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青森県つがる市 世界遺産・田小屋野(たごやの)貝塚

2024年04月09日 13時57分23秒 | 青森県

世界遺産・田小屋野(たごやの)貝塚。つがる市木造(きづくり)館岡田小屋野。

2022年9月25日(日)。

世界遺産・亀ヶ岡石器時代遺跡の見学を終え、北隣にある田小屋野貝塚の見学に向かった。案内看板が大きかったので、遺跡のある丘ではなく、道路東側の水田地帯を探してしまった。

アドバイスされていたように、路肩に駐車して道路西側の丘へ登っていくと、平坦な発掘現場が広がっていた。

田小屋野貝塚縄文時代前期から中期(約6,000~4,000 年前)を中心とした遺跡である。遺跡は台地上に立地し、ヤマトシジミなどの貝殻が堆積してできた貝塚が点在している。

この貝塚が築かれた当時は、温暖化に伴う海面上昇(縄文海進)の結果、津軽平野の広い範囲に海域あるいは湖沼域が広がっていたと考えられている。 

貝塚の出土品からは、縄文人たちが集落の眼下に広がる水域から様々な食料を手に入れていたことが分かる。日本海側では数少ない貝塚として、1944(昭和19)年に亀ヶ岡石器時代遺跡とともに国の史跡に指定された。

田小屋野貝塚ステージⅡa (4,000BCE~3,000BCE) (史跡年代 4,000BCE~2,000BCE)

本資産は、定住発展期前半の貝塚を伴う集落であり、内湾地域における生業や集落の様子を示す重要な遺跡である。

岩木川沿岸の標高10~15mの丘陵上に立地する。海進期に形成された内湾である古十三湖(こ・じゅうさんこ)に面し、漁労及び貝の採取に適するとともに、後背地には落葉広葉樹の森が広がっていた。

集落には、竪穴建物、墓、貝塚、捨て場、貯蔵穴などがあり、この時期の典型的な集落構造を示している。貝塚からは汽水域に棲息するヤマトシジミなどの貝類を中心に、コイ、サバなどの魚骨や海獣類(クジラ・イルカなど)、小型獣(ノウサギ・キツネ)、ガン、カモなどの骨が出土している。

日常的な祭祀・儀礼の場でもあった捨て場からは、土器や石器のほか、クジラやイルカなど、大型ほ乳類の骨で作った骨角器(刺突具・釣り針・へら・アクセサリーなど)も出土している。

人骨出土地点・竪穴建物跡。縄文時代前期(紀元前3,800~3,700年頃)

2012(平成24)年の市教育委員会による発掘調査で、竪穴建物跡2棟と土坑墓3基が確認され、土坑墓の1つからは人骨が出土した。墓は縄文時代前期中葉の貝塚の中に形成されており、分析の結果、人骨は出産歴のある成人女性であることが分かった。

ベンケイガイのブレスレット工場。

田小屋野貝塚からはベンケイガイ製の貝輪の未製品が多数出土したことから、集落内で貝輪製作が行われていたことが明らかになった。いずれも製作途中で壊れたものと考えられ、遺跡内でベンケイガイを貝輪に加工していたことが分かった。

北海道産の黒曜石で作られた石器が出土すること、ベンケイガイ製貝輪が北海道南部でも出土していることを考え合わせると、田小屋野貝塚の人々は津軽海峡を越えて北海道と交流していたと考えられる。

住居内貝塚出土地点。

2008〜2015(平成20〜27)年の市教育委員会による発掘調査では、縄文時代前期中葉頃と中期初頭頃の時期の異なる上下2つの貝層を持つ竪穴建物跡や盛土・埋設土器などが見つかった。

1990〜1991(平成2〜3)年に青森県立郷土館によって実施された発掘調査では、竪穴建物跡とそれに伴う貝層が確認され、土器の他にイルカやクジラなどの海獣骨や骨角器、ベンケイガイの貝輪の未製品が出土した。

 

田小屋野貝塚の出土資料および市内全般の資料は、つがる市縄文住居展示資料館(カルコ)で展示されている。

青森県つがる市 世界遺産・亀ヶ岡石器時代遺跡


青森県つがる市 世界遺産・亀ヶ岡石器時代遺跡

2024年04月09日 12時12分34秒 | 青森県

遮光器土偶レプリカ像。亀ヶ岡石器時代遺跡。つがる市木造(きづくり)亀ケ岡。

2022年9月25日(日)。

秋田犬「わさお」が飼われていた鰺ケ沢町の「七里長浜 きくや商店」を12時30分ごろに出て、北東近くにある、つがる市木造亀ヶ岡考古資料室へ向かった。

その後、北東近くにある世界遺産・亀ヶ岡石器時代遺跡とその北隣の丘にある世界遺産・田小屋野貝塚(たごやのかいづか)、南東に移動して、つがる市縄文住居展示資料館(カルコ)、南西に移動して森田歴史民俗資料館世界遺産・大森勝山遺跡とそのガイダンス施設の弘前市立裾野地区体育文化交流センターを見学した。

つがる市木造亀ヶ岡考古資料室は亀ヶ岡石器時代遺跡の出土資料が中心、つがる市縄文住居展示資料館(カルコ)は田小屋野貝塚の出土資料および市内全般の資料を展示している。

世界遺産・亀ヶ岡石器時代遺跡は、縄文時代晩期の集落跡で、重要文化財の指定を受けた遮光器(しゃこうき)土偶が発見された遺跡として知られている。

亀ヶ岡石器時代遺跡は、津軽平野の北側、屏風山丘陵の先端にあり、漆やベンガラ(赤色顔料)が塗布された亀ヶ岡式土器(大洞式土器)や石器、木器、土製品、石製品、ガラス玉をはじめ、骨角器、籃胎(らんたい)漆器・櫛などの漆塗り製品、そして魚類や鳥類、哺乳類の骨角、さらに種実、炭化した米なども出土している。

遺跡南の道路脇に駐車場と縄文遺跡案内所があり、ボランティアガイドが現地を案内してくれた。

今回の青森旅行の主要テーマは22年6・7月に北海道地区を見学した世界遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」北東北地区のコンプリートなので、岩手県一戸町の御所野遺跡、秋田県鹿角市の大湯環状列石、秋田県北秋田市の伊勢堂岱遺跡も見学したが、旅行時期は、つがる市縄文住居展示資料館(カルコ)が施設改修工事のため9月29日から半年余り休館するために、この時期にした。26日からしばらく休館する弘前市立博物館は時間距離から無理だろうと当初から諦めて計画・行動したが、25日午後はつがる市方面を後日に回して弘前公園へ行けば、弘前市立博物館は見学できたのは残念だった。

田小屋野貝塚は、定住の発展期前半(ステージⅡ:集落施設の多様化)に位置づけられている。住居・墓・貯蔵施設といった集落の各施設が充実し、祭祀場的な捨て場である貝塚の形成がその特徴とされる。

亀ヶ岡石器時代遺跡は、定住の成熟期後半(ステージⅢ:祭祀場と墓地の分離)に位置づけられている。低湿地における祭祀・儀礼が充実し、台地縁辺部に広がる顕著な共同墓地がその特徴とされる。

世界遺産・亀ヶ岡石器時代遺跡。

ステージⅢb (1,000BCE~400BCE) (史跡年代 1,000BCE~400BCE)

亀ヶ岡石器時代遺跡縄文時代晩期(約3,000~2,400年前)を中心とした遺跡である。青森県津軽半島のつがる市に所在する遺跡は岩木山北麓から日本海沿いに南北に延びる屏風山砂丘地の東縁部に立地する。現在の十三湖が内陸に大きく湾入していた頃の海進期に形成された内湾である古十三湖(こ・じゅうさんこ)の跡地に面し,高さ 7~18mの丘陵上に立地する。亀ヶ岡石器時代遺跡の中心年代である晩期には、遺跡東側には湖水域が、後背地には落葉広葉樹の森が広がっていたと考えられている。

台地上には土坑墓が多数群集する墓域が広がり、土器などの供献品や、玉などの副葬品が出土している。墓域は長期間にわたって構築されており、祖先崇拝が継続して行われたことを示している。

台地周囲の低湿地には祭祀場としての捨て場が形成され、完形品を含む多数の造形的に優れた漆塗りの土器や漆器、土偶、植物製品、ヒスイ製の玉類などが出土している。中でも、1887(明治20)年に出土した左脚を欠いた大型土偶(国重要文化財)は、その眼部の表現が「遮光器土偶(しゃこうきどぐう)」の名称の起こりとなったことで知られている。精緻で幾何学的な文様に特徴づけられる土器とともに、海外でも高い評価を得ている。

本資産は、定住成熟期後半の大規模な共同墓地であり、高度な精神文化を示すとともに、内湾地域の汽水域における生業及び高い精神性による祭祀・儀礼の在り方を示す重要な遺跡である。

遺跡は東に張り出す台地(亀山地区)とその南北の低湿地(沢根地区・近江野沢地区)にかけて立地している。

江戸時代から土器や土偶が出土することで全国に知られ、東北から北海道南部を中心とする「亀ヶ岡文化」の名前の由来になった。

台地上は大規模な共同墓地として利用されており、縄文時代晩期の土坑墓が広範囲に広がっている。

低湿地の捨て場

南北の低湿地には捨て場が広がっていたと考えられる。明治時代以降、現在まで多くの機関によって発掘調査が行われ、漆塗土器や遮光器土偶、籃胎漆器、石器、玉類など貴重な遺物が多数出土した。

史跡南側に位置する沢根地区の低湿地は、これまでに東京大学・慶應義塾大学・青森県立郷土館などにより発掘調査がおこなわれ、漆塗りの土器や籃胎漆器(植物質の網かごを漆で塗り固めたもの)、石器などが多数出土した。国重要文化財に指定された遮光器土偶も、沢根の低湿地から出土している。

また、青森県立郷土館の調査では、古環境の復元を目的としたボーリング調査がおこなわれ、花粉分析などの結果から、縄文時代晩期にはクリやトチノキが増加したことが明らかになった。

台地上の共同墓地

台地上では地面を楕円形や円形に掘りくぼめた土坑墓が、これまでに100 基以上見つかっている。墓の中からは、死者に供えたと考えられる土器や石器、土偶、玉類など様々な遺物が出土しているほか、墓の底部に溝をめぐらせるものや、上部にロームを盛り上げるものが確認されている。

台地北側の土坑墓群 縄文時代晩期(紀元前1,000年~400年頃)

台地の北側では、2017(平成29)年のつがる市教育委員会の発掘調査により、45基ほどの土坑墓(地面を楕円形や円形に掘りくぼめて死者を埋葬した墓)が密集して発見された。いくつかの墓では、上面にロームを盛り上げたり、底部の周りに溝をめぐらす特徴が認められた。

墓の中からは、死者に供えた玉類や石鏃などが出土し、底面には赤い顔料の広がりも確認された。玉類は、地元で採れる緑色凝灰岩を材料にしたものが多く、中には遠方よりもたらされたと考えられるヒスイ製の玉も出土している。

台地南側の土坑墓群 縄文時代晩期(紀元前1,000年~400年頃)

台地南側の雷電宮地区では、1982(昭和57)年の青森県立郷土館の発掘調査により、20基ほどの土坑墓が発見された。墓の中からは、死者に供えた籃胎漆器(植物質の網かごを漆で塗り固めたもの)・土器片を利用した円板・土偶などが出土した。上面にロームを盛り上げた墓も確認された。

また、土坑墓群を覆う層の中から、縄文時代晩期の土器や石器が多数出土した。

台地北側の竪穴住居跡・貯蔵穴 縄文時代前期中頃~中期中頃(紀元前4,000年~2,500年頃)

台地北側では、つがる市教育委員会の発掘調査により、縄文時代中期中頃の竪穴住居跡が確認された。また、住居跡の周りに縄文時代前期中頃から中期中頃にかけての多数の貯蔵穴(フラスコ状土坑)が分布することから、この時期には集落が広がっていたと考えられる。

その後、縄文時代晩期に入ると、この場所では多数の墓(土坑墓群)が広がる。このことから、亀ヶ岡石器時代遺跡は長期間におよぶ遺跡であり、時期により土地の使い方が変化したことが分かる。

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