いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

アメーバブログ「いちご畑よ永遠に(旧ヤフーブログ)」は2023年7月に全件削除されましたが一部復活

パレオゲノミクスで解明された日本人の三重構造

2024年04月21日 21時04分01秒 | 歴史

パレオゲノミクスで解明された日本人の三重構造

2021(令和3)年9月21日

金沢大学人間社会研究域附属古代文明・文化資源学研究センターの覚張隆史助教,中込滋樹客員研究員(ダブリン大学助教),ダブリン大学のダニエル・ブラッドレイ教授,鳥取大学の岡崎健治助教,岡山理科大学の富岡直人教授,富山県埋蔵文化財センターの河西健二所長,船橋市飛ノ台史跡公園博物館の畑山智史学芸員,愛南町教育委員会の松本安紀彦氏らの国際共同研究グループは,日本列島の遺跡から出土した縄文人・弥生人・古墳時代人のパレオゲノミクス解析を行い,現代における日本人集団のゲノムが3つの祖先集団で構成されていることを世界で初めて明らかにしました。

 

 本研究では,日本列島の遺跡出土人骨から新たに 12 個体(縄文人 9 個体・古墳人 3個体)のゲノムデータの取得に成功しました。これらのデータに加え,既報の縄文人および弥生人のゲノムデータと大陸における遺跡出土古人骨のゲノムデータを用いて,大規模な集団パレオゲノミクス解析を実施しました。

その結果,縄文人の祖先集団はおおよそ 20,000~15,000 年前に大陸の基層集団から分かれ,初期集団は 1,000 人程度の小さな集団サイズを維持していたことが分かりました。そして,弥生時代には北東アジアに起源をもつ集団が,古墳時代には東アジアの集団がそれぞれ日本列島に渡ってきたことが明らかとなりました。

本研究では,自然人類学においてこれまで主流であった「日本人の二重構造モデル」をさらに発展させた,「日本人の三重構造モデル」を新たに提唱しました。これらの知見は,今後日本列島に眠る膨大な遺跡出土古人骨のゲノムデータから日本人の成り立ちを探る上での基盤データとして活用されることが期待されます。

【研究の背景】

 日本人の起源に関する研究は,自然人類学や考古学において様々なモデルが提唱されてきました。日本の先史時代は,縄文時代・弥生時代・古墳時代に区分されており,先史時代人の起源の解明は,これまで日本列島に居住していた人々と我々現代人の関係を考える上で極めて重要な研究テーマと言えます。自然人類学におけるその主たるモデルとして,埴原和郎が 1991 年に提唱した「日本人の二重構造モデル(Dual structure model)」(※1)があります。これは縄文人(狩猟採集)と弥生人(稲作)という文化的な対立構造を表現するとともに,それら 2 つの異なる祖先が現代の日本人集団に受け継がれているとするものでした。

一方,考古学的知見に目を向けると,弥生時代に続く古墳時代においても,土器や青銅器など物質文化だけでなく,家畜動物である馬の飼育が始まるなど,生業における大きな変化が生じています。これらのことから,古墳時代には,弥生時代に移住してきた集団とは異なる地域からの渡来があった可能性が指摘されています。また,約 16,000 年前から約 3,000 年前と長期にわたって続いた縄文時代においても,大陸からのヒトの流入の可能性が指摘されているものの,その実態については明らかではありませんでした。

 先史時代人の起源を解明する 1 つの方法として,近年パレオゲノミクス(※2)が強力なツールとして利用されています。パレオゲノミクスを応用することで,かつて日本列島で生活していたヒトがもつ全 DNA 配列である約 30 億塩基の遺伝情報(ヒトゲノム)を取得することが可能となります。

そこで本研究では,縄文人・弥生人・古墳人だけでなく大陸の遺跡出土古人骨のゲノムデータも含めて比較・解析することで,狩猟採集から農耕,そして国家の形成に至る過程で起こった人類集団の移動及び混血を明らかにすることを目的としました。それにより,現代の日本人集団の起源が従来の「二重構造モデル」によって説明され得るものかどうかを実証的に検証しました。

【研究成果の概要】

 本研究では,日本列島の遺跡出土古人骨から新たに 12 個体のゲノムデータの取得に成功しました。特に,縄文時代においては,早期から晩期の幅広い時間軸に加え,列島規模での比較が初めて可能となりました。分析対象とした遺跡は,縄文時代早期の上黒岩岩陰遺跡(愛媛県久万高原町),縄文時代前期の小竹貝塚(富山県富山市)および船倉貝塚(岡山県倉敷市),縄文時代後期の古作貝塚(千葉県船橋市),縄文時代後期の平城貝塚(愛媛県愛南町),古墳時代終末期の岩出横穴墓(石川県金沢市)の 6 遺跡です。

これらのデータに加え,すでに先行研究で公開されている縄文人ゲノムである縄文後期の船泊貝塚(北海道・礼文島)および縄文晩期の伊川津貝塚(愛知県・田原市),弥生人ゲノムである弥生中期の下本山岩陰遺跡(佐賀県佐世保市),さらには大陸における遺跡出土古人骨を含め,集団パレオゲノミクス解析を実施しました(図 1)

図 1.分析試料の遺跡立地 本研究において新たに得られたデータを〇,先行研究で報告されているデータに関しては△で示しています。また,各遺跡が由来する時代によって,赤色(縄文時代)・オレンジ(弥生時代)・青色(古墳時代)に分けています。

 まず,先史時代における文化の転換に伴うゲノム多様性の変遷を評価しました。その結果,縄文人・弥生人・古墳人と時代を追うごとに,大陸における古人骨集団との遺伝的近縁性が強くなっていく傾向が示されました(図 2)

図 2.古人骨ゲノムデータの主成分分析 各プロットが個体を示しており,現代日本人集団を除くすべての現代人類集団は灰色で示されています。現代人は大きく 3 つのクラスターに分けられています:「中央及び南アジア」,「シベリア」,「東南及び東アジア」。

遺跡出土古人骨に関しては,異なる形と色によって示しています。例えば,縄文人は赤色の三角形,弥生人はオレンジの三角形,古墳人は青色の三角形です。十字の個体は,すべて旧石器時代に由来します。この図から,縄文人・弥生人・古墳人と時代を追うごとに,大陸集団との遺伝的親和性が高くなっていることが分かります。

つまり,弥生人や古墳人は大陸集団に由来する祖先を受け継いでいると考えられます。一方,縄文人は大陸集団とは明確に異なる遺伝的特徴を有していることが示されました。さらに,縄文時代早期の上黒岩岩陰遺跡のゲノムデータを用いてシミュレーション解析(※3)を行った結果,おおよそ 20,000~15,000 年前に縄文人の祖先集団が大陸の基層集団から分かれ,その後,少なくとも縄文早期までは極めて小さな集団を維持してきたことが示されました。

そして,渡来民による稲作文化がもたらされたとされている弥生時代には,北東アジアを祖先集団とする人々の流入が見られ,縄文人に由来する祖先に加え第 2 の祖先成分が弥生人には受け継がれていることが分かりました。しかし,古墳人には,これら 2 つの祖先に加え東アジアに起源をもつ第 3 の成分が存在しており,弥生時代から古墳時代に見られた文化の転換において大陸からのヒトの移動及び混血が伴ったことがわかりました(図 3)。これら 3 つの祖先は,現代日本人集団のゲノム配列にも受け継がれています(図 3)。

図 3縄文時代から現代に至るまでの日本人ゲノムの変遷

縄文人は独自の祖先成分をもっているのに対し,弥生時代には北東アジアを起源とする集団,さらに古墳時代には東アジアの集団が日本列島に渡り混血していきました。そして,本州における現代日本人集団を調べてみると,古墳時代に形成された 3 つの祖先から成る三重構造を維持しています。

以上のことから,本研究は,パレオゲノミクスによって日本人ゲノムの「三重構造」を初めて実証しました。


理研 全ゲノム解析で明らかになる日本人の遺伝的起源と特徴 

2024年04月21日 20時28分35秒 | 歴史

全ゲノム解析で明らかになる日本人の遺伝的起源と特徴

-ネアンデルタール人・デニソワ人の遺伝子混入と自然選択-

2024年4月18日 理化学研究所

 

理化学研究所(理研)生命医科学研究センター ゲノム解析応用研究チームの寺尾 知可史 チームリーダー(静岡県立総合病院 臨床研究部 免疫研究部長、静岡県立大学 薬学部ゲノム病態解析講座 特任教授)、劉 暁渓 上級研究員(研究当時:ゲノム解析応用研究チーム 研究員; 静岡県立総合病院 臨床研究部 研究員)、東京大学医科学研究所附属ヒトゲノム解析センター シークエンス技術開発分野の松田 浩一 特任教授らの共同研究グループは、大規模な日本人の全ゲノムシークエンス(WGS)[1]情報を分析し、日本人集団の遺伝的構造ネアンデルタール人[2]およびデニソワ人[3]由来のDNAと病気の関連性、そしてゲノムの自然選択が影響を及ぼしている領域を複数発見しました。

本研究成果は、日本人集団の遺伝的特徴や起源の理解、さらには個別化医療[4]や創薬研究への貢献が期待されます。

今回、共同研究グループは、バイオバンク・ジャパン(BBJ)[5]が提供した3,256人分の日本人の全ゲノム情報を分析しました。この研究を通じて、日本人の祖先に関わる三つの源流縄文系祖先、関西系祖先、東北系祖先)の起源を明らかにしました。

また、現生人類(ホモ・サピエンス)の最も近縁とされる古代型人類ネアンデルタール人やデニソワ人から受け継いだ遺伝子領域を特定しました。一部の日本人が持つNKX6-1遺伝子領域は、2型糖尿病リスクと関連しており、この領域がデニソワ人由来であることが明らかになりました。さらに、日本人の遺伝子における自然選択が作用している領域も同定しました。

背景

全ゲノムシークエンス(WGS)データの分析を通じて、人間の遺伝的多様性や自然選択のプロセスを理解する上での新たな扉が開かれました。また、個別化医療や創薬研究におけるゲノムワイド関連解析(GWAS)の解析能力を格段に向上させ、病気に関わるバリアントの同定や治療標的の特定へとつながっています。

しかし、日本人集団を対象としたWGS研究は、限定的な規模にとどまっていました。このギャップを埋めるため、共同研究グループは全国7地域から集めた3,256人分のゲノム情報を解析し、日本人特有の遺伝的特徴を明らかにすることを企図しました。

研究手法と成果

A)サンプルが集められた日本の七つの地域。B)コモンバリアントを基にしたPCA分析を行い、参加者を集めた地域ごとに色分けした。C)レアバリアントに基づくPCA-UMAP分析を示す。B)、C)では、一つ一つの点が個人を表しており、点と点との距離は遺伝学的な違いを反映している。近い点ほど遺伝学的には近縁である。この二つの図では、出身地を元にした遺伝背景の違いにより、色分けして表示している。

D)ADMIXTURE分析を行い、三つの集団(K=3)に分けた。沖縄以外の地域からはランダムに100人を選び、沖縄からは全員(28人)をそれぞれ分析した。K1は沖縄、K2とK3はそれぞれ東北と関西で最も高い値を示す。

 

バイオバンク・ジャパン(BBJ)により、全国7地域(北海道、東北、関東、中部、関西、九州、沖縄)の医療機関に登録された合計3,256人分の全ゲノムシーケンス(WGS)を行って、「Japanese Encyclopedia of Whole/Exome Sequencing Library(JEWEL)」というデータセットが作成されました(図1A)。この最終データセットは、45,586,919個のSNV[6]と9,113,420個のindel[7]を含み、そのうち15,410,953個(32.7%)がJEWELで新たに観察されたバリアント[8]です。これは日本における最も包括的な全ゲノムシーケンスデータの一つです。日本人の集団構造を理解するために、まずコモンバリアント[8]に基づいて従来の主成分分析(PCA)[9]を行いました。以前の研究と同様に、この分析から沖縄と本土クラスターの二重構造が再現されました(図1B)。レアバリアント[8]が人口構造を明らかにする上でより多くの情報を提供する可能性があると仮定し、1,835,116個のレアバリアントを使用した次元削減(PCA-UMAP)分析[10]を行いました。この分析により、日本人口の前例のない遺伝構造が明らかになりました(図1C)。この構造は、コモンバリアントに基づいてPCAから得られたパターンを再現するだけでなく、いくつかの顕著な特徴を示しています。

1)本土の領域間のより明確な分離と、本土クラスターから沖縄クラスターのより明確な区別が観察されます。

2)東北の人々が細長いエリアにクラスタリングされます。

さらに、WGSのデータADMIXTURE分析[11]による解析結果は、日本人口は三つの祖先(以下、K1、K2、K3)の混合によって最もよくモデル化できることを示唆しています。K1、K2、K3はそれぞれ沖縄、東北、関西で最も高まります図1D)。K1(沖縄)成分は、南(沖縄に隣接する地域)を除く本土のサブグループで比較的安定した割合の約12%を維持し、南ではより高い割合の22%を示しました。K2(東北)とK3(関西)成分は西から東北へ徐々に変化していくことが分かります(図1D)。

以前の研究により、日本人が縄文人および東アジア(EA、主に漢民族)の祖先を持つことが示唆されています。最近の古代ゲノムの分析からは、北東アジア(NEA)の祖先の影響も指摘されています。この背景のもと、共同研究グループは、縄文、EA、NEAの現代および古代の遺伝データを今回のデータと共に分析しました。

縄文の祖先比率については、沖縄が最も高い比率(28.5%)を持ち、次いで東北(18.9%)である一方、関西が最も低い(13.4%)と推定されました。これは、縄文人と沖縄の人々の間に高い遺伝的親和性があることを示す以前の研究と一致しています。また、関西地方は漢民族と遺伝的親和性が高いことが明らかになりました。

さらに、共同研究グループは中国、韓国、日本から報告された古代人ゲノムデータを使って、東北と関西の間の遺伝的親和性の違いを評価しました。その結果、関西人と黄河(YR)またはその上流地域の中新石器時代および後新石器時代古代中国集団との間に顕著に密接な関係があることが見受けられました。対照的に、東北地方の個体は、縄文人との遺伝的親和性が顕著に高く、また沖縄の宮古島の古代日本人ゲノム(高い縄文比率を持つ)や韓国三国時代(4~5世紀)の古代韓国人とも高い遺伝的親和性を持つことが示されました。

共同研究グループは、絶滅したネアンデルタール人やデニソワ人から引き継がれた可能性のある遺伝子配列を検出するために、最新の確率的手法IBDmix[12]を使用しました。JEWELの個々のデータ分析により、ネアンデルタール人由来の約49Mb(メガ・ベース:DNAの長さの単位で1Mbは100万塩基対)とデニソワ人由来の約1.47Mbの遺伝子配列が検出されました。合計で、ネアンデルタール人から引き継がれた可能性が高い3,079セグメント(ゲノム領域)とデニソワ人から引き継がれた可能性の高い210セグメントが特定され、それぞれ772Mbと31.46Mbのゲノムをカバーしています(図2)。

各染色体にわたり混入された配列の分布を示す密度プロット。上部のトラック(青で示される)はネアンデルタール人から直接受け継がれたと考えられる配列を表し、下部のトラック(赤で示される)はデニソワ人からの配列を示す。

 

BBJからGWASの結果に基づいて、引き継がれた配列が106の表現型に与える影響を調査しました。デニソワ人由来2個とネアンデルタール人由来42個を含む44の領域と49の表現型とが関連付けられました。これらのうち43の関連は、以前の研究では報告されていません。特に、POLR3Eのデニソワ人由来セグメントは身長と、NKX6-1のセグメントは2型糖尿病(T2D)と関連していました(図3)。

NKX6-1遺伝子の領域におけるデニソワ人から直接受け継がれたと考えられる変異は、日本人集団における2型糖尿病(T2D)と関連している。横軸にヒトゲノム染色体上の位置、縦軸に各変異のT2Dとの関連の強さを示した。三角形はデニソワ人から受け継がれた変異を指し、灰色の点はそれ以外の変異を示す。

さらに、ネアンデルタール人由来のセグメントはT2D、冠状動脈疾患(CAD)、安定狭心症(SAP)、アトピー性皮膚炎(AD)、グレーブス病(GD)、前立腺がん(PrCa)、関節リウマチ(RA)など七つの病気と関連する11の領域が観察されました。これらの発見は、特に東アジア人において顕著な集団特異性を示しており、日本人におけるアリル頻度[13]の中央値が欧州人と比較して21.5倍であることが分かりました。

共同研究グループは、日本人口において選択された可能性があるゲノム領域を特定するために、全ゲノムスキャンを、iHS[14]とFastSMC[15]という二つの方法で実施しました。iHS法により、共同研究グループは全ゲノム(MHC、ADHクラスター、およびALDH2を含む)の有意水準で正の選択下にある三つの領域を特定しました(図4A)

さらに、関西、関東、東北、九州、沖縄の五つの代表的な地域を横断する選択プロファイルの潜在的な地域差を探りました。本州地域全体で類似の選択プロファイルが観察されましたが、アルコール代謝に関係するADHクラスターシグナルは沖縄では比較的弱く、ALDH2遺伝子領域への自然選択は本土集団でのみ検出されました。これらの差異は、沖縄のサンプルサイズが限られているため、または選択圧が異なる可能性があるため、さらなる研究が必要です。さらに、iHS法で観察されたシグナルを検証する補完的なアプローチとしてFastSMC法を使用しました(図4B)。この方法は、過去50世代で選択の対象となった可能性がある四つの候補領域を特定しました。これには、iHS法で有意であった三つの領域(ADH、ALDH2、MHC)と、候補領域2p25.3が含まれます。これら三つの領域(ADH、ALDH2、MHC)は、以前の研究でも検出されており、日本人口における自己免疫系とアルコール代謝経路への強い選択圧の存在をさらに裏付けるものです。

A:iHS法では、自然選択された可能性のある三つのゲノム領域が特定された。

B:FastSMC法では、自然選択された可能性のある四つのゲノム領域が特定された。

グラフの横軸は染色体上の位置、縦軸は自然選択の痕跡の強さを表す。プロットは各領域の解析結果を示し、縦軸の値が大きいほど強く自然選択の影響を受けたことを意味する。

今後の期待

この研究は、日本人の起源について重要な洞察を提供しています。今まで「二重構造」モデル[16]、つまり縄文時代の狩猟採集民と大陸からの弥生時代の稲作移民の混血により現代の日本人が形成されたという説は広く受け入れられてきました。

最近日本列島の遺跡から出土した人骨のゲノムの研究による「三重構造」モデル[17]、すなわち、縄文人の祖先集団、北東アジアに起源を持ち弥生時代に日本に渡ってきた集団、そして東アジアに起源を持ち古墳時代に日本に渡ってきた集団の三集団の混血により日本人が形成されたという説が提唱されました。

しかし、先行研究で用いられた古人骨全ゲノムのサンプル数は制限されており、より多くの解析が必要と考えられていました。

本研究は、大規模な現代日本人ゲノム情報に基づいて、この三重構造モデルの裏付けになり、日本の人口構造をより適切に説明する可能性があると考えられます。さらに、本研究では初めて日本人の遺伝的構造に対する東北地方人の祖先の影響の重要性が強調されました。東北地方は歴史的に蝦夷(エミシ)が居住していた地域であり、彼らの起源を調べる必要があります。

 

遺伝的分析により、現生人類に非常に近い、絶滅したネアンデルタール人やデニソワ人から引き継がれたDNAが現代日本人の遺伝的多様性にどのように寄与しているか、またその病気感受性や表現型特性に与える影響はどうか、という点についての理解が深まりました。さらに、ALDH2やADHクラスターなど進化的選択を受けた特定遺伝子が日本人の免疫応答やアルコール代謝に重要な役割を果たしていることがすでに示されています。これらの遺伝特性が健康や疾患リスクにどのように影響するかについて、さらなる研究が期待されます。

この研究は、日本における遺伝学研究の新たなマイルストーンを築き、個別化医療の実現に向けた大きな一歩を踏み出すものです。まず希少遺伝変異、特定集団に特有の変異、疾患関連遺伝子の機能解析に貢献します。これらの遺伝的要素を深く理解することで、病気の原因となる遺伝要因の同定が可能になり、新たな治療法の開発ができるようになると期待されます。

さらに、日本人を含む東アジアや世界各地の人々の遺伝的起源と人類史を理解する上で重要な基礎となります。得られた知見は、日本人集団だけでなく、世界の人々に対する個別化医療の発展や新薬の発見にも役立つことが期待されます。将来の研究では、より多くのサンプルと遺伝子解析技術を活用することで、よりよい医療ソリューションの提供につながることが期待されます。


日本人の祖先、3系統か 東北系「蝦夷(えみし)」の謎

2024年04月21日 19時22分12秒 | 歴史

日本人の祖先、3系統か 「縄文と弥生」仮説に疑問 理化学研

毎日新聞 2024/4/18

現代の日本人約3200人分のゲノム(全遺伝情報)の分析から、日本人の祖先は三つの系統に分けられる可能性が高いことが分かったと、理化学研究所などのチームが17日付の米科学誌に発表した。従来唱えられてきた「日本人の祖先は縄文人と弥生人の2系統」という仮説に疑問を投げかける内容。

従来の説では、狩猟民族である縄文人と弥生時代に大陸から移住した渡来人が混血したとされる。一方で、日本人の祖先は3系統であると示唆する研究はこれまでもあったが、遺跡から出土した人骨のゲノムを解析しておりサンプルが少なかった今回、現代人のゲノムで大規模な解析ができたことで「3系統説」がより確からしくなった。

 チームは、多くの人の血液や遺伝情報を集めて保存している組織「バイオバンク・ジャパン」のデータを活用。北海道、東北、関東、中部、関西、九州、沖縄の医療機関に登録された日本人約3200人分のゲノムの特徴を分析した。

 その結果、日本人の祖先は主に、沖縄に多い「縄文系」関西に多く、古代中国の黄河周辺にいた漢民族に近い「関西系」東北に多く、さまざまな要素が混ざっていて詳しい由来が分からない「東北系」の三つに分けられると分かった。

 縄文系の遺伝情報の割合は沖縄に次いで東北で多かった。一方、関西では最も低かった。

 東北系沖縄・宮古島の古代日本人4~5世紀ごろの朝鮮半島の人に近い。かつて東北に住んでいた「蝦夷(えみし)」と呼ばれる人々とも関連している可能性があるという。

 理研の劉暁渓(りゅうぎょうけい)上級研究員は「東北の言語は、地理的に離れた島根県の出雲地域の言語と似ていると言われる。今後の解析で、朝鮮半島や大陸に近い出雲と東北の関係が見え、東北系の由来が分かったら面白い」と話す。(共同)


青森市 国史跡・高屋敷館遺跡 平安時代の蝦夷(エミシ)集落

2024年04月21日 16時09分47秒 | 青森県

国史跡・高屋敷館(たかやしきだて)遺跡。青森市浪岡高屋敷野尻。

2022年9月28日(水)。

道の駅「なみおか」で起床。浪岡城跡に近い資料館「中世の館」が9時開館なので、その前に平安時代後期の環濠集落である国史跡・高屋敷館遺跡を見学することにした。高屋敷館遺跡の概要や出土品は「中世の館」に展示されている。

高屋敷館遺跡は、国道7号線バイパスに隣接する史跡公園にあるが、車線の東側にあるので、駐車場入口を見逃してしまった。戻って、駐車場へ入ると広大な駐車場があった。

高屋敷館遺跡は、濠と土塁を巡らした平安時代後期のいわゆる環濠集落である。高屋敷館遺跡では10世紀ごろから12世紀ごろまで人々が住み、11世紀に壕と土塁に囲まれた集落として最も栄えたとみられる。

国道バイパス建設に伴う発掘調査を行った結果、遺跡の時期は,出土土器等により10世紀後半頃から12世紀前半頃と考えられる古代のものと判明し、その性格をめぐって大きな議論をよんだ。遺跡はバイパスの路線を変更することによって全体の保存が図られた。

遺跡は東に平野を臨む台地の縁辺に立地し,南北約100m、東西約80mの規模をもつ。西側には、幅約6m,深さ約3mの濠とその外側に幅約2m,現存高約1mの土塁を巡らし、集落を外部から遮断している。

濠の西側には出入口と考えられる土塁が途切れた部分があり、この他南西部にも木の橋が濠に架けられていた。濠の内部には大小の竪穴住居が重複しながら密集し、その数は86棟が確認されており、それ以外にもかなり多数の存在が推定されることから、多くの人々が長期にわたり生活していたことが知られる。

このうち2棟の竪穴住居からは,鉄滓が出土しており鍛冶工房と考えられる。出土している遺物は土器の他、種々の鉄製品・木製品が豊富にある。

なお、遺跡北側には高屋敷館遺跡に先行する時期の、竪穴と掘立柱建物が連結する建物にU字形の溝がめぐる遺構と、墓と推定される円形周溝遺構があり、高屋敷館遺跡成立以前の状況が具体的に知られる。  

集落を濠と土塁で囲むという構造は、防御を意図したものとも考えられる。同じ時期に日常生活を営むのに不便な高い山上に立地するいわゆる高地性集落も知られており、合わせて防御性集落とも称される。古代の環濠集落・高地性集落は、現在のところ、秋田・岩手両県の北部から青森県に及ぶ東北地方北部、さらには北海道南部に分布し、時期はいずれも平安時代後期の10世紀から12世紀を中心としている。

東北北部以北の地域は律令国家の直接的な支配が及ばない地域であった。この地域に環濠集落・高地性集落が成立することは、この地域が律令国家の支配領域とは異なった社会情勢にあったことを示唆する。

記録によれば、岩手県・秋田県の地域においては、11世紀後半に前九年、後三年の役があったことが知られているが、これらの遺跡の存在から、それ以前から、蝦夷の集団相互の抗争などがあったことが想定される。本遺跡はこの地域の古代の環濠集落の中でも、とくに規模が大きく、出土遺物も豊富で遺跡の遺存状況も良好であり、重要な歴史的意義を有している。

史跡整備では、この遺跡の最盛期である11世紀代の竪穴建物跡・工房跡12棟について平面表示、柵列・土塁・壕跡について立体表示をしている。

 

土塁は、壕の外側に造られている。幅は2.1mで、総延長は約188mある。土塁の外周や頂部に、防御を強める柵列のような施設は確認されていない。

は、土塁の内側に総延長約214mにわたって掘られている。基本的には空壕と考えられ、雨水等は東側の大釈迦川へ流れ込むようになっている。

 

出入口・柵列・門。

集落の出入口は、3か所確認されている。西側では土塁が虎口状に途切れており、橋脚のない木製の橋が架けられていたものと考えられる。また、その付近には、壕の内側に沿う形で柵列や門の痕跡が確認されている。

集落西側の土塁が途切れた部分から壕をわたり、木柱の門をぬけると、たくさんの建物や、建物をつなぐ通路、柵列がつくられ、鉄に係わる生産活動などが行われていた。集落が途絶えると壕は完全に埋められ、近年まで果樹園などとして利用されていた。

竪穴建物跡。壕で囲まれた内郭からは、竪穴建物跡が70棟ほど見つかっている。最も大きな竪穴建物跡(第23号住居跡)は、直径9m前後の規模で、床面積は約84㎡である。建物の中央に4本の主柱穴があり、壁際には多数の壁柱穴を配置している。

鉄器生産関連遺構。

ほぼ方形の直径6m前後の竪穴建物跡で、床面積は約40㎡である。この建物は、改築されており、炉跡が見つかっていることから、継続した鉄器生産が行われた施設であったようである。

 

資料館「中世の館」。出土遺物。

発掘調査では、衣・食・住・生産に関連した資料が発見され、遺跡内での生活や暮らしぶりを想像できるようになった。

衣:植物から繊維(糸)をつくっていたとみられる道具(苧引金(おひきがね)・紡錘車(ぼうすいしゃ))。

食:当時の人々が食べていたとみられる穀物(イネ・オオムギ・コムギ・アワ・ヒエ)やマメ類、皿・碗・貯蔵のためのうつわ(土師器・須恵器・漆器椀)や調理具(土鍋・鉄鍋・竪杵)。

住:建物の一部とみられる多量の板材や加工材(部材)。

生産:農耕具(鋤・クワ先・鉄斧)、鍛冶作業の道具(坩堝(るつぼ)・羽口(はぐち))、砥石、漁ろう具(土錘)、ムシロを編むための道具(菰槌(こもつち))、武器類(鉄鏃)などがある。特に、鍛冶作業の残骸(鉄滓)が多量に発見された。

ほかにも、特徴的な形のうつわ(把手付(とってつき)土器・内耳(ないじ)土器・片口土器)や、北方の文化の影響を受けて作られたうつわ(擦文(さつもん)土器)、宗教用具と考えられる土鈴・土製勾玉・錫杖(しゃくじょう)状鉄製品・銅碗などがある。

遺跡見学後、青森市浪岡の資料館「中世の館」へ向かった。

青森県 田舎館村埋蔵文化財センター 北限の弥生水田跡・垂柳(たれやなぎ)遺跡 田舎館式土器


青森県 田舎館村埋蔵文化財センター 北限の弥生水田跡・垂柳(たれやなぎ)遺跡 田舎館式土器

2024年04月21日 12時03分33秒 | 青森県

田舎館村埋蔵文化財センター。田舎館村大字高樋字大曲。

2022年9月27日(火)。

「ランプの宿 青荷温泉」に入浴後、田舎館村埋蔵文化財センターに向かった。

田舎館村埋蔵文化財センターは、道の駅「いなかだて 弥生の里」に隣接する施設で、弥生時代中期後半の北限の水田跡で知られる国史跡・垂柳(たれやなぎ)遺跡に関する展示が中心である。

垂柳・高樋にある弥生時代中期の遺跡は、浅瀬石川左岸の標高約30mの沖積地にある。埋文センターの下にある高樋遺跡で発見された約2,100年前の水田跡・水路跡をそのまま化学処理した遺構露出展示室では、広さ140㎡の水田跡を自由に歩けるほか、垂柳遺跡から出土した炭化米、深鉢形土器、石斧などが展示されている。

垂柳遺跡は1981年から国道102号線バイパス道路の整備のため行われた調査で発見された弥生時代の水田跡で、東北地方北部への稲作伝播が予想以上に早く、弥生中期後半には成立していたことを証明する貴重な発見となった。出土した土器や炭化米など十数点は青森県の重宝に指定されている。

垂柳遺跡では、水田跡が10面程良好な状態で発見された。水田は1枚の平均面積が 8㎡という小型のものであり,それに伴う畦,水路などの施設も検出されている。

垂柳遺跡は、洪水によって埋もれた遺跡である。過去の噴火で八甲田山の山麓には、たくさんの噴石物が降り積もった。その噴石物が雨によって川に集められ、洪水となって垂柳遺跡を襲い、埋もれて保存されていた。 

白い層を薄く削り取っていくと、あぜが黒い格子状になって現れる。1枚の水田跡がとても小さいことがわかる。大きいもので22.43㎡、小さいものでは1.11㎡であった。

足跡検出状況。あぜを残し、白い部分を取り除くと当時の人の足跡がたくさんあらわれてくる。数万個にも及ぶ弥生人の足跡はおとなから子どもまである。家族みんなで農作業に従事していたことが想像できる。

 

出土した北海道の続縄文時代土器に酷似した多数の土器群は「田舎館式土器」と命名され、東北北部の土器編年上標式遺跡として重要な役割を担ってきた。

また、木製品については当時の農業経営の在り方を解明するのに貴重な資料である。さらに、擦切片刃石斧(すりきりかたばせきふ)や打製石鏃(せきぞく)などの石製品では、交易の範囲を推定することができるなど、今後垂柳遺跡から出土する遺構・遺物の解明は、東北地方における弥生時代の社会構造の総合的な解明につながることが期待されるなど、東北地方の弥生社会解明の発信地となり得る重要な遺跡である。

その後、遺跡から北西20キロ地点に位置する青森県弘前市で発見された砂沢遺跡においても弥生前期末の水田跡と水田稲作と関係する遠賀川式土器が確認されており、稲作文化の北限と位置づけられている。

なお、稲作農耕は急速に広い範囲に広がったが,この地域では短期間で終り,古墳時代には続かなかったと考えられている。

このあと、道の駅「なみおか」へ向かった。

青森県黒石市 ランプの秘湯 青荷温泉 大鰐町 大鰐温泉郷・大湯会館