ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

再掲載:東急大井町線途中下車(1)二子玉川駅(その4) 

2017年05月22日 00時22分37秒 | まち歩き

 〔今回は、「待合室」の第440回「東急田園都市線途中下車(14)・東急大井町線途中下車(1) 二子玉川駅(その4)」として、2011年9月8日から同月15日まで掲載したものです。写真撮影日である2011年3月23日当時の様子をお伝えしたく、文章に修正の手を加えておりません。〕

 二子玉川駅と言えば、1969(昭和44)年5月10日まで玉川線の終点であり、砧線の起点でした。玉川線の渋谷~二子玉川(当時は二子玉川園)は、1977(昭和52)年4月7日に新玉川線として復活しましたが、砧線は完全にバスに置き換えられました。現在の二子玉川駅には玉川線と砧線の跡がほとんど残されていませんが、少し歩くと砧線の跡が残されています。今回はそれを見ようと思っています。

 2011年3月19日、二子玉川ライズが完全オープンしました。基本的には東口に展開していますが、ドッグウッドプラザは西口にあります。玉川線と砧線の二子玉川園駅は、このドッグウッドプラザの辺りにありました。

 玉川高島屋と連絡する歩道橋が右側に見えます。この交差点はスクランブル交差点となっており、地下にも玉川高島屋との連絡通路があります。

 それにしても、二子玉川にロフトができるとは想像もしていませんでした。再開発事業が始められるまでは東口に東急ハンズがあり、大学院生であった私もよく行ったものです。一時閉店のはずでしたが、二子玉川ライズに東急ハンズは入っておりません。

 交差点から北側を見ます。ここに玉川線や砧線が走っていた訳ではありません。両線が廃止された後の代替バスがこの道路を通ります。休日ともなると玉川高島屋の駐車場に入ろうとする車の列ができて混雑するのですが、平日の昼間であったためなのか、空いています。

 写真の奥のほうに、玉川高島屋の本館と東館とを結ぶ連絡通路が見えます。道路の上にある屋根つきの歩道橋のようなものです。その先に交差点があります。砧線は交差点付近でこの道路を横断していました。

 砧線が通っていたのはこの道路です。廃止後に道路となりました。幅が狭いので一方通行となっています。砧線が全線単線であったためです。詳しいことはわかりませんが、途中にあった中耕地および吉沢に交換施設はなかったようです。なお、代替バスとなっている玉06は、この道路を通りません。

 新二子橋につながる高架橋が見えます。国道246号線です。手前の道路も国道246号線です。合流地点の手前から坂を登り、瀬田交差点へ向かいます。現在の田園都市線とほぼ同じルートを通っていた玉川線も、瀬田交差点に向かって急な登り勾配を走っていたようです。玉川線で最も急な勾配は、現在の渋谷マークシティから道玄坂上までの坂で、60パーミルを超えていたそうです(碓氷峠とどちらが急であったでしょうか)。

 玉06は二子玉川駅を発車し、玉川高島屋の前を通り、左側から曲がり、右側にある道路へ入ります。中耕地というバス停もありますが、砧線の中耕地から少し離れています。

 交差点の所につばめグリルがあります。銀座に本店があるハンバーグステーキのレストランで、最近は都内に支店を増やしていますが、ここ二子玉川の支店はかなり前からあります。一度だけ入ったことがあり、堪能しました。1930という数字がありますが、これは1930年に銀座の本店がオープンしたという意味だそうです。同じ年に、東京から神戸までの特急列車として「つばめ」が運転され始めました。店の名称もこの特急列車に由来するとか。

 砧線の跡である道路を歩きました。この辺りが玉川の商店街となっています。二子玉川郵便局があり、その少し先(右側)に二子玉川小学校があります。この辺りに中耕地駅(というよりは電停)があったはずです。跡も残されているのですが、少しわかりにくく、探しました。

 この四つ角を奥のほうに進むと世田谷区立二子玉川小学校があります。玉川4丁目の商店街は、とにかく車が多いので、道幅の狭さと相まって歩くのには注意が必要です。昔ながらの作りをした書店など、懐かしさが残る商店街でもあります。

 砧線はこの交差点を東西方向に走っていました。上の写真は南北の方向に伸びる道路ですので、砧線の跡ではありません。ただ、この四つ角が踏切であった可能性はあります。

 ようやく見つけました。正確な位置であるかどうかは不明ですが、交差点から少し東側に進んだ所の歩道に、このようなタイルが敷かれていました。

 砧線はおよそ2キロメートルほどの路線で、廃止直前の時点では二子玉川(当時は二子玉川園)駅⇔中耕地駅⇔吉沢駅⇔砧本村駅となっていました。元々は多摩川の砂利を運搬するための路線で、最後まで単線でした。中耕地、吉沢のどちらの駅にも交換施設はなかったようです。

 歩道にはタイルとともに石碑も置かれています。道路と歩道の幅からすると、どうやら道路が線路跡で、歩道のこの部分にホームがあったようですが、どうなのでしょうか。この辺りもかなり大きな変化がありましたので、砧線が通っていた頃のことを想像できません。

 渋谷から二子玉川まで、主に現在の国道246号線の上を走っていた玉川線は1969年に廃止されました。しかし、1977年に、同じく渋谷から二子玉川まで、大部分が地下区間である新玉川線が開業しました。名前が示すように玉川線の復活です。一方、玉川線と同時に廃止された砧線は、バスに転換され、復活しなかったのでした。玉川電気鉄道が開業させた区間で東急に引き継がれた路線のうち、三軒茶屋から下高井戸までの世田谷線は廃止されずに残り、玉川線は廃止されたものの形を変えて復活しましたので、純粋に廃止されたのは砧線だけです。

 中耕地駅(電停)の跡から東の方向を見ます。新二子橋につながる高架橋が見えます。砧線はしばらくこの道路を直進し、国道246号線を横断して大きく右に曲がり、二子玉川駅に向かっていました。手前と奥とで歩道の幅が異なることがおわかりになるでしょうか。

 二子玉川郵便局の交差点から西の方向を見ています。砧線はまっすぐ進み、吉沢駅に向かっていました。多摩川のすぐそばを通る多摩堤通りとの交差点が吉沢橋で、その近くに吉沢バス停があります。付近に駅の痕跡があるかどうかはわかりません。

 こちらがバス通りとなります。二子玉川郵便局前の交差点を南に進むとすぐにこの道路に出ます。右のほうにバス停があることがおわかりになるでしょうか。ここが中耕地バス停で、位置は異なるものの、砧線の駅の名前を踏襲しています。

 砧線の代替バスである玉06は、二子玉川駅から砧本村方面に向かうバスのみがここを通ります。但し、朝のラッシュ時は砧本村から二子玉川駅方面に向かうバスもこちらを通ります。この他、玉05(宇奈根一丁目方面循環)、玉07(二子玉川駅⇔成城学園前駅)、玉31(二子玉川駅⇔成育医療研究センター)、玉32(二子玉川駅⇔世田谷美術館)が通っています。


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