いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

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青森県黒石市 ランプの秘湯 青荷温泉 大鰐町 大鰐温泉郷・大湯会館 

2024年04月20日 15時22分25秒 | 青森県

 

大円寺(だいえんじ)山門。青森県大鰐町蔵館字村岡。

2022年9月27日(火)。

弘前市の国史跡・堀越城跡を見学後、南の碇ヶ関関所跡へ向かい、途中、大円寺、大鰐温泉大湯に立ち寄った。

大円寺は、大鰐温泉郷にある高野山真言宗の寺院である。通称は「大鰐の大日様」。寺伝によると、本尊の大日如来は奈良時代に阿闍羅山の大安国寺に安置されたとされる。大安国寺は当地でオオアネと読まれ、地名「大鰐」の起源ともいわれている。

のちに大安国寺は衰退し、本尊の大日如来は鎌倉時代の建久2年(1191年)に阿闍羅山千坊と称された神岡山の高伯寺に移された。

その後、江戸時代慶安3年(1650年)、津軽藩三代藩主津軽信義により高伯寺と本尊大日如来は現在地に移され、以来江戸時代末まで津軽藩主家の庇護を受けることになる。

明治4年、神仏分離の際、弘前市から大円寺が移り、寺号を高伯寺から大円寺に改め、現在に至る。

大円寺。本堂。

大鰐温泉郷・大湯会館。

入浴料200円。

碇ヶ関御関所(いかりがせきおんせきしょ)跡。道の駅いかりがせき。平川市碇ヶ関。

青森・秋田県境近くの陸奥国碇ヶ関(現在の)に津軽藩が設置していた関所。藩政時代には野内(青森市)、大間越とともに津軽三関の一つとされ、四代津軽信政の寛文年間に参勤交代の道路が大間越から碇ヶ関に変更された。

関所は1586年(天正14年)から1871年(明治4年)まで存在した。秋田藩境の矢立峠から下って湯ノ沢道が碇ヶ関道に交差する付近の上の番所を峠下御番所といい、次に南部道との分岐点に中の番所を折橋御番所といった。そこからさらに下って津刈川が平川に合流する地点に船岡御番所があり、さらに町の南端の入り口に大橋の番所があり、この番所が通常碇ヶ関番所(御番所)と言われた。

番所は町奉行が統括し、町同心警固、町同心、町年寄らが15人、名主2人に月行事が5人、勤番目付が1人役目についていた。町奉行は2人で、4ヶ月交代であった。

武器は文化8年(1811年)の記録ではヤリが10本、弓が10張、矢が200筋、鉄砲が20挺であった。天明8年(1788年)に古川古松軒はこの番所を通り、その記録を『東遊雑記』に「厳重なること中々箱根の御番所などの及ぶ事にあらず。普請至って念の入りし番所なり」と記している。

現存するものは津軽湯の沢駅近く、羽州街道(現・国道7号)・津軽街道(現・国道282号)の交点付近にあった折橋御番所(中の番所)当時のものを1984年(昭和59年)に再現したもので、関所跡は2005年に道の駅いかりがせきに移転し公開されている。また移転と同時に碇ヶ関関所資料館も道の駅内に新設されている

道の駅併設の「関の庄温泉」付近から秋田県方向。

名水百選「渾神の清水(いがみのしつこ)」。平川市唐竹滝の沢。

碇ヶ関関所跡を見学後、北の山間部にある平川市唐竹の名水百選「渾神の清水」と黒石市の青荷温泉へ向かった。「渾神の清水」は青荷温泉へ向かう山間道路の脇道から往復したのだが、高低差のある下りと上りになってしまった。この順路は間違いで西の平地に近い幹線道路からアクセスすれば良かった。平地から山間部へ向かう道路の麓近くに「渾神の清水」はあった。住居などは皆無なので汚染の点では大丈夫だろう。

「渾神の清水」は別名(今神の清水)ともいわれており、眼の神(めのかみ)が転じて渾神(いがみ)の清水と呼ばれるようになったと伝わる。

坂上田村麻呂が延暦年間に陸奥国の蝦夷征伐の時「矢捨山」の近くで眼病を患った。或る夜、此土地の鎮守少彦明神が夢に現れ、是れよりも奥に行くと清水があり、この水で目を洗うとたちまち治るとのお告げがあった。お告げのとおり谷を上っても清水が無いため、現在の泉のあたりで神に礼拝すると烏帽子が飛んで落ちた場所にこんこんと水のわいている泉があった。この清水で目を洗うとたちまちのうちに眼病は治癒した。その徳に感じて眼病守護のため、阿蘇山に剣を埋めて薬師神と崇めて本殿を建てた。この清水わく泉を渾神の清水と呼んでいる。」坂上田村麻呂の伝説「竹館村誌」(抜粋)

水源はネットが張られ動物や落ち葉の侵入を防いでいる。

ランプの宿 青荷温泉。黒石市沖浦青荷澤滝ノ上。

14時ごろ駐車場に着いた。そこからは、急な下り坂を数分歩く。

1軒宿の秘湯として知られる。旅館に電力は供給されており、温水便座などは作動しているが、客室に電源コンセントはない。客室や風呂場などは灯油ランプだけで照らし、「ランプの宿」の一つとして知られる。櫛ヶ峯と雷山(いかづちやま)に挟まれた窪地にあり、携帯電話による通話やインターネット利用はできない(110番・119番を含めて圏外になる)。無線電波不感地域であり、テレビの視聴とラジオの聴取はできない。

日帰り利用は10時から15時まで。日帰り入浴料は540円を支払った。現在は、600円+食事代となっている。単純温泉で、無色透明、無味無臭である。

青荷温泉は1990年代後半には知っていた。八甲田山・岩木山登頂時は酸ヶ湯温泉に泊まったので、泊まりや入浴に来る理由がなかった。

ホームページで確認すると、大雨による土砂水害で被害を受け、いくつかの湯槽は閉鎖されていた。

本館の内湯と、別棟の「健六の湯」の2か所に入浴した。先客は一人いただけだった。床や浴槽はヒバ材で造られており、ひなびた温泉風情が味わえた。

本館の内湯。

健六の湯。総ヒバ造りの湯。

水害を受けた渓谷の離れ座敷方面。

30分ほど滞在して15時ごろ駐車場を出た。9月27日は安倍晋三の国葬の日だった。電波的にカーテレビは見られないのでNHKラジオを聞いていると菅義偉が焼き鳥屋のエピソードを話していた。途切れ途切れが続き、いつまでも客が帰らないのが不思議だった。客さばきの手際が悪かったという。

田舎館村の道の駅隣にある垂柳遺跡埋蔵文化財センター「弥生館」へ向かった。

青森県弘前市 津軽為信の本城 国史跡・堀越(ほりこし)城跡③ガイダンス施設❷旧石戸谷家住宅 大石武学流庭園


青森県弘前市 津軽為信の本城 国史跡・堀越(ほりこし)城跡③ガイダンス施設❷旧石戸谷家住宅 大石武学流庭園

2024年04月20日 11時26分08秒 | 青森県

旧石戸谷家住宅(国史跡・堀越城跡ガイダンス施設)。弘前市堀越(ほりこし)。

2022年9月27日(火)。

堀越城跡を見学したあと、国道7号線を渡って東側にあるガイダンス施設を見学した。

大浦城(弘前市大字五代)の城主であった「南部右京亮[うきょうのすけ]」為信(後の弘前藩初代藩主津軽為信)は、16世紀後半(約440年前)に、津軽を支配していた南部氏から独立を図る。津軽為信は天正18年(1590)、津軽領有を豊臣政権から認められ、津軽氏と称するようになった。

為信は、文禄3年(1594)に堀越城を改修、本拠を大浦城から移転し、あわせて家中諸士、神社仏閣、商家なども堀越へ移住させた。これは、政治及び経済面での領内支配の強化のためとされる。堀越城は以後、二代藩主信枚が慶長16年(1611)に高岡(弘前)に居城を移すまで、津軽氏の本拠として機能した。

昭和期の発掘調査は、国道7号線バイパス建設に伴い昭和50(1975)年から実施された。昭和期と平成期の2回の調査成果に基づき、現地での整備工事が本格化した。整備工事は、文禄3(1594)年に為信により行われた大改修後の堀越城の姿を基準として、主に土木工事の痕跡である曲輪の形や土塁、堀の復元を行った。

平成24年(2012)より、本格的に整備を行い、令和2年(2020)4月から全面公開を行っている。

旧石戸谷家住宅(国史跡・堀越城跡ガイダンス施設)。弘前市堀越(ほりこし)。

旧石戸谷家住宅は、木造一部2階建1階床面積388.39㎡という巨大な建物である。ウマヤに当たる国史跡・堀越城跡ガイダンス施設部分の見学を終え、座敷方面へ移動した。

家伝によれば、石戸谷家はもと種里に居住したが、近世初期に萢中(やちなか)に移り住み開拓に従事したという。以来明治にいたるまで萢中の大家(おおや)と呼ばれ、藩主も立ち寄る家柄であったと伝えられる。座敷に続く東面には、貴賓用の玄関跡と思われる痕跡がある。

この建物は、文政5年(1822)の建築との伝えもあるが確証を欠き、また、当家に安政6年(1859)の普請中諸払帳が残されていることや木部の風食などからみて、江戸末期の建築と推定される。

全体的にみて後世の改造も少なく、豪農の建築を知るうえで貴重な建物である。

現在は、史跡津軽氏城跡堀越城跡のガイダンス施設として、史跡隣接地に移築されている。

ウマヤの天井裏小屋組。

中座敷から奥座敷方向。

奥座敷の床の間。

奥座敷の飾り棚。

大石武学流庭園。

 

このあと、南の碇ヶ関関所跡へ向かった。途中、大円寺、大鰐温泉大湯に立ち寄った。

青森県弘前市 津軽為信の本城 国史跡・堀越(ほりこし)城跡③ガイダンス施設❶