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青森県 弘前市立裾野地区体育文化交流センター①大森勝山遺跡出土品 縄文土器

2024年04月14日 15時42分55秒 | 青森県

弘前市立裾野地区体育文化交流センター。弘前市十面沢字轡。

2022年9月25日(日)。

つがる市森田歴史民俗資料館の見学を終え、岩木山北麓に位置する世界遺産・大森勝山遺跡のガイダンス施設弘前市立裾野地区体育文化交流センターへ向かい、16時前に着いた。展示を見たあと、入手した案内図を参考に大森勝山遺跡へ向かった。

世界遺産・大森勝山遺跡からは、縄文時代晩期の亀ヶ岡式土器や石器のほか、祭祀用である岩版・石剣などが出土している。

中でも、環状列石及びその周辺から約250点出土した円盤状石製品は、組石と同じ輝石安山岩を加工して作られており、環状列石と関連する何らかの祭祀・儀礼用と考えられている。

青森県弘前市 世界遺産・大森勝山遺跡 縄文の祭祀遺跡


青森県弘前市 世界遺産・大森勝山遺跡 縄文の祭祀遺跡

2024年04月14日 10時46分14秒 | 青森県

世界遺産・大森勝山遺跡。弘前市大森字勝山。

2022年9月25日(日)。

青森県西部の弘前市に所在し、岩木山北東麓の標高143~145mの舌状丘陵上に立地する。遺跡の南西側には単独峰の岩木山の全景を眺望し、後背地には落葉広葉樹の森が広がっていた。

岩木山(標高1,625m)の火山活動により形成された火山麓扇状地中の斜面地の中でも、赤倉沢を源流とする大石川と大森川に挟まれた、半ば独立した舌状台地上に立地しており、周辺の地形とはやや異なった様相を示している。

つがる市森田歴史民俗資料館の見学を終え、岩木山北麓に位置する世界遺産・大森勝山遺跡のガイダンス施設・弘前市立裾野地区体育文化交流センターへ向かい、16時前に着いた。展示を見たあと、入手した案内図を参考に大森勝山遺跡へ向かったが、かなり遠く、16時15分ごろに遺跡前駐車場に着いた。

世界遺産・大森勝山遺跡は、国内で唯一、発掘調査により縄文時代晩期の環状列石の内容が把握された遺跡として国の史跡に指定されている。遺跡からは、縄文時代晩期の亀ヶ岡式土器や石器のほか、祭祀用の岩版・石剣などが出土している。

大森勝山遺跡では、冬至(12月下旬)に岩木山山頂に沈む夕日を望む地点に立地しており、環状列石と岩木山を結ぶ直線上に大型竪穴建物跡が1棟あり、環状列石周辺には捨て場や屋外炉などが確認されている。

大森勝山遺跡。ステージⅢb(1,000BCE)。

本資産は、定住成熟期後半の環状列石を主体とする祭祀遺跡であり、山岳地帯における生業と高い精神性を示す重要な遺跡である。

約4200年前(縄文時代中期の終わり頃)になると寒冷化が進み、大規模集落の維持が困難となり、約4000年前(縄文時代後期)には集落が分散するようになり、集落は丘陵や山地にも作られるようになった。

その中で、当時の人々は集団全員が集まる共同の祭祀場・墓地を作り、祭祀・儀礼を通じてムラ同士の紐帯・絆を確かめたりしたようである。

このような背景の中で環状列石は作られたと考えられており、縄文時代後期の環状列石が北東北や北海道で数多く見つかっている。この頃の環状列石では、石の下や環状列石の内側や周囲において、集団墓(共同墓地)も見つかっている。集落の外にみんなが集まる場として、祭祀・儀礼・墓地の場を構築・維持管理していたとみられる。

約3000年前(縄文時代晩期)になると、祭祀・儀礼が充実し、共同の祭祀場や共同の墓地が顕著となり、共同の祭祀場は墓地とは別々に作られたと考えられている。

大森勝山遺跡からはその他に人が居住した痕跡が見つかっていないことや、同時期の遺跡がやや標高の下った地域(現在の県道弘前鰺ヶ沢線周辺)に集中し、大森勝山遺跡の近隣ではほとんど見つかっていないことから、環状列石は大森勝山遺跡からやや離れた村々の人々が集まってきて作り、儀式のときに集まったと考えられている。

また、組石の下や環状列石の内側や周囲において集団墓が見つかっておらず、遺跡の外に集団墓を作っていたようである。

主体を占める土器の様相から晩期初め頃に廃絶したものと考えられている。

これらのことから、大森勝山遺跡は祭祀・儀礼に特化した場として使われていたと考えられている。そのため、大森勝山遺跡は縄文時代の祭祀・儀礼の変遷を考える上で、重要な遺跡であるといえる。また、山岳地帯における生業と高い精神性を示す重要な遺跡である。

環状列石は、台地上を整地した後、土手状に盛土し、その縁辺部に77基の組石を配置しており、長径48.5m、短径39.1mのやや楕円形に作られている。組石には、遺跡の南北を流れる大森川、大石川から運ばれた輝石(きせき)安山岩が主に使われた。

土器埋設遺構。

環状列石と竪穴建物跡の間で、縄文時代晩期中頃の深鉢形土器を埋めた土器埋設遺構が発見された。出土状況や土器の内容土の分析結果、そして他の遺跡の調査事例などから、子どもの墓として使用された可能性も考えられる。

大型竪穴建物跡。

環状列石から南西約100メートルで1棟のみ確認された竪穴建物跡は、直径13.8メートルの大型のもので、岩木山と環状列石を結ぶ軸線上に計画的に配置されている。

捨て場は台地東端斜面や北東斜面で発見された。ここからは土器、石器、石製品、土製品など、さまざまな遺物が大量に出土している。

出土した土器の様相から、晩期初め頃(大洞[おおぼら]B1式期、約3,200年前)から晩期後半頃(大洞A式期、約2,700年前)にかけて捨てられていたものと考えられている。

青森県 つがる市森田歴史民俗資料館②十字形土偶 土製品 石器