愛し、大きな影響を受けたが、ゴッホを「越境画家」とは言わない。むしろ、西洋の流行を追いかけ、写実主義、浪漫主義、自然主義等の変遷を繰り返した近代日本文学が「越境」ではないか。
マブソン青眼は、日本人が主体的にやらなかった大切なことを、主体性を持って取り組み、フランス、日本、マルキーズ諸島、縄文、アイヌと世界を地球規模に広げて来た。
これからもまだ旅は続きそうだ。
金澤ひろあき
もうずいぶん昔のことになるが、ゴッホが広重の浮世絵を模写した絵を見た。「タンギー爺さんの肖像」の背景にも浮世絵を描いているのを見て、ゴッホはよほど日本に来たかったのではないかと思ったりした。
今、マブソン青眼というフランス人が長野にいる。金子兜太さんの弟子の俳人である。
一時、日本で嫌なことがあったらしく、ゴーギャンのようにマルキーズ諸島に移ったが、日本を愛して下さっているようで、日本に戻って来て下さった。
本当は日本人が主体的にしっかりやらなければならないのにやろうとしないこと、具体的にいうと、アジア太平洋戦争の反省、ファシズムによる言論弾圧犠牲者の名誉回復を行っている。長野の上田に「俳句弾圧不忘の碑」を立て、犠牲者のための文学館を建てて活動している。
初雪積もれ俳句弾圧不忘の碑 マブソン青眼(以下引用句はすべて青眼句)
そしてマブソン青眼俳句の特長は「文学としての俳句」。強く文学を感じるのだ。平和、共生、アニミズムなどの強いメッセージが伝わって来る。
妖精の女王はMABとや蝶とぶつかる
億万の蕾抱えて大地(モシリ)
上空から墓場と化せし聖母町(マリウボリ)
切株や戦死者靴を天に向け
プラスティック袋の遺体寒いだろう
泣いている木 笑っている木 みな木
時代や生き方を問うてくる。私達のありようは何なのか。違和感の正体を内側から問うてくる。
草一本一本が人類滅亡を待つ
選挙終えセシウムしみる枯野かな
ニホンという広き刑務所月朱し
以前、「俳句は文学ではない。」という意見を聞いたことがある。俳句は短い文体なので、社会性や思想、生き方を問うことを盛り込むと無理が来るという意見だった。この俳句非文学の線をおし進めると、常識に沿った程好い、心地よい空間の中で、表現の面白味の追求に向かう。そんな「表現お上手コンテスト」「面白味コンテスト」の中で生まれる句は、私の内面を揺さぶらなかった。むしろ思想性にこだわった口語俳句や一部の自由律などの、現代では傍系の作品に、内面を揺さぶられて来た。
今回、同じ揺さぶりを、マブソン青眼俳句から感じる。
「俳句を文学に」。これも日本人が主体的にしっかりやらなければならないのに、やろうとしないことではないか。
このデジタル全体主義を蜘蛛渡る
地球を覆う人類という湿疹
舞う鶴の夢果てし無く旅寝
外国出身の人が日本語で表現すると、「越境文学」というカテゴリーで括られたりする。これはリービ英雄氏以来かと思うが、マブソン青眼を「越境文学」て括って良いのかどうか、私には断言できない。「越境」という表現に、「自国文化中心」の匂いがあるように感じる。
先に挙げたゴッホは、浮世絵を愛し、大きな影響を受けたが、ゴッホを「越境画家」とは言わない。むしろ、西洋の流行を追いかけ、写実主義、浪漫主義、自然主義等の変遷を繰り返した近代日本文学が「越境」ではないか。
マブソン青眼は、日本人が主体的にやらなかった大切なことを、主体性を持って取り組み、フランス、日本、マルキーズ諸島、縄文、アイヌと世界を地球規模に広げて来た。
これからもまだ旅は続きそうだ。
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