森中定治ブログ「次世代に贈る社会」

人間のこと,社会のこと,未来のこと,いろいろと考えたことを書きます

日本学術会議会員の非任命問題に思う

2020-11-08 11:57:01 | 原発・エネルギー

首相の日本学術会議会員6名の非任命が大きな問題となって世間を騒がせています。
日本学術会議としては、法律違反だとか、学問の自由を損なうので憲法違反だとか、今までの慣習を踏みにじる行為だとか、あるいは過去の中曽根発言との相違を理由にして、首相に日本学術会議が推した6名を速やかに任命するよう主張しています。
首相は法律違反には当たらないと、堂々と明言しています。

自分自身が、自分自身の名において人を選ぶのに、自分自身が納得しない人を選ぶということ自体に無理があるように思います。それを首相は自分が選ぶ立場になってみて、はたと思い当たったのでしょう。これじゃ私は日本学術会議のロボットじゃないか! 昔ならいざ知らず、現代の民主主義社会でおいてこんなことが通るはずがない! この人たちは自分だけが正しいと信じ込んでいて、目が見えなくなっている! だからこそ、人間をロボットにしていることに気がつかないのだ。そこを突けば容易だ。この人たちは自分が正しい、相手が間違っていると手を替え品を替えて言うだけだ。その間違っている相手がどう言う戦略を取ってくるのか、何も考えていないし、むろん相手の戦略に対応する策も何も考えていない。ただ自分は正しいと、そればかり言い張っているだけだ。これじゃ楽勝だ・・。

法律違反 vs 法律違反ではない・・・そのどちらが正しいか、法廷で決着をつけようということになるでしょう。この時点で日本学術会議の負けだと思います。裁判になれば長い時間がかかります。そのうちに、さして関心のない一般市民の多くは忘れてしまいます。つまりその6名は任命されないまま月日だけが進むわけです。
しかも一般市民が冷静に考えてみて、なぜ私が私の名前で任命するのに、私が納得できない人を選ばなければならないのか、と首相が社会に訴えればむしろ、そうだ!首相の言う通りだとなりかねません。
日本学術会議の言いなりに首相が任命しなければならないとしたら、首相は日本学術会議のロボットじゃないか!と言う声が社会から上がってくるでしょう。裁判に負けてしまう可能性も出てきます。
だから任命者が納得できなければ、当然ながら任命しなくていいと私は思います。どちら側かに与する立場ではなく、私自身の頭で冷静、公平に考えてみて、任命者が他人の意志を強いられることには賛成できません。過去に中曽根首相が述べたことは、その時はその時の中曽根首相の判断があったのであり、それを今も無理強いしていると一般社会に訴えられれば、そんな過去の慣習など、変えてしまえ!と言うことになりかねません。

では、この問題のどこが間違っているのでしょうか。
首相が6名を外したことに問題はないと私は思います。けれども慣習に従って推薦された人を自らの意思で外す場合は、当然ながら公正な理由が必要です。首相だからといって恣意的に好き勝手に外したのであれば、それは誰も認めないでしょう。だから、どういう理由で外したかが重要なのです。外した理由が公正かどうかなのです。
だから、首相がその6名を外した理由について、それが受け入れられる正しい理由なのかどうか、日本学術会議と首相で納得いくまで討議すべきなのです。
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事件を起こした被告が、検察からなぜあんなことをしたのか、その理由は?と問われて、正直にその真の理由を言えばそれは犯罪なので、有罪になります。有罪にはなりたくない。さりとて嘘を言えば、今度は偽証罪になります。そんな場合どうするでしょうか。被告は黙秘をするのです。「黙秘権」は一般社会に認められた権利です。こう考えると、首相は、任命しなかったその本当の理由を言いたくないし、さりとて嘘も言いたくない。だから「黙秘権」を使っている状況だと、私は思います。
だから、任命されなかった6名が公式の記者会見をして、我々はなぜ外されたのか。その理由が、なるほどと納得できるものであれば我々6名は粛々とそれに従います。だからその理由を教えて欲しいと言えばいいのです。
首相は、それは個人情報だから公表を控えると言いますが、その当事者本人が、なぜ任命されなかったのか、それが知りたい。その理由に該当する個人情報などいくら公表してもらっても構わないと、記者会見で明言すればいいのです。
これで個人情報だから公表できないと言う論法は使えなくなります。そうすると「黙秘権」は被告のような弱い立場の人に認められた権利なのか、それとも人を任命するような強者の権利なのか、と言う議論になります。このような議論展開を図るのです。
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裁判官が被告に「懲役3年の刑に処する」と言ったとします。そしてその理由はと問われて、「それは個人情報だから申し上げられない」と言ったらどうでしょうか? 俺は罰として懲役3年の刑を受けるのに、その理由はわからない! こんなバカげた話と同じことになります。非任命の6名は、いわば社会的に罰せられたと言えるでしょう。それはおかしいと、この問題に関心のない人も含め一般社会の誰もが分かります。このように一般社会に分かるように訴えるべきではないでしょうか。
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デビュー戦のリングで、首相が新任の挨拶代わりに、ちょっとしたジャブを放ちました。ところがそのジャブは、相手にはストレートパンチのような強烈な打撃を与えてしまい、食うか食われるかの生命を賭けたラウンドになりかけました。
ここでセコンドからタオルが投げられそうになりました。
つまり、複数の野党から、首相がその6名を存じ上げないと言うのであれば、では改めて日本学術会議会長がその6名を指名したら首相は任命してくれるかと質問しました。首相は、それは満更でもないとの様子・・。もしこれでその6名が任命されたら、私には、本当にバカバカしく思えます。

既に首相は、日本学術会議に手を突っ込むワーキング・チームを立ち上げました。民間の機関にしろとか、解体しろとまで声が出てきています。
ちょっとしたジャブを放ってみたら、結果として首相は予想外の大きい成果を得られるかもしれません。大山鳴動して結果は今まで通り、その一方で首相は少なくとも日本学術会議の中へ手を突っ込み、都合のよいように改革をなせるところまで持っていきました。これは歴代の首相ができなかったことであり、このままでは現首相の大手柄となるでしょう。首相のあのニンマリ顔は、ここまで見通しているように思います。

日本学術会議議長が、その6名を再指名してはならないでしょう。首相がその6名を知っていたか、知らなかったのか、そんなことは問題ではありません。
再指名するのではなくて、今の状態のままで任命しなかった理由について議論するリングを作り、そのリング上でジャブを打ち返す必要があると私は思います。その討議の上で任命するのか、非任命なのか改めて明確にし、そのワーキング・チームの解散も含めて討議の結論を出すべきだと、私は思います。

歴史ある日本学術会議、あらゆる分野の日本最高峰の叡智の集団が、こんな新参の首相のジャブに苦もなく捻られたら、おそらく今後右傾化は眼に見えるように進むでしょう。

涙が出ます。

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コロナウィルスに対する壮大な社会実験は、藤井モデルが望ましい

2020-04-26 09:28:10 | 原発・エネルギー

4月7日に緊急事態宣言がなされ、西浦モデルに基づく壮大な社会実験が始りました。
西浦モデルに基づくと2週間後には、急激に感染者が減るはずです。西浦モデルのグラフのようには、急激には減っていません。有効性よりもリスクの方が大き過ぎです。5月6日には終わるべきのように、私は思います。

西浦モデルでは、人から人への感染、人からモノ、モノから人への感染ルートが異なることを理解していません。これを混同しています。この二つは別物です。日本人は有利なことに、欧米と違ってキスやハグの習慣がありません。だから人から人への感染は基本、飛沫感染と空気を通したエアロゾル感染だけです。マスクで足ります。それなのに、人と人との接触を7割も8割も避けよと言います。キスとハグが習慣の欧米のやり方を深く考えずにただ真似ているのです。そのために店を閉めさせたり、あらゆる集いをやめさせます。経済が止まり、人が死にます。無茶苦茶です。ソーシャル・ディスタンスとして2mの距離をとれと言います。一つ前のブログでお示しした福井新聞の記事のように、マスクをしなければ3mでも5mでも感染します。距離ではなく、マスクをしているかどうかだと思います。
マスクは自分のウイルスを飛ばさないと言う利点だけではなく、他人のウイルスを大幅削減して吸い込むと言う利点があります。それで身体が勝てば、ワクチンと同じ意味になります。PCR陽性の感染者の10倍以上の無症状保菌者がいるのではないかと言われますが、マスクが、コロナウィルスを擬似ワクチンに仕立てているのではないか、だからそんなことになるのではないかと私は思っています。欧米は今になってマスクを重要視するようになりましたが・・。
代わって藤井モデルがあります。こちらは併せて書いてはいますが、二つの感染ルートの違いを明確に理解し、区別しています。
http://www.youtube.com/watch?v=Vu3EbKx_uU4

5月6日以降に社会実験として採用するモデルであれば、こちらの方が望ましいと私は思います。
日本政府は5月6日以降、マスク着用必須のうえでの藤井モデルを採用する方が望ましいように私は思います。

少し前、スーパースプレッダーという言葉がありました。ウィルスを広く撒き散らす人のことを言ったと思います。マスクをしない人が、実質的な機能としてスーパースプレッダーの役目を担っているのではないかと思います。

あるMLにこのブログの内容を紹介したら、藤井モデルは他の欧米諸国とは一線を画した、スウェーデン方式と同じだと言われました(4月27日)。

スウェーデン方式は他の欧米と違って10倍の人が死ぬ。それを覚悟してやっている。日本人の人口に換算すれば約100万人になる。藤井モデルは日本人100万人を殺す殺戮モデルだと言われました。

 
 
これは、全く違うと思います。
自分自身が絶対正しいと思い込んでいるので、私が主張したい重要な点を全く理解していません。
上のインターネットやYoutubeを見ると、スウェーデン人のほとんど誰もマスクをしていません。これでは感染者からモロに大量のウィルスを浴びます。私が強調するマスクの有無がとても大きいのです。次に、その方にスウェーデンでは他の欧米と違って、キスやハグはしないのでしょうか。日本と同じようにキスやハグをしない習慣なのでしょうかと問いました。もし他の欧米と同じくキスやハグをする習慣であれば、人から人へは物凄い感染力です。初期のイタリアで何が起こったか、それを思い浮かべれば簡単にわかることです。スウェーデン方式であれば。そりゃたくさんの人が死ぬでしょう。
日本人と欧米人では、キスやハグなど身体をくっつける習慣がない。これがとても大きい違いです。次にマスクをすること、これで感染者からも大量のウィルスをもらうことが大きく減少します。マスク着用必須のうえでの藤井モデルと書いた意味がわかってもらえると思います。
 
東京の小池知事は、人間が生きていくに最重要な食料まで3日に一度にしろと言います。残りのすべての時間は自宅で自粛しろ(引きこもっていろ)。もちろんお店は皆閉めます。開けていたって、お客がいないんじゃ閉める方がマシでしょう。資金繰りに困ってつぶれるところがいっぱい出てきます。自殺者もたくさん出るでしょう。おかしなことを言う人が出てきました。お金に困った美人が風俗に来るぞ。これはチャンスだ!と言います。

こんな方式が人間らしいでしょうか。私は西浦モデルはここまでいくように思います。
藤井モデルの方がずっと穏やかで、人間のやれることかどうか、よく考えて練ったモデルだと思います。
西浦モデルは「角を矯めて牛を殺す」だと思います。

5月6日で終わるのではなければ、さらに厳しく徹底的に西浦モデルをやるのではなく、欧米のマネではなく、日本人固有の特性を上手く活かした上での藤井モデルの方が望ましいと私は思います。

 

 

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学習院大学における尖った謝辞

2020-04-02 12:37:51 | 原発・エネルギー

学習院大学では卒業式が中止になったことを受けて、2020年3月20日に卒業生による謝辞が国際社会科学部のHPに掲載された。小堀奈穂子さんは、国際社会科学部卒業生の代表の一人として大変興味深い謝辞を述べた。
https://togetter.com/li/1485459

ツゲッターなどでは、「これは伝説に残る文章だ」とか、パンチが効いているとか、オリジナリティーと攻撃力に満ちているなどというコメントが目についた。学習院大学では最高の名誉ある安倍能成記念基金奨学金をもらった人であるから、賢い人であることは疑いがない。どういう謝辞をすれば社会が彼女を称賛するか、そんなことは百も承知だろう。だから、この尖った謝辞は確信を持った明確な自己主張であり、またその意志を入学から卒業まで一貫して貫いてきた人であることが分かる。
ではどういう意志だろうか。
この世には自分の意志しかないという確信であり、自分の意志を最優先すべきという確信である。この謝辞の内容に対して、現代社会や先人に感謝をすべきだというコメントが多い。例えば学習院大学において図書館を使って知識を深めるのも様々の便利な機器を使えるのも多くの先輩達のおかげだ。それに感謝すべきだというコメントである。
彼女の謝辞は、まさにそれを否定している。感謝がいけないというのではない。感謝するなというのではない。感謝をしたい人はすればよい。感謝をしたくない人にまでそれを強要するなというのである。まさに自分の意志を尊重し、それがまた他人の意志を尊重することになると、彼女は考えるのである。
だから彼女は「自分に感謝する」という。図書館を利用するのも、便利な機器を使うのも自分の意志である。図書館に頼みこんで無理やり使わせてもらったのではない。あくまで自分のアイディア、意志、そして必要ならば幾ばくかの自分のお金である。それで自分自身が大きな収穫を得たのなら自分の意志のおかげであって、図書館を作ったあるいは維持している人々のおかげではないと、彼女は考える。だから感謝するならそれは自分だと彼女は考えるのである。むろん過去の長い間に渡って、この社会を作り上げてきた多くの人に感謝したい人はそうすればよい。他人の自由を制約し、感謝をするなと強要するつもりは彼女にはない。だが、逆には自分の意志にそぐわないことはするべきではないと彼女は考える。
自分と、そして他人の自由を尊重するのである。
その意味では、相模原障害者殺傷事件の犯人の植松聖と同じである。メキシコ国境に巨大な壁を作ったトランプ大統領、難民を入れないEUの防御フェンス・・。なぜそれらを作るのか?自分で食べていけない貧困者を自国の税金で食べさせることをしたくないのである。食い詰めた縁もゆかりもない赤の他人をなぜ私たちのお金で食わさねばならないのかと疑問に思い、それを望まない人々が急激に増えている。それらの人たちの収めたお金が税金には含まれている。そう考える人たちは当然ながら、難民排除を掲げる政党に投票する。欧州では難民排除の極右政党が台頭している。もはや政権与党になってしまった国すらある。この流れが濁流となって世界中を席巻しつつある。日本では、卒業生の代表として謝辞を述べるくらいの、著名な大学の最優秀の生徒が、この流れの先陣を切ったのである。


以前このブログに書評を掲載したが、アイン・ランドの小説『水源』の主人公ハワード・ロークと重なる。ハワード・ロークは自分の意志を貫き自分が生み出したものを守ったが、その自分自身が生み出したものが大きな財貨をもたらした。しかし、ハワード・ロークは生み出したものに付随して生まれる財貨には関心をもたなかった。小説ではそうだが、現実はそんな綺麗事ではすまない。自分自身が生み出した固有のものではなく、それに伴う財貨によって貧富の差が拡大する。GAFAを見ればそれがわかる。
この『水源』の主人公ハワード・ロークあるいは、優秀な小堀奈穂子さんの謝辞に対して、堂々と対峙する有識者からのコメントやメディアなどからの論陣はないのか?

この考え方を食い止めるだけの論理を持つコメントあるいは論陣を張ることができなければ、現代において飛び抜けて優秀な第2、第3の小堀奈穂子が出てくることは、もはや必然のように思われる。小堀奈穂子の考え方を変える力を持つ、あるいは相模原障害者殺傷事件の犯人、死刑を宣告されそれを堂々と受ける植松聖の心を揺さぶる論理である。


皆さんは、この流れは正しいと思われるだろうか?
もしこの流れを止めたいと思うならば、どうすればよいだろうか?

 

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4月13日ウェルカム・コンサートで歌います

2019-03-23 07:34:35 | 原発・エネルギー

4月13日(土)午後の市民シンポジウムのウェルカム・コンサートで歌います。
場所は東京大学赤門を入ったすぐ右側、伊藤国際学術研究センターの地下2階、伊藤謝恩ホールです。

先日初めて見ましたが、400名の素晴らしいホールです。音楽ホールではなくて、学術シンポジウム用のホールですが、ちょっと声を出してみたら素晴らしい響きです。このホールで歌を唱った人はまだいないでしょう。とても楽しみです😊

お呼びした小林純子さんは、昨年山田耕筰の石碑のある巣鴨協会で行われた小川明子先生の発表会で『蘇州夜曲』を唱われ、私は感動しました。3曲唱ってくださいます。私は『星は光りぬ』と『やがて来る自由の日』の2曲を歌います。

おかげさまで市民シンポジウムの申し込みは、すでに380名に達しました。ほぼ満席の状態です。有難うございます。

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2019市民シンポジウム「次世代にどのような社会を贈るのか?」

2019-02-21 14:03:22 | 原発・エネルギー

市民シンポジウム「次世代にどのような社会を贈るのか?」をご案内いたします。

日時:2019年4月13日(土)午後1時―(開場12:30)
場所:東京大学本郷 伊藤国際学術研究センター 伊藤謝恩ホール

副題:「リベラル化する世界の分断」

◎最初にウェルカム・コンサートを行います。

参加費1000円、要旨集代500円、懇親会3500円

講演者:橘 玲(作家)
論評者:吉川 浩満(作家)、神戸 和佳子(哲学者、公民科教員、「子どものための哲学」実践者)、春日井 治(日本生物地理学会)
司会:三中 信宏(国法 農研機構)

当初は例年の開催場所、東京大学フードサイエンス棟の中島記念ホールを予定していましたが、橘玲さんのブログに出た後すぐ申し込みが満席の100席をすぐ超えてしまい、多数の女性を含め20歳台30歳台の若者が次々と申し込まれることから、赤門を入ってすぐ右側の4倍もの広さを持つ伊藤謝恩ホールへと会場を移しました。
ポスター(会場が変わっていますのでご注意ください)

橘玲さんは作家で、現代人類社会の経済、社会事象について、人間の生物学的な視点を含んで様々の論考を出版されています。週刊プレイボーイ誌にもコラムを連載し、若い人に大きな人気を呼んでいます。進化理論、進化生物学などを踏まえた思考、哲学が必要と主張されます。その意味では自然科学と社会科学の統合ということになるでしょう。
私は、チョウを材料とした分子系統学から「種問題」に入り、人間を生命の視点から捉えた論考「種問題とパラダイムシフト」を出版し、昨年の市民シンポジウムでは「森中報告『種問題とパラダイムシフト』をめぐって」と題して、大西広先生(慶應義塾大学教授)や松井暁先生(専修大学教授)などのマルクス経済学者をお招きし、討議を行いました。その時の講演録ができていますが、十分な理解がなされたようには思えませんでした。
私の論考の趣旨は、(A)“分離独立し個別の意思を持つ個人(唯個論)”と(B)“一つの実体である人類”の相克という視点であり、今年の市民シンポジウムも、広い意味ではその論考の範疇ではないかと考えます。どちらかといえば、橘さんは(A)、論評者の吉川さんは(B)のように理解しています。
吉川浩満さんは、現代社会を鋭く切った多数の論考を出版されています。人間の進化、進化心理学を思考のベースにされています。
毎日新聞の哲学論議で著名な哲学者の神戸和佳子さん、弊学会の会員で学会誌の書籍紹介を執筆してくださり、深く鋭い思考の持ち主、春日井治さんにも論評をお願いしています。

申し込みは森中まで。delias@kjd.biglobe.ne.jp
お名前、年齢、懇親会の可否をお願いいたします。

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平和憲法について考える

2018-05-03 09:58:37 | 原発・エネルギー

生物学に端を発して、人間のこれからの生き様について後世の人類に残したい私の生涯をかけた論考を出版しました。養老孟司先生をはじめとする何人かの先生にお出でいただき、その論考の骨子に関わる市民シンポジウムも終えました。

私の人生における一つの節目を通過し、一息ついたところです。その市民シンポジウムのおかげで人間社会のお金の問題、つまり経済学についての興味深い論点を見出しました。今後の私の大きい興味が一つ広がりました。カザリシロチョウを用いた生物学の論文も学術誌掲載の直前まできています。

併せて歌です。声楽(テノール)を習ってはや6年、昨年は直前に風邪をひいたり総じて不甲斐ない成績でした。先般、和光市のサンアゼリアホールに知人の歌を聴きに行ったところ、「清水かつら記念日本歌曲コンクール」があることを知りました。清水かつらさんは「叱られて」「靴がなる」「みどりのそよ風」「雀の学校」などの童謡を産んだ詩人で、現在の埼玉県和光市で生涯を送りました。今年は、東京国際声楽コンクール、日本クラシック音楽コンクールに加え、この清水かつら記念日本歌曲コンクールにも出てみようと思います。

さて、前置きが長くなりましたが今日は憲法記念日、現代日本の平和憲法について考えてみたいと思います。

 「世界の国に先駆けて 戦争捨てた憲法の こころは忘れずとりもって 平和の日本の民となる これが我らの将来だ」

「窓に見る 富士の高ねをそのままに よろずの国にさきがけて あらゆる武器をうちすてた 文化日本の国民(くにたみ)と 私たちはなるのです」

共に日本の小学校の校歌です。この言葉に現代平和憲法の原点が尽くされています。

先の戦争では、アジアで3000万人もの人が死に、日本国内では広島・長崎の核兵器投下、東京での無差別空爆などによって300万人もの人が死にました。人が死に人類の生存基盤である自然環境が破壊されるだけでなく、戦争は人間を人から鬼に変えます。戦争は人間のすることではないという魂の叫び、万人の思いが上記の歌詞となり現代の我らの平和憲法となったのです。沖縄問題の権威であるオピニオンリーダーからお聴きした意見です。「先の戦争で沖縄は日本の本土決戦の犠牲になった。一番酷い目にあった。それでも日本に復帰したいと考えたのは、日本が二度と戦争はしない、人殺しはしないと誓い、その具象として目に見える形で平和憲法を作ったからである。二度と戦争はしないという人間の国になったから、その国と一体になりたいと思ったからである。それゆえその平和憲法が人を殺すことのできるものに変えられるなら、沖縄が日本に属する最も重要な論拠を失う」

米国が作ったものだとか、現代の日本国憲法の出自があれこれ問われます。そんなことは問題ではありません。人類がこれから未来に向けてどう生きるのか、どういう世界を作るのか、自分、自国の損得だけを頭においた暴力によるねじりあいの世界を作るのか、平和の中に人類の自然科学的な成長と精神的な成長を合わせた総合文明が見込めるような世界にするのか、その問いの中の一つの要素です。

今回の市民シンポジウムでの大きな論点でしたが、それぞれが切り離された単位である個人、それと理性的なもう一つの単位である一つの人類、生物学からその両者が共に実体であることの論証を試みたのですが、これもその問いの中に位置付けられる一つの要素です。

このような視点から見れば、現代の平和憲法の出自がどうとか、問題にならないことがわかっていただけるでしょう。

最大の問題は「では、攻められたらどうするのか」という論点です。上に述べたように人間の頭脳と予算を国家間の平和の構築と維持のために使います。経済的な繋がり、文化や芸術を通した人間の交流、災害時の相互援助、農業、医療技術などの提供、国際結婚、移住、理性的なものを総合してつながりを強めていきます。万が一戦争騒ぎになれば、それぞれの国に住む人類が反対します。そういう国作りをしていけば戦争を防ぐことができるでしょう。抑止力とは、人を殺す武器の殺傷力を高めて相手を威嚇することではなく、経済的な繋がり、文化や芸術を通した人間の交流、災害時の相互援助、農業、医療技術などの提供、国際結婚、移住、理性的なものの総合が戦争の抑止力ではないでしょうか。

ですから、人間の頭脳と予算を、戦争を抑止するために使うというものです。しかし、最後の質問が残っています。それでも、「戦争が起こった時にどうするか?」という質問には答えていない。その質問をはぐらかしているというわけです。

私がここで、この問いかけに対する答えを書いてもつまらないと思います。なぜなら、この問いはいつまでも残っているからです。みんなが考え自分自身の答えを持つ必要があるからです。それが自分で考えるということです。

あらゆる力、人間の頭脳、努力、お金(経済)の大半をつぎ込んでそれぞれの国に住む人類が強く結ばれる努力をします。どれだけその努力をしても「でも万一、戦争が起こったらどうする?敵が攻めてきたらどうする?」という問いへの答えは出て来ません。

ここで私は、このブログを読んでくださった方に問いかけをしたいと思います。

1地球に月くらいの隕石が落ちてくる場合 2福島の原発震災

1は自然現象です。ほとんど可能性はないでしょうが、だからと言って絶対ないとは断言出来ません。人類が頭脳、お金、持てるあらゆる力を発揮して戦争が起こらないように努力することはできます。しかし、だからと言って敵が攻めてくることは絶対ないとは言い切れません。この1と同じでしょうか。こんな稀な、天が落ちてくるというような心配のために「敵が攻めて来たら云々」という問いを真に受けているのでしょうか。2は、深刻な原発事故は絶対ないと言われそれを前提に福島の軽水炉原発が運転されていました。他の軽水炉原発も同じでしょう。いわゆる5重の防御壁による安全神話です。しかし5重の防衛ラインは破られてしまいました。戦争はどうでしょうか。人間の持てる人智の全て、頭脳もお金もその総てを使って戦争のない状態を維持する。これが福島と同じく5重の防衛ラインであるなら同じように破られるかも知れません。

1と2への思考から、逆に武器を増やし、人殺しの能力、環境破壊力を高めれば、敵は絶対に攻めてこないという結論が出てくるのでしょうか?「でも万一、戦争が起こったらどうする?敵が攻めてきたらどうする?」という問いかけそのものがどういう立場に立とうとも出てくるのではないでしょうか?この問いは結局何なのか、これ以上はご自身で考えてみてくださいね。

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市民シンポジウムご参加の御礼

2018-04-15 08:18:09 | 原発・エネルギー

ほぼ満席に近いご参加を賜り、おかげさまで充実した面白いシンポジウムになりました。

有り難うございました。

若者の中で、「生活費のない老人、親戚縁者友人などからも援助のない老人、言わば人間が見放した老人を、なぜ税金で助けなければならないのか。なぜ赤の他人の若者がそんな人の生活を支えねばならないのか」という疑問が見えないところで広がっている。前々回のブログを書いたとき、閲覧者数は日頃の20倍に跳ね上がった。若者 vs 無産老人の構図をもとに、70歳を過ぎた人には一切の社会保障をしない政策を打ち出す。もちろん資産のある人はその資産で自由に生きればよいが、資産のない人は安楽死をしてもらう。これでこれから子供を育てていかなければならない若者の極度の負担問題は一挙に解決する。こういう主張を掲げる政党が出現すれば投票し応援する。

ここでブログを止めておけば20倍どころではなく何万倍もの閲覧数に膨れ上がったように思います。

これは間違っている考えです。これは人間の認知による人間の個別視の世界的な潮流だと思います。

この話を中心とした趣旨説明に始まって、その解決策を講演で申し上げました。原点は生物学にあります。

今後も、機会があればお話ししたく思います。

たくさんのご参加に深く感謝いたします。

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4月8日市民シンポジウム「次世代にどのような社会を贈るのか? 自然科学者の役割」

2017-02-06 00:05:23 | 原発・エネルギー
日本生物地理学会では、第72回年次大会の中で市民シンポジウム「次世代にどのような社会を贈るのか? 自然科学者の役割」を開催いたします。
20世紀は戦争の世紀と言われました。現世紀になってもそれは終わるどころか、ますます醜く変貌しているように思います。先の相模原障害者殺傷事件、トランプ大統領の出現や世界的な右傾化、排除の論理、なぜこうなるのか?人類は今どういう位置にあるのか、その中で科学者はどういう役割を担っているのか?興味深いシンポジウムになると思います。
最初にウェルカム・コンサートを行います。
 
1.日時:2017年4月8日(土)13:00時(開場12:30)
2.場所:東京大学農学部弥生講堂(東京メトロ南北線 東大前下車歩3分)
3:内容: 
  ウェルカム・コンサート:「花」「朧月夜」「You raise me up」「はっか草」「落葉松」岩崎京子(東京芸術大学大学院修了 ソプラノ)
  趣旨説明:「人類は今どういう位置にあるのか」森中定治(日本生物地理学会会長)
  講演:「次世代に何を贈るか」長谷川眞理子(総合研究大学院大学学長)
  対談:「科学者は戦争で何をしたか」益川敏英(名古屋大学素粒子宇宙起源研究機構長、ノーベル賞受賞者)、長谷川眞理子
  クロージング・アドレス:渋谷治美(放送大学埼玉学者センター長、カント哲学者)
  ポスターをごらんください
4.参加費:1500円(講演要旨集、別途500円)、懇親会4500円
5.参加申込:講演会と懇親会について、参加のご希望の方は、お名前(読み方)と年齢を森中まで。必ず受け付けた旨の返信メールと予約番号を差し上げます。250席程度の席数です。満席の場合はご返事を差し上げませんので、予めご了解ください。また、予約し予約番号を入手の後にキャンセルの場合は必ずその旨ご返事ください。

宛先:日本生物地理学会事務局 森中定治,delias@kjd.biglobe.ne.jp

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U出版・自費出版と商業出版の間 ー初めての裁判(4)

2016-12-28 14:23:59 | 原発・エネルギー

(4)控訴

判決結果は納得のいくものではありませんでした。

この裁判は残っている本について、無償で著者が受け取れるものかどうか、つまり所有権が著者にあるか、それとも制作者にあるかが争われたものです。

制作した2000冊のうち、判決では私は700冊もらったことになっていました。私と制作を担当した(株)S・Fとの覚書では、著者(甲)に100冊献本と書いてあります。そして残った本の300冊を著者に、となっています。100冊の献本というのがおかしい上に、さらに私は700冊ももらったことになっています。パブリシティー献本として(株)S・Fが取った100冊も私が取ったことになっています。

判決の通り著者に所有権はないとして、まずおかしいのは著者の得るべき収益からも倉庫代が引かれていることです。著者が所有者でなく本の購入者つまり顧客であるなら、なぜ倉庫代を顧客が支払わなければならないのか?

色々と調べてみると、著者が出資をする共同出版という出版形態があることがわかりました。この場合は、著者のとる原稿料(印税)が高くなるだけで、著者が販売促進の責任を負うことはありません。“U出版”という出版形態の特徴は、通常の共同出版ではなく、著者が本の中身はいうまでもなく、本の制作費も全額出し、さらにその本の販売にまで責任を持つという出版形態であり、確かに他にはないユニークな出版形態です。

著者が販売に責任を持つのであるから、著者が行う講演会やいろんな場でできる限り自著を売る責任が生じます。普通それは出版社がやることであって、たまにサイン会などはありますが、著者が販売促進を義務付けられるというのは聞いたことがありません。その場合に販売の時に自著をその場に置く必要があります。その段になると著者は共同販売促進者ではなく書籍購入者(顧客)に変わります。書店を通さないので書店の利益を差し引いた定価の80%、いわゆる著者割りで著者が買って、それを著者が売るのです。ある時は共同推進者、またある時は自著の購入者(顧客)になります。

著者が著者割りで自著を買うのは普通です。しかし、その場合は全ての制作費を出版社が出し、書籍が出版社のものである場合です。制作費を全額出させ、さらに著者のお金で作ったその書籍を販売のために著者に買わせ、覚書の期限が来れば、その後は制作者の所有物として他社に売り渡す。どう考えてもまともではないと思います。

出版さえできればいいと考える人、出版さえできれば文句を言わない人を対象としたビジネスです。

著者は制作費全額を出資し、販売促進の義務まで背負いながら、最後は単なる顧客だったというこの出版形態・・、私はこの日本社会に許されるものではないと思います。

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U出版・自費出版と商業出版の間 ー初めての裁判(3)

2016-10-04 11:07:14 | 原発・エネルギー

(3)裁判に臨む

私の知り合いに、ロシア文学者の長瀬隆さんという方がいます。彼の奥様が“熔融塩炉”研究の日本の草分けであった古川和男先生と幼馴染でとても親しかった。それで長瀬さんは古川先生と知り合いになりました。私は、古川先生から直接熔融塩炉を教えていただいた関係で、いろんな場所で顔を合わせた長瀬さんとご縁になりました。彼もまたこのA氏のU出版で“熔融塩炉”に関係する本を出しました。そして、長瀬さんもA氏との間に私と同じトラブルを抱えました。私は裁判などやったことがなく、漠然とですがその費用とか時間の無駄とか、それらを考えると裁判を起こすまでの気持ちにはなれず、このことは一つの人生勉強だったと既に諦めていたのです。しかし長瀬さんは裁判を起こすと決断しました。長瀬さんからの誘いがあり、私はこれも社会経験と考えました。そして、その裁判に加わりました。生まれて初めての裁判です。

すでに2回公判がありました。その中で私が理解したことは以下の通りです。

1.      出版の形態は2種類しかない。自費出版と商業出版である。

2.      自費出版は制作費一切合切を委託者(著者)が出す。ゆえに書籍の全所有権を委託者が持つ。つまり記念品を、お金を支払って業者に作らせるようなものです。

3.      商業出版は、本の制作に関わる一切の費用を出版社が持つ。ゆえに書籍の所有権の一切は出版社が持つ。著者には出版社が一方的に決めたいわゆる印税(一般には印刷部数x定価の10%以下)が支払われるのみ。

そして、著者と出版社あるいは制作者の契約(覚書)に、“自費出版”との言葉がなければ、すべて商業出版と考えるのが、出版に関する商法上の通念であるとのことでした。いくらお金を出していても、口でどのような話があってもそれは関係しないとのことでした。

A氏の話では、この業界で著者と出版社あるいは制作者で正式な契約書を交わすことはないとのことであり、スタート時にあくまで仮で結んだ覚書(A氏は覚書作成の時点では、私の要望に沿って出版迄には正式な契約書を結ぶと言っていました)がそのまま残りました。改めてそれを見直してみると、無論自費出版などという言葉はありません。元々その積りではないので当たり前です。著者(甲)に100冊献本するという文言があります。これが、所有者がA氏であることの決め手になるのでしょう。所有者がA氏であるが故に、著者に献本つまり差し上げるとなるのです。著者が所有者であれば、自分自身に差し上げるというのはおかしいですね、というわけです。私はこの本を書いた時、いろんな人に差し上げたいと思いました。それが著者の立場での販売促進です。実際に私からもらって読んだ方が新聞に書評を書いてくれました。また“マジのつくエネルギー本”という書評ランキングで1位にもなりました。この時に、A氏も「私も出版関係で販売促進に使うので、著者と同じ部数をもらうよ」と言ってA氏個人が本を取りました。それは覚書ではパブリシティー献本という言葉になっており、A氏(乙)が献本を受けるとは書かれていませんでした。

しかし、両者は同じことをしたのです。お金や食べ物のならいざ知らず、著者が自著を100冊もらって自宅に抱えこんでも何の意味もありません。私は私の立場でいろんな学識者に差し上げて、それらの人が書評を書いてくださったり話題にしてくださって、それがこの本を世に知らしめ販売につながるのです。A氏が出版関係に配って販売につなげるのも同じです。両者が協力して販売促進をすることがこの覚書の基本であり、著者(森中)も制作者(A氏)も販売促進用の道具として同数を取ったというのが覚書の正しい理解だと思います。裁判の結審において、覚書にある“著者への献本”という文言をもって所有権が制作者にあるという判断がなされた場合は、それは真実を見ていないと私には思われます。

覚書のこの記述を今あらためて見て、私ははたと思い当たりました。この覚書を作った時に、既にこういうトラブルが生じることをA氏は見越していたことに気づきました。だから私だけが本をもらったことになっているんだ・・

本の所有者は誰かで争ったこの裁判も、次回2016年10月24日で結審です。制作費全額を出したのは著者であるにもかかわらず、本の所有者はA氏自身であり、覚書の期間が過ぎた以降は所有者が売っ払おうと裁断して廃棄しようと好きにできるというわけです。著者が欲しいと言えば、定価の8掛けで買ってください。今度は、本の制作費全額を出した著者に売りつけるのです。実際、今までに百冊以上私は買いました。これは制作者にとっては出版のリスクを何も取らないで本の所有者になり利益だけ取る素晴らしいビジネスです。本が売れれば利益はどんどん入ります。契約解除の後は、他人のお金で作った本を自分のものとして売ることができます。最近知り合った出版会社はもっと安くできると、50万でも可能だと言います。つまり私が最初に渡した制作費100万円には(株)S・Fの利益が既に入っていたと思われます。今思えば、3:2の比率どころか4:1でもおかしくありません。実際、長瀬さんは4:1の利益配分の比率でした。その上、なんと私の取り分から倉庫代まで差し引いたのです。

おそらく出版の慣行から言えば、我々は敗訴するでしょう。著作の所有者は制作者であって著者ではない。しかし・・、とここで私は思います。では、あの出版形態、A氏の説明を受けてとても魅力的に見えた、あの自費出版でもない商業出版でもないU出版とは何なのか?! 

私は、これが人間社会におけるまさに弱者を標的と定めた行為の一つではないのかと思います。A氏は人を見て対応を変えるでしょう。社会的な強者、例えば大学の教授や著名人であれば誠実な対応をするのでしょう。著者に喜ばれようと言いなりになるかも知れません。そして私のようなリタイアして年金暮らしの無名の人間が出版を願った時のみ標的にするのでしょう。A氏が「これは是非自社で出したい」と熱望したのは、こういうことだったのかと今ではわかります。先に書いたように私自身は実際諦めていて、長瀬さんが裁判に訴えなければ泣き寝入りになっていました。有力者に守られながら・・相手によって豹変する。弱者を標的と定めることが苦にならない人であれば、他に思い当たらないくらい美味しいビジネスと私の目には映ります。私と同様の被害者が今後も続く可能性が十分あります。それで、このブログを書きました。判決を見てみたいと思います。

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