高照(たかてる)神社。青森県弘前市高岡神馬野(じんめの)。
2022年9月26日(月)。
藤崎町の藤崎八幡宮(藤崎城跡)を見学後、岩木山東麓にある高照(たかてる)神社・「高岡の森 弘前藩歴史館」へ向かった。
高照神社は、宝永7年(1710年)に卒去した弘前藩4代藩主の津軽信政の廟所に起源を持つ。境内は弘前城の西方約10㎞の古くから山岳信仰の対象とされてきた岩木山山麓にあり、西方約1 ㎞には、津軽藩の総鎮守・岩木山神社が鎮座する。
また、この地には高照神社が建立される前から、津軽家の出自とされる藤原氏の氏神の春日4神を祀る小さな社があり、この地の元の名は、葛原村に属する神馬野(じんめの)という名の原野であったが、社殿建立にあたり、由緒ある弘前の古名である「高岡」の地名を冠したとされる。「神馬野」の名は、現在も高照神社と境外参道・高岡街道の集落の小字名として残る。
高岡の森 弘前藩歴史館。弘前市高岡獅子沢。
2018年(平成30年)4月開館。高照神社には、信政の遺品や歴代藩主が奉納した絵馬、明治時代に旧藩士たちが寄進した武具刀剣類など、数多くの宝物が納められていた。これらの宝物を収蔵公開していた「高照神社宝物殿」が老朽化したため、境内の参道脇の隣接地に、高岡の森弘前藩歴史館が建設された。
歴史館には、弘前藩初代藩主の津軽為信が豊臣秀吉から拝領したと伝わる「太刀 銘 友成作(ともなりさく)」をはじめ、名君と称えられた4代藩主信政の遺品、明治時代に津軽家や旧藩士たちが高照神社に納めた武具刀剣類、同神社拝殿に掲げられた大絵馬など、多くの宝物が収蔵されている。
津軽信政着用具足 1領。
4代藩主・信政のもので、没後の正徳元年(1711)に5代藩主・信寿が高照神社へ寄進。兜の鉢は鎌倉時代末期の明珍宗政作の古鉢を利用し、その他は江戸時代中期の作。兜は、三十八間四方白筋兜で、鉢には3条の鎬垂、前立の龍頭には金髯(ひげ)、脇立の鹿の角には、窪みの中に金を埋める沈金の技法を施している。吹返には鍍金で作られた津軽家家紋の牡丹の丸文金物が据えられている。胴は、黒割小札を紺色で威し、草摺は7間。大袖と菱縫は、黒に近い藍色の「褐(かち)色で威してある。
江戸時代中期まで津軽半島と下北半島にはアイヌ村が残っていたという。
高照霊社(現・高照神社)には、4代藩主・信政の廟所があり、また信政を神として祀っていることから、領内では最高の権威を誇る神社であり、歴代藩主・藩士からの崇敬が厚く、藩が手厚く管理・運営していた。
津軽信政は、弘前藩の「中興の英主」と見なされ、「名君」として語られることが多く、また藩主で唯一、神として祀られていることから(藩祖・為信は明治になり合祀)、領内最高の権威を誇る神社として藩主、藩士などからの崇敬が厚く「高岡様」として信仰の対象となり、また祭日には拝礼を欠かさなかったとされ、藩では社領300石を与え、高照霊社(現・高照神社)を管理する諸役人を任命し、藩として維持・運営を行っていた。また改元や重要な政策遂行、吉凶事などのおりに、重臣を使者に立て、高照霊社(現・高照神社)に事柄一つ一つを、その都度報告していることから、高照霊社は藩の精神的よりどころとしての存在であったといえる。
信政は生前、吉川神道の創始者・吉川惟足に師事していた経緯があり、信政の遺命により5代藩主・信寿が、幕府の神道方で吉川神道2代・吉川従長を斎主とし神葬祭を行い、高岡の地に埋葬した。
埋葬地には、本墓と拝墓の2つの墓碑が東西線軸上で前後に建てられ、後方(西側)にある本墓の八角柱の墓碑には「宝永七庚寅年」の銘が刻まれている。
神葬祭が行われた翌年の正徳元年(1711年)に5代藩主・信寿が廟所を建立し、正德2年(1712年)に本殿や拝殿などの社殿が建立された。社殿などの境内への配置は、吉川神道の思想に基づいて構成し造営が行われている。
社殿建立にあたり、由緒ある弘前の古名である「高岡」の地名を、この地に冠したとされる。藩士たちからは、由緒ある弘前の古名から「高岡様」と崇敬され、藩政時代を通じ津軽氏歴代藩主により崇敬されていた。
宝暦5年(1755年)には、7代藩主・信寧が拝殿を造り替え、9代藩主・寧親が文化7年(1810年)に随神門を、文化12年(1815年)に廟所門を建立している。
文政13年(1830年)に10代藩主・信順により社殿の北側50mほどの場所に、社殿の並びに平行の東西線に沿って馬場が整備された。
明治初年に高照神社と改称し郷社となり、明治4年に春日4神を配祀。明治10年に藩祖・為信を合祀、明治13年に県社に列した。
高照神社は、吉川神道(よしかわしんとう)に基づいた独特な社殿構成であり、全国的にほとんど類例がなく、近世神社建築の展開の一端を示すものとして価値が高い。社殿8棟と墓2基が重要文化財の指定を受けた。
吉川神道は、江戸時代初期、吉川惟足によって唱えられた神道の説である。吉川惟足は師である萩原兼従から吉田神道を受け継ぎながら、それをさらに発展させ、道徳的な側面の強い「吉川神道」を唱えた。
吉川神道は、吉田神道を基礎とし、仏教的色彩を除き、朱子学の思想を取り入れ、理学神道により治国の道を説いており、道徳的側面を強調し、社家中心の神道に批判的傾向にあった。また官学の思想も取り入れており、神儒一致としたうえで、神道を君臣の道として捉え、皇室を中心とする君臣関係の重視を訴えるなど、江戸時代以降の神道に新しい流れを生み出し、後の垂加神道を始めとする尊王思想に大きな影響を与えた。
吉川神道では、神道を祭祀や行法を中心とした「行法神道」と天下を治める理論としての「理学神道」に分類し、理学神道こそが神道の本旨であるとした。そのうえで神道を宇宙の根本原理とし、国常立尊等の神々が、すべての人間の心の中に内在しているという神人合一説を唱えた。
会津藩主・保科正之など多くの大名が吉川神道に共鳴し、吉川家は寺社奉行の神道方に任命された。吉川惟足に学んだ山崎闇斎は垂加神道を唱えた。
寛文11年(1671年)、信政は26歳の時に、幕府神道方の吉川惟足に師事した。
社殿は東西線の軸上に一直線に並び配置されており、東から西へ、一ノ鳥居、随神門、拝殿・幣殿、東軒廊、中門、西軒廊、本殿と続き、本殿後方の西側約200mに信政墓の廟所が位置する。
また一の鳥居から東方向の門前の境外参道である高岡街道、および門前の集落の配置なども藩により計画的に整備されている。高岡街道は、百沢寺(現・岩木山神社)への参道の百沢街道から分岐したあとに、約400m弱の距離が一直線で、また高照神社の社殿と同一の東西線軸上に配置されており、高岡街道から廟所までの約800 mの距離が東西線軸上に一直線に並んでいる。
随神門から拝殿を望む。
拝殿前(東)方に3間1戸の随神門がある。切妻造鉄板葺の八脚門で、文化7年(1810年)9代藩主寧親による造営。
高照神社宝物殿。
拝殿。
拝殿と幣殿は一体となった建築で、桁行七間梁間三間の拝殿の背後に正面三間側面二間の幣殿が接続し、したがって平面は背面が突出した凸型となる。拝殿は総円柱、入母屋造で正面千鳥破風付、三間の向拝に軒唐破風を載せ、極彩色の透彫の彫物で飾っている。内部は梁間方向の前一間通に円柱を立て、前方を外陣、後方を内陣に区切る。幣殿は角柱。背面中央間が両開板扉で、東軒廊に続く。拝殿、幣殿ともに外廻りは丹塗で、内部はともに弁柄塗である。
西軒廊と本殿。
本殿は、方3間の入母屋造。桁行三間梁間三間の身舎(もや)に、一段低く一間の唐破風造の向拝がつく。四周に縁を廻し、屋根は杮葺で千木と堅魚木を置く。内部は一室につくり、外廻りは丹塗、内部は朱漆塗。中央基壇上に方一間の宮殿(くうでん)を置く。
馬場跡(高照神社馬場跡)。
江戸時代に神馬(しんめ)奉納が行われた馬場で、土塁などを復元した。馬場の広さは、東西約156m、南北約16m。
廟所への参道。
津軽信政公廟所。
本殿後背(西)には200 m隔てて信政の廟所があり、切妻造銅板葺の1間腕木門の廟所門が建つ(文化12年(1815年)9代寧親の造替)。廟所拝殿は5代藩主信寿による正徳元年の信政の葬儀に際して建立された桁行3間、梁間2間の切妻造銅板葺で、内部は一室、背面一間が突出する。外廻りは丹塗で、内部は床から天井まで朱漆塗。その奥に墓石が2基、前後に並び、後(西)方のものを本墓、前(東)方のものを拝墓とされる。本墓は、二重の八角形の石造台座の上に、八角形石柱が立ち、頂部に笠石が載る。拝墓は、三重の方形の石造台座の上に方形石柱が立つ。
木柵が廟所拝殿に接して東西を長軸とする長方形状に配置され、2基の墓石を囲むように建ち、木柵上部には板屋根が付く。また木柵の外周には石垣と土塁が同様に長方形状に築かれ、その上に瑞垣が建てられ、正面の廟所門に繋がる。木柵は丹塗りで、瑞垣は素木である。
高照神社見学後、弘前市街地へ向かう途中、JAの販売所でリンゴを買った。まず、弘前城を見学することにして、弘前公園追手門前の市立観光館下駐車場に向かった。