日本においては、2020年2月以降、新型コロナウイルスの猛威が止みません。ついに4月16日、緊急事態宣言の適用範囲が全都道府県に拡大されました。このような中では、どこかへ遊びに行こうという気にすらなりません。私自身、本来ならば前期の講義期間が始まっているはずであるのに、自宅での仕事を余儀なくされています。春に京阪神地区へ行こうかと思って少しばかりの準備もしましたが、2月に断念しました。
さて、今回は、タイトルにあるように、2005年9月18日に訪れた十国峠の模様を取り上げましょう。実は私の「川崎高津公法研究室」に掲載していた「待合室」の第149回「お墓参り(御先祖様との再会)の帰りに(その1)」(2005年10月27日〜11月11日掲載)および「お墓参り(御先祖様との再会)の帰りに(その2)」(2005年11月11日〜11月21日掲載)の再掲載なのですが、統合の上、一部を修正しました。但し、基本的な内容は掲載時のままです。
2005年9月、私は西南学院大学法学部での集中講義「税法」を担当しました。この時、本来であれば9月7日〜9日および12日〜14日の予定でしたが、台風14号の影響で福岡入りが遅れ、8日、9日、12日〜15日に行いました。
そして、18日、その年の春に購入し、2013年4月まで愛用していたフォルクスヴァーゲンの5代目ゴルフGLiを運転し、伊豆に眠る御先祖様と再会しようと、東名高速道路、小田原厚木道路などを使い、伊東市宇佐美へ行ったのですが、その帰りに何箇所かをまわったのでした。「御先祖様と再会しようと」などと記しましたが、別に私は霊感豊かな人間ではありませんし、逆にふざけている訳でもありません。要するにお墓参りに行ったのです。1997年4月から2004年3月までの7年間、大分市に住んでおり、仕事の関係でどうしても調整がつかなかったこともあり、親族の中で私だけは何回忌だのという行事に一切参加できなかったので、「せめて」ということで伊東市に行ったのです。 ただ、さすがにお墓を撮影することは気がひけました。それに、地元の方には申し訳ないのですが、伊東市にあった御先祖様のお墓(今は横浜市にあります)の周囲にはあまり面白いところがありません。そこで、お墓参りをしたついでに、ゴルフGLiの性能を知るという意味もあって、十国峠に向かうことにしました。
十国峠のそばを通る有料道路であれば、何度か走っています。しかし、この峠の上のほうには行ったことがありません。源実朝の歌碑もあるというので、見てみようかという気になりました。
そこで、日本でもかなり短いほうに入る伊豆箱根鉄道十国峠ケーブルカーに乗りました。
写真でおわかりのように、ライオンズカラーのケーブルカーです。伊豆箱根鉄道が西武鉄道系の会社であるからです。多くのケーブルカーと同じように、2両が交互に走っています。私が乗った車両には「十国」という愛称がつけられていました。
レストハウスのそば(中?)にある十国登り口駅から、山頂の十国峠駅を見ています。ケーブルカーにしてはそれほど急な勾配ではないように見えます。高尾山のケーブルカーや別府のラクテンチケーブルカー(乗ったことはないのですが見たことはあります)はかなり急な勾配です。十国峠の場合、実際には、最も急な所で40パーミル(1000メートル動くと40メートル登る、という意味)ほどです。
ケーブルカーの運転台です。ここに、女性の運転手(というよりはガイドか?)が一人乗り込みます。しばらく経ってから、ケーブルカーが動き出しました。
当初はこのように記しましたが、ケーブルカーの運転士は車内におらず、山上駅でケーブルを動かしているというのが正しいようです。従って、ケーブルカーの車内にいるのは運転士でなく、車掌ということになります。
十国峠駅を降りました。駅を降りると早速、東は熱海、相模湾、北は富士山など、西は沼津から静岡市などが見えるはずです。もっとも、私がこの峠を歩いた時は曇っておりました。
ここは静岡県田方郡函南町ですが、以前は加茂郡といったのでしょうか、そのように書かれています。日金山の頂上、ここから安房、上総、下総、武蔵、相模、伊豆、駿河、遠江、甲斐、そして信濃を見渡せるということから、十国峠と言われています。私はゴルフGLiで来たのですが、公共交通機関を使おうとすると大変かもしれません。熱海駅からバスに乗ることになりますが、本数が少ないのではないかと思われます。
これがケーブルカーの十国峠駅です。丸い建物です。下の階に改札口や売店があり、上の階は展示スペースになっています。標高は700メートルくらいだったでしょうか。
9月中旬でしたが、紫陽花が咲いていました。
十国峠駅から下のほうを見てみました。下の道路を右に行けば箱根のほうに、左に行けば伊東、天城峠のほうに行けます。愛車は、右のほうの駐車場に停めていますが、山に隠れていて見えません。
駅から南のほうでしょうか、少しばかり歩いていくと、広くなった部分があります。その端のほうに、歌碑がありました。藤原定家(一般的には「ていか」と読まれていますが、この時代の人名からすれば「さだいえ」が正しいはずです)に師事したという、鎌倉幕府の3代目征夷大将軍、つまり、源頼朝の直系では最後の征夷大将軍である源実朝の短歌が刻まれた歌碑です。
元々はこの場所になかったのですが、案内板にもあるように、1992年に移設されました。この辺りは、色々な市町村の境界線が入り混じるようなところですが、私が立っているところは熱海市に属するようです。実際、近くにある墓地から山を下ると、熱海駅のほうに行けますし、この場所からも熱海の市街地が見えます。
実朝については様々な評価があるようですが、実際のところ、少なくとも無能な政治家ではなかったようです。ただ、理想に走ったところがあったらしく、おそらくは北条氏の思惑もあり、鎌倉の鶴岡八幡宮で甥の公暁に殺されました。今も、鶴岡八幡宮には公暁が隠れていたという大木があるはずです。
それにしても、北条氏が鎌倉幕府の実権を握ったというのは、歴史の皮肉です。北条氏は源頼朝の側についたとはいえ、れっきとした平家(平氏)です。実際、北条政子のことについて広辞苑をひもとくと「平政子」と書かれています。源平の合戦では確かに源氏が勝利し、平清盛の系統は滅びました。しかし、北条という別の系統が生き残りました。そのため、現実の鎌倉幕府は平家(傍流ですが)の政権だったのです。源氏側が権力を取り戻すのは、鎌倉幕府が滅亡してからのことです。足利尊氏は正真正銘の源氏で、源氏の武家政権というのは、むしろ室町幕府のことであると言えます。
歌碑はかなり傷んでいるようで、近づいてみても読み取れないような字がありました。雨水による浸食作用のせいかもしれません。
もう少し近づいてみましょう。御覧の通りです。よく見ると、御飯粒のような形をしています(それはどうでもいいことですが)。奥のほうへ行くとアスレティックランドか何かがあります。
歌碑のある所から十国峠駅のほうを見ています。こんな所なら、夏の昼頃など、大の字になって寝転がるのもよいかもしれません。虫と戯れるのもいいですね。
もう一度、歌碑を撮影しておきましょう。時間があれば、ここから鎌倉へ出てみるのもいいかもしれません。当時の道に忠実に進むことができればなおよいことです。 歌碑と十国峠駅との間にある場所で、標高は770メートルです。 詳しいことはよくわかりませんが、ここにも、日本史の様々な事情、背景が隠されているのではないかと思われます。ここから北へ少し進めば箱根です。これからケーブルカーで駐車場に向かい、箱根を通って帰ることとしましょう。
2005年10月には2度も大阪へ行きました。学会に出席するためです。デジタルカメラを持っていかなかったので、写真などは一枚も撮っていません。しかし、阪急神戸線や千里線、大阪モノレールに乗って楽しんだりはしました。カメラを持って行って撮影しておけばよかったと思っています。