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岐阜県土岐市 国史跡・乙塚古墳・段尻塚古墳

2024年04月03日 13時00分04秒 | 岐阜県
国史跡・乙塚古墳。岐阜県土岐市泉町久尻字勝負。
2024年3月29日(金)。
 
国史跡・元屋敷窯跡の見学を終えた。案内図には、国史跡・乙塚古墳・段尻塚古墳土岐市美濃陶磁歴史館北東近くにあると掲載されていたので見学に向かった。道標に従うと、徒歩5分ほどで二つの古墳が並ぶ古墳前広場に着いた。
 
乙塚古墳と段尻巻古墳は、どちらも飛鳥時代(7 世紀前半)に作られた古墳で、土岐川右岸の河岸段丘縁辺部、南の土岐川方向へ下降する舌状台地の先端にあり、標高約150m に立地している。
2018年から発掘調査し、2023年4月から整備公開された。石室は原則毎月第2日曜日(午前10時~午後3時)に公開している。
 
乙塚古墳と美濃焼の始まり。
飛鳥時代(7 世紀前半)の築造と推定される乙塚古墳は土岐市の地場産業である美濃焼の始まりと関係している。
美濃焼最古の窯は、乙塚古墳の被葬者が導入に関わったと考えられる近くの隠居山須恵器窯(泉西小学校東)と清安寺須恵器窯(清安寺北)とされている。ロクロを使って器を作り、その器を窯で焼く技術は須恵器に始まり、その技術が少しずつ形を変えながら現在の陶磁器生産まで連綿と受け継がれてきたことから、これらの須恵器窯が美濃焼の始まりと考えられる。
乙塚古墳は、後に石室内が陶工たちの工房になり、さらに後には陶祖神への祈りの場となるなど、長い歴史の中で美濃焼と関わってきた。乙塚古墳は、東美濃地域史のみならず、美濃焼の歴史においても重要な史跡である。
 
乙塚古墳は、7世紀前半の築造と推定される美濃地方最大級の横穴式石室を持つ大型方墳である。当時の大型方墳は、ヤマト王権と親しい関係性にあり、広域を治めていた豪族に採用された特別な墓であった。
そのため乙塚古墳の存在は、当時の東美濃地域に乙塚古墳の被葬者が治めた1つの行政区域(後の刀支評(ときのこおり)・土岐郡)があったということを示している。その推定される範囲は、現在の多治見市(土岐川以南)、土岐市、瑞浪市に加え、恵那市と中津川市の大部分を包括する広大なものであった。
 
乙塚古墳の現況は、南北27.4m、東西26.1m、残存高5.8m、段築なし、葺石なし、周溝なしである。
特徴としては、墳丘の段築や葺石を省略する一方で、美濃国内の他の大型方墳と比べても同等以上の巨大な石室が造られている。周溝も備えていないが、墳丘周りの地山を削平して均しており、それに伴って墳丘端部も地山から削り出されている。
 
南面する両袖式の石室は、胴張形の玄室奥壁に鏡石を設置し、玄門部はまぐさ石と立柱石によって構成されている。側壁は3段積みで、玄室天井には3石、羨道(せんどう)天井には4石架けられている。石材は主に近辺で産出される花崗岩を用いており、間詰石や礫床にはチャートも用いられている。
横穴式石室の全長は19.2mで、美濃地方最大級である。玄室全長5.1m、最大幅2.7m、最小幅1.9m、最大高3.0m、最小高2.7m。玄門高2.1m、幅1.9m、奥行(最大)0.9m、奥行(最小)0.6m。まぐさ石の天井からの突出幅0.6m。立柱石の西側壁からの突出幅0.5m、東側壁からの突出幅 0.25m。羨道全長5.4m、最大幅2.6m、最小幅2.3m、最大高2.7m、最小高2.4m。羨門高2.4m、幅2.6m。前庭部全長8.1m、最小幅(羨門)2.6m、最大幅(墳端)4.2m。
 
石室内は、江戸時代の再利用による影響が大きく、礫床は玄室内にわずかに残るのみであったが、それを手がかりに復元的整備が行われた。実際の礫床の上に保護盛土を行って礫床を復元しているため、復元後の床面は本来の床面よりも20cm程度高くなっている。
また、羨道から前庭部にかけて、小礫を詰めた排水溝が設けられていた。
副葬品はほぼ失われており、土師器片と須恵器片の他、鉄製品片がわずかに見つかっているのみである。
鳥鈕蓋は、鳥形のつまみが付いた蓋である。東海地方でしか見られない特殊な装飾付き須恵器で、出土例も大変少なくとても珍しい。鳥の種類は不明だが、死者の旅立ちを鳥に託したものと考えられている。
 
段尻巻古墳。
段尻巻古墳は直径23.9m、残存高4.1mの円墳で、土岐市内では最大級の円墳である。乙塚古墳の被葬者が治めたと考えられる領域内の他の古墳と比べても大きく、乙塚古墳に近接するその立地からも乙塚古墳の被葬者と密接な関わりを持つ有力者一族の墓と考えられる。特徴として、乙塚古墳同様に墳丘には段築や葺石、周溝はない。
 
横穴式石室は、擬似両袖式で、玄室奥壁に鏡石を設置し、玄門部はまぐさ石と2段に分かれる立柱石によって構成されている。側壁は3段積みにしようと考えたようだが、実際には3から5段積みとなっており、玄室天井には3石、羨道天井には2石架けられている。
石室の全長9.5m。玄室全長3.6m、最大幅1.75m、最小幅1.6m、最大高2.3m、最小高2.1m。玄門高1.7m、幅1.3m、奥行(最大)0.60m、奥行(最大)0.30m。まぐさ石の天井からの突出幅0.3m。立柱石の西側壁からの突出幅0.25m、東側壁からの突出幅0.15m。羨道全長3.2m、最大幅1.4m、最小幅1.3m、高2.1m。羨門高2.1m、幅1.3m(羨道最小幅)、西拡幅0.15m、東拡幅0.15m。前庭部全長2.4m、最大幅(前庭部入口)1.85m、最小幅(羨門)1.5m。墓道全長3.0m、最小幅(石積み側壁・礫床との境)1.85m、最大幅6.0m。
 
石室の礫床は良好な状態で残っており、前庭部や羨門(せんもん)では礫の平な面を揃えて並べ明瞭な境目が作られていた。石材は主に近辺で産出される花崗岩を用いており、間詰石や礫床にはチャートも用いられている。
礫床は保護のために埋め戻し、復元的整備が行われた。羨道から玄室へかけて堆積していた厚さ40cm程の土砂を残したままその上に礫床を復元しているため、復元後の床面は本来の床面よりも50cm程度高くなっている。
 
石室内は部分的な発掘しか行われていないため、見つかっている副葬品は、わずかな須恵器片と土師器片のみである。
土師器長頸壺は、丁寧に精製された粘土で作られている。近畿地方の古墳などで出土が知られているが、岐阜県内では類例がなく珍しい発見といえる。被葬者と近畿地方との強い関係性がうかがえる遺物である。
 
土岐市美濃陶磁歴史館の駐車場に戻り、北西方向にある可児市の荒川豊蔵資料館へ向かった。