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岩手県二戸市 二戸市埋蔵文化財センター②九戸城と九戸氏

2023年10月26日 11時15分56秒 | 岩手県

二戸市埋蔵文化財センター。岩手県二戸市福岡八幡下。

2023年6月6日(火)。

九戸城は、九戸政実(くのへまさざね)の4代前・光政(みつまさ)が明応年間(1492〜1501)に築城したとされる。

九戸城は、馬淵(まぶち)川の右岸に形成された河岸段丘に位置し、南北500メートル、東西750メートルの大きなL字形で、西辺を馬淵川、北辺を白鳥川、東辺を猫淵川に囲まれている。それぞれの川床まで落差は20メートルにも及び、傾斜角45度以上の断崖となっている。南辺は松の丸外側の空堀(幅25~40メートル)と二の丸外側の空堀(幅40メートル、深さ10~12メートル)が切られている。

河岸段丘は2段になっており、三の丸の標高は110メートルほど、本丸や二の丸は130メートル以上ある。浸食地形を最大限に利用した中世的特色の強い、総面積34ヘクタールの広大な平山城である。

本丸と二の丸の間には幅10~18メートル、深さ3~5メートルの空堀があり、石垣が残っている。二の丸には空堀に面して高さ、幅とも1.5~2メートルの土塁が築かれ、本丸とは2つの虎口(こぐち=出入口)でつながれている。

三の丸には旧奥州道中(現在の県道274号二戸一戸線)が横切り、市街地化が進んでいる。 城の南西には松の丸(現在の福岡保育園、呑香稲荷神社、安養寺周辺)があり、南部氏26代・信直が三戸城から移転して盛岡城に移り住む間、7年数カ月の間、南部藩の本城となっていた。

 

九戸氏の始まりは、南部氏の祖・源光行(南部光行)の六男、九戸行連(ゆきつら)と伝わる。行連が分家して、初め陸奥国九戸郡伊保内(岩手県九戸村)を領し、九戸氏を称したとされる。

しかし、出自には異説もあり、九戸村の九戸神社伝「小笠原系図」によると、結城親朝の配下の総大将小笠原政康の5代の孫小笠原右近将監政実が九戸氏の始祖と伝える。

また九戸氏の確実な史料の初出である「光源院殿 御代当参衆並足軽以下衆覚」永禄6年(1563年)では、南部晴政と並んで「九戸五郎(奥州二階堂)」の名がみえ、二階堂氏との付記がある。古文書に拠ると元弘4年(1334年)に二階堂行朝が九戸を含む久慈郡に代官を派遣したことがみえ、二階堂氏と九戸に関係があったとされる。

鎌倉時代に発祥した奥州南部氏は、南部氏宗家・嫡流とされる三戸南部氏26代南部信直が近世初頭に盛岡藩を確立し幕末には陸奥10カ郡・20万石を領す近世大名となった。

永禄6年(1563年)の室町幕府「諸役人附」の「関東衆」の中に「南部大膳亮」と「九戸五郎」が併記されていることから、南部氏と九戸氏は同格の別族であるという説や、併記は同族並立状態が依然として続いていた北奥羽の様相を反映したものとする説もあり、戦国時代後期の南部地方では三戸南部氏と九戸氏という二大勢力が対立していた。

中世の終焉 九戸政実の乱と豊臣秀吉による鎮圧

天正8年(1580)三戸南部当主の24代晴政(はるまさ)が死去。晴政は晩年まで嫡男がなく、一族の田子信直(たっこのぶなお)を後継者に指名していたが、男子(25代)晴継(はるつぐ)誕生後は信直と不仲となっていた。晴政の死後、南部家は跡目を巡り、信直支持派と晴継擁護の九戸一派とが対立。晴継も13才で暗殺され、混迷の中、信直が南部26代目を継ぐ。

天正18年(1590)、豊臣秀吉は小田原城攻略後、奥州仕置を開始した。小田原不参陣の諸氏を追放するが、仕置軍が去ると残党が蜂起し不穏な状況となる。

この機に乗じ政実は翌天正19年(1591)年3月に挙兵。信直は苦戦を強いられるが、9月には奥州再仕置軍6万騎が馬淵川流域に到着し籠城する約5,000人と対峙する。上方軍は九戸氏菩提寺の和尚を使者に、政実の武勲を称え、婦子女や下級武士の助命を条件に和議を勧告、政実はこれをのんで開門するが、これは謀略で、九戸城はあえなく落城し、政実らは宮城県三迫で処刑された。

秀吉の国内統一は完了し、信直は和賀(わが)・稗貫(ひえぬき)・志和(しわ)の三郡を加封され、九戸城は蒲生氏郷により豊臣流の城に改修される。

信直はこの城を福岡城と改め盛岡に本拠地を移すまでの一時的な居城とし、慶長4年(1599)この地で死去した。その後、元和年間(1615-1623)ごろに信直の子・利直(としなお)が盛岡に本城を移し、福岡(九戸)城は寛永13年(1636)に廃城となった。

埋文センター見学後、北東近くにある国史跡・九戸城跡へ向かった。

岩手県二戸市 二戸市埋蔵文化財センター①縄文土器 土偶 クマ型土製品


岩手県二戸市 二戸市埋蔵文化財センター①縄文土器 土偶 クマ型土製品

2023年10月25日 08時53分22秒 | 岩手県

二戸市埋蔵文化財センター。岩手県二戸市福岡八幡下。

2023年6月6日(火)。

岩手県八幡平市にある岩手山北麓の名水百選「金沢清水」を見学後、北東方向へ進み、岩手県二戸市の埋蔵文化財センターに15時過ぎに着いた。主要な展示は国史跡・九戸城跡縄文遺跡である。

雨滝(あまたき)遺跡。

縄文後期~晩期・奈良期の遺跡。二戸市金田一字舌崎(当時は二戸郡金田一村)に所在。馬淵川東岸の段丘上に位置する。遺跡の存在は昔から知られており,大正15年に奥羽資料調査部(東北帝国大学)の手で調査されている。本格的な調査は,昭和28年以降3度にわたり,明治大学考古学研究室の手によって行われた。時期は縄文後期末~晩期前半にかけてであるが,後期の資料は少ない。

遺物は土器のほかに,土偶・岩偶・人面付岩版・土版・亀ノ子形土製品などが,装飾品として勾玉・滑車形耳飾・ボタン状石製品・土玉などが,骨角器として針・根ばさみ・箆・鯨骨製斧などが出土している。

石器には,石鏃・石槍・石匙・石錐・石皿・独鈷石などがある。自然遺物としては,トチ・クルミ・クリ・ナラ類の果皮が1か所にまとまって廃棄された形で発見されている。

土器は縄文晩期,いわゆる亀ケ岡土器といわれるあらゆる種類を含んでおり,数量も豊富である。小型の精製土器には丹彩されているものが多い。遺構の有無は確認されていない。

調査者の1人,芹沢長介は大洞B・B‐C式が一緒に出土することに着目,同一時期の所産になるものとして,新たに雨滝式土器を提唱した。

縄文時代晩期は、亀ヶ岡式土器の盛行した時代である。山内清男は、出土土器の出土層による対比、整理分類、並びに鉢形土器の口頸部と胴部文様等の形式学的方法を背景とした編年的研究を岩手県大船渡市赤崎町の大洞貝塚を中心に行い、出土地点の名を冠して、古い形式から大洞B式→大洞BC式→大洞C1式→大洞C2式→大洞A式→大洞A’式なる6形式を設定した。

芹澤長介は、岩手県二戸市舌崎にある雨滝遺跡の成果を基に、大洞BとBC式は同一層内から発見されるという事実をとらえ、この両形式土器に雨滝式という名を与えて、第Ⅰ期(雨滝期)→第Ⅱ期(大洞C1期)→第Ⅲ期(大洞C2期)→第Ⅳ期(大洞A期)→第Ⅴ期(大洞A’期・砂沢期)の変遷を発表した。しかし、多くの研究者は山内清男による6形式分類を用いている。

秋田県仙北市 新玉川温泉 岩手県八幡平市 松川地熱発電所 金沢清水


秋田県仙北市 新玉川温泉 岩手県八幡平市 松川地熱発電所 金沢清水

2023年10月24日 13時43分04秒 | 秋田県

新玉川温泉。秋田県仙北市田沢湖玉川渋黒沢。

2023年6月6日(火)。

八幡平頂上のドラゴンアイ(鏡沼)の見学を終え、見返峠下駐車場から八幡平アスピーテラインを戻り、南に進んで新玉川温泉へ9時30分ごろに着くと、玄関に多くの人がバスを待っている光景に驚いた。玉川温泉や田沢湖方面へのバス待ちらしく、バスが来ると人はいなくなった。

新玉川温泉は有名な玉川温泉の姉妹館で源泉は同じという。日帰り入浴は新玉川温泉しか営業していないようなので、1990年代後半に宿泊したことのある玉川温泉には行かなかった。

日帰り入浴は10時からなのでロビーで待ち、800円支払って浴場へ向かった。最初の入浴客は5人ほどだった。浴槽で顔を湯で拭うと目がピリッとしたときに、10円硬貨が溶けるほどの強酸性だったことを思い出した。

玉川温泉は、秋田・岩手の県境にまたがる八幡平(火山)の秋田側に位置し、多様な泉質と豊富な湯量と効能から、本格的湯治場として人気が高く、長期で滞在する湯治客も多い。泉質は、塩酸を主成分とするpH1.05の日本一の強酸性泉である。

温泉地には地熱の高い地獄地帯が存在し、当地と台湾の北投温泉にだけ存在する北投石(ほくとうせき)から発する放射能を有するラジウム温泉の一種であり、多くの人がゴザを引いて岩盤浴を行う光景が見られる。

 

30分ほど滞在して、八幡平アスピーテラインを戻り、八幡平頂上のレストハウスまで来ると多くの観光客が歩いていた。ここから樹海ラインの岩手県側へ下り、松川地熱発電所へ向かった。

松川地熱発電所。岩手県八幡平市松尾寄木。

発電所入口前の駐車スペースに12時過ぎに着いた。松川地熱館を見学する予定だったが、火曜日定休のため閉館していた。本来の行程では水曜日に来ることになっていたので仕方ない。

地熱発電は、石油や原発以外による再生可能エネルギーの発電として太陽光発電・風力発電とともに注目されてきた。2007年にニュージーランド旅行をしたときにロトルアで大規模な地熱発電所地帯を通り過ぎて以来、同じ火山国として日本でも推進すべきと思ってきたが、原発推進の経産省あたりからのネガキャンに押されてしまっている。

日本は地熱資源量が世界第3位と豊富であるにもかかわらず今のところ日本の地熱発電量は世界で10位というレベルなので、日本は地熱発電のポテンシャルは非常に大きい。

松川地熱発電所は、岩手県八幡平市松川温泉にある地熱発電所で、岩手山の北麓・八幡平の南東にある。日本初、世界でも4番目の地熱発電所として1966年に運転を開始した。日本重化学工業が総工費20億円、4年をかけて建設した。同社の会社更生計画に伴い、現在は東北電力グループの東北自然エネルギーが運営している。認可出力は23,500kW。

2016年、日本機械学会により機械遺産に認定された。

松川地熱館はPR施設となっており、映像・パネルにより、地熱発電のしくみを紹介している。

高さ46mの巨大な冷却塔。

地熱発電は、地下1から3kmの地層中のき裂に貯えられている200度を越える高温高圧の地熱流体(ほとんどの場合熱水)を、掘削によって取り出し、その蒸気で発電を行う。地熱発電所では、一般の火力発電所のように蒸気を作るための燃料(石炭、石油など)がいらず、また発電する際に放出される炭酸ガスも火力発電所の1/10から1/20なので、クリーンな国産エネルギーといえる。地下から噴出する流体の一部は、温泉、温水プール、暖房、温室栽培用グリーンハウスなどに利用されている。

松川での地熱開発は、1952年に地元の松尾村が温泉開発のために掘削した井戸から蒸気が噴出したことがきっかけとなって始まった。この蒸気に着目した東化工(株)(のちの日本重化学工業)は、昭和31年から地熱蒸気の調査に着手し、約10年間の調査・建設期間を経て、1966年(昭和41年)10月に9,500kWで日本最初の商業用地熱発電所として運転を開始した。その後、追加井を掘削し、更にタービン更新により、1993年には23,500kWへ発電出力を増加させ、現在に至っている。なお、2015年に、東北水力地熱(株)を含む東北電力グループ企業4社が合併し、東北自然エネルギー(株)となった。

名水百選「金沢清水」。岩手県内水面水産技術センター。岩手県八幡平市金沢松尾寄木。

玄関横の蛇口から水を汲むことができる。

金沢清水は、岩手山麓に湧き出る7ヵ所の総称で座頭清水と呼ばれていた。湧水は、隣接の岩手県内水面水産技術センターで、ニジマス、ヤマメ、アユ等の養殖及び研究にも利用されている。水量は、日量3.4万トン。

「座頭清水」と称されるまでには幾つもの言い伝えが残っており、岩手山の滝に住む7つの頭を持つ蛇龍が里を見たくて地中にもぐり、頭を出したところが7つの湧口だという伝説や、悪さをする鬼が里人の目潰しに遭い、神のお告げにより目を洗い清めた泉だという伝説等が残る。

養殖に利用している事等から管理は岩手県内水面水産技術センターで定期的に巡回及び湧口等の清掃を行っている。また、湧口周辺をフェンス及びロープにより囲いをし、立入禁止にしており、保護並びに事故防止に努めている。

センターの職員が、これから源泉の湧水池に行くというので、そのあとをゆっくりついて丘を数分ほど登っていくと窪地に湧水池がひっそりとたたずんでいた。

 

このあと、北東方向へ進み、岩手県二戸市の埋蔵文化財センターおよび国史跡・九戸城跡へ向かった。

秋田県仙北市 八幡平頂上のドラゴンアイ(鏡沼)


秋田県仙北市 八幡平頂上のドラゴンアイ(鏡沼)

2023年10月23日 11時09分53秒 | 秋田県

八幡平頂上のドラゴンアイ(鏡沼)。秋田県仙北市田沢湖玉川。

2023年6月6日(火)。

八幡平ドラゴンアイ」は、秋田県と岩手県にまたがる八幡平(はちまんたい)の頂上付近にある鏡沼で見ることができる幻の絶景である。冬から春にかけて、大量の雪どけ水が沼に流れ込み、春になると沼の中央部の雪が浮力で持ち上げられ、暖かくなると、中央部の中心の雪からとけはじめ、龍の眼が形成される。雪と氷が織りなす神秘的な瞳は、沼、空、天候といった様々な自然条件が一致したときにのみ「開眼」する。

秋田県鹿角市の道の駅「かづの」で起床。本日は八幡平頂上のドラゴンアイ見学から始まる。駐車場は八幡平頂上レストハウス横の有料駐車場と100mほど下の見返峠下にある無料駐車場の2か所がある。道の駅「かづの」から1時間以内だからゆっくり出発してもいいが、無料駐車場は満車になるのが早そうなので6時30分ごろに出た。

ドラゴンアイは事前予習で読んだ旅行雑誌から知った。GW前ぐらいに盛岡が海外旅行者の行先で高評価という情報に合わせてドラゴンアイも紹介されることが増えてくる数週間前だった。

ドラゴンアイの適期は気候条件により毎年違うが、5月下旬~6月中旬のうち1週間程度らしいので、ピンポイントの予測は1か月前では困難だ。状況を教えてくれるサイトはあるので、時々チェックをしていたが、数日前になってもドラゴンアイが見えたという情報はなかった。しかし、旅行の日程やルートを決めていたので行くことにした。

現地へ行くと、ローカルの人が、「近年は余分な亀裂が上部に入って、丸いドラゴンアイでなくなっている。」と話していたので、岩手県を半周して滝沢市に来た時に再度挑戦することもできたが諦めた。

八幡平アスピーテラインから八幡平頂上に近づくと、道路の周囲には根雪が残り、南の方角に秋田駒ケ岳や乳頭山方面の山並みが見える。

7時20分頃、見返峠下にある無料駐車場に到着。50台近くの駐車スペースに10台ほどが駐車していた。高台には山頂レストハウス横駐車場のトイレが見える。ドアを開けて準備中の男性に尋ねると、トレッキングが目的とのこと。

念のために、ノースフェイスのマウンテンジャケット上下とトレッキングシューズを装着して出発した。歩行に適した靴であれば問題はなかった。

八幡平頂上に来たのは3度目だ。1995年初秋ごろが一度目で、青森県八戸市から南下して盛岡で石川啄木・宮沢賢治関連を周遊して、せっかくだからとバスで八幡平頂上までバス停周辺を見て帰った。2度目はその数年後の百名山踏破初期で、紅葉の時期に本当の八幡平頂上までトレッキングをした。このときは、老母と一緒の旅行だったので、玉川温泉と後生掛温泉に宿泊した。

登山路概念図。

レストハウス横登山口から八幡平頂上へ向かうルートは二つあり、頂上まで20分の左の鏡沼経由ルートへ向かうには、分岐点の道標から左へ登る。分岐は明確に分かる。

不思議な凹地。

根雪地帯。ルート途中に1か所だけ10m近く根雪地帯がある。慎重に歩けば問題はない。

鏡沼・ドラゴンアイ。

20人ほどの見物客がいた。下から上まで見学場所は数か所ある。

岩手山。レストハウス駐車場から。

活火山なので1年間入山禁止のため1999年は登頂できなかった。

レストハウス駐車場。

鏡沼から10分ほどで下山すると、下の見返峠駐車場はほぼ満車になっていた。

駐車場あたりが県境になっていて、見返峠駐車場は岩手県である。

このあと、八幡平アスピーテラインを戻ることになるので先に行こうかと迷っていた新玉川温泉へ8時40分頃に向かった。

秋田県小坂町 康楽館 旧小坂鉱山事務所 鹿角市 尾去沢鉱山 


秋田県小坂町 康楽館 旧小坂鉱山事務所 鹿角市 尾去沢鉱山 

2023年10月22日 11時39分31秒 | 秋田県

重文・康楽館。秋田県小坂町小坂鉱山松ノ下。

2023年6月5日(月)。

大館市の北鹿ハリストス正教会聖堂を見学後、小坂(こさか)町の康楽館へ向かった。このあたりは、2022年秋に「世界遺産・北海道・北東北の縄文遺跡」見学の最終盤として、大湯環状列石と伊勢堂岱遺跡を見学したときに周辺を通過した地域である。

康楽館へは1990年代前半に芝居小屋を活用する町造り運動が全国各地で盛り上がったときに、関係者として招待され、康楽館の桟敷で芝居を観たことがある。2階ロビー周辺の豪華な洋風空間は記憶に残っており、小坂鉱山の繁栄ぶりを象徴していた。

事前の予習の結果、現在は隣接して建っているが、90年代前半には移築されていなかった小坂鉱山事務所を今回は見学する予定としていた。共通の駐車場に着いて、まず康楽館に向かった。入場料を見ると、チェックしていた通り高い。「明治百年通り」を歩いていると、遠足の生徒たちがバスから吐き出されてきた。

康楽館は、木造2階建、正面入母屋造、背面切妻造、妻入、正面両突出部寄棟造切妻造妻入りで、屋根は銅板葺(当初は杉板葺)とする。平面規模は正面約28.2m、奥行約38.2m。

明治43年(1910年)、小坂鉱山を経営していた合名会社藤田組によって厚生施設として建てられた。設計者は小坂鉱山工作課営繕掛長の山本辰之助とされる。

下見板張りの白塗り、上げ下げ式窓と鋸歯状の軒飾りが並び洋館風の外観を持つ。内部は,玄関ホール,客席部,舞台,楽屋からなり,正面の装飾的な棟飾と妻飾,破風板を縁取る装飾,客席部の洋風の格縁天井など,要所に洋風意匠が見られる一方、舞台中央の廻り舞台、桟敷、花道、切穴など典型的な和風芝居小屋の内装で、和洋折衷の造りが特徴である。

康楽館は,明治後期から大正初期にかけて全盛期を迎えた小坂鉱山と鉱山町の繁栄を物語り、近代の芝居小屋では,伝統的な形式を踏襲しつつ,優れた洋風意匠を取り入れた現存最古のものとして歴史的価値が高い。移築や復元を行わず、現在も利用されている和洋折衷の木造芝居小屋として最古である。

1910年開業時の杮落としは大阪歌舞伎の尾上松鶴一座の公演であった。1970年、建物の老朽化やカラーテレビが普及したことにより、舞台演劇が衰退し、いったん一般興行が休止となった。1986年7月再開館。初の常設公演は大江戸つるぎ太鼓。以後、現在まで舞台として活用されている。

重文・小坂鉱山事務所。小坂町小坂鉱山字古館。

1905(明治38)年に合名会社藤田組小坂鉱山事務所の本部事務所として建設され、ルネサンス様式の華麗な外観を残すこの建物の基調となるものは、屋根の3つのドーマーウィンドー(飾り窓)と、外観に連続する三角形のペディメント(窓飾り)付き窓である。

1997年まで事務所として使われていたが小坂製錬の工場増築に伴い解体され、建物は小坂町に無償譲渡された。2001年、小坂町の明治百年通り構想により、旧所在地から約500m南方の旧小坂鉱山病院跡地に移築復元され、新たに観光施設として生まれ変わった。

旧小坂鉱山事務所の建物は,木造、建築面積753.57㎡、正面三階建、両側面二階建、背面中央部一階建、銅板葺及び厚板葺、正面中央ベランダ付である。設計は,同事務所工作課の北湯口勇太郎と推定されている。

口字型平面の木造3階建で,段差のある敷地に対応するとともに採光を考慮した階層構成と平面形状を持つ。

ルネッサンス風の漆喰壁面に木製のヴェランダポーチをはめ込んだ類例の少ない正面外観を構成している。

旧小坂鉱山事務所は,建築計画や建築意匠上に特徴があり,明治後期における建築技術者の洋風建築設計技術の習得度を測る上で重要である。また,我が国の近代鉱山における本格的鉱山事務所建築の数少ない遺構としても,高い歴史的価値がある。

「らせん階段」。

玄関ホールを入ると見事な「らせん階段」が1階から3階まで通じている。柱には一本の秋田杉が使用されおり、手摺りは緩やかで美しいで曲線を描いている。

2階正面中央のイスラム風といわれるバルコニー付きポーチ。

イスラム風といわれるレース編みのような繊細な透かし彫りの中に社名がデザインに隠されております。

幾何学模様や植物をモチーフにしたアラベスク文様がちりばめられている。

「所長室」(3階)。

鉱山の幹部のなかでも限られた人しか入室できなかった。

 

小坂鉱山は、1861年(文久元年)に金、銀の鉱山として開発が始まった。1869年(明治2年)、盛岡(南部)藩直営から明治政府の官営施設になる。後に日本鉱業界の父と呼ばれた大島高任や「お雇い外国人」として日本鉱業界を牽引したクルト・アドルフ・ネットーらに支えられ、明治初期の「富国強兵」「殖産興業」政策に貢献した。

1884(明治17)年には藤田組(当時)に払い下げられた。1901年(明治34年)には銀の生産高が日本一の鉱山となる。明治30年代、土鉱とよばれた鉱石が底をつき沈滞期を迎えたが、「黒鉱自溶製錬」の成功により、黒鉱から採れる銅や亜鉛、鉛の生産が主体となった。

明治38年(1905)に日本一の大鉱山のシンボルとして、巨費を投じて豪壮華麗な「旧小坂鉱山事務所」が建設された。労働者を集めるために、山の中にアパート、劇場、病院、鉄道等の近代的なインフラ整備も進められた。1908年(明治41)から露天掘りが始まり、明治末期から大正初期にかけて日本最大の銅山となった。

第二次世界大戦直後には資源の枯渇等を理由に採掘が中断されたが、1959年に黒鉱(くろもの)の内ノ岱(うちのたい)鉱床が発見されると、活気を取り戻し1960年代に入り同和鉱業(株)によって採掘が再開された。1990年(平成2年)閉山された後は小坂製錬として稼動している。

大島高任(たかとう) (1826〜1901年)。

盛岡藩の侍医・大島周意の長男として盛岡で生まれた。1842年17歳の時に蘭学(医学)を習得するために上京、江戸で蘭学者箕作阮甫、坪井信道らに学ぶ。長崎に留学して、西洋兵学・砲術、採鉱、精練に興味を持ち、反射炉築造のバイブルであったヒューゲニン著『ロイク王立鉄製大砲鋳造所における鋳造法』を翻訳した。その後、水戸藩に招かれ、那珂湊に反射炉の建設に成功した。盛岡藩へ戻り、1857年(安政4年)、甲子村大橋(現岩手県釜石市甲子町大橋)に洋式高炉を建設し、1858年12月1日に、我が国で初めて鉄鉱石精練による出銑操業に成功した。その後、現岩手県釜石市橋野町に世界遺産となった洋式高炉を建設した。

慶応2年小坂銀山が藩営になると製錬所の建設、戊辰戦争後の官営時には鉱山正権として熔鉱炉や英国式分銀炉を設けて洋式製錬を始め、南部家経営を経て、2次官営時にはオーガスチン法を実施して銀の生産を上げ、藤田組経営時には、小坂鉱山局長として指導にあたった。

1890年(明治33年)には日本鉱業会の初代会長に就任し、日本鉱業界の父とよばれた。

クルト・アドルフ・ネットー(1847~1909年)。

ドイツ人。ドイツ東部のフライベルク鉱山学校を優秀な成績で卒業した後、26歳で鉱山兼製鉱師として日本政府に招かれた「お雇い外国人」で、明治6(1873)年12月、小坂村に赴任した。

ネットーの仕事ぶりは勤勉そのもので、彼の力によって小坂鉱山は近代化の道を歩み始め、その業績は高く評価されている。

明治10年(1877)に小坂を去ったネットーは、東京大学理学部採鉱冶金学教師となり、多くの技術者を育てた。1885年(明治18年)ドイツに帰国した。

久原房之助(くはらふさのすけ、1869〜1965年)

山口県萩市の生まれ、慶應義塾本科卒。明治24年藤田組に入社して小坂鉱山に赴任、明治30年29歳で事務所長心得となった。

当時の小坂は土鉱が減少し、閉山の運命にあったものの、銀山から銅山として復興させるため、多くの人材を集めて黒鉱製錬に打ち込み、33年遂に黒鉱の自熔製錬に成功、今日の基礎を築いた。

38年藤田組を退社して日立鉱山を経営、久原鉱業(後の日本鉱業、日産グループ)、日本汽船等を創設、また、政界に入って政友会総裁、逓信大臣を務めた。

史跡・尾去沢鉱山。秋田県鹿角市尾去沢獅子沢。

史跡・尾去沢鉱山を見学する前に、道の駅「かづの」に立ち寄り、「きりたんぽ」を食べた。無料施設の鉱山歴史館のみ見学した。

尾去沢(おさりざわ)鉱山では銅や金が採掘された。近代鉱山施設の遺構は土木学会選奨土木遺産や、近代化産業遺産に認定されている。

708年(和銅元年)に銅山が発見され、産金が東大寺の大仏や、中尊寺で用いられたとの伝説が残る。1598年(慶長3年)に南部藩の北十左衛門が白根金山を発見し、金山の一つとして開発が行われた。金が枯渇してきた1695年(元禄8年)には銅鉱が発見され、別子銅山、阿仁銅山とならび、日本の主力銅山の一つとなる。

1889年(明治22年)に岩崎家、1893年(明治26年)に三菱合資会社の経営することとなり、近代化が図られた。明治29年(1896年)には水力発電所の建設により住宅を含む全山に電気が通った。日本の近代化、戦後復興の礎となった尾去沢鉱山だが、不採算と銅鉱石の枯渇から、1966年(昭和41年)に精錬が中止され、1978年(昭和53年)に閉山した。

跡地はテーマパーク・史跡 尾去沢鉱山として開業している。坑道内では約900万年前の地殻が露出して、直接触れることができ、かつて国内最大級を誇っていた銅鉱脈郡採掘跡を間近で体感できる。

 

秋田県北東部は、北鹿(ほくろく)地域とよばれ、日本最大の鉱山地帯として知られている。この地域には尾去沢鉱山をはじめとして、小坂、花岡、松峰、花輪、古遠部など数十の著名な鉱山が分布している。これらの鉱山からは金、銀、銅、鉛、亜鉛等が産出されたが、それら鉱石の賦存状態は二つのタイプに分けられる。

一つはマグマが地下の亀裂に入り固まってできた、細い脈状の鉱脈型鉱床と呼ばれるもので、尾去沢鉱山がその典型である。

もう一つは熱水の活動により形成されたもので、熱水が冷やされる際に広範囲に沈殿した硫化物が塊状(イモ状)に形成された、塊状鉱床とばよれるものである。塊状鉱床は外見の黒い鉱石、いわゆる黒鉱(英語でもそのまま「kuroko」として使われている)が濃縮していることから、黒鉱鉱床ともよばれている。

黒い鉱石の正体は、閃亜鉛鉱(ZnS)、方鉛鉱(PbS)、及び黄銅鉱(CuFeS2)などであり、それぞれ亜鉛、鉛、銅などの鉱石として広く採掘された。

尾去沢銅山事件

江戸末期、南部藩は御用商人鍵屋村井茂兵衛から多額の借財をなした。藩所有の尾去沢鉱山は村井から借りた金で運営されていたが、書類上は村井が藩から鉱山を借りて経営している形になっていた。1869年(明治元年)、採掘権は南部藩から村井に移された。

長州藩出身の井上馨は、明治新政府で大蔵大輔の職にあった1871年(明治4年)、この証文を元に返済を求め、その不能をもって大蔵省は尾去沢鉱山を差し押さえ、村井は破産に至った。井上はさらに尾去沢鉱山を競売に付し、同郷人である岡田平蔵にこれを無利息で払い下げた上で、「従四位井上馨所有」という高札を掲げさせ私物化を図った。

村井は司法省に一件を訴え出、司法卿であった佐賀藩出身の江藤新平がこれを追及し、井上の逮捕を求めるが長州閥の抵抗でかなわず、井上の大蔵大輔辞職のみに終わったため真相は解明されなかった。これを尾去沢銅山事件(尾去沢疑獄事件、尾去沢汚職事件)という。

政界を離れた井上は、鉱山を手に入れた岡田とともに明治6年秋に「東京鉱山会社」を設立、翌年1月には鉱山経営に米の売買・軍需品輸入も加えた貿易会社「岡田組」を益田孝らと設立、岡田の急死(銀座煉瓦街で死体となって発見)により鉱山事業を切り離し、同年3月に益田らと先収会社を設立、これが三井物産へと発展した。

 

見学後、道の駅「かづの」で車中泊。翌朝は八幡平頂上のドラゴンアイ見学から始まった。

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