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森中定治ブログ「次世代に贈る社会」

人間のこと,社会のこと,未来のこと,いろいろと考えたことを書きます

2020市民シンポジウム

2020-03-03 21:47:45 | 人類の未来

以下に示すように、4月18日に東大弥生講堂にて市民シンポジウムを開催します。
https://biogeography.iinaa.net/index.html
折からのコロナウィルス禍で予断を許しませんが、3月になりましたのでご案内をさせていただきます。
私の趣旨説明の後半部分を以下に添付いたします。
楽しいウェルカムコンサートもあります。ご関心のある方はぜひおいでください。
3月18日頃に開催の可否を決定しますので、申し込みはその後にお願いいたします。
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2019年11月9日、人間の分断のまさにその象徴とも言いうるベルリンの壁が崩壊してちょうど30年が経ちました。「自由主義は多くの難題を抱え、民主主義も完全ではない。しかし、私たちは人を閉じ込める壁を作ったりはしない」と、1963年に西ベルリン市民に向かって米国のケネディ大統領が演説しました。しかし、その米国の大統領がまさに今にメキシコとの国境に巨大な壁を作りました。ベルリンの壁崩壊30年の記念式典で演説したドイツのメルケル首相は、「壁の崩壊は、人々を分断する壁がいかに高くあろうと、それを打ち破ることができる証だ」と述べました。しかし、ベルリンの壁崩壊30年後の現代、一つの欧州を実現した欧州連合(EU)において、長さの総計がなんとベルリンの壁の6倍にもなる難民流入防止用フェンス(壁)が生まれました。

「平成の野麦峠ね 実習生」 夏休み(中畑流万能川柳 2019. 03. 06)

我々の社会、人類社会のあり方に善悪はありません。我々個人はそれぞれが分離し、それぞれに独立した考え方、主張、理念・理想をもちます。それは個々の個人の価値観であって、相互に個人の価値観を尊重するが故に自由主義、民主主義が成立します。だからどういう社会にするかは、その時を生きる人の多数決になります。神ならぬ人間の持つ知識は非対称で不完全です。すなわち、ある人は知っていても他の人は知らないということは普通です。またフェイクニュースを信じたり、詐欺に引っかかることはオレオレ詐欺がいつまでもなくならないことを考えれば容易に理解できます。間違い、誤解、偏見、好き嫌い、人類からこれらがなくなることはないでしょう。こういった不完全な情報と感情の統合によって人間は意思決定します。
しかし、逆に多くの人がアプリオリ(先験的)に望ましいと考えること、願うことがあります。アプリオリとは、あれこれ損得を考え理性的に計算した結果、〇〇が正しいと意思決定することではありません。多くの人の心に、理由なくそれが正しい、そうしたいという願い、心の中に自然に湧き上がる願望です。現代社会を形作るその基礎となっている大前提、社会規範のことです。具体的に示せば、現在の日本国憲法に規定された基本的人権です。誰もが幸福になる権利を持ち、誰もが平等であり、誰もが差別されることがなく、誰もが生きる権利、教育を受ける権利を持つことです。誰もが人間らしい生活を通して幸せになる権利です。こういう理念は、多くの人が共有し、その理由など考えるまでもなく当たり前だと誰もが思います。多数決を取れば、誰もが迷うことなく賛成するから盤石なのです。
しかし、我々個人々は離れた異なる存在であり、異なる意見を持ちます。自分に全く無関係の、赤の他人の生存のために自分の所有する富を提供したくないとか、この国は仲間だからこの国の人は助けたいが、あの国は嫌いだからそこの人々は助けたくないとか、こう考える人が大多数になったらどうでしょうか。誰もが当たり前として疑うことのなかった基本的人権を、私はそうは思わないと考える人が過半数になったらどうなるでしょうか。所与の大前提として現代人の心に湧き上がる基本的人権が、なぜそうのか、それが一体どこから来るのか、その点について思考を深めなかった人類の怠慢であり、少数の超富裕者のもつ富が全人類の半数にも及ぶ貧困者の富の合計を超えてさらに大きくなろうとする現代社会は、基本的人権は人類の所与の大前提ではないとする人がさらに拡大することとパッケージであるように、私には思われます。
現代人の誰もが理由なく正しいと考える、心から湧き上がる基本的人権は、人間が進化の過程で身につけたものだとすれば理解が容易でしょう。人類はチンパンジーの祖先と袂を分かった600万年前から現代までほとんどが狩猟採集生活の時代でした。一人で生きていくことはほぼできなかったでしょう。厳しい自然環境の中で集団で暮らすことによってのみ生命を永らえてきたのでしょう。だから仲間外れにされることは死を意味しました。つまり仲間外れの人間というものは誰もいないのです。集団への強い尊重の意識と敵味方の意識が生まれたのでしょう。俺たちとあいつら、つまり味方と敵を峻別し、それに従わないものには厳しい罰。そういうしきたりをなぜ作ったのかと問われても答えはないのです。そのような指向を持った集団ゆえに現代まで生命を永らえてきたと考えると理解がしやすいのです。それは進化心理学という学問になっています。そしてその集団内では個々に個人が競争し、その競争に打ち勝った個人が持つ遺伝子が次世代へと伝わって、その遺伝子を持つ人たちがやはり現代まで生命を永らえてきたのでしょう。なぜ他人と争うのか、他人との競争に勝とうとするのか、それにも本源的な論拠はないのです。ゆえに、個人がより裕福になろうとする指向性について、その論拠は説明し難いし、裕福なものが財力、知力、持てる力の全てを駆使してより裕福になろうとするその意志が普遍的(誰にもある)であることがわかっていただけると思います。もちろんそれは、そのまま肯定されるものではありません。しかし、人類は今後どう存続していくのか、それを考えるための一つの大きな要素ではあります。
しかし、そういった狩猟採集生活時代における自然選択(生と死)によって自然発生的に人類の指向性が生じたとする説明は、集団同士における敵味方の枠を超えた人類愛については説明が難しいのです。種を超えた生命愛についてはなお説明が難しいのです。人間にはもう一つ、それは人間が生物であること、有性生殖生物であること、つまり生命の仕組みそれ自体から湧き出てくる指向性があると考えられます。そしてそれら総ての指向性が一人の人間の中で協力し、あるいは相克しています。
現代の日本国憲法に記された基本的人権は、自然科学的なバックボーンを持ちます。まずこれを理解することが重要です。現代の人類が普遍的に持つ理念は生物学的な視点からの検討が必要です。個人の価値観は、あくまでその個人のが生きてきた歴史、好悪、嗜好などが入り混じったものであり、生物学から得られたデータや知見、あるいは理性的な計算によって唯一の正解が見出されるものではありません。個人の価値観や意思は、たとえどのような内容であろうとも、あくまで個人が決定すべきものです。生物学的な発見や理解は、これが正しい人間の価値観だと証明するものではありません。個人の価値観や意思決定に役にたつけれども、あくまで単なる一つの要素です。しかし、現代の人類にとっては、とてつもなく大きな意味を持つと私は考えます。
人間はどのように生きるべきか。どのような社会を作るべきか。この問いに対して自然科学はずっとそっぽを向いてきました。個人が持つ価値観、個人が持つ人類社会はこのようにあるべきという理念や理想と自然科学は交わりませんでした。その結果、人類がどのような未来を持つべきなのか、未来社会のあるべき姿の探索は哲学や心理学など社会科学の独壇場となりました。しかし、人を殺すなとか、他人に迷惑をかけるなとか、人間はこうあるべきなどという道徳や倫理は人間の本源的、普遍的な美意識に基づいており、その美意識は生物学的な基盤を持ち、それぞれの人間の心の中に論拠なく自然発生します。どういう時にあるいはどういう相克があって自然発生するのか、それを社会科学に携わる者と自然科学に携わる者がともに手を取り、一緒に考えることがこれからの学問の道であり、また教育の大きい一面だと、私は考えます。

1.人間はなぜ対立(壁、分断)するのか?
2.その対立はいつまで続くのか?
3.その対立を解消する方法はあるのか?

この3つの問題に対する一つの答えが、私が扱った生物学(種問題)への理解から得られます。

今回ご講演をいただく丹羽宇一郎先生は、総合商社でずっと働いて伊藤忠商事社長、会長を務められ日本の民間会社の中で人間というものをずっと見ていらっしゃいました。そして中華人民共和国駐箚特命全権大使を務められ、日本人と中国人、アジア人・・、人類の所業とその未来について考えていらっしゃいました。今回丹羽先生からいただきましたテーマの一部である~人こそ最大の資産~は、丹羽宇一郎先生の長く波乱万丈の人生経験における個別のお話ではなく、日本の、そして人類の未来を見据えた総合論になるかと存じます。何より、人間そのものについての思索をお聴きできればと思います。
本日のご講演とその論評と活発な討議が、人類社会の夜明けに射す光となることを私は願います。

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4月13日(土)市民シンポジウムの趣旨説明

2019-04-10 10:55:32 | 人類の未来

今回は作家の橘玲さんをお迎えして、「リベラル化する世界の分断」というテーマでお話しいただきます。論評者として作家の吉川浩満さん、哲学者の神戸和佳子さん、弊学会の春日井治さんに論評をいただきます。最初にウェルカム・コンサートで私も2曲歌います(笑)

https://www.tachibana-akira.com/2019/03/11583

おかげさまで400名の会場が満席でキャンセル待ちの状態です。ご参考までに私の趣旨説明を以下に添付いたします。

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我々が生活を営むこの人類社会の終焉は、どのように来るだろうか。

日本には1 億3000 万の人が住み、先進国として多様な食べもの、きれいな水、そして高い利便性をもち、物質的にもとても恵まれた生活を享受している。中国には13 億6000 万、インドには12 億6000 万の人がいる。ともに日本のほぼ10 倍である。この人たちが日本、米国を追いつけ追い越せと現資本主義のルールで世界的な展開を図っている。中国がアフリカの資源と北海道の水を押さえに入っているというニュースは、既にインターネットや週刊誌などで広く話題になっている。しかし、それらの国がコモディティー(生活用品)と生活の利便性において、日本と同レベルに至るには地球が2.5 個必要である(拙著『プルトニウム消滅!』p.205-210)。地球を2.5 個に増やすことは絶対にできない。ゆえに、我々が公正と認め標準にしている現在の自由主義、資本主義のルールが破綻し、現在の人類社会の終焉が来るのは、論理的な帰結のように思える。人類は、これをどのように平和裡に乗り越えるのか。これこそが、我々人類の現代の究極の課題ではないのか。 

「善悪に関心持たぬテクノロジー」 崩 彦(中畑流万能川柳 2018.10.3)

どれほどAI が進歩しても、仮にシンギュラリティー(技術的到達点)が到来して人工頭脳が人間の管理を離れ、それ自体が自ら考え設計し生産するようになったとしても、どういう目的を持って自ら生産を行うのか、それは我々人間がAI にインプットする。シンギュラリティーなど来ても来なくてもどちらでも同じ。我々人類は、これからどういう目的を持って人類社会を営んでいくのか、発展させていくのか。我々は今、その方向性を定めるべき歴史的な到達点を迎えたのだと思う。

自由社会とは個々の人間がそれぞれの自由な意思で好き勝手に暮らす社会である。ゆえに人類社会の方向なんてものはない。それぞれ個人が好き勝手に歩んで来た道が人類の道である。こういう考え方に、私は与しない。ステュアート・ミルが言ったように「自由」とは勝手気ままではなく一つの方向がある、と私も思う。その方向とは、どの方向か。それは、ミルの時代では、人間の思考だけによる思弁、観念論だった。その時代は過ぎ、自然科学から得られたデータやエビデンスを土台にして、多くの人が納得できる目に見えるものを提案する時を、人類は迎えたと思う。

コモディティー(生活用品)と生活の利便性において、地球が2.5 個必要な状態へと、今後も同じ方向にさらに突き進んだ時、現在の自由主義、資本主義社会の状態で人類社会はどうなるだろうか。

2019 年1 月、ダボス会議に合わせNGO オクスファムは、世界の富の偏在に関する報告書を公開した。世界の富裕者上位26 人が所有する資産は、世界の人口の約半数に当たる貧困層38 億人が持つ資産と、ほぼ同額と指摘した。私有資産では、26 人:世界の人口の半分、という構図である。今後も、裕福な人はますます裕福になり、貧しい人はますます貧しくだろう。なぜなら、裕福な人はさらに裕福になるように働く(行動する)からである。その上、政府もメディアも警察も全てが彼らを守る盾となるだろう。そのように働く(知力、財力を用いる)からである。過去のように特定のイデオロギーの下に暴力革命で富裕者を殺し、生産手段を奪い取ることは不可能である。第一、暴力に正義はない。むろん解決もしない。

その結果、現在は私有資産において世界の富裕者とバランスする世界の人口の50%の貧困者が、未来においては60%、70%と増えていくであろう。つまり超富裕者が存在し、一方で貧困者は世界の過半数を占めるという人類社会の構図である。こういう人類社会は正しいのだろうか。善なのだろうか。

我々の社会、人類社会のあり方に正邪、善悪はない。我々個人はそれぞれが分離しそれぞれに独立した考え方、主張、理念・理想をもつ。それは個人の価値観であって、他人の価値観は尊重されねばならない。だからどういう社会にするかは、その時を生きる人の多数決になる。神ならぬ人間の持つ知識は非対称で不完全である。すなわちある人は知っていても他の人は知らないということは普通にある。またフェイクニュースを信じたり、詐欺に引っかかることはオレオレ詐欺がいつまでもなくならないことを考えば容易にわかる。間違い、誤解、偏見、好悪・・、人類からこれらがなくなることはないだろう。こういった不完全な情報と感情の統合によって人間は意思決定する。

しかし、逆に多くの人がアプリオリ(先験的)に望ましいと考えることがある。アプリオリとは、あれこれ損得を考え計算した結果、〇〇が正しいと意思を決定するものではない。多くの人の心に、理由なくそれが正しい、そうしたいという思い、心の中に自然と湧き上がる願望である。現代社会を形作るその基礎となっている大前提、社会規範である。具体的に示せば、現在の日本国憲法に規定された基本的人権である。誰もが幸福になる権利を持ち、誰もが平等であり、誰もが差別されることがなく、誰もが生きる権利、教育を受ける権利を持つことである。誰もが人間らしい生活を通して幸せになる権利である。こういう理念は、多くの人が共有し、考えるまでもなく当たり前だと思う。多数決を取れば、誰もが迷うことなく賛成するから盤石なのである。しかし、我々個人一人々は離れた異なる存在であり、異なる意見を持つ。自分に全く無関係の、赤の他人の生存のために自分の所有する富を提供したくないとか、あの国は仲間だからあの国の人は助けたいが、この国は敵だからそこの人々は助けたくないとか、そう考える人が過半数になったらどうだろうか。誰もが当たり前として疑うことのなかった基本的人権を、私はそうは思わないと考える人が過半数になったらどうなるだろうか。所与の大前提として現代人の心に湧き上がる基本的人権が、それがどこから来るのか、その思考を深めなかった人類の怠慢であり、先に述べた少数の超富裕者が全人類の半数の貧困者を超えてさらに大きくなる人間社会は、基本的人権を所与の大前提ではないとする人がさらに拡大することとパッケージであるように、私には思われる。

現代人の誰もが理由なく正しいと考える、心から湧き上がる基本的人権は、人間が進化の過程で身につけたものであろう。人類は600 万年もの狩猟採集生活の時代、厳しい自然環境の中で集団で暮らすことによって生命を永らえてきたのだろう。だから仲間を自分自身と同様に大事にし、逆に仲間はずれにされることは死を意味した。非常に強い集団への尊重と敵味方の判別の指向性が生まれたのだろう。俺たちとあいつら、つまり味方と敵を峻別し、それに従わないものには厳しい罰が与えられる。そういうしきたりをなぜ作ったのか、なぜ尊重するのかと問われても答えることは難しい。そのような指向を持った集団ゆえに現代まで生命を永らえてきたのであろう。そしてその集団内でより多く子孫を残した人たちがやはり現代まで生命を永らえてきたのだろう。ゆえに、なぜ個人が競争に打ち勝ってより裕福になろうとし、裕福なものが財力、知力、持てる力の全てを駆使してさらに裕福になろうとするのか理解することは難しいが、生物学的な視点を持つことによって明確な認識が可能になりまた理解しやすくなろう。もちろんより裕福になろうとする指向性は、そのまま無制限に肯定されるものではなく制御せねばならない。生物学的な視点からの理解は、我々人類がその真の制御方法を構築するために必須であろう。その指向性は人間の進化の過程と次に述べる生命の仕組みから生み出されるものであり、その理解と認識なくしてそれを真に制御することはできない。その指向性に対する明確な認識と理解が進むことによって、その制御は強制ではなく真の制御つまり和解となる。

しかし、そういった狩猟採集生活時代における自然選択によって自然発生的に生じたとする説明は、集団における敵味方の枠を超えた普遍的な人類愛については説明が難しい。種を超えた生命愛についてはなお説明が難しい。人間にはもう一つ、それは人間が生物であること、つまり生命の仕組みそれ自体から湧き出てくる意思がある。そしてそれら総ての意思が一人の人間の中で協力しあるいは相剋している。

現代の日本国憲法の基本的な理念は、自然科学のバックボーンを持つ。まずこれを理解することが重要である。現代の人類が普遍的に持つ理念は生物学的な視点からの検討が必要である。個人の価値観は、あくまでその個人の考えであり、生物学から得られたデータや知見、あるいは計算によって唯一の正解が証明され得るものではない。個人の価値観や意思は、どうであろうとあくまで個人が決定すべきものである。生物学的な発見は、人間の価値観はこれが正しいと証明するものではなく、個人の価値観や意思決定に単に影響を与えるものである。しかし、これはとてつもなく大きい意味を持つ。

人間はどのように生きるべきか。どのような社会を作るべきか。この問いに対して自然科学はずっとそっぽを向いてきた。自然科学における発見やエビデンスと、個人が持つ価値観とは無関係と断じてきた。その結果、人間がどのような未来を持つか、未来へと歩む道の探索は哲学や心理学など社会科学の独壇場となった。しかし、人を殺すなとか、他人に迷惑をかけるなとか、人間はこうあるべきなどという道徳や倫理は人間の本源的な美意識に基づいており、その美意識は生物学的な基盤を持ち、人間の心の中に自然発生する。どういう時にあるいはどういう相剋があって自然発生するのか、それを一緒に考えることがこれからの教育の大きい一面だと、私は考える。

今回ご講演をいただく作家の橘玲先生は、2019年1月に新著『もっと言ってはいけない』を上梓された。今まで言ってはいけないことになっていたこと、考えてはいけないこと、タブー、それを明らかにして議論を進めるべきときがきたのである。その内容は、多くが生物学を基盤とし、それから得られたエビデンス(証拠)に基づいた人間社会論の展開、つまり自然科学と社会科学の融合である。これが人間の基本的人権を、自然科学を土台にして改めて認識する大きな力を与えてくれるだろう。そして、人類が生命体としてどういう存在なのかを示した拙考『種問題とパラダイムシフト』は、生物学と哲学の融合であり、今回のシンポジウムと重なる。

本日の講演とその論評と活発な討議が、人類社会の夜明けに射す光となると私は考える。

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市民シンポジウム「種問題とパラダイムシフト」をめぐって

2018-03-18 11:19:01 | 人類の未来

前回のブログに記したが、「生活費のない老人、親戚縁者友人など誰からも援助のない老人を、なぜ税金で助けなければならないのか。なぜ赤の他人の若者がそんな人の生活を支えねばならないのか」という疑問が見えないところで広がっている。前回のブログを書いたとき、閲覧者の数は、なんと日頃の20倍に跳ね上がった。私はその考え方の問題点と処方箋を書いた。もし、70歳を過ぎた人には一切社会保障をしない。無論資産のある人はその資産で自由に生きればよいが、資産のない人は安楽死をしてもらう。こういう政策を掲げる政党があれば投票し応援する。ここで止めておけば、20倍どころか何百倍、何千倍の閲覧者になったと思う。これは、欧州の移民・難民排除の政党の台頭・急進あるいはトランプ現象と同じだと考える。人類社会において、いま何が問題なのか?どういう仕組みで、全世界にこのような潮流が押し寄せるのだろうか?この壁を乗り越えるにはどうしたらよいのだろうか。

新自由主義の原理をなす「リバタリアニズム」。日本語では、自由至上主義とか自由尊重主義と呼ばれる。個人の意志を最上位に置く思想である。貧しい人を支えたい。それを否定はしない。そう考える人がいれば大いに結構だ。そうすればよい。しかし、そう考えない人まで一律に税金を徴収し、そこから支払う。そこに問題があると考えるのである。論考『種問題とパラダイムシフト』にも書いたが、これはリバタリアニズムと少し違うように思うが、一般にはこのような理解だと考える。

この考え方には欠陥がある。というより、この世の実体の半分しか現していないのである。

これが今回の市民シンポジウムの内容であり、何が欠けているのか、何を理解すればよいのか、人類が成長の過程で今迎えた巨大な壁をどうすれば跳躍できるのか・・・

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 種問題、生命論、生物学に端を発し、哲学、現代の社会規範、税金の意味に及ぶ壮大なシンポジウムです。

人類が乗り越えるべき壁を示します。

ぜひおいでください。

 申し込み:森中まで(参加費千円、資料代別途500円、懇親会3500円参加の可否も含めて)メールをお願いします。

宛先:delias@kjd.biglobe.ne.jp

 なお例年の弥生講堂と違って、狭い会場です。早めにお申し込みください。満席になったら締め切ります。

 日時:4月7日(土)午後1時から4時過ぎまで

場所:東京大学農学生命科学 フードサイエンス棟中島菫一郎記念ホール

(メトロ南北線 東大前下車)

報告者:森中定治

論評者:松井暁(専修大学教授)、大西広(慶応大学教授)、原田桃子(元高校生平和大使、立教大学)、春日井治(日本生物地理学会会員)

クロージンングアドレス:養老孟司(東京大学名誉教授、養老昆虫館館長)

ポスター

http://www.nua-alumkanto.net/image/simpo20180407.jpg

 

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2017.4.8 市民シンポジウムを終えて

2017-04-15 08:35:42 | 人類の未来

4月8日(土)東京大学弥生講堂で開催した市民シンポジウムにお出でくださいまして有難うございました。学長になられたばかりの自然人類学者の長谷川眞理子先生のお話と、ノーベル賞理論物理学者の益川敏英先生と長谷川眞理子先生の対談、そして質疑の後、放送大学特任教授でカント哲学者の渋谷治美先生に取りまとめをしていただきました。

また最後に元シールズの奥田さん、新外交イニシャティブ(ND)の猿田さんが、飛び込みでいらして人類の次代を継ぐ若者として今日のシンポジウムの内容を受けて感想を述べてくださったことは私としてはとても嬉しかったです。

私も1、プルトニウムと原発、核兵器、2、相模原障害者殺傷事件を表面に出た一つの事例として現代の世界の流れと人間の立ち位置について趣旨説明に盛り込みました。この1と2について4月22日(土)に、それぞれ別の集会で、二つ掛け持ちで話をします。1については、猿田さんが最近プルトニウムについてのご著書を上梓されたというので、是非読んでみたいと思います。2については、私のチョウを対象とした系統学研究や生物の種、生命についての思索が、相模原障害者殺傷事件、トランプ現象、ヘイトクライムや移民排除など、個人あるいは特定の限定された集団の利益擁護という現人類の歴史的な流れそれ自体につながりました。この人類の流れをどのように転轍するか、というより生命自体がもつ本来の流れに戻すこと、これは私の生涯に与えられたテーマとして捉え、今後進展を図りたいと考えます。

ウェルカム・コンサートは初めての試みでしたが、アンケート結果では概ね好評です。声がホールに響き渡ったという感動のコメントを頂いて、お出でいただいたソプラノの岩崎京子先生もとても喜んでいます。今後どうするか伴奏も含めて考えてみたいと思います。

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テロへの処方箋・・合唱劇「再生の大地」がもつ意味

2016-01-23 12:12:47 | 人類の未来

もし日本でテロが起きたら・・

新幹線が爆破転覆,通勤時の新宿駅が爆破され何百人,何千人の死者・重傷者が出た.自分の奥さんが殺された,子どもが死んだとなったら,軍備を増強しろ!朝鮮,中国をやっつけろ!となりかねません.これを止めるためは,憎しみを憎しみで返さないことが人間に要求されるのです.人間はその能力を持っているけれども,それは並大抵のことではないでしょう.

昨年末にフランスで,ISのテロで奥さんを殺されたレリスさんがISに対し「君達に憎しみの贈り物をあげない」と言いました.憎しみを憎しみで返さないという意思表示です.フィリピンのキリノ大統領も日本軍に対して同じことをしました.NHK(BS1)を観て涙しました.「憎しみとゆるし マニラ市街戦その後」,素晴らしい番組でした.中国では“恨みに報いるに徳を以てす”と言い,日本では“罪を憎んで人を憎まず”といいます.

 平頂山でゲリラを通過させた腹いせに,村人を皆殺しにした日本軍が終戦時ソ連軍に捕まり,シベリアに抑留されます.シベリア抑留が終わり,捕虜の日本兵の祖国への帰還が次々と許されます.しかし彼等だけは,さらに中国の撫順戦犯管理所に送られます.中国人を皆殺しにしたことをソ連は知らないが中国は知っているんだ!だから刑期を終えてもさらに中国に送られるんだ!と怖れおののきます.

撫順戦犯管理所で何が起こったのか.

人間は人間を平気で殺すけれども,その逆もします. “人間の本当” を目の当りにします.テロの連鎖を断ち切るには,これしかないと私は思います.

こんな悲しいことを起こさないように,想像し予想して日頃から恒常的に心がけ友愛を深めていくことが99%だと思います.しかし,起こってしまってから更なる連鎖を止めるためにはこれしかないと思います.

まさに憎しみの連鎖を断ち切った実話です.テロへの処方箋です.合唱劇「再生の大地」,ご都合のよい人は是非観てください.

http://www.bujun-no-asagao.org/20160207concert.html

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この子は,沖縄だ・・

2015-07-18 09:59:08 | 人類の未来

現役の頃,沖縄へは何度も行きました.名護へも行ったし石垣島にも数回渡りました.全部仕事で,観光目的や社会運動で行ったことはありませんでした.

リタイアしてから,自分の専門の研究や趣味とは別に,日本がどうなっていくのか,人類がどういう道を歩んでいくのか,その行く末が気がかりで社会問題のグループで討議をしたり,講演会に参加したり,幅広く本を読んだりしてきました.今回の沖縄ツアーは「コスタリカに学ぶ会」の勉強会で誘われて参加しました.『この子は,沖縄だ・・沖縄へ行こうwith RED WEAR(女の平和)』というツアーで今回が3回目,30名の募集をオーバーし32名の参加者でした.若い人,憲法に大変深い思索をされる人,いろんな人と話ができてとてもよかったと思いました.私にとって重要な問題の答えが得られたことは大きな収穫でした.

ツアーは7月11日(土)から13日(月)の3日間で,メインの12日は「島ぐるみ会議」が用意してくださったバスで,沖縄『建白書』の趣旨をお聴きし,親切なガイドをしていただいて辺野古の海を見ました.美しい海に広く連なる黄色のオイルフェンス(浮き)は自由な航行が妨げられるとのことでしたが,これは見た目にも醜く映りました.それから参加者全員に配られた赤いタオルやそれぞれが用意した赤い服を着て,キャンプ・シュワブのテント村で抗議の座り込み,そして東京オリンピックの直前,植木等が一世を風靡した「スーダラ節」の元気のいい替え歌と振りで抗議のアピールを行いました.翌日13日は「ひめゆり平和祈念資料館」,日本軍が壕(沖縄ではガマと言われます)を作って籠った「暗御門(クラシンウジョウ)」,そして米軍に追いつめられた日本兵や市民が身を投げた断崖「ギーザパンダ」など悲しくも意義深い場所を訪れました.

「ひめゆり平和祈念資料館」では,心が締め付けられるような気持ちになりました.殺しあい殴り合って物事を決めるのは人間の諸行ではないと思います.過去人間がものを深く考えることのできない動物であった時は,それでよかったのかもしれませんが,少なくとも他の動物とは違って,ものを深く考えることができ,また考えた結果を他人に示すことができます.そんな人間にあって殴り合い殺しあって物事を決めることはイヌやネズミ以下だと私には思われました.11日の夕食後は,「基地・軍隊を許さない女たちの会」の高里鈴代さんらから,12日の夕食後は沖縄で平和の語り部をしていらっしゃる横田眞利子さんからお話をお聴きしました.いずれも過去日本軍がしたこと,現在の米軍基地をそのままにしている日本政府に対して強い怒りをもっているけれども,だからといって暴力でやり返そうとは思わないと話されたことがつよく心に残りました.中国の撫順戦犯管理所のこと,日本軍に妻子を殺されたフィリピンのキリノ大統領が日本敗残兵にしたこと・・,暴力を暴力で返さない・・この人間の心と行為は,言葉で形容できません.

私は,リタイア後声楽を初めて習いました.今年10月12日(月,祝日)に仲間と一緒に都内のホールで平和憲法にちなんだ声楽のコンサート(『コンサートナイン2015』)を開催します.護憲や反戦などのオリジナル曲が沢山出ます.ハングルの歌もあります.心安らいでいただきたく思います.2日目の夕食時にそのご案内をさせていただき,日本歌曲の「初恋」,「落葉松」,イタリアオペラのアリア「愛さずにはいられないこの想い」を唱わせていただいて,そして皆で「芭蕉布」を歌いました.聴いてとてもよかったというご感想を沢山の方からいただいたことがとても嬉しかったです.次のブログで、このコンサートのご案内をいたします.

2日目と3日目の早朝に,このツアーの世話人の一人であった田中美津さんの呼吸法のレッスンに参加しました.初日は“ウー”,2日目は“オー”の呼吸法で,身体がリラックスするのを覚えました.声楽の発音と相通ずるように思いました.

その他にも,今回のツアーではチョウの研究仲間から数種類のチョウを採ってきて欲しいと頼まれました.台風の直後で断続的なスコールや強風があり,辺野古ではタマムシとシロオビアゲハしか採ることができませんでした(不要なので両方とも逃がしてやりました).「暗御門」では立派なオオゴマダラのメスを採りましたがこれも放しました.断崖「ギーザパンダ」では,最も強く希望された“ナミエシロチョウ”と“カワカミシロチョウ”のメスを採りました.飼育と観察を行うようです.

帰ってその翌日から,地元の「綾瀬川を愛する会」の会議や川関連のNPOの会議,埼玉県主催の生物調査の中間報告会,間もなく「彩の国さいたま芸術劇場」で行われる声楽コンクールの伴奏合わせなどひっきりなしで息つく暇もありません.このせいかちょっと熱中症気味です.強い陽射しに当るのを避け,可能な限り静養したいと思います.

このツアーで最も印象に残ったのは皆が揃った羽田空港の待ち合いで配られた名札です.1965年沖縄で幼稚園に通う幼い女の子が米軍にひき殺された衝撃の写真(嬉野京子/写真)でした.そもそもこの1枚の写真が,このツアーの発端だそうです.そして,その少女が生きていたら・・それが描かれた(阿倍紀子/画)素敵な名札です.添付します(絵をクリックすると大きくなります).最後になりましたが,ツアーでお世話をいただいた杉浦ひとみさん,田中美津さん,泉田守司さん,有り難うございました.

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市民シンポジウムを終えて

2015-05-12 10:39:47 | 人類の未来

2015年4月11日に立教大学タッカーホールで開催された市民シンポジウム「次世代にどのような社会を贈るのか?」“右派の異端者 左派の異端者”に多数おいで下さいまして厚く御礼申し上げます.

今年で,立教大学のタッカーホールでの開催が最後となりました.それで,右派の鈴木邦男さんとお話しして,人類の未来,日本人の未来に贈る1.貧富の格差/経済,2.国防/憲法,3.原発/エネルギー,核兵器を含めた人間の生き様についての総合論にしました.

メインスピーカーであった鈴木邦男さんがご自身のブログに経過とご印象を掲載されましたので転載させていただきます.

http://kunyon.com/shucho/150420.html

市民シンポジウム「次世代にどのような社会を贈るのか?」は,立教大学で2011年の計画停電の時を除いて2004年から今年まで11回連続で開催しました.来年も場所を変えて,おそらくは規模は小さくなると思いますが,継続していきたいと考えています.

以下に参加してくださった方から頂いたコメントを付記して御礼に代えさせていただきます(一部加筆修正).

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 先日4/11の市民シンポジューム(立教大学)は様々な分野の人からの話しが聞けて有意義なひとときでした。今回この会場では最後とのことでしたが企画はぜひ継続されることを希望します。森中さんも司会・進行・講演とお疲れ様でした。

 さて当日の入場者数ですが、朝日新聞に掲載されたわりに少なかった印象があります。前10列くらいはぎっしり座っていましたが後ろ10列にはまばらで一般の人たちの関心の薄さが見て取れました。パネリスト・関係者の知り合いのグループの人たちが全体の三分の一を占めていたでしょうか。なんといってもトータル6時間の長丁場は途中休憩が入ったとはいえ聞いている側からすると辛いものがありました。

 森中氏、鈴木氏、それに対するコメントとして田原氏それぞれ30分はいいとして、宇都宮氏他のパネラーの人数を全部で6名に限定し、各15分計90分、全体で3時間で終了すると(1時半~4時半)5時前には会場を出られ外はまだ少し明るくよかったかもしれません。案の定、田原氏目当ての人たちは休憩と同時にだいぶ帰ってしまいました。

 バリバリ右派代表と思われていた鈴木氏はすっかり丸くなってまるで牙の抜かれたライオンのようでしたが、30代の頃のご自身の考えや感じ方をよく記憶されていてそれと現在の自分と比較して話しをされたところは、人は変わり成長するもの、諸行無常をつくづく感じました。他に印象に残った言葉、フレーズを書き出してみました。(発言順不動)

・    過去に目を瞑る者は現在にも目を瞑る(ドイツのワイツゼッカー前首相)

・    愛国心なんか入らない。恋国心がいい(三島由紀夫)

・    人に批判される人間になれ

・    医者の世界はこの世界しか知らない人たちばかり

・    ドイツ・フィリピンは完全にアメリカの基地をなくした。だが日本はできない

・    中国に招かれ口角泡を飛ばし話した講師のお題は・・「沖縄の日本からの独立」

・    選挙の供託金日本は300万円。因みに米・独・仏・伊はゼロ。

・    中国はこれから百基以上の原発を建設しようとしている。世界一の人口を考えると無理からぬことなのか。

・    中国のトップ大学生は3000人(13億の中の)、日本のトップ3000人(1億3000万人の中の)。どちらが優秀かは言わずもがな。

・    「熔融塩炉」で放射性廃棄物を廃棄すべきお荷物ではなく有効利用できる

  (この話を聞いた後偶然図書館で次の本を見つけた→《「原発」、もう一つの選択~使用済核燃料を処理できる原子炉がある~》金子和夫 ごま書房新社)

・    槍と携帯(アフリカの奥地でさえ)

・    タウン&ガウン(イギリスの身分社会を表す)

・       自由な取材、番組作りができない、なぜならクレームがスポンサーに直に行くから。

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この他にも沢山のコメントやお礼のメールを頂きました.有り難うございました.

2014年の市民シンポジウム「次世代にどのような社会を贈るのか?」”人類は原発をどうするのか?”の詳細な講演録の残部がまだ少しあります.ご興味のある方は森中までメールくださいQYV04336@nifty.ne.jpです.対論者の主張,論評者のコメント,参加者からの質疑まで詳細な講演録です.今年の講演録も作成します.出演者に別刷りとしてお渡ししますが,残部を来年の市民シンポジウムの時に販売の予定です.

なお,全く話は変わりますが,10月12日(月,祝日)に都内で声楽のコンサート(憲法を活かす)を企画しています.時期がくればご案内いたします.単にマイクなしで歌を唱うというだけではなくて,社会性の特徴あるコンサートです.

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特攻隊の遺書をどう読むか

2014-12-11 20:57:42 | 人類の未来

年末に近づいた2014年11月30日,東京渋谷の東京ウィメンズプラザで“NPO法人 ブリッジ・フォー・ピース”が主催して講演会が開催されました. “「いつか来た道」を再び辿らないために,今できること”と題して,ブリッジ・フォー・ピースの鈴木佑輔さんが質問する形で元特攻隊員の岩井忠正さんのお話を聴く催しでした.岩井さんは,1920年の生まれで94歳,こんな機会は滅多にないし,来年4月の市民シンポジウム「対論!右派の異端者 左派の異端者」に向けて自分の考えをまとめるのに有用と思い参加しました.

この集いは30人くらいの比較的小さな集まりでしたが,なんとその半数以上が大学生を含む30歳台以下の若い女性,また男も若者が多く,私のような60歳台以上の老人は私と一緒に参加した2名の他にあと2名,全部で5名程度の,殆どが若者の集いでした.元特攻隊員の話では明るい話ではないだろうし.政治に関する講演会では多くが老人ばかりなので,まるでクッキング教室のようなこのあでやかな集いに大変驚きました.

岩井さんには,さすがに若いお嬢さん(お孫さん?)が付き添っていらっしゃいましたが,そのお話は明瞭で分かり易くかくしゃくとして,拝聴してとてもよかったと思いました.

岩井さんは慶応義塾の学生の時に,学徒出陣で海軍に入隊し,機雷学校に入学して訓練を受け,その後特殊兵器要員に選抜され最初“回天隊”に,その後“伏龍隊”に配属されました.回天は人間魚雷のことで比較的知られていますが,伏龍とは,潜水服を着て海に潜み,棒の先につけた機雷で敵船を突き,敵船とともに自爆する特攻です.出撃の前に戦争が終わり,九死に一生を得たのです.特攻を2種類も経験した人は他にいないのではないかとのことでした.

お話と同時に配られた資料に,「特攻隊員の遺書をどう読むか」という論考があり,ご自身も特攻隊のただ中にいて運命が僅かでもずれれば遺書を書いて出撃した当事者であり,お話は大変重いと感じました.しかし,このブログは,あくまで私が岩井さんのお話から受けた印象です.

特攻隊の遺書は,もと陸軍基地であった知覧特攻平和記念館(鹿児島県)に展示されているものが有名ですが,陸海軍を問わずありさまざまに取り上げられます.また,学徒出陣の兵士が書いた遺書は「きけ わだつみのこえ」としてまとめられ東京大学協同組合により出版されました.そこには,BC級戦犯として死刑となった学徒兵の遺書も含まれるとのことです.(ウィキペディア12.2014)

どの隊員も概ね出撃が決まるとその前夜に遺書を書き,内容も共通するとのことでした.

つまり,それは検閲のうえで両親のもとに届けられるので,ここまで育ててくださった両親にまず感謝を述べ,その両親よりも先に死ぬことを詫び,しかし死ぬ目的が恐ろしい野獣から日本を守るためなので、どうぞ笑って許してくださいという結論に行き着くということでした.しかし,岩井さんのお話では,特攻仲間の中で好き好んで喜んでいる人は誰もいなかったようでした.明日自分は死ぬことはもう定まったことであり,このような遺書を書いてそれを繰り返し繰り返し読みまた考えて自分自身を納得させるのだということでした.

日本人の子どもや女性を守るために,未来の日本を守るために,若い自分が生命を賭けて襲ってくる悪魔と戦う,これには誰もが感動します.人を涙させ,感動させるものがあります.問題は,この感動が侵略戦争に利用されることだといわれました.感動することが悪いのではなくて,それを悪用することが悪いのです.この感動を,逆に人を生かすために用いることができるのではないかと私は考えました.

あと,心に残ったお話は,人間の望み,要求というものは教育によって植え付けられるのではなく,自分自身の中にもっているんだというお話でした.さまざまな社会運動が湧き上がってきます.金が儲かるわけではない,いや金を使ってもやります.なぜそんな社会運動をするのか?自分の中にもっているんですね.

それから「槍は矛を呼ぶ」という言葉,インパクトがありました.さらに戦前と現代の違いは?と問われて,「戦前は民主的な話をすればアカの始まりと言われ,すぐ逮捕された.今は自由民主党(自民党),民主党,社会民主党(社民党),何事も民主的でなくては始まらない.これくらい動き易くなっている.その上普通選挙もある.戦前とは社会環境が全く異なる」とのことでした.なのになぜ,戦前の時のようになっていくのでしょうか.選挙ができるのに,なぜ投票率が50%を切るようなことが生じるのでしょうか.

私は,この辺を来年4月11日の市民シンポジウムでお話ししたいと考えています. 

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平成の国難!日本民族が世界から疫病神,犯罪的民族と言われないために

2013-08-27 14:18:08 | 人類の未来

友人から緊急トピックとして,以下のカレイドスコープというブログを紹介されました.まさに”国難”と言ってよいと思います.

http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-2309.html

福島の原発事故による放射能の海洋流出は,事故当初は海外の研究機関などで紹介されました.私もインターネットで何度か見た記憶があります.ですが当時,原子力安全・保安院の官僚によって,万一汚染水のいくらかが海に流れ出ても,大量の海水で希釈され,魚介や藻などが吸収する前に充分に薄まるので問題ないと言われました.その後そういったシミュレーションを目にする機会がなく,新聞,TVなどの報道もないので忘れていました.

ところが高濃度汚染水が,事故後現在までずっと継続して太平洋に流れ出ていることが分かりました.東電が先般の参議員選挙の後,それを発表しました.300—400tもの高レベル汚染水が,事故後現在まで毎日ずっと流れ出ているようです.

上記のカレイドスコープは2012年7月のデータに基づいたシミュレーションであって,それよりもずっと汚染濃度も汚染水量も大きいことが分かったので,シミュレーションはやり直しを行うようです.

汚染水が太平洋に出るとどうなるか?

単純にその海水量で割った平均値の汚染濃度になるのではなくて,海流によって陸と同じように一定の高濃度スポットができ,また一定の流域が常時高濃度の汚染地帯となるようです.その場所は米国の西海岸,カリフォルニア州でなんと日本の沿岸の10倍の汚染濃度にもなるようです.人類史上最大の環境破壊と言えるでしょう.

これは10年くらいまでの未来予測ですが,私が思うには,海流があるとは言え海はつながり水もつながっています.このまま汚染水の流出が続けば50年後,100年後には太平洋だけでなく,大西洋も汚染海になってしまうような気がします.

日本民族は,世界から太平洋を奪った,あるいは全人類から海を奪った犯罪的民族として,世界中の人々の憎悪と指弾を受けるような気がします.たとえ,その原発の電力を使って大金持ちになった人が海外に逃げ出しても,この場合は無事に済まないでしょう.

海外からのODAや援助資金を国民のために用いず私腹を肥やし,国民を虐める権力者はその不当な私益を持って中立国などへ逃げれば,後は安泰な生活が保てるのかもしれません.しかし,その人はあくまで一国内の国民にとっての犯罪者であり敵です.今度は,未来人類も共有する海を奪ったのです.限られた国民の敵ではなく,全人類の敵になります.何処へ逃げても日本人である限り,無事で済みはしないと私は思います.

日本民族がこのような末路を迎えないためには,以下の方法があります.

1.   日本の優秀な工学・技術の粋を集め日本民族の浮沈を賭けて,福島で毎日産み出される汚染水を太平洋に流さない方策を立てること.

2.   1がどうしてもできない場合は,日本の優秀な工学・技術の粋を集め日本民族の浮沈を賭けて,太平洋の海水を浄化すること.

1も2もできない場合は,日本民族は日本国から何処へも出ず,太平洋の汚染された海産物を食べて生活せざるを得ない.友人である米国を含む太平洋の諸国から食料に係わる賠償請求が来るでしょうが,それを支払わなくてはなりません.金持ちは,人間として生きていく以上の総てのお金,富を差し出して,日本人が一体となってその賠償金を支払わねばならないでしょう.日本は破産するでしょうし,従来の誇りも名誉も失うし,病気が多発する一地方となるでしょう.それでもこの地球を歪めている狂ったようなお金への執着から目が覚め,他国のことを蔑んだり,武器や軍隊をもって他国へ攻めていくことはなくなるでしょう.

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味わい深い映画「風立ちぬ」

2013-08-22 16:55:38 | 人類の未来

8月6日に「風立ちぬ」を友人と観にいきました.スタジオジブリの映画は,「コクリコ坂から」以来1年半ぶりでした.夏休みの性か,待ち合いは若いアベックや女子大生のグループ,子ども連れでごったがえし,この映画もほぼ満席に近い状態でした.

この映画は,先の大戦の日本の戦闘機“零戦”の設計者を描いたものです.零戦は真珠湾攻撃から戦争末期には特攻機として日本の若者の生命を絶った悲しい運命を背負っています.従って,こんな飛行機の設計者をよくも主人公にしたものだとか,戦争への批判や反省がみられないとの評価もあるようです.確かに「戦争はいけません」というような直接のメッセージはないので,単純にそれを求めてこの映画を観た人は,期待外れでそんな評価につながっているのでしょう.

でも,この映画はそうではなく反戦も含んだ味わい深い映画だと思います.私の感じたこの映画の素晴らしいところを,以下に3点挙げます.

第1に,この映画はエンターテイメントとして作られているという点です.夏休みで子ども連れが多いからそれに的を合わせてもいるのでしょう.子どもから私のような年寄りまで総ての人が楽しむことができます.別のホールでは米国映画が上映されています.米国のエンターテイメントの映画は沢山あります.シリアスなアクションもの,恋愛もの,コメディーなど様々のジャンルがありますが,その主題(モチーフ)はつまるところ悪(あるいは嫌われ役)と正義(善玉)がでてきて,暴力で闘って最後は正義が勝つというものです.時代,人物がどのような設定であっても,エンターテイメント映画の多くがこのモチーフです.しかしこの「風立ちぬ」に,主人公(彼)が暴力で悪を打ち負かすというところは全くありません.映画の内容は,一所懸命仕事に打ち込んで飛行機を設計する彼と,その彼が若い女性と恋に落ちて結婚するということです.観客を驚かせるような特別の大仕掛けも,悪をやっつける胸のすくようなアクションもありません.それでいて,観客の心を映画へと引き込むのです.余談ですが,アニメだからこそでしょうが,田園や山並み,野原は非常に美しい緑で描かれていました.私は,自然好きですから,この風景描写には心を奪われました.実際,戦前の日本はこのような自然が広がっていたのでしょう.

第2に,彼が日常のなかで人を尊敬する(人を大事にする)ということがはっきり描かれている点です.この映画の最大の魅力がここにあります.好きになった女性に当然ながらアプローチするのですが,彼の様々な行為に相手の女性への尊敬があふれています.彼は女性に無理強いをしません.強引に自分を通すのではなく一歩引きます.これは優柔不断なのではなく,相手への尊敬から出て来ます.この映画は男女の愛を描いたものではなくて,恋人同士の行為のなかに“人間と人間の尊敬”を描いています.人はこれにうたれます.帰りがけに友人が若い女性のグループがこの映画に描かれた男女に感動したといっているのを小耳に挟みました.人間であれば,本来誰もが感動します.子どもも人間の心をもっていますから,もちろん心打たれます.いや寧ろ子どもの方が大人以上に感動するように思います.理解つまり人間の意識に上げることはできません.なんだか分からないけれども心うたれる.そして以後それは物事を判断する心理的な核となって子どもの心の内に育っていくでしょう.これが人間の本来もつ良心に働きかける真の教育であり,だからこそ子ども連れのための良質なエンターテイメントです.

現代の大人は忘れてしまったのです.戦争で人を殺すには,相手をゴキブリや虫けらと見なす必要があります.でなければ,人間は無関係の人を平気で殺すことなどできません.日本と米国の個人と個人,日本と中国の個人と個人,日本と朝鮮の個人と個人がお互い尊敬して接する.ただそれだけのことで戦争を抑止することができます.兵器もお金も入りません.この映画は,人間のもつ本来の感性に基づいて人を育てます.私が「風立ちぬ」を味わい深いというのは,こういうところにあります.

第3に,人間の社会性を強く表現しています.彼は現三菱重工業に就職して,航空機の設計に打ち込みます.愛する妻と一緒に暮らしたいとの気持ちから,上司宅の離れを借りたりあれこれ努力します.むろん彼女も彼と一緒に暮らしたい,彼といつも一緒にいたいと願います.でも,彼女は最後に置き手紙をして,彼の元を去りサナトリウムへ戻ります.男女の愛は二人だけのものつまり直接には私的な利己的なものです.一方,彼が打ち込む航空機の設計は他の人間との係わりのなかにあるもの,社会的なものです.彼女はそれに気がついたというか,知っていた.それで彼の元を去ったのです.半分は利己的な存在,半分は社会的な存在,その合わさったものが人間です.

選挙をすると50%の人が投票所に行きません.私はその大きな理由は,現在を生きる人間が利己性に偏り,社会性をもつ存在であることを忘れたことによると考えます.分かり易く言えば,自分個人に直接に係わるものには強い関心があるけれども,自分に直接係わらないものにはどうでもよいというか,極端に興味が薄れるということです.投票して誰が勝とうとそれは自分に直接の関係はない.ならば,そんなところへ行く必要はない,そんな事に時間を使うなら寝ている方がよいと考えるのです.それが選挙に行かない大きい理由のひとつであると私は考えます.そして,一般社会のいろんな出来事,自分に直接係わらないことは考えなくなるのです.

この利己に偏った現代人に,人間は本来社会性をもっているんだよ!と訴えた映画がこの「風立ちぬ」です.三菱重工業という大メーカーで働く人々,彼の直属の上司も,さらに上の課長も人間味豊かに描かれています.こんな人々が構成する企業であれば,豊かな社会性を本来もっているのです.個人だけではなく,日本を構成する大企業にも,金が儲かるなら何でもするという利己性を半分に抑え,本来もつもう半分の社会性を発揮して欲しい,彼女のように・・というメッセージが込められていると私には感じられました.

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