ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

宮古島市議会が提訴の議案撤回を承認した

2019年09月18日 20時24分00秒 | 国際・政治

 今月4日の10時53分10秒付で「宮古島市、住民訴訟の原告を提訴する方針?」という記事をこのブログに載せました。基になった朝日新聞社の記事と沖縄タイムス社の記事は、9月7日に筑波大学法科大学院の講義「地方自治」で紹介しましたが、学生の皆さんも驚かれていました。さすがにこれはないだろう、ということでしょう。

 さて、今回は続報です。昨日(17日)に、市長が議案の撤回を申し出たことを受けて、本日(18日)、市議会は全会一致で承認しました。沖縄タイムス社が、今日の11時24分付で「市民提訴の議案撤回を承認 宮古島市長、再提案は『分からない』」として報じています(https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/472359)。

 この問題については、行政法などの専門家からも批判がよせられていました。当然でしょう。議案撤回の承認は妥当なところです。

 ただ、再提案の可能性もないとはいえません。議案について法的な不備が指摘されていたからです。この不備が是正されたと議案提出者なり市議会なりが考えるならば、可決・成立の可能性もあるかもしれません。

 もっとも、不備が是正されたとしても、それはせいぜい形式的な不備の是正でしかありません。中身の不備は是正されないでしょう。いや、議案を再提出しようとする限り、是正は不可能でしょう。

 なお、本日付の沖縄タイムス朝刊27面「問う 宮古島市『名誉毀損』訴訟提案 行政圧力への批判結実 宮古島市民ら 提訴撤回は『当然』」に「提訴の権利乱用」という小見出しで私のコメントが掲載されています。お読みいただければ幸いです(但し、インターネットでは有料会員限定になっています)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2005年9月8日、福岡市営地下鉄七隈線に乗る。

2019年09月18日 00時00分00秒 | 旅行記

 〔以下は、「待合室」の第147回「福岡市営地下鉄七隈線に乗って(その1)」(2005年10月12日~20日掲載)、および第148回「福岡市営地下鉄七隈線に乗って(その2)」(2005年10月20日~27日掲載)をまとめ、修正したものです。写真撮影日は2005年9月8日です。なお、写真をクリックすると拡大します。〕

 

 前回に続き、今回も2005年9月の福岡を取り上げます。デジタルカメラを持って行ったので、数こそ多くないものの、写真を撮ることができました。

 台風14号のため、福岡入りが一日遅れて9月7日になりました。福岡空港に到着した後、すぐに地下鉄空港線で天神へ出て、西鉄福岡駅から徒歩数分、渡辺通にある西鉄イン天神(集中講義を担当していた時には、ここを定宿にしていました)にチェックインし、すぐに外に出ました。2005年2月に開業した地下鉄七隈線に乗ろうと思ったから、そして、六本松で夕食をとろうと思ったからです。

 地下鉄七隈線の起点、天神南駅です。福岡の都心、天神一丁目の南側、西中洲や春吉にも近い場所にあります。博多大丸のすぐそばですので、わかりやすいところですが、空港線の天神駅とは乗り換え扱いになっているにもかかわらず、500メートル近くも離れています。そのためなのか、乗り継ぎの場合は2時間以内というかなりの余裕がありました。実際、福岡空港駅でよかネットカードを手に入れた私も、ホテルに寄ったにもかかわらず、2時間以内だったので、福岡空港からは途中下車扱いにならず、終点の橋本まで通しで乗ることができました。

 時間は夜、19時を過ぎていますが、それにしても御覧の通り、あまりお客がいなかったことは非常に気になりました。天神駅や西鉄福岡駅、そして天神地下街の人通りが嘘であるかのような印象すら受けます。

 ともあれ、ここから電車に乗り、終点の橋本まで行ってみることとしましょう。

 暗い写真で申し訳ございません。七隈線に乗って終点の橋本まで来ました。ここは福岡市西区です。天神南から25分くらいでしょうか。一度、車で通ったことがあったような、なかったような、という所でした。

 それにしても、地下鉄の駅前でここまで暗い場所はあるのだろうか。橋本駅を出た瞬間に思いました。東京の地下鉄で、ここまで立派な構えではないがもう少し明るいという駅はいくらでもあります。とにかく、駅前にほとんど店などがなく、あるのは広い道路と広い歩道、そして数が多いと言えない民家だけでした。天神南駅周辺と比較にならないほど閑散としています。

 しかも、不思議なことに、駅前からは郊外型店舗が集まっている箇所を見ることができます。駅前ではなく、少し離れたところのほうが明るいのです。当時、福岡市営地下鉄のすべての駅を使ったことがある訳ではないのでよくわからなかったのですが、空港線と箱崎線にこんな駅はありません。

 やはり駅前から、おそらく野方の方向に向かって撮影したものです。駅から少し離れたところは、御覧のように明るくなっています。しかし、駅前はかなり暗いのです。七隈線の橋本駅は、中途半端なところにあります。もう少し延ばせば、野方、そして姪浜か下山門に行けるのですが。

駅前の脇道です。駐車場と畑があります。普段であれば必ず周囲を歩いてみるものですが、こんなところを歩いたら道に迷いそうなので、やめました。

 橋本駅前のロータリーですが、ほとんど車はありません。単に時間の関係か、普段から少ないのかはわかりません。この時間、私だけが、デジタルカメラを持って駅前を歩き回っていました。だんだん、変な気分になってきました。つい4時間ほど前まで川崎市におりましたし、20年前や30年前ならともあれ、こんなところは川崎市でも非常に少なくなっているからです。福岡市は、かなり前から路線バス社会あるいは自家用車社会になっています。改めて、そのことがわかったという次第です。

 駅の裏に畑がありました。何を栽培しているのかはわかりません。東京では、おそらく、地下鉄の駅の裏に畑があるようなところはありません。もっとも、田園都市線の桜新町駅や用賀駅を降り、10分から20分くらい歩けば、野菜を栽培する農家の畑などを見ることはできますが。 

 初めて行ったところでは方向感覚が麻痺するのか失われるのか、よくわかりませんが、やはり駅前からです。コンビニや焼肉屋の看板が近くに見えますが、実際はもう少し離れたところに見えます。 そろそろ空腹感を覚えてきましたし、ここで1時間ほどの時間をつぶせるような性格でもないので、七隈線に乗って折り返し、六本松へ出ようと思います。

 橋本駅の改札口から地上への階段に至るまでのスペースです。まだ開業していない駅のように見えますが、そうではありません。電車が到着すると、多少のお客が通るのです。それにしても、ここまで人がいないと……

 ホームに行き、電車に乗ります。福岡市営地下鉄のうち、七隈線 は当初からホームドアが設置されています。東京で言えば都営三田線や東急目黒線のような感じです。空港線にも、昨年辺りからホームドアが設置されています。

 後ろから、私が乗った電車を撮影してみました。システムとしては、大体ですが都営大江戸線と同様で、リニア地下鉄の一種です。厳密な寸法がどうなっているのかわかりませんが、大江戸線と同じくらいのスペースでしょうか。運転台が右にある点、ワンマン運転である点も同じです。ただ、インテリアのせいか、七隈線のほうが少し広く感じます。

 運転台を撮影してみました。車掌がおりませんので、運転台を使わない場合にはカヴァーがかけられています。乗客でも運転台に座ることが可能です。運転台の真上に案内表示機がある点は独特で、バスと似ていますが、これは非常に便利です。もう少し大きければ読みやすいし、意味が増すとは思うのですが。

 私は、それほど色々な地下鉄に乗っている訳ではありませんが、福岡市営地下鉄の路線案内図・表示などは非常にわかりやすく、評価に値すると思います(敢えて記すと、逆にわかりにくいと感じたのが大阪市営地下鉄御堂筋線と北大阪急行でした)。福岡市営地下鉄の場合は路線図が割に単純なためかもしれませんが、初めて利用される場合でも、電車の行き先、次の駅、降り口などがしっかりとしめされ、わかりやすいと感じられるはずです。以前、営団地下鉄の銀座線や丸ノ内線もよい表示方法を採用していましたが、福岡の場合はそれ以上によいと思います。

 念のためにお断りしておきますが、回送電車に乗った訳ではありません。橋本駅を発車した電車は4両編成ですが、先頭の車両と一番後ろの車両にはお客が乗っているのに、中2両には誰も乗っていなかったのでした。橋本の次の次郎丸駅でもお客がおらず、たしか、賀茂駅か野芥(のけ)駅でようやくお客が乗り込んできたはずです。20時頃、これから天神方面に行く人は少ないかもしれませんが、それにしてもこの空き方には感心しました。朝の東急田園都市線下りを思い出させます。

 しばらく走り、六本松に到着しました。以前は九州大学の教養部があったというところですが(今も、名称は違いますが同様であるようです)、2005年9月当時には比較社会文化学府・研究院と言語文化研究院がありました。ただ、この時に福岡市西区・前原市・志摩町に伊都キャンパスが建設され、一部がそちらに移転をしていました。将来的には、箱崎、六本松などに分かれていた部局を統合するとのことですから、何年か後には六本松から九州大学の校舎がなくなるのでしょう。既に、福岡市は六本松と箱崎について検討を始めているようです。

 どうして六本松で降りたかというと、美味しい料理(庶民料理ですが)を食べられる店が駅の近くにあるからです。昨年の集中講義の際も、西新からバスで六本松へ出て、この店で夕食をとり、ビールなどを飲みました。ここは地元で結構有名で、いつ行ってもにぎやかです。店の名前と詳しい場所については秘密としておきましょう。

 (もう一軒、空港線の藤崎駅近くにも私が気に入っている食堂がありますが、ここも秘密です。)

 福岡は城下町だったということもあったためか、意外に道がわかりにくく、私は、何度も行っている割にはあまり覚えていません。一度、まだ大分市に住んでいる頃のことですが、天神から歩いて(バスではありません)六本松へ行き、隣の草香江と合わせて古本屋を探しまわったのですが、そこからわからなくなり、鳥飼を経由して西新まで歩き通したことがありました。でも、六本松駅周辺はわかりやすいほうでしょう。

 福岡市営地下鉄の各駅には、六本松と薬院でおわかりのように、シンボルマークがついています。 六本松で夕食を楽しみ、ビールと焼酎を飲んで、薬院駅で降りました。西鉄天神大牟田線との乗換駅ですが、私が滞在したホテルが西鉄天神大牟田線の沿いにあり、薬院からも西鉄福岡(天神)からも渡辺通からも近いという場所にあり、薬院駅前で買い物をしてから帰ろうと思い、降りたのでした。

 ところが、この薬院から大変な目に合ってしまいました。これまで体験したことがないだけに、ショックを受けました。

 薬院駅のすぐそばにあるスーパーマーケットで買い物をして、さてホテルに戻ろうと思い、西鉄の高架に沿って歩き出しました。ホテルは、薬院から西鉄福岡(天神)へ向かう途中にあります。昨年も同じホテルに泊まっていましたし、やはり薬院から歩いて帰っています。西鉄を見ながら歩いていくのですが、もうかなり歩いているのに、いつまでたってもホテルが見えません。天神にも到着しません。そばの町名表示を見ると「那の川」と書かれています。さすがにおかしいと思いました。付近の駐車場には「平尾」と書かれています。そして、西鉄の駅が見えて完全にわかりました。西鉄平尾駅へ向かっていたのです。たしかに薬院の次の駅ですが、西鉄福岡(天神)とは反対の方向だったのです。こんな間違いをしたことは、東京周辺は勿論、大阪などでもありません。何度も福岡に行っているのに、と我ながら情けなくなり、普通電車しか停まらない西鉄平尾駅で西鉄福岡(天神)行きの電車を待ちました。

 西鉄福岡(天神)駅からは、ホテルにまっすぐ帰りました。「多少知っている街でも、方角には気をつけよう」というのが、今回得た教訓です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2005年9月11日、西鉄大橋駅

2019年09月17日 07時00分00秒 | 旅行記

 〔以下は、「待合室」の第146回「西鉄大橋駅」(2005年9月21日~10月21日掲載)に大幅な修正を加えたものです。写真撮影日は2005年9月11日です。〕

 このブログや川崎高津公法研究室で何度も記してきたように、私は、2004年から2012年まで、夏期休暇中に西南学院大学法学部の集中講義「税法」を担当していました。また、2007年度、2009年度および2011年度には福岡大学法学部の集中講義「財政法」も担当しました。そのため、福岡市には浅からぬ縁があった訳です。9年度連続で担当させていただきましたから、当然、あれやこれやのことがありましたが、全体的に見れば楽しかったと思っています。そうでなければ、集中講義を続けられる訳がありません。今も、一日の講義が終わった後、当時の学生の皆さんからあれやこれやの質問などを受け、さらに(何を話したのか詳しいことは覚えていませんが)いつの間にか雑談に変わり、1時間以上、最も長かった日には20時頃まであれこれと話をしたことは、私自身にとっても楽しい思い出として残っています。福岡での集中講義を担当しなくなくなってから、こういう時間を持つことは非常に少なくなってしまいました。この点が、或る意味では私にとっても反省点かもしれません。最近は、このような機会がないからです。

 交響曲や協奏曲にたとえるならば序奏が長くなりました。主題に移ります。

 2005年の西南学院大学法学部の集中講義「税法」は、当初、9月7日(水曜日)から始まることとなっていましたが、高千穂鉄道に止めを刺した台風14号の接近のため、初日が9月8日にずれ込みました。また、集中講義のために自宅から持参したパソコン(SONYのVAIO VGN-S52Bでした)が急にトラブルを起こし、大変でしたが、講義の際に使用したスライドを掲載するためにホテルで更新作業をやりましたし、学生たちと話をしたりすることもでき、私にとっては楽しい日々でした。福岡という場所がよかったのかもしれません。そして、大分大学時代のゼミ生たちと会うこともできました(2004年度は集中講義期間中に台風が接近したため、中止したのでした)。

 私は、福岡というと博多や中州ではなく、天神周辺を中心に考え、動いていました。大分大学時代からの習性ですが、2005年度もそうで、期間中、七隈線で橋本へ行き(この駅の周辺には驚かされました)、六本松へ引き返して歩いたり、藤崎へ行ったり、西新の商店街を歩いたり、天神、大名などの色々な店をまわったりしました。

 そして、9月11日(日曜日)の午後、西鉄福岡(天神)駅の真上にある天神バスセンターで大分大学時代のゼミ生たちと別れた後、私は西鉄天神大牟田線で大橋へ行きました。

 西鉄福岡駅から、上の写真に出ている普通電車で大橋に来ました。

 現在、大橋駅は特急停車駅ですが、そのようになったのは2017年8月下旬のことです。2005年9月11日には特急通過駅でしたから、この電車は、大橋で特急の通過待ちをしていました。

 私は大橋で降りました。この電車は、たった1編成(4両)しかないという700系です。詳しいことは「懐かしの西鉄700形」をお読みいただきたいのですが、昭和47(1972)年製、かつての特急用車両2000系の前年に登場しています。姿などはほとんど600形と同じです。2006年に廃車となったため、非常に貴重な機会を得られたこととなりました。この1回しか撮影できず、乗車もできなかったのです。

 私は、集中講義期間中、必ず大橋駅周辺を訪れていました。気に入ったお好み焼き屋があり(福岡市には、有名なお好み焼き屋がいくつかあります)、そこで夕食をとっていたのです。2004年は西口だけを回りましたので、今回は東口に出ました。この駅を見ていると、東京のどこかの駅に似ているように思えるのですが、いかがでしょうか。

 2017年8月までは特急以外の全列車が停まり、現在は全列車が停車する大橋駅は、南区の中心で、バスターミナルにもなっています。降りてまもなく、博多南駅行のバスが来ましたが、時間の関係などもあって乗るのはやめました。天神、美野島など、色々な方向に出ています。

 大橋は大学など学校の多いところでもあり、九州地区のテレビ番組、たとえば九州朝日放送の「ドォーモ」にもよく出てきました。この交差点を奥のほうに行けば筑紫野市や春日市のほうに行けますが、その標識の奥に、緑色の少々目立たない標識があります。大橋にある大学で、おそらく最も有名な九州芸術工科大学です。地元では芸工大とも言われていました。もっとも、2003年10月1日、大分大学・大分医科大学の統合と同じ日に、九州芸術工科大学は九州大学と統合しており、現在は九州大学大学院芸術工科研究院・大学院芸術工学府・芸術工科部になっています。

 大橋は、それほど大きな街ではありません。そこで、東口を回ってから駅の中を通って西口に出ました。大きな駅前広場と楠が印象的です。こちらのほうの出口も、東京のどこかの駅に似ているような気がします。よく思い出せないのですが。

 ところで、皆様は大橋をどのように発音されますか。

 関東人、より狭くいえば、多摩地区の方言エリアでもある川崎市の出身である私は、大橋の最初の「お」だけ低く、二番目の「お」から最後の「し」までを高く発音します。しかし、西鉄の児童放送では最初の「お」だけ高く発音し、二番目の「お」から低くなります。東急田園都市線の駅である池尻大橋を発音した時のような感じとなる訳です。

 私が福岡に滞在していた2005年9月9日から、福岡市で全国都市緑化花フェア(またの名はアイランド花どんたく)が行われています。その行事と関連する鉢植えが置かれていました。全国都市緑化花フェアの会場は東区の香椎や和白の沖合いにある人工島で、2004年に、近くを香椎線のディーゼルカーで通っています。

 接近して撮影してみました。このような鉢植えでなく、地面に植えられているとさらによいと思うのですが、それは今後の取り組み次第、ということでしょうか。

 どんたくと言えば、5月の連休期間中、最も観光客などを集める行事として知られています。私は神奈川県出身ですので、5月の連休期間といえば横浜の港祭りを思い出すのですが、全国的に最も人通りが多いのはどんたく期間中の福岡でしょう。私も、一度だけ、しかもどんたくがあることを知らずに天神に行き、あまりの雑踏に驚かされました。

撮影した本人が全く覚えていないので困ったものですが、やはり大橋駅前の広場で見かけたものです。たしかに、この辺りは福岡でも一種独特の雰囲気をかもしだしています。

駅前広場の楠についての説明板です。元々この広場にあったのではなく、移植されたものであるとのことです。間近に見るとけっこう立派なものです。

 西鉄大橋駅の、こちらは西口です。しかし、東口とよく似ていて、一瞬見ただけではどちらなのかわかりません。こういう駅は、おそらく、それほど多くないでしょう。西鉄福岡(天神)駅も、東口と西口では全く構造が異なりますし、博多駅なども同様です。高架駅の場合、西口と東口、北口と南口で同じような構造にすることは多いのですが、この駅くらい、見分けがつかないような駅は、少なくとも私には思い当たりません。

 (ここは変わった所かもしれません。何しろ、私は2012年9月を最後に、大橋駅周辺を訪れていません。)

 少し回った後、ホテルに戻って仕事を続けるため、西鉄電車に乗って西鉄福岡(天神)へ戻りました。急行電車の場合であれば、次が薬院、そして西鉄福岡(天神)です(現在では特急も同じです)。ちなみに、現在の西鉄の鉄道路線であれば、全線に乗っています。

 最後に、余計になってしまうコーダを。

 妻と知り合い、結婚するきっかけとなったのも、福岡での集中講義でした。最初に会ったのが、私が日本税法学会九州地区大会での報告を担当した2008年10月4日、博多駅筑紫口の近くでの懇親会の場でした。何がどうなるかはわからないものです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夕刊に載っていた記事

2019年09月13日 14時11分25秒 | 社会・経済

 大学の同僚などからも言われるとおり、私は鉄道ファンです。ただ、私鉄に、しかも通勤電車に関心を持ち続けていました。これは、幼少時から、渋谷、自由が丘、新宿、六本木などへ行く時に東急東横線を利用していたからでしょう。学部生時代からは、神保町や永田町へ乗り換えなしで行けるということから東急田園都市線を利用することが多くなりました。勿論、東京の地下鉄、小田急、京浜急行、京王、東武、西武などの私鉄も利用します(山手線は1年に数回利用する程度です。大抵の所には地下鉄に乗って行くためです)。

 逆に、国鉄の特急、急行などは、大分大学に勤務していた頃を除くと、あまり利用していません。とくに客車列車に乗ったのは、51年程生きている中で10回に満たず(5回に満たないかもしれません)、蒸気機関車に至っては実際に走っていたのを見たのが新交通システムに移行する前の西武山口線と「あそぼーい」が走っていた頃の豊肥本線だけなのです。世代的なものかもしれませんが、蒸気機関車には何の感慨も愛着も感じません(歴史的な意義は感じますが)。

 こんなことを書いてきたのは、昨日(2019年9月12日)付の朝日新聞夕刊4面3版に「e潮流 フォト 石井徹 脱石炭 SLに乗り考えた」という記事を読んだからです。

 最近では東武日光線と鬼怒川線でSL列車も走るようになっている程で、鉄道と観光との結びつきということではSLが最も効果があるからかもしれません。また、首都圏や京阪神地区でSL列車を走らせたら、沿線から苦情が来るかもしれません。あれこれ考えると、大井川鉄道、JR山口線、秩父鉄道、真岡鐵道、東武日光線・鬼怒川線などという路線でSLが動くのも当然かもしれません。

 朝日新聞の編集委員である石井さんは、JR釜石線を走るSL銀河に乗って考えたことを記事に書いています。「宮沢賢治の銀河鉄道の世界をテーマにした車内には、ギャラリーやプラネタリウムもあり、4時間余りの旅は飽きることはない。沿線から手を振って歓迎してくれる人もいて楽しい」ということです。客は蒸気機関車そのものに乗ることができないので、ギャラリーやプラネタリウムは客車にあるのが当然である訳で、それならDD51やDE10などのディーゼル機関車が牽引してもよいようなものですが、それでは味のないものになる、ということでしょうか。

 記事は、蒸気機関車が吐き出す黒煙から石炭の話になります。石井さんがJR東日本盛岡支社にたずねたところ、花巻駅から釜石駅の運行の際に消費される石炭は2.5トンになるそうです。釜石線はおよそ90キロメートルの路線なので、私には直ちに消費量が多いとも少ないとも判断が付かないのですが、同じ客車数でディーゼル機関車が牽引した場合に軽油を2.5トンも使うのでしょうか。また、石炭消費量を二酸化炭素に換算するとおよそ6トン、乗客1人当たり35キログラム程ということになるそうです。

 蒸気機関車は燃料効率の悪いことで知られています。どういう訳か、文部科学省のサイトに「昭和37年版科学技術白書」の「各論  §17  輸送  II  鉄道輸送  1.鉄道の近代化」の部分が掲載されているので(http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpaa196201/hpaa196201_2_246.html)参照すると、「鉄道近代化の本命は,何といつても動力源の転換すなわちエネルギー効率のより高い電気動力、あるいは内燃動力への転換である。いま機関車の使用率を考慮に入れた場合の動力源の持つエネルギーの利用率—エネルギーの効率—を各種機関車について比較してみると、それぞれ蒸気5~6%、電気15~16%(火力発電)または50%以上(水力発電)、およびディーゼル20%以上になると考えられる」という記述があります。細かい条件が書かれていないので、SLの機種、路線の条件などによって異なるとは思いますが、石炭と水を積み、石炭を燃焼させてお湯を沸かし、蒸気を発生させて運転する訳ですから、効率が悪くなるのは仕方のないところでしょう。石炭のみならず、水の消費量も非常に多くなりますし、その割には速度も出ず、力もそれ程強くないということになります。日本の線路の上を走る鉄道車両は、線路と車輪との摩擦の関係で一般的に勾配に弱いのですが、蒸気機関車はとくに弱く、かつてスイッチバック構造の駅や信号所が多かったことの理由にもなっています。

 記事は本題の脱石炭に進んでいます。これは、勿論、鉄道の脱石炭ではなく、国のエネルギー政策の話です。ヨーロッパにE3Gという、気候変動のシンクタンクがあるのですが、ここが8月に発表した石炭政策の評価報告によると、G7諸国において日本は5年連続の最下位であったそうです。それは、石炭火力発電所の建設計画があるのがG7諸国の中では日本だけであるためです。日本のエネルギー政策が何処まで真剣に環境問題を念頭に置いているのかについては以前から疑問が出されていましたが、それは電力広域的運営推進機関が今年の3月にまとめた、電力各社による2028年の供給計画からもうかがわれる、と石井さんは指摘します。上記記事を参照しただけですが、次のようになっているようです。

 原子力発電:4%

 再生エネルギー:26%

 液化天然ガス:29%

 石炭:37%

 石油:3%

 政府が目指す2030年の電源構成は次の通りです。

 原子力発電:20〜22%

 再生エネルギー:22〜24%

 液化天然ガス:27%

 石炭:26%

 石油:3%

 両者を比較しても原子力発電の割合に極端な差がある程度に見えますが、原子力発電を減らすなら石炭を増やす、ということなのでしょう。エネルギー政策に限ったことではないのですが、前向きな姿勢とは見受けられません。これが高齢化社会の大きな弊害であろうか、とすら思えてきます。

 脱石炭化などを考えてSL列車に乗っていたら、それは「郷愁に浸っている自分の身の置き場に困った」ことでしょう。仕事柄と言えるのかもしれません。

 石井さんは、記事をこう締めています。

 「SLに限らず、近代文明は石炭から多くの恩恵を受けてきた。だが、感謝しつつ、きっぱりと別れる時期が来ている。今回、楽しみのために出した二酸化炭素は、普段の省エネや再エネ利用での削減を心掛けるとしよう。」

 落ち、下げなどと書いては落語になってしまいますので、結語としてはどうなのかなとも思ったのですが、こんなところに落ち着くのかもしれません。

 さて、ここからは記事と関係のないことです。

 今、かたや観光のためのSL列車が多くなっている一方で、非電化区間へのハイブリッド車や蓄電池駆動電車などの導入も進みつつあります。ハイブリッド車であればキハE200形、HB-E210系、HB-E300系(いずれもJR東日本)、蓄電池駆動電車であれば烏山線のEV-E301系、男鹿線(および直通先の奥羽本線)のEV-E810系、筑豊本線(および篠栗線)のBEC819系をあげておけばよいでしょう。気動車(ディーゼルカー)の置き換えのためですが、単純にキハ40系などの国鉄時代の気動車が老朽化しているからという訳でもありません。気動車も発車などの際に黒煙をあげることがあります。ディーゼルエンジンから排出されるガスが様々な環境問題の一因になっていることから、最新の技術が導入されていくのでしょう。今後も、このような動きにこそ注目する必要があります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2004年12月26日、再び竹中駅

2019年09月11日 22時45分50秒 | 旅行記

 〔今回は、「待合室」の第153回(2005年12月19日から2006年1月23日まで)として掲載した記事の再掲載です。なお、若干の修正を加えています。〕  

 私が大分大学の教員として大分市に住んでいたのは1997年4月〜2004年3月です(1997年4月〜2002年3月は講師、2002年4月〜2004年3月は助教授)。つまり、大東文化大学の教員となってから15年半程が経過したこととなります。

 もう少し、大分県内の色々な風景を撮影しておけばよかった、などと思うのですが、私が所持しているMOなどには、多分、100枚分以上のデータがあります。失敗作もあります。中には、ゼミ生たちと一緒に飲み会をやった時などの写真もあるのですが、承諾もとっていないのに勝手に掲載する訳にもいきません。そういう楽しい思い出は、私、そしてゼミ生たちの心の中に保存しておくものであり、ここに公開すべきものではないと考えています。

 こうして考えると、ここに掲載すべきものは限定されてきますが、改めて探してみたところ、うってつけとは言えないまでも、ここに掲載してよいものがありました。しかも、2004年12月、集中講義のために大分市へ行った時のものです。何故か、大分市内で私が気に入っている所でもあります。

 「待合室」の第152回(2005年11月30日〜12月19日掲載)において取り上げた黒仁田林道からそれほど遠くない所です。

 豊肥本線中判田駅付近から竹中駅 を通って犬飼駅付近まで、大分県道631号中判田犬飼線が通っています。大分大学在職時代は、一体何度通ったかわからないほど、自動車で通っています。当時は、夜まで研究室にいることが当たり前でして、早くとも20時か21時を過ぎる頃に研究室を出て、週に何回かは車で戸次へ行き、さんちゃんという中華料理屋へ行って夕食をとっていました。土曜日や休日ならば昼間のこともありましたし、平日の夕方、18時過ぎに研究室を出て戸次で夕食をとり、それから研究室に戻ったことも何度となくあります。その際、よく県道631号を使ったのです。

 2004年12月23日、私は大分市へ行きました。翌日から市内の某専門学校で集中講義を担当し、24日の夕方には常連としてよく行き、ゼミの学生たちなどを連れて行ったこともある、当時の自宅から近い所にある母家というレストランに行き、25日の夕方には卒業生など5人と市内で飲みました。その翌日(奇しくもスマトラ島大地震があった日です)は日曜日でオフだったため、バスで戸次へ行って件の中華料理屋で昼食をとりました。何度も寄った書店に入った後、バスで市街地に戻ろうとしたのですが、2時間近くも待たなければならないので、大南大橋を渡って竹中駅へ出ることにしました。多分、首都圏であれば結構な距離になるはずで、歩いて30分ほどかかったような気がします。

 大字竹中の集落を過ぎて南へ歩き続けた時、道路の脇から水の音がしたので、ふと見ると、水が湧いていました。上の写真ではわかりにくいかもしれませんが、たしかに水が湧き出ていたのです(車で走っている時には気づかないことですね)。

 まだまだ歩き続けます。県道631号線は大野川にほぼ平行して通っていて、対岸の国道10号線ともほぼ平行しています。御覧のように、県道のほうは通行量が少なく、国道10号線が渋滞しているような時には抜け道としても使えるのですが、上戸次小学校付近から道幅が狭くなるため、注意が必要です。

 それにしても、民家も少なければ歩行者もほとんどいないという県道を歩くことになるとは……。夜になると非常に暗くなりますが、昼間でもこの状態です。時々、自動車が通るのですが、竹中中学校付近から竹中駅まで歩いている時に歩行者を見かけたという記憶がありませんし、自動車も、せいぜい2台か3台くらいしか通らなかったのではないかと思います。この間は数キロメートルありますが。

 竹中駅に到着しました。JR豊肥本線の駅で、大分駅から普通列車に乗ると大分市内の駅としてはここが最後になります。無人駅で、自動改札機がないのは勿論、自動券売機もありません(無人駅でも滝尾駅などには自動券売機がありました)。私が駅に到着した時には、案の定、誰もいなかったのでした。下り列車(大分方面)を待つ間、数人の客がいたような気もしますが、よく覚えていません。

 駅の裏に数件の民家がありますが、他には何もありません。缶飲料の自動販売機はありますが、コンビニエンスストアを初めとして店舗がないのです。探すとすれば、ここから北のほうへ歩いて大南大橋に出るか、南へ歩いて上戸次小学校のほうに出るか、ということになります。どちらをとってもかなり歩かされます。大分市内の駅では一番寂しいのが竹中駅であることは間違いないでしょう。

 しかし、それだけに、時々、この駅に来ては何も考えないで時間をつぶすこともあったのです。意味がないと言われるかもしれませんが、私にとっては意味がある時間でした。この日も、長いこと列車を待っていましたが、頭の中を整理したりするのに必要な時間でした。

 当初から無人という駅もありますが、竹中駅はいつから無人駅になったのでしょうか。おそらく、これがかつての駅舎なのでしょう。今は閉鎖されているようです。エアコン(クーラー)の室外機があることからすれば、今も何かのために利用されているかもしれませんが、よくわかりません。

 かつての駅舎らしい建物を別の角度から写してみました。いつまで駅として使われていたのでしょうか。落書きが痛ましさを増幅しています。奥のほうには大野川が流れていて、さらに奥のほうに国道10号線が通っています。通行量を考えると、この駅の寂しさがさらに強くなります。

 豊肥本線の中判田から竹中までは5.5キロメートルとなっています。その間に大南大橋があるのですが、その辺りに駅がなかったこと、さらに言うならば、中戸次側を通っていなかったことは、豊肥本線にとって悪かったということになるのではないでしょうか。中戸次周辺であれば、通勤通学客が多いと見込まれるからです。建設当時は今のルートのほうがよかったのかもしれませんが、今では国道10号線沿線のほうが住宅地などとして発展しています。

 左側にホームの残骸が見えます。おそらく、貨物用の施設であったと思われます。今、豊肥本線には、少なくとも大分側には貨物列車が走っていませんが、国鉄全盛時代にはここにも貨物列車が到着していたことでしょう。どのような物資を扱っていたかなど、詳しいことはわかりませんが、今よりにぎやかな時代があったことだけは間違いないでしょう。

 ホームの先に線路が見えます。次が犬飼で、豊肥本線はしばらく大分市内を走ります。豊後大野市に入ってまもなく、犬飼駅に到着します。さらに進めば、阿蘇の外輪山、そして熊本市ですが、このホームに立っている限り、この線路が熊本に延びているとは思えないかもしれません。ここを発着する普通列車は、2004年12月当時、阿蘇山の北の入り口の一つである宮地まで行くのが1日2本だけ(私が大分に住んでいた頃には1本だけでした)で、基本的には大分県内のみを走っていました。熊本県は人吉まで行く九州横断特急(以前のあそ号)は4往復となっていましたが、勿論、この無人駅などは通過してしまいます。

 九州地区の駅には、必ずといっていいほど「名所案内」があるはずです。豊肥本線はそうでした。私の自宅からの最寄り駅でもあった敷戸駅にも「名所案内」がありました。何故か、大分大学が「名所案内」に登場していたのです。今の大分大学前駅に「名所案内」があったかどうかは覚えていません。敷戸駅ほどではないにせよ、大分大学から別府大学へ行く時、大分大学から市街地へ行く時などに利用していましたが、注意して見ていないのです。

 ただ、駅の「名所案内」は、本当に案内になっているのか疑問とせざるをえない所もあります。この竹中駅がその例です。大分市の南部に吉野梅園があり、たしかに、鉄道の駅で最も近いのは竹中駅でしょう。しかし、竹中駅前にはバス路線が全くありませんし、道順などの案内も全く書かれていません。知らない人にはかなりわかりにくいでしょうし、大分市内などに住んでいる人であれば、自家用車か路線バスで行くことでしょう。大分の市街地、または臼杵の市街地からのバス路線がありますので、そちらを使ったほうがよいでしょう。

 また、河原内が登場しないのも不思議です。もっとも、河原内ですとさらに距離があります。多分、竹中駅から徒歩で行くとすれば2時間以上を覚悟しなければならないでしょう。既に記したように、竹中駅前にはバス路線が全くありません。タクシー乗り場もありません。

 ここで、僭越ながら、私が竹中駅から吉野梅園までのルートを紹介します。二つあります。

 一つは、上の写真に忠実に行く方法です。まず、県道631号を南に進みます(つまり、犬飼の方向です)。700メートル進んだところでしょうか、道幅が細くなり始める部分がありまして、そこに三叉路があります。そこを左に曲がるとすぐに上戸次小学校が見えます(交差点付近から見えるはずです)。大野川にかかる筒井大橋を渡りますと国道10号線に出ます。一旦右折します。そしてすぐに左折し、県道に入ります(臼杵方面に進んでいきます。案内表示があるはずですから、臼杵方面の案内に従って下さい)。そのまま進めば、吉野梅園の入口に出ます。

 もう一つは少々面倒で遠回りという方法です。竹中駅から県道631号を北へ進みます。竹中トンネルを抜けて下さい。そうすると、大南大橋の西側の交差点に出ます。左側に大嶋病院があるので、すぐにわかります。この交差点を右折し、大南大橋を渡ります。渡ると交差点が見えますが、この交差点を直進して下さい。すぐに登り坂となり、榎峠を超えます。しばらく走ると豊栄梅が丘ニュータウンに入ります。そしてニュータウンに入ったばかりのところにある、信号機のある交差点を右折します(この交差点には吉野梅園の案内が出ていますのですぐにわかります)。しばらく走りますと、左側に吉野梅園の入口が見えるはずです。

 こうやっているうちに、ようやく列車が来ました。この後、大分大学前駅や敷戸駅で降りることなく大分駅へ戻り、中央町や府内町を歩き回りました。スマトラ島での大地震を知ったのは、この日の夕方か夜、府内町のホテルで見ていた衛星放送によってです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豊後竹田駅と竹田市街地(2002年6月22日)

2019年09月10日 00時00分00秒 | 旅行記

 2014年10月13日に休止(2015年1月24日に終了)するまで、私の「川崎高津公法研究室」には「待合室」のコーナーを設けていました。その「待合室」では、何回か竹田市を取り上げています。今回は、第57回として2003年7月12日〜18日に掲載したものを、若干の修正を施した上で再掲載します。2002年6月22日、豊後竹田駅と中心街の様子です。

 2002年に豊肥本線に入ったキハ200系です。鉄道友の会から1992年度のローレル賞を受けた気動車で、筑豊本線と篠栗(ささぐり)線で活躍していましたが、筑豊本線折尾・桂川(けいせん)間および篠栗線の電化とともに大分にやってきました。2003年からは久大本線でも活躍しています。また、2003年の時点においては香椎線、長崎本線、大村線、指宿枕崎線などでも活躍していました。 当時の自宅の最寄り駅(といっても、少し離れています)である敷戸駅から、上の写真の列車に乗りました。降りてまもなくの写真です。これから岡城址へ向かおうとしていました。

 豊後竹田駅です。今、このように風格のある駅舎も少なくなりました。大分県内の場合、無人駅、あるいは、早朝や夜間には駅員がいなくなる駅が多く、常時有人駅は、大分駅、別府駅、中津駅、日田駅など、数えるほどしかありません。豊後竹田駅も、豊肥本線では数少ない常時有人駅の一つです。風格という点では、他に、やはり杵築駅があげられます。ちなみに、豊後竹田駅の次の駅である玉来(「たまらい」。本数の少ない上り列車に乗ると着きます。竹田市の駅です)と朝地(下り。当時は朝地町、現在は豊後大野市の一部)は無人駅です。2013年5月23日に、仕事のために竹田市役所へ行った時は違っていたような気もしますが、この豊後竹田駅の場合、列車が到着すると(あるいは、その少し前から)、滝廉太郎作曲の「荒城の月」が流れます。今年は少年少女合唱隊の斉唱でしたが、この写真を撮影した日は男声独唱だったと記憶しています。 

 岡城址から駅へ戻る時に撮影した、竹田市中心街の模様です。ここは城下町として発展しましたが、2003年当時の人口は2万人を割っており、大分県内の市としては2番目に人口が少ない所となっていました。当時、日出町や豊肥本線の沿線にある三重町(現在は豊後大野市の一部)などの人口は2万人を超えていました。

 上の写真にある「100回忌」は、勿論、滝廉太郎の百回忌のことです。彼は、1879(明治12)年8月24日、東京市芝区(現在の東京都港区)に生まれましたが、父親の仕事の関係で、少年時代の一時期をこの竹田で過ごしました。中心街の一角に、少年時代を過ごした家があり、今は記念館となっています。彼が弾いていたというヴァイオリンなどが保存されています。なお、滝廉太郎は、1903(明治36年)6月29日に大分市で短い生涯を閉じました。大分県庁の近くに記念碑があります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2001年12月8日、日田駅

2019年09月09日 00時29分40秒 | 旅行記

 〔以下は、「待合室」に、第34回(2003年1月25日〜31日)およ第37回(同年2月15日〜21日)として掲載したものです。〕

 大分県の西端、サテライト日田問題、そして環境への取組み(ISO14001取得など)で全国の注目を浴びている日田市の玄関口、久大本線の日田駅です。夜明から分岐する日田彦山線の列車も、この日田駅が発着駅となっています。本数が少ないことから、乗降客数もそれほど多くないのですが、やはり日田市の代表駅で、それなりの風格が感じられます。現在、日田市の人口は6万人台、昔は天領でした。竹田市とともに水が有名な所でもあり、水郷(すいごう、ではなく、すいきょうと読みます)としても知られています。

 日田駅の改札口を出ると、このようなものがあります。日田温泉は、ここから南(少々長い距離ですが)、三隅川(筑後川のこと)の川沿いにあります。5月の下旬に川開きと花火大会があり、また、時期を知りませんが屋形船も出ます。また、この駅には面白い形のバスが発着しており、日田温泉、そしてサッポロビール新九州工場の方面に走っていきます。駅前の三本松商店街は、全国的な傾向である中心街空洞化の波をかぶっていますが、大分県中部や南部の都市と比較すれば、空洞化の度合いは小さいようです。私が日田市を訪れる時は、自家用車の場合であっても必ず日田駅周辺に足を運び、付近を散策します。

 天領時代を彷彿とさせる豆田町や淡窓界隈は、逆に北側のほうへ行きます。この写真には登場しませんが、右のほうに田島官公街方面への地下通路がありますので、そこから行くのが便利でしょう。ちなみに、豆田町には、昭和の初期まで筑後軌道という九州最大の路線網を誇った軽便鉄道の駅がありました(久大本線の開通によって廃止)。

 大分市に住んでいる私ですが、日田市民も認めるように、日田市は大分県にありながら大分県とは違う場所のような雰囲気を感じます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地方拠点強化税制の延長希望

2019年09月06日 06時00分00秒 | 国際・政治

 先週の金曜日、つまり2019年8月30日の朝日新聞朝刊4面14版に「企業の地方移転促す税制 内閣府 利用想定1417件→9件に」という記事が掲載されていました(https://digital.asahi.com/articles/DA3S14157802.html)。

 地方拠点強化税制については内閣府地方創生推進事務局の「地方拠点強化税制(地方活力向上地域等特定業務施設整備計画の作成等)」を御覧いただきたいのですが、主なものとしては設備投資減税(法人税)、雇用促進税制(法人税)および地方税(不動産取得税、固定資産税、事業税)の免除または減免があります。いずれも、東京23区地区内に本社を置く企業が他の地方に本社を移転する場合、同じく東京23区地区内に本社を置く企業が他の地方における機能を拡充する場合、東京23区地区外に本社を置く企業が他の地方(東京23区内でない所)に本社を移転する場合などに適用されます。

 ところが、と記しても実は当たり前のことかもしれませんが、利用件数が少なすぎるのです。2017年度の実績見込みは6件でした。同年度の実績および2018年度の実績は上記記事に書かれていませんが、2018年度の想定利用件数は1417とされていました。実に約236倍です。さすがに、2018年度の税制改正要望をチェックした総務省も乖離を指摘せざるをえなかったようですが、内閣府は修正もせずに要望を出したようです。結局、財務省との折衝で取り下げざるをえなくなったそうです。

 そこで、内閣府は、2020年度税制改正に向けての税制改正要望において想定利用件数を9件とし、その上で2年の延長も盛り込んだとのことです(現行の制度は2019年度末に終了するため)。

 それにしても、想定利用件数が9件とは、どの程度の規模の企業を対象として想定したのかと問わざるをえません。東京23区内にいくつの企業があるのか知りませんが、東京証券市場一部上場企業に限定してもかなりの数になるでしょう。大企業、有名企業でも非上場企業はたくさんありますし、中小企業を含めたら何万社となるでしょう。

 むしろ、何故に東京23区内に本社機能が集中したのかをまずは考える必要があるでしょう。21世紀に入って間もない頃、IT革命だの何だのと騒がれていた時に、本社機能の集中、支店の統合などは言われていたはずです。勿論、高速道路網の整備、新幹線路線網の整備なども原因としてあげられていました。ストロー現象という言葉も度々登場していたのです。

 税制に限らず、地方創生という政策には場当たり的としか言いようがない部分が目立ちます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

千葉都市モノレールの延伸を断念

2019年09月05日 00時47分50秒 | 社会・経済

 2012年1月31日、或る用事で千葉市に行きました。その折に千葉都市モノレール1号線および2号線の全線に乗ったのですが、2号線はともあれ、1号線の千葉駅から県庁前駅までの区間は、正直なところ、何のために開通させ、列車を走らせているのか全く意味がわからなかったのです。このような思いは、2009年12月に神戸市営地下鉄海岸線を利用した時にも浮かびましたが、千葉都市モノレール1号線の千葉〜県庁前のほうがさらに強かったのでした。

 何しろ、千葉都市モノレール1号線の栄町駅は隣の千葉駅から歩いて10分ほどで着いてしまうような場所にある上に、周辺が周辺であるだけに驚くほど利用客が少なく、次の葭川公園駅も京成千葉駅から歩いて数分の所にあり、終点の県庁前駅に至っては本千葉駅から歩いて5分もかからないような場所にあります。

 もっとも、当初からこのような路線が計画されていた訳ではありません。京成千原線千葉寺駅を通るルートも考えられていたそうですが、結局は市立青葉病院までということになったのです。しかし、県庁前から市立青葉病院までは未開業のままです。

 また、2号線の穴川駅から総武本線稲毛駅、さらに京葉線稲毛海岸駅までのルートも計画にあげられていました。これについても決定までに色々とあったようです。

 ともあれ、県庁前〜市立青葉病院、穴川〜稲毛海岸(厳密さを欠くのですが、以下もこのように記します)の2ルートが最終的な延伸計画として存在しているのですが、1号線、2号線のいずれも利用客が少ないためにかなりの赤字を計上しており、延伸計画は凍結されていました。しかし、2017年9月、千葉市は「脱・財政危機宣言」を解除します。モノレールの延伸計画を進めるためであったようです。そして、千葉市の2018年度予算には、いわば調査費として1800万円を計上し、2ルートの延伸についての再検証業務を外部機関に委託したそうです。

 その結果、昨日(9月4日)に、千葉市は2ルートの延伸計画を中止すると発表しました。これは正式発表のようです。日本経済新聞社が2019年9月4日の12時8分付で「千葉都市モノレール、延伸中止を正式決定 採算性低く」として報じています(https://www.nikkei.com/article/DGXMZO49390330U9A900C1L71000/)。

 千葉市は、昨日、調査結果、というより再検証結果を公表しました。どちらを見ても、費用対効果の面でアウトということです。

 まず、県庁前〜市立青葉病院です。1.9キロメートルで、次のような数字が並びます。

 概算整備費:196億円(そのうち、千葉都市モノレールは23億円を負担)

 1日あたりの利用者数:3200人

 費用便益比:0.87

 続いて、穴川〜稲毛海岸です。4.3キロメートルで、次のような数字が並びます。

 概算整備費:494億円(そのうち、千葉都市モノレールは80億円を負担)

 1日あたりの利用者数:1200人

 費用便益比:0.73

 かなり厳しい数字と言えるでしょう。とくに、穴川〜稲毛海岸のルートで1日あたりの利用者数が1200人というのは、いかにモノレールといえども低いと感じます。輸送密度に換算すると1980年代の特定地方交通線と同じくらいなのでしょうか。

 上記日本経済新聞社記事には、県庁前〜市立青葉病院について次のように書かれています。

 延伸計画の凍結前に千葉市が行った資産では、建設費が176億円(街路整備なども含む)、一日あたりの平均乗客数はおよそ8800人増え、費用便益比は3.57で、延伸からおよそ30年後には千葉都市モノレールがおよそ83億円の増収となる。

 随分と楽観的な数字とも言えますが、市立青葉病院は京成千原線千葉寺駅から1キロメートルほど離れた場所であるようなので、多少は増えると考えたのでしょう。ただ、一日あたりの平均乗客数がおよそ8800人増えるというのは、一体どういう根拠に基づくのかと疑われるところでしょう。上記日本経済新聞社記事には「そもそも市試算では延伸ルートと競合する民間のバス路線が全て廃止されるなど、採算性を水増しするための現実離れした前提条件が設定されていた」と書かれており、公共事業によくある話であるだけに呆れられるでしょう。仮に競合バス路線が全て廃止されたとしても、様々な要素を考慮すれば、私のような素人でも合わないと考えます。

 一般に、モノレールの輸送力は普通鉄道(JRや地下鉄などのように、2本のレールの上を車両が走行する鉄道)よりも小さく、普通鉄道が大規模輸送に向いているとすればモノレールは中規模輸送に向いているともいわれます(交通経済学などの本に書かれていることのうろ覚えです)。また、軌道そのものの建設費は安価かもしれませんが、車両の値段や維持費はどうなのでしょうか。千葉都市モノレールは懸垂式のうちのサフェージュ式を採用していますが、日本では他に湘南モノレールしかありません(東京都交通局上野懸垂線は独自の懸垂式を採用しています)。車両は高価になるでしょう。しかも、普通鉄道である中小私鉄では当たり前の、どこかの鉄道会社(例えば関東の大手私鉄)から中古車両を購入するということは、モノレールの場合は現実の問題としてほぼ不可能です。また、車輪にゴムタイヤを使っていれば、鉄の車輪とは比べものにならないほどに消耗が激しいでしょう。維持費などを考えると、費用対効果、費用便益比は普通鉄道よりも悪いのではないでしょうか。その他、高齢化の進展を考慮に入れるならば、モノレールよりもバスのほうが相応しいとも言えます。

 千葉市は、費用便益比を最重要視し、その結果として千葉都市モノレールの延伸計画の2ルートをいずれも断念することとしました。延伸すれば千葉市の財政にも多大な負の影響が及ぶことになるからです。千葉都市モノレールは第三セクター会社で、千葉市は発行済み株式の実に9割以上を保有する筆頭株主です(かつては千葉県も株主でしたが、13年前に手を引きました)。そのため、延伸が実現しても利用客数が伸び悩めば、会社はもとより千葉市も重い負担が課せられることとなります。

 それでは、延伸計画を中止すれば話は終わるのでしょうか。そうとは言えないような気もします。むしろ、中止によって1号線の千葉〜県庁前の区間については、ますますその存在意義を問われることにならないのでしょうか(他の区間についても同様かもしれません)。人員削減、減資などの手を打ってきているそうですが、既存の路線についての今後の見通しを知りたいところです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮古島市、住民訴訟の原告を提訴する方針?

2019年09月04日 10時53分10秒 | 国際・政治

 昨日(2019年9月3日)の夜、20時に、朝日新聞社が「宮古島市、住民訴訟の市民を提訴へ 『名誉毀損された』」として報道していました(https://digital.asahi.com/articles/ASM933WG4M93TPOB003.html)。今日の朝日新聞朝刊26面14版にも「宮古島市、市民を提訴 『住民訴訟で市の名誉毀損』」という記事が掲載されています。

 宮古島市が、住民訴訟の原告(控訴人、上告人。以下、原告で統一します)6人に対し、合計1100万円の損害賠償請求を求めて提訴する方針を示したということで、9月3日、市議会9月定例会開会日に議案を提出したのです。議案は最終日の今月25日に採決される見通しです。

 何故このような話になるのか。経緯を少しばかり書いておきます。

 宮古島市は、ごみ撤去事業について同市内の業者と、費用をおよそ2251万円とする委託契約を結びました。この契約が高額にすぎるとして、事業費の返還を求める形で2016年に住民訴訟が提起されました。記事では「市民6人が違法な契約だとして下地敏彦市長らに事業費の返還を求めて起こした」と書かれていますが、厳密に言えば、原告6人は、市長を被告として、市長に対し、その契約の締結にあたった職員に対して損害賠償請求を行うことを請求する、という形になります。この事件の場合は、市長が市長に損害賠償請求を行うように請求する、ということになります。回りくどいのですが、これが地方自治法第242条の2第1項第4号の構造なのです。

 那覇地方裁判所は原告6人の請求を棄却し、福岡高等裁判所那覇支部も原告の控訴を棄却しました。最高裁判所も今年の4月に原告の上告を棄却しました。

 〔残念ながら、裁判所ホームページにもLEX/DBにも、この訴訟に関する那覇地方裁判所判決および最高裁判所判決が掲載されていません。福岡高等裁判所那覇支部の判決は2018年12月11日に出されており、LEX/DBに掲載されています。〕

 住民訴訟で原告が敗訴したのであるからそれで終わりと思うところですが、そうはならなかったのです。市長は、今も原告6人(など?)が宮古島市役所で座り込みをしていることなどを踏まえて損害賠償請求訴訟を起こすと主張しています。記事には、記者団とのやりとりという形で次のように書かれています(引用ですが、形を修正しています)。

 記者団:「訴訟は言論や行政監視の萎縮を招く懸念がある。」

 市長:「そんな懸念があるの。どうしてあるの。」

 市長:「法治国家として、確定したもの(判決)には従うべきだ。市民運動といえども、最高裁で決定したものを、違うような言い方をするのは許されない」

 しかし、このやりとりでの市長の言葉には問題があります。実は、(情報源の関係で明確にはできませんが)この住民訴訟とは別に刑事訴訟があり、職員(おそらく担当職員)が虚偽有印公文書作成の故に有罪判決を受けたとのことです。刑事訴訟と住民訴訟あるいは民事訴訟とで結論などが異なることはよくある話です。そもそも、住民訴訟は、地方自治体の財務会計行為に違法がある場合で、かつその違法について地方自治体の長に故意または過失がある場合に限り、原告が勝訴できる形となっています。つまり、違法な行為があるということと、故意または過失があるということは別の話なのです。

 (なお、入手できた福岡高等裁判所那覇支部判決によれば「本件契約の締結が、市長の裁量権を濫用し又はその範囲を著しく逸脱し、市に過大な経費負担を与えるとして、地自法2条14項、地方財政法4条1項に違反する違法な財務会計行為であるとは認められない」となっています。)

 また、これは上記記事にある九州大学名誉教授の木佐茂男先生のコメント(インターネット版のみ)に書かれていることですが、議案書では原告が宮古島市ではなく、宮古島市長個人となっているそうです。宮古島市の名誉=宮古島市長の名誉という式が成立しないことは言うまでもないことですから、市議会にかける意味が全くないこととなります(市議会において修正される可能性はあります)。岡山地方裁判所平成5年9月6日判決(判例地方自治124号82頁に掲載)および新潟地方裁判所高田支部平成13年2月28日判決(判例地方自治218号18頁に掲載)も、地方公共団体の首長個人の名誉毀損の成立と地方公共団体の名誉毀損の成立とを区別しています。

 さて、市議会に提出された議案書によれば、宮古島市は、原告6人が「公然と虚偽の事実を摘示して宮古島市の名誉を毀損した」、「宮古島市は公法人であるが、公法人も社会的名誉を保有しており、その法的保護のため、名誉毀損を理由として損害賠償を請求する」とのことです(上記記事からの引用なので、議案書にその通り書かれているかどうかはわかりません)。

 かつてサテライト日田問題に関連する形で地方公共団体の名誉権についての論文(「地方公共団体の名誉権と市報掲載記事〜大分地方裁判所平成14年11月19日判決の評釈を中心に〜」および「地方公共団体の名誉権享有主体性についての試論」を書いた私も、これはひどいと思いました。たしかに、公法人にも名誉権はあると思いますし、上記新潟地方裁判所高田支部判決も正面から認めているですが、これはかなり制限的な場合にのみ認められることです。「地方公共団体の名誉権享有主体性についての試論」に記したことをここに引用しておきます。

 「たしかに、地方公共団体も社会的な評価を受ける主体である。しかし、憲法が第92条ないし第94条において、地方公共団体を公権力の行使をなす主体として位置づけていることに鑑みれば、無制約に名誉権を認めることはできない。地方公共団体の活動は、絶えず国民・住民からの監視を受けることが前提とされる(団体自治および住民自治の理念からも当然のことであろう)。その監視を否定するような動きは国民主権原理の否定につながるし、かえって私人の基本的人権を侵害する結果に陥る。そのため、仮に私人が地方公共団体の名誉を侵害したとしても、刑法第230条や民法第709条・第710条・第723条が適用されるような事案はほとんど存在しないと考えるべきではなかろうか。」

 住民訴訟で地方公共団体の名誉毀損という主張が成立するなら、およそ住民が住民訴訟を提起することはできなくなります。専修大学教授の内藤光博先生が、やはり上記記事へのコメント(こちらは紙面にも掲載されています)として「深刻なのは、住民訴訟の法廷での主張も、市が名誉毀損の根拠としていることだ」と述べられています。法廷における主張に問題があるならその場で対処すればよいだけの話ですが、そうなっていないので「スラップ訴訟」「恫喝訴訟」と言わざるをえないこととなります。さらに言えば、もし法廷における原告の主張が名誉毀損の根拠になりうるとすれば、よほど特殊な場合を別として、地方自治法に住民訴訟の規定を置く意味がなくなります。住民訴訟は踏み絵ではないのです。

 そうであれば、地方自治体に名誉権などないと考えるべきだ、という声が聞こえてきます。原則的にはそうでしょう。ただ、全く認められないとも言い切れないのです。日田市対別府市訴訟がその代表例ですが、特殊な事例に限られると考えるべきでしょう。南山大学教授の榊原秀訓先生のコメント(インターネット版のみ)にも書かれていますが、地方自治体が住民を相手取って損害賠償請求訴訟を提起することは可能です。実際に、上記岡山地方裁判所判決および新潟地方裁判所高田支部判決の例があります。しかし、いずれも住民訴訟の原告を相手取った訴訟に関するものではありません。榊原先生が述べられる通り、「住民訴訟を抑圧する恐れがあり、特別な事情がない限り抑制すべき」なのです。

 何のために、地方自治法によって住民監査請求(第242条)および住民訴訟(第242条の2)という制度が設けられているのか。そのことがわかっていれば、原告を相手取って損害賠償請求訴訟を起こそうなどと考えないでしょう。事実無根であれば話は違うかもしれませんが、今回の問題を見る限り、事実無根とは言えないからです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする