前回のブログは2024年6月16日ですから、あっという間に3ヶ月弱が過ぎました。この間に私は、右股関節を痛め股関節置換手術と2週間強の入院をしました。リハビリは年末まで続きます。
この入院時から今までにいろんな本を読みましたが、中でも強く印象に残ったのは東北大学教授の千葉聡先生が書いた『ダーウィンの呪い』という本です。私は人間の持つ「利己性」と「利他性」について考えてきました。それと生物進化との関わり、そして私自身の生涯の望みである「人類が戦争をやめること」と深く関係することもありますが、ダーウィンの自然選択説が現代に至るまでどのような変遷を辿ったか言葉に言えないほど緻密で深い考証がなされています。さらにそれよりも強く私の心に響いたのは現代では忌み嫌われる「優生学」がどのように誕生し、そして現代にどのような形に変化しているかをこれまた緻密で深く考察した部分です。
千葉先生とこの本の内容に関し、メールのやり取りをしました。その結果「今のままでは人類は戦争をやめることができない」という結論を得ました。以下にそのことについて書きます。
人類の戦争の原点です。
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ある人類の集団が飢餓に直面し、このままでは多くの人が飢えて死ぬと仮定します。隣の集団は食料が余っていると仮定します。しかし頼んでも食料を全く分けてくれません。
こんな場合どうするのでしょうか?
個人の所有物は個人に帰する。これを絶対の正義だとすれば、我々は座して死ぬのが正義なのでしょうか?
いや絶対にそんなことはないだろう。我々は彼らよりも強い肉体があり腕力も強い。
それは何のためにあるのか?
我々はまず生物です。生物とは生きているものです。これが生物としての第一条件。そうであれば所有権よりも生存権の方が正義として上位にある・・・。
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こう考えてもおかしくないでしょう。隣の集団が余った食料を分けてくれれば戦争は起こりません。そういう選択肢もあります。だがしかし、分けないという選択肢もあります。どう考えどう決定するかは、まさに生物が持つ自由意志によります。他人が他人の自由意志をどうこうすることはできません。
こう考えた結果、暴力で奪いに行くくらいなら座して死ぬのが正義だと考える人もいれば、分けてくれない場合は戦って奪い取ることが正義だという考え方も出てきます。我々は生身の生き物なんです。はたしてどちらが正義でしょうか。
これが戦争の原点だと思います。
戦って奪い取ることが正義だという考え方を論破できるでしょうか。
私は「人類が戦争をやめることを望む」し、上記の主張に対抗しうる論理も持っています。でもその論理で私の望みが叶うかどうかはわかりません。生物学から結論は出ません。生物学(自然科学)はあくまで結論を出すための事実を見出すのであって、その事実を用いて人類が深く考えた末に、人類が結論を出すのだと思います。