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青森市 世界遺産・三内丸山遺跡を中心とした縄文文化⑥石器 青竜刀形石器

2024年04月28日 10時18分08秒 | 青森県

三内丸山遺跡を中心とした縄文文化⑥石器

石器の変化から見た縄文時代中期末の北東北・北海道について (抄)

齋藤岳(青森県埋蔵文化財調査センター)研究紀要第19号(2014年)から抜粋

1 はじめに

これまで、縄文時代中期末大集落が途絶えるなど、変革期であると指摘されてきた。近畿地方でも中期末に変革期を迎えるが、①土器の様相から、変化は岐阜県西部から滋賀県を経由して近畿地方各地に広がった②土器の在地化の様相から湖北地方まで人の移住があり、その影響で琵琶湖湖岸部と比叡山北部の集団がいち早くこの文化を取り入れたとする研究がある。人の移住とその範囲を推定した重要な研究である。

北東北では土器や石器、集落構造、炉の変化、トチ利用の状況変化と顕在化など、さまざま変化が指摘されてきた。

三内丸山遺跡出土の土器胎土の成分分析を行った結果、大木10式併行期の土器と円筒土器の胎土成分が同じであり、土器の形態や製作技法が東北中南部のものに類似するので、その製作者が移住してきたと推定できるという。中期後半から後期前葉における複式炉、斧形土製品、狩猟文土器、キノコ形土製品などの状況から南東北から北東北への人の移住も考えられる。

3 抽出遺跡と出土品について

(1)三内丸山遺跡と出土品

三内丸山遺跡では、中期末の大木10式併行期に石器が大きく変化する。三内丸山遺跡では中期末になってから集落が北西に偏ることは指摘されてきた。この時期には遺跡北側斜面の第6鉄塔地区や斜面中段に形成された平坦部にも住居が形成される(第683号住居跡)など、これまでと異なる場所にも住居が構築される

三内丸山遺跡は長大な墓域と道路、掘立柱建物跡群や大型住居など大きな施設(社会資本)が中期後葉まで蓄積・維持されてきた。居住域の変化は、これまで維持されてきた施設と位置的にも距離をおく。

傾向として青森県域の中期末には竪穴住居跡の掘り込みが浅いものが増えてくる。これは東日本全体の現象のようで、北海道中央部でも「縄文時代中期末~後期初頭の竪穴住居跡は、今までの調査例をみると掘方が浅い傾向がある」とされ、東京都調布市でも「中期末になると住居の検出レベルが相対的に高くなる。

また、中期末には青森県内の炉の形が変化し、東北南部の複式炉の系譜をひく石囲炉が出現する。以上から、竪穴住居の構築や建物・集落の維持管理など男性がかかわる領域で大きな変化が起こっているといえる。

もう一つの男性の関わる領域として、石器の製作と維持管理がある(切削用の石器や磨石・石皿には女性も関係するが、女性がかかわる土器製作の特徴により女性の移住は指摘されている)。

石鏃の形態は土器文化圏と密接に関連するとされており、三内丸山遺跡の石鏃形態の変遷を追うと、前期中葉では二等辺三角形の無茎鏃が主体で、前期末に柳葉形のものが多いが、中期前葉以降は有茎Y基鏃が多くなり断面形の厚みが増す。中期中葉には加工の粗さが目立つようになる。中期後葉は前後の時期と混じる資料が多く不明な点があるが、基本的には中期中葉の系統を引く。中期末の大木10式併行期になると、伝統的な形である有茎石鏃を含め、小形の石器が目につくようになる。従来どおりの大きさの石鏃は茎の有無を問わず厚みがあるが、小形の石鏃は断面も薄く、押圧剥離の丁寧な加工がなされる。

石錐は、つまみのついた棒状のものが中心となる。石箆は撥形のものが目立つ。石材は玉髄質珪質頁岩の石鏃等が一定数出土するようになる。玉髄質珪質頁岩は小形の礫から両極打法で剥片を生産したものが多く、剥片生産技法における変化も伴う。

特筆すべき出土例として、小三内地区の第8号住居跡の出土品がある。住居跡の炉は壁際に近い石囲炉で、前庭部をもち、南東北に由来する複式炉の系譜をひく。青森県内の大木10式併行期に多い形である。出土土器は大木10式併行期と最花式土器、そして北海道系の煉瓦台式土器である。

出土石器のうち、茎が長く左右非対称な石槍は北海道によくみられる形であり、青竜刀形石器は函館市戸井・南茅部地区が製作地であることから北海道系の石器も含む。

北海道式石冠は一部搬入品と考えられる資料を除くと青森県域では中期中葉に突然、出現する。楕円礫の側面を機能面とするものが多く、楕円礫の半割面を機能面とする前期以来の典型例とは異なる。

円筒土器文化に特有とされる半円状扁平打製石器が第5・10・11次調査区からは出土していない。三内丸山遺跡の他の住居跡でも中期中葉では半円状扁平打製石器の確実な共伴例はない。そのため、青森県域では大木10式併行期には、半円状扁平打製石器と北海道式石冠は出土例がない

4 まとめ

三内丸山遺跡の大木10式併行期の石器群から出発し、北海道中央部から東北地方の石器群を俯瞰した。

北海道では中期末になっても円筒土器文化からの伝統が石器に残るといえる。有茎石鏃や石槍の出土と形態、北海道式石冠と半円状扁平打製石器が残存することにあらわれている。長年にわたる青色片岩・緑色岩の磨製石斧と中期後葉以降の青竜刀形石器の青森県域への供給は続くが、石器が変化しない。

集落等の継続性でみてみると、北海道では中期末から天祐寺式(余市式)への継続性は良い。大きく変化するのは青森県域である。

そして、これらの事象がなぜ起こるのかについて考えたい。隣接地域から文化要素が流入する場合、情報・物・人のいずれかの移動によると考えられる大木10式併行期に南から青森県域に入ってきた要素については、情報・物のみの移動では、石器製作の根幹をなし剥片剝離技法や製品の形・大きさまで左右する石材の嗜好性の変化はおこらないと考えるのが妥当であろう。現在でも「技術移転」は容易なものではなく、技術者も共に移動する。異なる石材と、異なる形の石器が一時的なものとしてではなく、根付くためには移住者の定住が不可欠である。石鏃の形状や大きさの変化は矢柄の変化を伴う。石鏃を作り、弓矢を使う男性が入ってこないと、こうした変化は起こらないと考える。

北海道での状況を考えると、さらに明確になる。岩手県内でも青竜刀形石器や青色片岩・緑色岩製の磨製石斧は出土しており、北海道の渡島半島部の人も青森県域を介して大木式文化の石器の情報を知っていたはずである。三内丸山遺跡小三内地区第8号住居跡のように、北海道の渡島半島から男性が青森県域に来たと推定できそうな例もある。しかし、北海道南部では、基本的に有茎石鏃が出土する。物のみ移動した例が多いと考えるのが妥当であろう。大木式の石器を使った人は、北海道に渡ったとしても少数であったため、多数をしめる人の中に吸収されてしまったと考えて良いのではないだろうか。中期中~後葉においても同様だったため、円筒系の石器構成は変化せずに半円状扁平打製石器と北海道式石冠が中期末まで残存したと考えると整合性がある。

次に、人の移動の順序について推論する。青森県域の中期中葉では六ヶ所村富ノ沢(2)遺跡など太平洋岸で大木8a式などが出土し、後葉の大木8b式は八戸市松ヶ崎遺跡から多数出土する。八戸市松ヶ崎遺跡や階上町野場(5)遺跡で、最花式段階に小形無茎石鏃や錐先の長い石錐が出土しており、八戸市周辺から男性の移住が始まった可能性がある。

基本的に、深鉢等の煮炊きの土器は女性が作るものと考えられ、婚姻関係を通じた女性の移住が先行し、これまでの交流を深める形で女性のみならず男性も入ってきたと考えたい。アスファルトや赤彩漆塗り土器など物と、その背後にいる人のよく動く時代性が背景にある。

中期後葉以降、一戸町御所野遺跡で大木8b・9式土器や斧状土製品が出土するようになるなど、八戸市は北上してゆく大木式(系)文化に近く、岩手・宮城県の太平洋岸と在地石材の両極打法による剥離技法が共通する地域であることにも注意したい。そして、八戸市松ヶ崎遺跡や三内丸山遺跡にみられる小形の有茎石鏃に、大木式系石器の定着と青森県域との文化伝統の融合を考えたい。

社会学には内集団と、外集団という考え方がある。一つの集団ができると、最初は多様であった考え方が一つにまとまってくる。そして、外の集団は協調すべき相手としてよりも競争相手等の外集団として意識される。青森県域で大木式土器圏からの移住者を受け入れて、文化融合等の変化が起こったとき、北海道側からみると、青森県域は外集団化した可能性も考えたい。

最後に、なぜ、南からの男性が北海道側にわたる人が少なかったのかについて考える。筆者は、大木式の男性にとって女性の婚姻関係等で既知の円筒の世界(青森県域)から、一つ海を越えた心理的な遠さと関係していると考えている。一方では北海道と青森県域とは石斧や儀礼的な道具である青竜刀形石器の流通にみるように交流は中期後葉以降も物を中心に続く。しかし、渡島半島では大安在B式、ノダップⅡ式、煉瓦台式といった異なる土器を使用するようになる

円筒土器文化圏の一体性が弱まるように見えることについて、筆者は、青森県域に見慣れない人が増えてきたため、北海道側で本州側に対して心理的な距離感がうまれた可能性を考えている。青森県域で大木10式併行期に集落構造が変化し、継続性が弱まる事も人の流入による変化が起こったということで説明できる。

そして大木式の影響を直接受けない石狩低地帯では、天神山、柏木川式など円筒系の在地性の強い土器・石器が継続することも渡島半島部で北との結びつきを相対的に強くしたのではないだろうか。

その後、後期前葉になって、津軽海峡の両岸は十腰内文化圏を形成する。おそらくは青森県域で大木系の移住が途切れ、石器の小型化など大木系の石器をはじめとする文化の要素を消化した後に、両岸の交流は活発化したのであろう。磨製石斧をはじめとして物の交流は続くうえ、北海道南部の人々は自分たちの出自を本州側と意識し、青森県域の人も先祖が北海道にわたったという認識をもっていたためであろう。

青森市 世界遺産・三内丸山遺跡を中心とした縄文文化⑤土偶、岩偶



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