たまたま、日刊ゲンダイのサイトを見たところ、三枝成彰氏による「【東京五輪】日本人の『知性低下』を露呈した東京五輪…政治家も官僚も私利私欲に走る」という記事を見つけたので、読んでみました。2021年7月24日の6時付です(https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/292330/5)。
正直なところ、私は以前からオリンピックなどに関心がないので、今回も中継を見ていません。しかし、東京五輪は、開会式直前に様々なゴタゴタがあり、「一体何をやっているのだか」と思っていました。三枝氏は「開会式の音楽担当の小山田圭吾さん辞任にも呆れたが、今回のオリンピックをめぐっては、競技場の設計と大会のロゴマークのやり直しや総合演出の交代など、選ぶ側の見識を疑うことばかりが続いている。売れることを優先して人間性などのチェックをおろそかにするからこうなるのだ」と書かれています。「まさにその通りです」としか言い様がないのですが、さらに三枝さんはこう続けています。
「成り行きのひどさに言葉もないが、制作チームの人選も広告代理店に丸投げしていたためだろう。広告代理店はマーケティングや流行りを見込んで企画を立てるから、知性や文化的な意味づけなど期待すべくもない。」
「ロンドン五輪では英国を代表する指揮者のサイモン・ラトルが演奏し、北京五輪では国際的映画監督のチャン・イーモウが演出した。どちらもその国の文化の顔ともいえる人物で、スポーツと文化の大国であることを十分にアピールしていた。」
「東京五輪の人選にはそうした文化への深い理解がまったく感じられない。元文科相や政府首脳らのお歴々が、歴史、哲学、芸術などのリベラルアーツを知らないからこうなるのだ。」
都合上、段落毎に引用しました。小林賢太郎氏の解任事件は、まさに歴史の知識の欠如、あるいは歴史感覚の欠如によるものでしょう。私がよく見ている「一月万冊」で人権感覚の稀薄さが度々指摘されているのも、リベラル・アーツへの関心の薄さが関係しているのではないかと考えられます。さらに記せば、読書の少なさでしょう。日本の大学生の平均的な読書時間が他国の大学生に比較して極度に短いことはよく知られています(神保町の変化は、読書時間の減少と関係があるのではないかと思っています)。
私が記事に同感する点は、最後に引用した文章によるところが大きいのです。昨今の教育情勢にも共通する点で、長らく、政治や行政が大学などの教育機関に求めてきたのは、良い表現であれば「実学重視」ですが、実際のところは単なる教養の切り捨てです。人文科学や社会科学が軽んじられ、科目が削減されたりしている訳です。実際、私が教室で、書店で、など色々なところで、私自身のことを含めて驚かされるのが、歴史、哲学、芸術などに関する知識(本当は知恵が望ましいのですが、さしあたりは知識です)のなさです。目先のことばかり考えられているから、たとえば自然科学でも基礎科学が軽んじられたりするのですが、こうしたことが日本の競争力の喪失につながっているのでしょう。一部の政治家はもとより、広く日本国民に見られると思われる法治主義、法の支配に対する知識の欠如は、COVID-19の猛威の下で見事なまでに暴かれてしまいました。
時々、政治家の発言などを見ると「この人は、果たして大学でどの程度勉強なり学習なり研究なりを積んだのだろう?」と思うことがあります。ドイツの政治家には博士号取得者が何人も見られます(例、現在の連邦宰相であるメルケル氏、『荒れ野の40年』で有名な元大統領のリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー氏。『荒れ野の40年』は、私が大学院生時代にドイツ語の本で入手し、ドイツ語の勉強のために何人かの院生と輪読をしたことがあります)。別に博士号を取得している必要はありませんが、教養も何もない、ただひたすら思い付いたことを放言しまくるというのでは、メッセージも何もないということになります。昨今の政治家の「言葉の軽さ」はよく指摘されるところです。
NHK教育テレビで放映されている「日曜美術館」で、時々、1970年の大阪万博のことが取り上げられます。私自身はまだ2歳でしたし、大阪万博を直接体験していないのでよくわからないことも多いのですが、日本はもとより世界の、前衛に位置する芸術家、たとえば岡本太郎、カールハインツ・シュトックハウゼン、ヤニス・クセナキスが関わっていたことに驚かされたことがあります。
2025年に再び大阪で万博が開かれることになっていますが、果たして、1970年と同様のことが起こるでしょうか。あまり期待はしないほうがよいという答えが返ってくるでしょう。
元々、私は歴史に関心がありました。だからという訳でもないのですが、大学に入り、法律学に取り組み始めてから、すぐに歴史や哲学の重要性に気付かされました。法の支配、法治主義など、憲法学における概念の一つ一つに、歴史や哲学などの背景があります。勿論、憲法学に限られません。
背景を切り捨て、概念そのものだけを取り入れるのは、明治時代以来の伝統なのかもしれません。和魂洋才という言葉もあるくらいです。ただ、よく覚えていないのですが、当時からそのような姿勢に対する批判はあったはずです。しかし、現在にまで続いているのです。いや、和魂でも入っていればまだよいのかもしれません。何の魂も入っていなければ、話にならないでしょう。
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クラシック音楽の世界を見ていると、法律学と音楽には浅からぬ関係があることがわかります。このことを、ドイツの法学者、パウル・キルヒホーフ氏が、ドイツ租税法学の父と言われるアルベルト・ヘンゼルについての論文の冒頭に書いています。ヘンゼルの母方の系図をたどっていくと、あのフェリックス・メンデルスゾーンの姉、ファニー・メンデルスゾーンにつながるのです。ヘンゼル自身もピアノを演奏していたようですし、彼の最初の論文はベートーヴェンに関するものです(私も大分大学時代に入手しました。訳してみようかと思いつつ、まだです)。
この他の例をいくつかあげておきましょう。まずは、「トロイメライ」などで知られるシューマンで、彼はライプツィヒ大学の法学部に入学しています。次が、交響曲第6番「悲愴」などで知られるチャイコフスキーです。彼は法律学校の出身で官吏の経験もありました。そして、20世紀の大指揮者の一人であるカール・ベームです。彼は法学博士号を取得しています。