ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

車社会に生きること 私はもう戻れない(?)

2012年09月08日 15時56分04秒 | 社会・経済

 8月14日付で「『鉄道は災害に弱い』」という記事を掲載しました。中央経済社から発売された福井義高『鉄道は生き残れるか  「鉄道復権」の幻想』という本を取り上げました。この本の中で「鉄道は災害に弱い」という部分については「確かにその通りである」と納得できるのですが、最初の「『衰退産業』鉄道が生き残るには」という章の論調には違和感を覚えました。1997年から2004年まで大分市に住み、完全な自動車社会の中で7年間の生活を送ってきた人間には、むしろこうした社会のほうがはるかに大きな問題を抱えていると思うのです。しかも、観光の面を考えても、いまや日本で最大の観光地は首都圏ではないかと思えてくるほどで、東京ディズニーランドといい、東京スカイツリーといい、六本木ヒルズといい、公共交通機関(特に鉄道)の利便性が高いから多くの人が集まるという部分は否定できないでしょう。

 福井教授の本の3ページに「スピードで飛行機に負け、便利さで自動車に負ける」という節があります。そこにはこう書かれています。

 「まず、鉄道は、自宅やオフィスから目的地まで運んでくれる自動車の便利さにはかないません。大都市の通勤で鉄道(やバス)を使うのは、大多数の人にとって代替コストの手段(駐車場代、タクシー代など)が高すぎるからです。

 要するに、鉄道ファンを除けば、ほとんどの人は鉄道が好きで利用しているのではなく、しょうがないから使っているのです。だからこそ、土地の値段が安く駐車場が(ほとんど)タダで使えるようなところでは、自家用車通勤が当たり前になっています。」

 まだ引用を続けたいのですが、ここまでにしておきます。

 ここに引用した文の内容そのものが誤っている訳ではありません。その通りです。しかし、完全に正しいとも言い切れません。

 たとえば、駐車場の件です。たしかに、首都圏を外れるならば、駐車場などタダ同然でしょう。それでは、そのような場所に利便性を感じて、多くの人が移り住んでいるでしょうか。人口は増えているのでしょうか。

 そうでないことは明らかです。むしろ、人口は減っています。とくに若年人口は減少しています。勿論、これには様々な原因がありますが、そのうちの一つに、自動車の免許を持っていなければ仕事どころか大学にも行けないような所では不便にすぎるという事実をあげることができるでしょう。私が勤務していた大分大学は、教職員だけでなく、学生用の駐車場も用意されており、少なからぬ学生が自家用車で通学していましたが、そうでなければ大分市内からでも通いにくいからです。通学時間を考慮すれば「通えない」と表現するほうが正しいかもしれません。

 福井教授が自家用車をお持ちでないのかどうかわかりませんが、自家用車を持つことには、公共交通機関が発達していて人口が多く、車を持つには「コストの手段」が高すぎるという問題があります。なお、ここにいうコストは、目に見える形での金銭面に限りません。そればかりでなく、車社会には、そうでない社会にはないコストあるいは危険が多くあります。

 まず、燃料代です。数年前、ガソリンの値段が異常に高騰したことがありました。東京都内や川崎市内で、1リットルあたり180円台から190円台にまで上昇した時です。電車の運賃も上がるのではないかと思ったくらいですが、そうはならなかったのが救いでした。その意味で、自動車通勤をしていない者にとっては、あまり大きな影響はなかったとも言えます(物価が上がったということはあっても、です)。しかし、車社会であれば燃料の高騰はすぐに生活を直撃します。何しろ、買い物に行くには大駐車場のあるロードサイド型店舗に行くのが当然という所です。その店に行くには、とてもではないが歩いて行くとかなり時間を食いますし、自転車で行くにも難しいという場所も少なくありません(多くの場合、地形に左右されます)。買い物に行くにもガソリンを使わなければならないのですから、負担は当然、かなり大きくなります。何度、「首都圏に住んでいてよかった」と思ったかわかりません。

 次に、健康の問題です。大分市がそうですが、病院もロードサイド型、というと変な表現ですが、国道沿いにあるというところが多いのです。そうすると、救急車を呼ばなければならないようなものではないけれども病気であるという場合、病院へ行くにしても自分で車を運転しなければなりません。バスの本数が少ないというところからして、そうせざるをえません。家族が車で送り迎えをしてくれるのであればそれでよいのですが、私が大分市に住んでいた頃は独身でしたので、送り迎えなどを頼めるような人はいません。そのため、頭が痛かったり風邪をひいたりしても、我慢して当時の愛車を運転していました。考えてみれば危険な話です。くしゃみなどをしたら一瞬であっても視界が変わってしまい、事故につながりかねません(その事故こそ最高のリスクですが、ここでは敢えて詳しく述べません)。まして、風邪薬や頭痛薬を服用してから運転するのでは、大変なことにつながりかねないのです。

 「家族がいれば問題ないだろう?」とおっしゃる方も少なくないでしょう。しかし、常にそうと言い切れるでしょうか。家族がいても、高齢者や未成年者では自家用車を運転してもらえないかもしれません。最近は高齢者が交通事故を起こすことも多くなっていますが、やはり安全面からすれば問題です。それに、車を運転できる家族がいても、その日によっては送り迎えをしてもらえないかもしれません。

 また、車の維持費という問題があります。福井教授はこの点をお忘れなのか、ご存知ない、あるいは体験がないのかもしれません。駐車場だけではなく、自賠責、任意保険、自動車税などのコストもかかります。そのために任意保険に加入していないという人も多いのですが、いつ事故を起こすか、あるいは巻き込まれるかわからないのに、任意保険に入らないというのは危険すぎるでしょう。ただ、任意保険は非常にわかりにくいものですし、コストはかかるのです。これなら電車の定期代のほうがよほど安上がりであるという場合も少なくないでしょう。

 渋滞も忘れてはいけません。これによる無駄は困りもので、時間は読めない、トイレにも行けない、などという話になります。首都圏でも渋滞はよく発生しますが、自動車社会でも同様でして、首都圏であれば他の手段へ逃げられるとしても、自動車社会では逃げられません。駐車場の問題もそうです。

 トイレに行けないというのは、田舎道を走っていると深刻な問題になることがあります。国道や主要県道でも、何キロメートルにもわたって道の駅もなければコンビニエンスストアもないという道路はあるのです。九州の場合、松浦鉄道西九州線などにはトイレなしの車両がありますが、少しでも長い距離を走る路線であれば、たとえ1両ワンマン運転のディーゼルカーでもトイレはあります。

 生活から離れて、観光の点にも触れなければなりません。だいぶ前に買い、読んだ本なので、著者も書名も忘れましたが、九州の、たしか熊本県内の大学にお勤めの教授が書かれたもので、自動車社会では観光など期待できない、という趣旨のことを書かれていました。これはまさにドンピシャというところです。九州の多くの市町村では観光に力を入れているようですが、車社会では最初から期待できないという答えが簡単に出ます。九州島内の日帰り客ばかりになるからで、これではいくら立派な宿泊施設を建ててもそこに泊まる人などいません(私自身がそうでした)。

 集中講義の期間中、私は、時間があれば九州島内の様々な場所に、時間とお金が許す限りで行きます。今年は、福岡市内から佐賀県伊万里市に出て、松浦鉄道西九州線に乗って長崎県佐世保市に出て、それからJR佐世保線と大村線で諫早市に出て、島原鉄道線で島原市に出るというコースで移動してみました。昨年は熊本市と宇城市と八代市に行っていますし、その前には佐賀市、大分県日田市、鹿児島市などにも行っています。いつの年であったか、集中講義が終わってから鹿児島市へ行き、宮崎空港から帰ってきたこともあります。すべて共通しているのは、鉄道か高速バスを使っている点です。レンタカーを借りるのではコストが高すぎますし、リスクもあります。車を運転しなければ行けないような場所は、たとえ福岡市から近くても行けないのです。

 太宰府天満宮、ハウステンボス、スペースワールドなど、鉄道の駅に近い(目の前)というような観光地もあります。しかし、九州の観光地のうち、少なからぬ場所は、空港は勿論、駅からも離れています。路線バスも本数が知れています。高速バスが通るような場所はまだよいほうです。熊本県阿蘇郡南小国町に黒川温泉があります。ここは九州島内では知らない人のほうが少ないという有名な場所ですが、首都圏、京阪神地区、さらには北海道からでは非常に行きにくいところです。おそらく、行く気をなくすか、最初から除外するか、ツアーにするか、というところでしょう。鉄道路線そのものがありませんので、熊本空港または熊本駅からの移動時間が長くなります。レンタカーを借りると言っても、そして借りた車にナビゲーターが付いていると言っても、知らない道路を走るというのは神経を使いますし、時間も余計にかかります。おまけに費用もかかります。数年前、大分県の有名な観光地である耶馬溪に行ったのですが、この時はレンタカーを使わざるをえず、出費などに頭を痛めたことがあります。1970年代まで大分交通耶馬溪線が通っていたことを知っていますので、今でも残っていれば、と思ったものです。

 大分と言えば、空港も駅から遠い場所にあります。最寄り駅は杵築駅か日出駅かというところでしょうが、そこから何十キロメートルと離れています。やはり大分交通の国東線が、杵築駅から大分空港の近くまで走っていましたので、今でも残っていれば多少は便利だったのでしょうが、空港が大分市から移転する前に廃止されていました。空港への公共交通機関は大分交通のバスしかないのですが、これも本数が多いと言えず、とくに宇佐、中津方面への利便性は高くありません。現在、大分空港を発着する航空便は、私が大分市に住んでいた頃よりも少なくなっているようです。それも当然でしょう。自家用車かレンタカーを使わなければならないような所では、旅行者には不便きわまりないからです。

 車社会と言えば、歪んだ話もあります。今はどうか知りませんが、私が大分市に住んでいた時、近所に飲み屋がありました。そこは駐車場を完備しています。首都圏でこういう話をすると笑いがでますが、その他の地方ではどうでしょうか。大分市内などをくまなく走っていると、駅前でない限り、そういう店が少なくないのです。飲酒運転が法律で禁止されているにもかかわらず、です。極端だったのは、パークプレイス大分にあったショットバーです(今はどうでしょうか)。大分大学時代に何度もパークプレイスに行きましたが、ここは鉄道の駅から徒歩1時間弱という場所で、定期バス路線はあるものの、本数からして貧弱で、明らかに自家用車で行くべき所です。そんな場所にバーがあるのですから、どう考えてもよほど近所に住んでいなければ飲めないような店です。最初から飲酒運転が前提となっているかのようにも見えるのです。

 以上、車社会が抱える問題について、あれこれと拙いことを書いてきました。既に記したように、私は7年間、自動車社会のただ中で生きてきました。しかし、川崎市に戻ってから8年以上、田園都市線の沿線に住み始めてから2年以上が経った現在、ここに記せることは、もう私は車社会に戻ることができないのではないか、ということです。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 諫早駅で | トップ | まだ見られる(?)デヤ7200... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

社会・経済」カテゴリの最新記事