旧第五十九銀行本店本館(青森銀行記念館)②。弘前市元長町。
2022年9月26日(月)。
この建物は、第五十九国立銀行同行の本店として明治37年に完成した和洋折衷手法の優れた明治建築である。設計及び施工は、当時名匠といわれた弘前の棟梁・堀江佐吉。外観はルネサンス風の意匠を基本とし、正面に展望台を兼ねた屋根窓を開くほか、屋根周囲にバラストレード、一階窓上部にペジメントをつけている。
旧第五十九銀行本店本館(青森銀行記念館)を見学後、駐車していた市立観光館へ戻り、車で弘前公園の北から東、南の順で文化財建造物を見学した。
重要伝統的建造物群・仲町伝統的建造物群保存地区。弘前市仲町。
重伝建・仲町伝統的建造物群保存地区へ向かったが、無料駐車場が見当たらなかったので、短時間の停車だけでの見学となった。武家屋敷も公開されているようだが、わざわざ見学する気にならなかった。武家屋敷群だけに整然としていて、歩く楽しさも感じられなかった。
仲町伝統的建造物群保存地区。弘前城の城下町は、南北に長く東西に短いほぼ矩形の弘前城を、自然地形を活かしながら四方から取り囲むように配置された。今は搦手門となっている北門(亀甲門)が当初の弘前城の大手門であり、その北側に亀甲町と呼ばれる一筋の町人町をはさんで、数か町の侍町が配置され、この侍町が「仲町」と呼ばれている。保存地区は往時の地割りをよく踏襲しているほか、道路沿いに連続するサワラの生垣、点在する門や板塀、前庭の樹木が独特の景観を生みだし、前庭の奥に建つ木造真壁造の主屋とともに城下町の雰囲気を残している。
日本基督教団弘前教会教会堂。青森県重宝。弘前市元寺町。
敷地内に駐車。内部は立ち入り不可だった。
1906年に弘前メソヂスト教会の教会堂として建設された。モチーフにしたといわれるフランス=パリのノートルダム大聖堂を十分に彷彿させる外観となっている。一部2階建て木造平屋建て切妻屋根亜鉛鉄板葺。
左右に配置されたフランスゴシック風の双塔や、外壁に設けられている控え壁と尖塔アーチの窓が印象的な建築物である。高さの強調が特徴であるゴシック風でありながら正面外壁に各階を区切る水平方向を強調するような蛇腹が設けられている意匠的な不整合や、内部天井を高くするために屋根組に取り入れられた変則トラス構造が構造的に不安定であるといった部分はあるものの、築後100年以上経過しても現役の教会堂として利用されている。
内部や祭壇は白漆喰の質素な造りとなっているが、ナルティクス2階には襖に仕切られた畳敷の3室が配置されているところが日本の教会堂ならではといえるが、襖を取り払うと礼拝堂内を見渡せる約30畳の大広間となり、収容人員を増やすことが出来るという実用的な設計ともなっている。
設計は「クリスチャン棟梁」とよばれた桜庭(さくらば)駒五郎。施工は堀江佐吉四男の斎藤伊三郎。
桜庭駒五郎は弘前の鍛冶職人の三男として生まれた。1888(明治21)年に洗礼を受け、1891(明治24)に東京英和学校(現・青山学院大学)に入学した。旧弘前藩士で青山学院長や東奥義塾塾長を歴任し、日本メソジスト教会初代監督や、日本基督教会同盟連合会長に就任した本多庸一の指導もあって、終生、信仰に支えられた社会事業等に関わり続ける。堀江佐吉四男の斎藤伊三郎と関係が深く、その影響で建築の道へ進むことになったと考えられる。
弘前学院外人教師館(重文)を設計したほか、青山学院神学部寄宿舎や、岡山県の日本イエス・キリスト教団香登教会堂や津山基督教図書館など、全国各地で教会建築を多く手がけ、「クリスチャン棟梁」と呼ばれた。
カトリック弘前教会教会堂。弘前市百石町小路。
弘前カトリック幼稚園が併設されており、13時30分過ぎに着いたときは教会堂前の駐車場は送迎車で満車だったが、運よく空いたので滑り込んだ。
当教会堂は、ロマネスク様式を基調とし、切妻屋根正面に尖塔を配置し、左右隅の柱が特徴的な外観となっている。
1910年(明治43年)に弘前天主公教会として建設された。木造モルタル平屋建て屋根亜鉛鉄板葺き。
弘前でのカトリックの布教活動は、1874年(明治7年)にパリ外国宣教会の宣教師アリヴェ師による来弘が最初といわれているが、本格的な布教活動は1878年(明治11年)にそれまで函館で布教活動をしていたマラン師が弘前で民家を借りて始めたのが当教会の始まりとなっている。その後、1882年(明治15年)にマラン師の後を継いだフォーリー師のもと現在地に教会堂が建設された。
現在の教会堂は、当時の主任司祭モンダグ師のもと改築されており、設計は建築の心得があったといわれるオージェ師を招き、施工は堀江佐吉の弟であり、自らもクリスチャンであった横山常吉が請け負っている。
内部は、木製のクロスリブヴォールトが組まれ、リブヴォールトや柱の濃茶と天井や壁の白漆喰のコントラスト、1984年(昭和59年)に設置されたステンドグラス、また特に祭壇が印象的なものとなっている。
祭壇は、1866年(慶応2年)にオランダ ロールモンドで製作されアムステルダムの教会に設置されていたもので1939年(昭和14年)に当時の主任司祭であったコールス師が譲り受けて当教会堂に設置したもので、ゴシック様式の総ナラ製、高さは8mに及ぶ。
ステンドグラスは、1984年カロン・ジル神父(ケベック外国宣教会)の作品で、旧約・新約聖書を題材にしたもので、岩木山、リンゴ、津軽三味線などが描かれている。
中三(なかさん)弘前店。弘前市土手町。
1962年開店、1995年釧路市出身の建築家・毛綱毅曠(もづなきこう)の設計で増築。2022年6月の北海道周遊の途次、釧路で数件の毛綱作品を実見して、ブログ記事にしたときに、弘前にもあると知ったので立ち寄った。
日本聖公会弘前昇天教会教会堂。県重宝。弘前市山道町。
日本聖公会の教会堂が現在地に創建されたのは明治33年だが、現在の教会堂は大正9年に建てられたものである。設計は明治村にある聖ヨハネ教会教会堂(国指定重要文化財)と同じJ・M・ガーディナーによるものとされている。
平屋建の教会堂は、イギリス積の赤煉瓦が印象的で、全体はゴシック様式でまとめられている。正面右寄りに立つ三角塔の鐘はトレフォイルという三葉形のアーチに納められている。柱型の模様、登りアーチの中の飾り、カーブする方杖(ほうづえ)が添えられて構成されるチューダーアーチ、化粧屋根裏と垂木やトラスとのコントラスト、アンティークな照明器具など、見るものを飽きさせない。
旧弘前偕行社。重文。弘前市御幸町。
残念ながら、貸切客があったため内部には入れなかった。
この地は弘前藩9代藩主津軽寧親(やすちか)の別邸「富田御屋鋪」跡で、弘前市内でも屈指の名庭園であった。
日清戦争後、対ロシア戦に備えて陸軍の軍備を拡張、新たに6つの師団を増設したうちの一つが第8師団で、明治31年(1898)に現在の弘前大学構内に師団司令部を開設した。弘前偕行社は第八師団将校らの親睦・厚生施設として、当初、師団司令部の一室に置かれ、明治40年(1907)に現在の場所に新築移転した。
明治40年6月起工、11月に竣工した。工事請負は堀江佐吉で、長男彦三郎、六男金蔵が棟梁として現場を仕切った。
堀江佐吉は「旧弘前市立図書館」や「旧第五十九銀行本店本館」、太宰治の生家としても知られる「斜陽館」なども手がけた津軽を代表する名棟梁で、堀江佐吉は完成前に病没したため、弘前偕行社が最後の作品となった。
イタリア・ルネサンス風を基調とした翼棟付き平屋建ての洗練された意匠をもち、小屋組はキングポストトラス構造。屋根まわりは正面中央上部の屋根裏をはじめ、装飾の強いものとなっている。
車寄せの妻飾りとして唐草模様と陸軍第8師団に因んだ「蜂」の鉄製飾りのある鋳鉄柱のポーチ付き玄関は雪止めの付いた鉄板葺きである。
正面中央上部の屋根窓、軒廻りの持ち送り板、窓廻りの飾り枠や上部に付けた櫛形あるいは三角形の破風飾りなど、豊かな装飾を備えている。
旧弘前偕行社は、東北地方に残る陸軍関係施設の代表的遺構で陸軍省営繕組織による建築意匠の展開が示され、津軽を代表する棟梁が建築したことなど建築的な観点からも保存価値の高い建物である。
終戦後、地域医療・福祉分野の先駆者であった故鳴海康仲氏の創設理念に基づき、弘前厚生学院の教育施設となった。
このあと、近くの名水百選・富田の清水(しつこ)へ向かった。