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青森県弘前市 津軽為信の本城 国史跡・堀越(ほりこし)城跡③ガイダンス施設❶

2024年04月19日 14時30分05秒 | 青森県

国史跡・堀越(ほりこし)城跡。弘前市堀越。

2022年9月27日(火)。

国史跡・堀越城跡を見学したあと、国道7号線を渡って東側にあるガイダンス施設を見学した。

二の丸跡西北部。

三の丸跡西北部から南方向。内堀、本丸跡入口、三の丸跡西南部の展望デッキ、石川城跡方面。

復元模型。本丸跡。三の丸跡西南部の南出口付近。

復元模型。三の丸跡西南部の南出口付近。

ガイダンス施設前から西の本丸跡方向。

青森県弘前市 津軽為信の本城 国史跡・堀越(ほりこし)城跡②本丸跡 二ノ丸虎口跡


青森県弘前市 津軽為信の本城 国史跡・堀越(ほりこし)城跡②本丸跡 二ノ丸虎口跡

2024年04月19日 09時23分50秒 | 青森県

国史跡・堀越(ほりこし)城跡。弘前市堀越。

2022年9月27日(火)。

国史跡・堀越城跡および東側にあるガイダンス施設を見学した。

堀越城跡は、国史跡・「津軽氏城跡種里城跡 堀越城跡 弘前城跡」の一つである。津軽氏は、種里から、大浦(弘前市五代)に移り、為信の代の天正18年(1590)、津軽領有を豊臣政権から認められ、津軽氏と称するようになった。

津軽為信は、文禄3年(1594)に堀越城を改修、本拠を大浦城から移転し、あわせて家中諸士、神社仏閣、商家なども堀越へ移住させた。これは、政治及び経済面での領内支配の強化のためとされる。堀越城は以後、二代藩主信枚が慶長16年(1611)に高岡(弘前)に居城を移すまで、津軽氏の本拠として機能した。

近年の調査により、堀越城跡では16世紀末ころの大規模な改修により、求心的な縄張り構造へ変化したこと、本丸に礎石建物による御殿建築群が配されたことなどが判明しており、織田・豊臣政権下の西日本において発展した築城技術の強い影響を受けたことが判明している。しかし同時に、同時期の築城技術である石垣や瓦屋根建物が見られないことなども判明しており、変革期の社会情勢下における、当地方の城郭の変遷や領主権力の確立の過程を考察する上で重要な城跡といえる。

現在の堀越城跡の形は、本丸を中心として、周囲を家臣等が住む二之丸、三之丸、外構[そとがまえ]等の曲輪が取り囲む平城となっているが、この城の形は、為信が文禄3(1594)年の堀越への居城移転の際に行った大改修により作られたものと考えられている。

整備工事は、文禄3(1594)年に為信により行われた大改修後の堀越城の姿を基準として、主に土木工事の痕跡である曲輪の形や土塁、堀の復元を行った。

平成24年(2012)より、本格的に整備を行い、令和2年(2020)4月から全面公開を行っている。

城跡北の駐車場側入口から三の丸を経て、本丸跡へ入った。

復元模型。

西土塁上展望デッキから本丸跡内部。

西土塁上展望デッキから岩木山方向。

本丸西門跡から二ノ丸跡へ。

虎口外から北方向。土塁は後世に道路幅分を壊された。

虎口外側。

二ノ丸西の外側。

虎口屈曲点から壊された土塁から二ノ丸跡・本丸跡方向。

 

青森県弘前市 津軽為信の本城 国史跡・堀越(ほりこし)城跡①