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青森市 世界遺産・三内丸山遺跡

2024年04月25日 14時16分54秒 | 青森県

世界遺産・特別史跡・三内丸山遺跡。青森市三内丸山。

2022年9月29日(木)。

津軽半島東岸の道の駅「たいらだて」から、早朝に青森市街地を通過して、三内丸山遺跡駐車場に着いたのは9時前であったが、遠方からの観光客が数台駐車していた。

三内丸山遺跡を前回見学したのは1998年頃だ。シンボルとして6本柱の大型建物が復元されており、バラック施設に出土品が展示されていた。そのときは、百名山の八甲田山と岩木山の登頂が目的で、酸ヶ湯温泉に泊まり、弘前城も見学した。

三内丸山遺跡を今回見学すると、盛土の重要性が分かった。環状配石墓が復元されていないことが物足りなかった。

三内丸山遺跡は、八甲田山から続く緩やかな丘陵の先端に位置し、青森市の中央部を北東へ抜けて青森湾に注ぐ沖館川の右岸台地上に営まれた35haに及ぶ縄文時代前・中期の大規模遺跡である。

東北北部から北海道南部における縄文時代前期半ばから中期末に及ぶ大規模で拠点的な集落であり、竪穴住居、土坑墓、埋設土器、貯蔵穴、大型掘立柱建物、盛土遺構などの各種遺構が計画的に配置されていたことが明らかになった。また、当時の生活、生業、交流、自然環境などを示す多種多様な遺物が検出された。

青森県教育委員会により、平成9年度には両側に土坑墓列を配置する幅約12mの基幹道路跡が集落中央から東に約420m以上に及ぶことが確認された。また、平成10年度から12年度には集落西南で環状配石墓・配石墓・土坑墓からなる墓域と集落中央からこの墓域に向かう長さ170mの道路跡などが調査された。これらの調査の結果、集落の内容や社会組織を解明する上での重要な手がかりが得られた。

遺跡には、通常の遺跡でも見られる竪穴建物、高床倉庫の他に、大型竪穴建物が10棟以上、約780軒にもおよぶ建物跡、さらに祭祀用に使われたと思われる大型掘立柱建物が存在したと想定されている。

また、他の遺跡に比べて土偶の出土が多く、板のように薄く造られていて板状土偶と呼ばれる。次の縄文後期や晩期の立体的に体の各部を表現した土偶とは大きく異なっている。

また、発掘調査と並行して、出土種子の遺伝子分析、高精度年代測定、花粉分析、動・植物遺存体分析、土偶の胎土分析、黒曜石などの蛍光X線分析など、さまざまな自然科学的分析が体系的に行われている。

こうした分析からは、集落の存続期間が5900〜4200年前前後の約1700年間に及ぶことや土器型式の時間幅の詳細、遺跡周辺の自然環境・生態系、縄文人の資源利用や交流・交易の実態など、従来の想定をはるかに超えるものが明らかにされてきた。

遺跡から出土した栗をDNA鑑定したところ、それが栽培されていたものであることなども分かった。多数の堅果類(クリ、クルミ、トチなど)の殻、さらには一年草のエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなどといった栽培植物も出土した。三内丸山の人たちは、自然の恵みの採取活動のみに依存せず、集落の周辺に堅果類の樹木を多数植栽しており、一年草を栽培していた可能性も考えられる。

遺跡のジオラマ。縄文時代中期中頃の三内丸山集落の様子。

柱穴は直径約2m、深さ約2m、間隔が4.2m、中に直径約1mのクリの木柱が入っていた。地下水が豊富なことと木柱の周囲と底を焦がしていたため、腐らないで残っていた。6本柱で長方形の大型高床建物と考えられる。

盛土には、竪穴建物や大きな柱穴などを掘った時の残土、排土や灰、焼けた土、土器・石器などの生活廃棄物が捨てられ、それが何度も繰り返されることによって周囲より高くなり、最終的には小山のようになった。土砂が水平に堆積しているので、整地されていたと考えられる。中から大量の土器・石器の他に、土偶やヒスイ、小型土器などまつりに関係する遺物がたくさん出土している。

縄文時遊館に重文などの出土資料が展示されており、遺跡のジオラマ展示コーナーが遺跡見学の入口となっている。

遺跡入口から左(西)は当時の道路と墓が並んでいたらしいが分からない。300mほど歩くと復元展示施設が散在している。

南盛土見学施設。復元建物。

南盛土見学施設。

大型建物内部。

青森県外ヶ浜町 津軽半島最北端の龍飛崎


青森県外ヶ浜町 津軽半島最北端の龍飛崎

2024年04月25日 10時34分36秒 | 青森県

龍飛埼灯台。青森県外ヶ浜町三厩龍浜。

2022年9月28日(水)。

外ヶ浜町蟹田の世界遺産・大平山元遺跡を見学後、津軽半島最北端の龍飛崎に向かい、灯台下の駐車場に16時過ぎに着いた。日は傾きかけていたが、観光客は多い。

龍飛埼灯台は、日本の灯台50選に選ばれている。

龍飛埼灯台。北広場。

灯台の北に展望広場がある。渡り鳥を観察している青年がいて、何の鳥がいるのか話しかけられていた。

展望案内図。北広場。

北海道の白神峠とは津軽海峡をはさんで19.5kmの距離があり、地下を青函トンネルが通っている。

北海道福島町方面。

下北半島西岸。

階段国道339号。上側出入口。

日本で唯一の階段国道。全362段。もともと生活道路として利用されていたが、1974年に国道に指定された。階段部分も整備される予定であったが、傾斜がきつく道幅も狭いため整備も手付かずになった。

津軽海峡冬景色歌謡碑。

石川さゆりの名曲「津軽海峡・冬景色」の歌謡碑。ボタンを押すと「ごらんあれが竜飛岬北のはずれと…」と2番の歌詞が流れる。津軽海峡を見下ろす高台にあり、名曲の世界が一望できる。

このあと、海岸沿いまで下って、最北端の帯島へ行ったのち、龍飛館へ立ち寄った。

龍飛岬観光案内所「龍飛館」。外ヶ浜町三厩龍浜。

龍飛岬にある「旧奥谷旅館」は、作家・太宰治、版画家・棟方志功などのゆかりの宿として平成11年まで営業していた。現在は、外ヶ浜町龍飛岬観光案内所「龍飛館」として生まれ変わり、外ヶ浜町全体の観光案内をしている。

館内では観光案内のほかに、作家・太宰治が小説「津軽」の執筆の際に、太宰の親友N君と投宿した部屋を復元公開している。

開館時間が、9時から16時まで、最終入館は15時30分までなので閉まっていた。

太宰治文学碑。

龍飛館の海側にある。

「龍飛館」周辺。

 

このあと、津軽半島東岸の道の駅「たいらだて」へ向かった。翌日、早朝に三内丸山遺跡を見学するためである。

青森県外ヶ浜町 世界遺産・大平山元遺跡 最古級の縄文土器