森中定治ブログ「次世代に贈る社会」

人間のこと,社会のこと,未来のこと,いろいろと考えたことを書きます

日本のトランプ N国党首・立花孝志

2019-10-12 14:31:28 | 社会問題

私の暮らす埼玉県の参議院補欠選挙で、本命候補の前埼玉県知事・上田清司氏に対して、N国党首の立花孝志氏が夏の参議院普通選挙で当選したばかりの参議院議員の職を辞して、改めて埼玉県参議院議員補欠選挙に出馬した。


同じ参議院議員であるし既に当選しているのに、どうしてわざわざこんなことをするのだろうと不思議に思った。N国は比例代表で彼一人が当選しただけである。彼が職を辞せば2位の者が繰り上がるからN国の国会議員1名は消えることはない。だからもう1名増やしたいのだろうと思った。しかし、負ければN国の国会議員数は減らなくとも自分自身は失職するのである。当然ながら上田氏に勝てる公算がなければそんなリスキーなことをわざわざしないだろう。

上田氏は、先の埼玉知事選で国民民主の議員を辞して立候補した大野氏を応援した関係で国民、立憲が支援する。自民は、今度は対抗馬を出さず、上田氏の出陣式には自民党議員が応援に参加した。野党と自民の相乗りに見える無敵の大本命である。

N国は「NHKをぶっ壊す」がスローガンでもあり、またそのワンイシューの政党であった。しかし今度の補選でのスローガンは「既得権益をぶっ壊す」である。そしてホリエモンに協力を要請した。


これで分かった。


一般にはとてもリスキーな行為と見えるかもしれないが、世界の潮流を見れば十分に勝つ公算があることを示している。潮目の変わった流れがひたひたと押し寄せるその音が、このN国党首にもホリエモンにも聞こえるのだろう。


上田 vs 立花。この構図をあえて言えば、上田清司氏はエスタブリッシュの代表と例えられるだろう。既得権益に守られた財界、既得権益に守られ安定した生活の労働者(連合)、裕福な人たち、上流階級、言わばクリントンである。立花孝志氏は言わばラストベルトを代表する。既得権益を受けられない落ちぶれた中年、どれだけ働いても楽にならない若者・・。立花氏は「既得権益をぶっ壊す」と言った。トランプと同じ。私には、この補選にこの構図が見える。米国での勝利は「よもや」のトランプだった。


2019年10月11日のニュースで、クルド人に対するトルコの軍事行動の停止を求めたEUに対して、トルコのエルドアン大統領が「我々の作戦を侵略と呼ぶなら、ドアを開けて360万人のシリア難民をあなたのところに送る」と発言した。


貧困の移民や難民は受けれたくない。トランプが築くメキシコ国境の壁も、広くEUで難民排除の極右政党が台頭するのも同じ。縁もゆかりもない他人を、なぜ俺たちの金で食わさねばならないのか。高額の税金を納め、あらゆる面で行き届いた福祉社会を築いてきたスウェーデンでさえも今や同じ。縁もゆかりもない、赤の他人の食べていけない老人や障害者、弱者を俺たちが働いて苦労して手に入れたお金でなぜ食わさねばならないのか。N国の立花党首もホリエモンも同じだと私は思う。次は安楽死政党が出て来るだろう

人間は誰もが生きる権利がある。誰もが平等であり、誰もが同じように幸せを得る権利を持つ。誰の生命も同じ。


こういった主張は、それを総ての人が当たり前だ!理由などいらない!と論拠なく肯定する場合には大きな力を持つ。人間が王様や領主の所有物であった封建時代から人類は脱出し、「我思う 故に我あり」と言ったデカルトやホッブスやロック、ルソーといった哲学者が生まれた近代から今まではそうであった。それを疑う必要のない大前提として、論拠など不要の大前提として様々な社会理論が生まれた。しかし、そう考える人が人間総数の半分以下になれば事情は変わる。そういう潮流が米国にも、欧州にも、世界に押し寄せている。日本においても同じ、その嚆矢が津久井やまゆり園で起きた相模原障害者施設殺傷事件だと私は考える。その潮流を元に戻すために、潮流のブレを是正するために、我々はその論拠を改めて考えねばならない時に来ていると思う。


トランプ現象。立花現象。同じである。
よもやとは思うが、埼玉でのこの参議院補選でN国党首、立花孝志氏が勝ったら、日本にも押し寄せてきた潮流の変化が目に見えるようになるだろう。

 



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4月13日(土)市民シンポジウムの趣旨説明

2019-04-10 10:55:32 | 人類の未来

今回は作家の橘玲さんをお迎えして、「リベラル化する世界の分断」というテーマでお話しいただきます。論評者として作家の吉川浩満さん、哲学者の神戸和佳子さん、弊学会の春日井治さんに論評をいただきます。最初にウェルカム・コンサートで私も2曲歌います(笑)

https://www.tachibana-akira.com/2019/03/11583

おかげさまで400名の会場が満席でキャンセル待ちの状態です。ご参考までに私の趣旨説明を以下に添付いたします。

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我々が生活を営むこの人類社会の終焉は、どのように来るだろうか。

日本には1 億3000 万の人が住み、先進国として多様な食べもの、きれいな水、そして高い利便性をもち、物質的にもとても恵まれた生活を享受している。中国には13 億6000 万、インドには12 億6000 万の人がいる。ともに日本のほぼ10 倍である。この人たちが日本、米国を追いつけ追い越せと現資本主義のルールで世界的な展開を図っている。中国がアフリカの資源と北海道の水を押さえに入っているというニュースは、既にインターネットや週刊誌などで広く話題になっている。しかし、それらの国がコモディティー(生活用品)と生活の利便性において、日本と同レベルに至るには地球が2.5 個必要である(拙著『プルトニウム消滅!』p.205-210)。地球を2.5 個に増やすことは絶対にできない。ゆえに、我々が公正と認め標準にしている現在の自由主義、資本主義のルールが破綻し、現在の人類社会の終焉が来るのは、論理的な帰結のように思える。人類は、これをどのように平和裡に乗り越えるのか。これこそが、我々人類の現代の究極の課題ではないのか。 

「善悪に関心持たぬテクノロジー」 崩 彦(中畑流万能川柳 2018.10.3)

どれほどAI が進歩しても、仮にシンギュラリティー(技術的到達点)が到来して人工頭脳が人間の管理を離れ、それ自体が自ら考え設計し生産するようになったとしても、どういう目的を持って自ら生産を行うのか、それは我々人間がAI にインプットする。シンギュラリティーなど来ても来なくてもどちらでも同じ。我々人類は、これからどういう目的を持って人類社会を営んでいくのか、発展させていくのか。我々は今、その方向性を定めるべき歴史的な到達点を迎えたのだと思う。

自由社会とは個々の人間がそれぞれの自由な意思で好き勝手に暮らす社会である。ゆえに人類社会の方向なんてものはない。それぞれ個人が好き勝手に歩んで来た道が人類の道である。こういう考え方に、私は与しない。ステュアート・ミルが言ったように「自由」とは勝手気ままではなく一つの方向がある、と私も思う。その方向とは、どの方向か。それは、ミルの時代では、人間の思考だけによる思弁、観念論だった。その時代は過ぎ、自然科学から得られたデータやエビデンスを土台にして、多くの人が納得できる目に見えるものを提案する時を、人類は迎えたと思う。

コモディティー(生活用品)と生活の利便性において、地球が2.5 個必要な状態へと、今後も同じ方向にさらに突き進んだ時、現在の自由主義、資本主義社会の状態で人類社会はどうなるだろうか。

2019 年1 月、ダボス会議に合わせNGO オクスファムは、世界の富の偏在に関する報告書を公開した。世界の富裕者上位26 人が所有する資産は、世界の人口の約半数に当たる貧困層38 億人が持つ資産と、ほぼ同額と指摘した。私有資産では、26 人:世界の人口の半分、という構図である。今後も、裕福な人はますます裕福になり、貧しい人はますます貧しくだろう。なぜなら、裕福な人はさらに裕福になるように働く(行動する)からである。その上、政府もメディアも警察も全てが彼らを守る盾となるだろう。そのように働く(知力、財力を用いる)からである。過去のように特定のイデオロギーの下に暴力革命で富裕者を殺し、生産手段を奪い取ることは不可能である。第一、暴力に正義はない。むろん解決もしない。

その結果、現在は私有資産において世界の富裕者とバランスする世界の人口の50%の貧困者が、未来においては60%、70%と増えていくであろう。つまり超富裕者が存在し、一方で貧困者は世界の過半数を占めるという人類社会の構図である。こういう人類社会は正しいのだろうか。善なのだろうか。

我々の社会、人類社会のあり方に正邪、善悪はない。我々個人はそれぞれが分離しそれぞれに独立した考え方、主張、理念・理想をもつ。それは個人の価値観であって、他人の価値観は尊重されねばならない。だからどういう社会にするかは、その時を生きる人の多数決になる。神ならぬ人間の持つ知識は非対称で不完全である。すなわちある人は知っていても他の人は知らないということは普通にある。またフェイクニュースを信じたり、詐欺に引っかかることはオレオレ詐欺がいつまでもなくならないことを考えば容易にわかる。間違い、誤解、偏見、好悪・・、人類からこれらがなくなることはないだろう。こういった不完全な情報と感情の統合によって人間は意思決定する。

しかし、逆に多くの人がアプリオリ(先験的)に望ましいと考えることがある。アプリオリとは、あれこれ損得を考え計算した結果、〇〇が正しいと意思を決定するものではない。多くの人の心に、理由なくそれが正しい、そうしたいという思い、心の中に自然と湧き上がる願望である。現代社会を形作るその基礎となっている大前提、社会規範である。具体的に示せば、現在の日本国憲法に規定された基本的人権である。誰もが幸福になる権利を持ち、誰もが平等であり、誰もが差別されることがなく、誰もが生きる権利、教育を受ける権利を持つことである。誰もが人間らしい生活を通して幸せになる権利である。こういう理念は、多くの人が共有し、考えるまでもなく当たり前だと思う。多数決を取れば、誰もが迷うことなく賛成するから盤石なのである。しかし、我々個人一人々は離れた異なる存在であり、異なる意見を持つ。自分に全く無関係の、赤の他人の生存のために自分の所有する富を提供したくないとか、あの国は仲間だからあの国の人は助けたいが、この国は敵だからそこの人々は助けたくないとか、そう考える人が過半数になったらどうだろうか。誰もが当たり前として疑うことのなかった基本的人権を、私はそうは思わないと考える人が過半数になったらどうなるだろうか。所与の大前提として現代人の心に湧き上がる基本的人権が、それがどこから来るのか、その思考を深めなかった人類の怠慢であり、先に述べた少数の超富裕者が全人類の半数の貧困者を超えてさらに大きくなる人間社会は、基本的人権を所与の大前提ではないとする人がさらに拡大することとパッケージであるように、私には思われる。

現代人の誰もが理由なく正しいと考える、心から湧き上がる基本的人権は、人間が進化の過程で身につけたものであろう。人類は600 万年もの狩猟採集生活の時代、厳しい自然環境の中で集団で暮らすことによって生命を永らえてきたのだろう。だから仲間を自分自身と同様に大事にし、逆に仲間はずれにされることは死を意味した。非常に強い集団への尊重と敵味方の判別の指向性が生まれたのだろう。俺たちとあいつら、つまり味方と敵を峻別し、それに従わないものには厳しい罰が与えられる。そういうしきたりをなぜ作ったのか、なぜ尊重するのかと問われても答えることは難しい。そのような指向を持った集団ゆえに現代まで生命を永らえてきたのであろう。そしてその集団内でより多く子孫を残した人たちがやはり現代まで生命を永らえてきたのだろう。ゆえに、なぜ個人が競争に打ち勝ってより裕福になろうとし、裕福なものが財力、知力、持てる力の全てを駆使してさらに裕福になろうとするのか理解することは難しいが、生物学的な視点を持つことによって明確な認識が可能になりまた理解しやすくなろう。もちろんより裕福になろうとする指向性は、そのまま無制限に肯定されるものではなく制御せねばならない。生物学的な視点からの理解は、我々人類がその真の制御方法を構築するために必須であろう。その指向性は人間の進化の過程と次に述べる生命の仕組みから生み出されるものであり、その理解と認識なくしてそれを真に制御することはできない。その指向性に対する明確な認識と理解が進むことによって、その制御は強制ではなく真の制御つまり和解となる。

しかし、そういった狩猟採集生活時代における自然選択によって自然発生的に生じたとする説明は、集団における敵味方の枠を超えた普遍的な人類愛については説明が難しい。種を超えた生命愛についてはなお説明が難しい。人間にはもう一つ、それは人間が生物であること、つまり生命の仕組みそれ自体から湧き出てくる意思がある。そしてそれら総ての意思が一人の人間の中で協力しあるいは相剋している。

現代の日本国憲法の基本的な理念は、自然科学のバックボーンを持つ。まずこれを理解することが重要である。現代の人類が普遍的に持つ理念は生物学的な視点からの検討が必要である。個人の価値観は、あくまでその個人の考えであり、生物学から得られたデータや知見、あるいは計算によって唯一の正解が証明され得るものではない。個人の価値観や意思は、どうであろうとあくまで個人が決定すべきものである。生物学的な発見は、人間の価値観はこれが正しいと証明するものではなく、個人の価値観や意思決定に単に影響を与えるものである。しかし、これはとてつもなく大きい意味を持つ。

人間はどのように生きるべきか。どのような社会を作るべきか。この問いに対して自然科学はずっとそっぽを向いてきた。自然科学における発見やエビデンスと、個人が持つ価値観とは無関係と断じてきた。その結果、人間がどのような未来を持つか、未来へと歩む道の探索は哲学や心理学など社会科学の独壇場となった。しかし、人を殺すなとか、他人に迷惑をかけるなとか、人間はこうあるべきなどという道徳や倫理は人間の本源的な美意識に基づいており、その美意識は生物学的な基盤を持ち、人間の心の中に自然発生する。どういう時にあるいはどういう相剋があって自然発生するのか、それを一緒に考えることがこれからの教育の大きい一面だと、私は考える。

今回ご講演をいただく作家の橘玲先生は、2019年1月に新著『もっと言ってはいけない』を上梓された。今まで言ってはいけないことになっていたこと、考えてはいけないこと、タブー、それを明らかにして議論を進めるべきときがきたのである。その内容は、多くが生物学を基盤とし、それから得られたエビデンス(証拠)に基づいた人間社会論の展開、つまり自然科学と社会科学の融合である。これが人間の基本的人権を、自然科学を土台にして改めて認識する大きな力を与えてくれるだろう。そして、人類が生命体としてどういう存在なのかを示した拙考『種問題とパラダイムシフト』は、生物学と哲学の融合であり、今回のシンポジウムと重なる。

本日の講演とその論評と活発な討議が、人類社会の夜明けに射す光となると私は考える。

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4月13日ウェルカム・コンサートで歌います

2019-03-23 07:34:35 | 原発・エネルギー

4月13日(土)午後の市民シンポジウムのウェルカム・コンサートで歌います。
場所は東京大学赤門を入ったすぐ右側、伊藤国際学術研究センターの地下2階、伊藤謝恩ホールです。

先日初めて見ましたが、400名の素晴らしいホールです。音楽ホールではなくて、学術シンポジウム用のホールですが、ちょっと声を出してみたら素晴らしい響きです。このホールで歌を唱った人はまだいないでしょう。とても楽しみです😊

お呼びした小林純子さんは、昨年山田耕筰の石碑のある巣鴨協会で行われた小川明子先生の発表会で『蘇州夜曲』を唱われ、私は感動しました。3曲唱ってくださいます。私は『星は光りぬ』と『やがて来る自由の日』の2曲を歌います。

おかげさまで市民シンポジウムの申し込みは、すでに380名に達しました。ほぼ満席の状態です。有難うございます。

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2019市民シンポジウム「次世代にどのような社会を贈るのか?」

2019-02-21 14:03:22 | 原発・エネルギー

市民シンポジウム「次世代にどのような社会を贈るのか?」をご案内いたします。

日時:2019年4月13日(土)午後1時―(開場12:30)
場所:東京大学本郷 伊藤国際学術研究センター 伊藤謝恩ホール

副題:「リベラル化する世界の分断」

◎最初にウェルカム・コンサートを行います。

参加費1000円、要旨集代500円、懇親会3500円

講演者:橘 玲(作家)
論評者:吉川 浩満(作家)、神戸 和佳子(哲学者、公民科教員、「子どものための哲学」実践者)、春日井 治(日本生物地理学会)
司会:三中 信宏(国法 農研機構)

当初は例年の開催場所、東京大学フードサイエンス棟の中島記念ホールを予定していましたが、橘玲さんのブログに出た後すぐ申し込みが満席の100席をすぐ超えてしまい、多数の女性を含め20歳台30歳台の若者が次々と申し込まれることから、赤門を入ってすぐ右側の4倍もの広さを持つ伊藤謝恩ホールへと会場を移しました。
ポスター(会場が変わっていますのでご注意ください)

橘玲さんは作家で、現代人類社会の経済、社会事象について、人間の生物学的な視点を含んで様々の論考を出版されています。週刊プレイボーイ誌にもコラムを連載し、若い人に大きな人気を呼んでいます。進化理論、進化生物学などを踏まえた思考、哲学が必要と主張されます。その意味では自然科学と社会科学の統合ということになるでしょう。
私は、チョウを材料とした分子系統学から「種問題」に入り、人間を生命の視点から捉えた論考「種問題とパラダイムシフト」を出版し、昨年の市民シンポジウムでは「森中報告『種問題とパラダイムシフト』をめぐって」と題して、大西広先生(慶應義塾大学教授)や松井暁先生(専修大学教授)などのマルクス経済学者をお招きし、討議を行いました。その時の講演録ができていますが、十分な理解がなされたようには思えませんでした。
私の論考の趣旨は、(A)“分離独立し個別の意思を持つ個人(唯個論)”と(B)“一つの実体である人類”の相克という視点であり、今年の市民シンポジウムも、広い意味ではその論考の範疇ではないかと考えます。どちらかといえば、橘さんは(A)、論評者の吉川さんは(B)のように理解しています。
吉川浩満さんは、現代社会を鋭く切った多数の論考を出版されています。人間の進化、進化心理学を思考のベースにされています。
毎日新聞の哲学論議で著名な哲学者の神戸和佳子さん、弊学会の会員で学会誌の書籍紹介を執筆してくださり、深く鋭い思考の持ち主、春日井治さんにも論評をお願いしています。

申し込みは森中まで。delias@kjd.biglobe.ne.jp
お名前、年齢、懇親会の可否をお願いいたします。

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桎梏“動物性”の一歩先へ『万引き家族』

2018-07-16 10:25:36 | 社会問題

私の専門は分子系統学です。カザリシロチョウという東洋からオーストラリア、ニューギニアに生息するチョウ類(昆虫)を対象として、近縁性を調べ系統樹を書きました。“系統”とは、生物間の血縁の遠近を表す言葉です。(犬と人)、(猿と人)ではどちらの血縁が近いかと問われれば(猿と人)の方が(犬と人)よりも近いと分かります。その通りです。誰もが直感的に分かります。では、(犬と人)、(牛と人)ではどちらの血縁がより近いかと問われれば、これは直感では分かりません。現代では、この生物間の関係を分子生物学を用い、DNAの塩基配列をデータとして推定できるようになり、かなり精密に系統樹を描くことができるようになりました。つまり生物学として、生命の進化の歴史を高い精度で復元できるようになりました。

この純然たる生物学研究から始まって、私の関心は生命の単位つまり“種”に広がりました。生物の種とは何か?長い論争の歴史があり、現代でも確定した答えは有りません。生物学(自然科学)だけでは答えることができない、哲学が必要だからだと私は考えています。この種とは何かといういわゆる“種問題”に私なりの答えを見出し、これが現代の人間社会における貧富の格差、私有と公共、税の論拠など人間の幸福につながる核であることを見出し、生物学、哲学、社会科学を統合した論考『種問題とパラダイムシフト』を書き上げました。私がこの世に生を受けたその目的を果たしたと考えています。この一つ前のブログに書いたアイン・ランド著『水源』も私のこの論考につながります。今回の『万引き家族』も同じです。

家族は、父と母とその両親、そして父と母から生まれた子ども、その子どもの子ども、つまり孫・・これらの人々から成り立っています。つまり生物学的には最も濃い血縁の集団です。部族、民族も血縁の集団です。人種・・・白色人種、黒色人種、黄色人種なども血縁集団です。戦争は多くの場合、この血縁集団間で起こります。動物のもつ桎梏、逃れることの出来ない桎梏、それが血縁です。人間も動物です。繰り返しになりますが、人間の家族は桎梏である血縁で成り立っています。

この映画、2018年第71回カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した是枝監督作品『万引き家族』は、人間が動物であるがゆえに逃げることのできない桎梏への反逆を表現しているかに見えます。この家族6人に、普通の家庭のような血縁を持つ人は一人もいません。けれどもこの6人は皆好きあっています。それが映画の中の何気ない会話や日常から伝わってきます。腕に火傷の跡をつけた女児、その家庭から連れ出してこの家族に加えます。家族の年長者であるお婆さんが死にます。しかし、この家族はそれを役所に届けず、家の下に埋めてしまいます。葬儀の費用がないためか、年金をそのまま継続するためか・・・家族全員の合意です。

それがバレて、家族の母親が総ての罪を一人で被ります。警察内での尋問で彼女は「ここには家族の喜びがあった。苦労はしたけれど、おつりが来るほど幸せだった」・・。この家族は、動物性に由来する血縁の桎梏から離脱した有りえない虚構の家族のように見えます。しかし、そうではありません。“理性”による穏やかな喜びがあります。生々しい血縁に基づく喜びの他に人間は理性的な喜びをもっています。この人間としての理性的な喜びによって、濃い血縁の桎梏を緩和し希釈し、その一歩外側へと踏み出しているのです。動物的な桎梏の外側に踏み出すこと、これこそが人間の真の姿ではありませんか。江戸時代のいわゆる“長家”、ご隠居さんがいる。行き倒れの子どもを連れてくる。長屋の住人総てが一つの家族・・・直接の血縁だけではなく、見ず知らずの人も含めて血縁が外側へ広がったのです。

これは、ある意味では未来の人類の社会形態を先取りしています。人類の貧富の格差は、今後ますます広がるでしょう。食べていくことのできないさらに多くの貧困者、難民が世界中に生まれ移動するでしょう。人間の持つ私有の基本概念、つまり自分が稼いだ富は本源的に自分の所有物である。それを貧しい人に分け与えることは望ましい。しかし個人の意志の限度を超えそうしたくない人にまで、それを強制することは間違いである。この論理に対抗できる論拠を未だ人類は持たないからです。美しい理念やこうあって欲しいという願望は、それぞれの個人の思考であって個人に属するものであり、過半数の個人がそう考えなければ、絵に描いた餅、蜃気楼だからです。美しい理念を多くの人が美しいと認め強い意志を持って積極的に共有しない限り、貧富の格差の進行を止めることはできません。それぞれが心の中に持つ架空の観念を、他人に強制することはできないでしょう。無理にやれば建前と本音の著しく乖離した嘘の人間社会を生み出すでしょう。

人間はそれぞれが分離し、それぞれが独立した個人です。個人の意思は尊重されねばなりません。これはとても大事なことです。しかし、それと同時にまた人間は繋がった一つです。この事実、理念や願望などの個人の観念ではなく“事実”が人類を救うと私は考えます。それを記述した論考『種問題とパラダイムシフト』が、この第71回カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した『万引き家族』に顕在的な明確な論拠を与えると私は思います。

このブログは春日井治さんの随筆『ベランダ植物界』No.121「異常なのに、まともな『家族』」(2018.6.27)を参考にさせていただきました。

http://www.geocities.jp/ocme6904/profile.html#121

御礼申し上げます。

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アイン・ランド『水源』書評

2018-06-17 19:00:19 | 社会問題

私の半生をかけた論考『種問題とパラダイムシフト』が完成し、4月7日(土)東京大学中島ホールで行った市民シンポジウム「次世代にどのような社会を贈るのか?」の今年のテーマとして議論しました。私は昆虫(チョウ)を材料とした分子系統学が専門で、そこから種問題や生命論に広がりました。人間とは何かと言った哲学や人間が織りなす社会問題、人類の未来などには以前から深い興味を持っていたので、私が考えたことを核としてそれら総てを統合した論考となりました。言わば、私がこの世に生を受けた目的とも言える作品です。

その論考は、個体と種の関係について考察したものです。それを社会に当てはめればリバタリアニズムとマルキシズム(コミュニズム)の関係とも言えるかと思います。私はリバタリアニズムに関する本は読みましたが、リバタリアニズムの専門家ではありませんので、その内容についてはリバタリアニズムの権威である森村進先生(一橋大学)に目を通していただきました。

この論考にある人から、あなたはリバタリアニズムについてあれこれ述べているが、リバタリアニズムの原点とも言えるアイン・ランドの『水源』についてどう考えますか?という質問をいただきました。読んでいなかったので曖昧な返事をしました。その方はフェイスブックで自分の母親を毒親などと言っているので『蕁麻の家』3部作を読んだことがありますか、読むと母に対する考えが変わるんじゃないんですかと私も彼に言いました。その後読まれたかどうか知りません。

そのような事情で、5月からこの『水源』を地元の戸塚図書館で借りて読み始めました。1000ページを超える大作です。1回の貸し出し期間が2週間、3回借り直しました。もう1回は必要と思いましたが、最後の方で面白くなって一気に進み3回で読み終えました。

主人公のハワード・ロークは建築物の設計者で、設計図を描くことつまり構想を産み出すことが仕事です。時は1920−30年頃、物語は1922年にロークが大学を退学になったところから始まっているので世界恐慌直前の嵐の前の静けさの米国が舞台です。この小説は、1998年の「20世紀の小説ベスト100」で第二位になっています。著者ランドの小説(思想)は米国の知識層に熱狂的に受け入れられ、その中には連邦準備理事会(FRB)のグリーンスパンなどもいます。米国の学生や知識層の常識のようです。しかし7年がかりで書かれたこの小説は、12の出版社に拒絶され1943年に出版されましたがすぐ絶版となったようです。当時の米国上流社会がどのようなものであったか想像されます。

私の率直な感想は、非常に素晴らしい小説だということです。総てではないにしても、人間の真実を抉り出しています。この小説の舞台となった米国の上流社会、米国には貴族はいませんから財をなした人たちが形成する階層、そこを支配する通念、キリスト教の影響もあるのでしょうが、それは「利他」です。他人に施す恵み、どれほど他人に施したか。利他性こそが人間の美徳であり、最上の人間の証であるとの通念に支配されています。逆に「利己性」は忌むべき性質です。自己中心的な人間であるとの評価は社会から抹殺されるに等しい。

人間は利己性を持っています。修行を積んでそれを穏やかに自己抑制(縮小)する力をもつことは可能かもしれませんが、それを消し去ることはできないと思います。米国でそんな修行がなされたとは聞いたことがありません。だから誰もが抑制されてはいない利己性を持ちながら、表面は利他性を尊ぶ人間関係が出来上がります。これは偽善そのものです。〇〇夫人はあのチャリティーで○万ドルを惜しげもなく寄付したとか、人道主義それが人間の格、存在意義を決める基準になります。他人は自分をどう見ているか、それこそが自分の価値の基準になります。

著者のアイン・ランドは、このような人間社会のあり方に疑義を呈しました。単に疑義を呈しただけでなく、非常に重要な人間社会の本質に関わる指摘をしました。

同じ建築学部の友人であるキーティングとローク、キーティングは誰とも仲良く、教授の覚えもめでたく、学生自治会の会長であり、アメリカ建築家協会から金賞を受け卒業式に集った総ての羨望の眼差しを受けるのに対し、ロークは自分の考えをひけらかしもせず他人の考えに同調もしません。そして学部長に受け入れられる返事をせず、その同じ朝に大学を退学になります。
それからもずっと二人の関係は続いていきます。キーティングは社会から称賛を受ける陽のあたるところを歩き、一方ロークは陰の部分を歩きますが、途中で逆転します。ドミニクという女性も独特であり、彼女を挟んだ二人の関係もまた独特であり、私自身もこれが米国社会の実態なのか?!と驚くくらい、深い面白さを持つ小説です。

キーティングは、政府の貧困者対策のための廉価な住宅、単位あたり○ドルの住宅設計にチャレンジします。しかし自分の力ではどうあってもそれを設計することができません。最後に彼はロークを訪れその設計を頼みます。ロークはキーティングの気持ちを分かっていて、彼が設計したことにしてまた一切の名誉も金もキーティングのものとして設計します。キーティングは設計料の全額をロークに渡すよと申し出ます。ロークは金が欲しくないことはわかっているだろうとキーティングに言葉を返します。ロークの条件はただ一つ、その建物がそのまま世に出ることつまりこの世に生み出されることです。そして二人は契約を結びます。キーティングはその設計図によって社会の称賛を受け、建築を始めたものの政府などの要望によって、建築を一部改変せざるを得なくなります。建築の途中でロークが見たものは約束を違えているものでした。ロークは夜間にそれをダイナマイトで爆破します。

ロークは社会から指弾を受けます。二人は学生時代からの知り合いだというじゃないか。ロークのやっかみか。貧困者を救う崇高な行為になんという自己中心的な男だ!擁護者の新聞社社主も含め社会から抹殺されようとします。しかし、ロークとキーティングの契約が表に出て、裁判の陪審員の前でロークは陳述します。

「人間の格は利他性で決まる。どれほど他人に与えたか、それで人間の格が決まる。それが今の社会です。しかしもっと大事なことがあります。それを忘れています。与えるものを生み出すことです。生み出されていなければ与えることはできません。つまり創造者です。創造者は自分の仕事のために生きます。創造するとき他人を必要としません。人間の精神は他人ではありません。自分自身しかありません・・」ロークはプロメテウスの話をします。「プロメテウスは罰を受け、ハゲワシに腹を裂かれました。なぜか。神から火を盗み人間に与えたからです・・」こうして、ロークは無罪を勝ち取ります。

「利他性」という名の下に偽善が支配し他人の評価によって自分の価値が決まる社会も、アイン・ランドが同意し望んだリバタリアニズムが変形特化して新自由主義の形で現れた現代の米国社会も、どちらも人間が目指す真の社会とは私には思えません。

分け与えることができるもの、それは生産物です。それはとても重要です。生産物がなければ人間は与えることが出来ません。自然を切り出し、加工することつまり労働によって生産物が生まれる。マルクスと重なります。しかし、マルクスが言っていないこと、見落としたか無視したか、それがここで主張されます。生産物を初めてこの世に生み出したその価値です。アイン・ランドはこの小説を水源(The fountainhead)と名付けました。人間の労働によって生産が始まりますが、生産の始まる一番最初、発起点です。日本語では「開闢」と言ってもいいかと思います。社会主義者は労働価値については述べるけれども、創意や生み出した価値を議論しません。無視しているようにすら思えます。それを無視することは美しい理念に目を奪われ人間の心を見過ごすことであり、利他という名の下に偽善の社会を作ることだと私は思います。偽善を美しい人道主義として人間に強要すればどういうことになるでしょうか。本音と建前が入り混じり融通が効かず柔軟性のない暗闇の社会になると、私は思います。

アイン・ランドはロークに自分の主張を語らせます。創造は個人の業であり、個人の意志こそが大事だと言います。しかし、それを総てお金に換算して独り占めせよとは言っていません。ロークは設計はお金のためだ、お金が欲しいとは一言も言わないのです。ランドは素朴な公正感しかもっていません。大金持ちを産み出し想像すらできないような貧富の格差を産み出す現代のグローバリズムとアイン・ランドのリバタリアニズムは合致してはいません。人類の未来を考えるに当たって、リバタリアニズムとマルキシズムが心を開いて議論をするべき時が来ていると私は思います。

論考『種問題とパラダイムシフト』は、まさにその議論そのもの。個体と種、リバタリアニズムとマルキシズム(コミュニズム)、その両方を重ね持ったもの、それが人間です。その証明を試みています。

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平和憲法について考える

2018-05-03 09:58:37 | 原発・エネルギー

生物学に端を発して、人間のこれからの生き様について後世の人類に残したい私の生涯をかけた論考を出版しました。養老孟司先生をはじめとする何人かの先生にお出でいただき、その論考の骨子に関わる市民シンポジウムも終えました。

私の人生における一つの節目を通過し、一息ついたところです。その市民シンポジウムのおかげで人間社会のお金の問題、つまり経済学についての興味深い論点を見出しました。今後の私の大きい興味が一つ広がりました。カザリシロチョウを用いた生物学の論文も学術誌掲載の直前まできています。

併せて歌です。声楽(テノール)を習ってはや6年、昨年は直前に風邪をひいたり総じて不甲斐ない成績でした。先般、和光市のサンアゼリアホールに知人の歌を聴きに行ったところ、「清水かつら記念日本歌曲コンクール」があることを知りました。清水かつらさんは「叱られて」「靴がなる」「みどりのそよ風」「雀の学校」などの童謡を産んだ詩人で、現在の埼玉県和光市で生涯を送りました。今年は、東京国際声楽コンクール、日本クラシック音楽コンクールに加え、この清水かつら記念日本歌曲コンクールにも出てみようと思います。

さて、前置きが長くなりましたが今日は憲法記念日、現代日本の平和憲法について考えてみたいと思います。

 「世界の国に先駆けて 戦争捨てた憲法の こころは忘れずとりもって 平和の日本の民となる これが我らの将来だ」

「窓に見る 富士の高ねをそのままに よろずの国にさきがけて あらゆる武器をうちすてた 文化日本の国民(くにたみ)と 私たちはなるのです」

共に日本の小学校の校歌です。この言葉に現代平和憲法の原点が尽くされています。

先の戦争では、アジアで3000万人もの人が死に、日本国内では広島・長崎の核兵器投下、東京での無差別空爆などによって300万人もの人が死にました。人が死に人類の生存基盤である自然環境が破壊されるだけでなく、戦争は人間を人から鬼に変えます。戦争は人間のすることではないという魂の叫び、万人の思いが上記の歌詞となり現代の我らの平和憲法となったのです。沖縄問題の権威であるオピニオンリーダーからお聴きした意見です。「先の戦争で沖縄は日本の本土決戦の犠牲になった。一番酷い目にあった。それでも日本に復帰したいと考えたのは、日本が二度と戦争はしない、人殺しはしないと誓い、その具象として目に見える形で平和憲法を作ったからである。二度と戦争はしないという人間の国になったから、その国と一体になりたいと思ったからである。それゆえその平和憲法が人を殺すことのできるものに変えられるなら、沖縄が日本に属する最も重要な論拠を失う」

米国が作ったものだとか、現代の日本国憲法の出自があれこれ問われます。そんなことは問題ではありません。人類がこれから未来に向けてどう生きるのか、どういう世界を作るのか、自分、自国の損得だけを頭においた暴力によるねじりあいの世界を作るのか、平和の中に人類の自然科学的な成長と精神的な成長を合わせた総合文明が見込めるような世界にするのか、その問いの中の一つの要素です。

今回の市民シンポジウムでの大きな論点でしたが、それぞれが切り離された単位である個人、それと理性的なもう一つの単位である一つの人類、生物学からその両者が共に実体であることの論証を試みたのですが、これもその問いの中に位置付けられる一つの要素です。

このような視点から見れば、現代の平和憲法の出自がどうとか、問題にならないことがわかっていただけるでしょう。

最大の問題は「では、攻められたらどうするのか」という論点です。上に述べたように人間の頭脳と予算を国家間の平和の構築と維持のために使います。経済的な繋がり、文化や芸術を通した人間の交流、災害時の相互援助、農業、医療技術などの提供、国際結婚、移住、理性的なものを総合してつながりを強めていきます。万が一戦争騒ぎになれば、それぞれの国に住む人類が反対します。そういう国作りをしていけば戦争を防ぐことができるでしょう。抑止力とは、人を殺す武器の殺傷力を高めて相手を威嚇することではなく、経済的な繋がり、文化や芸術を通した人間の交流、災害時の相互援助、農業、医療技術などの提供、国際結婚、移住、理性的なものの総合が戦争の抑止力ではないでしょうか。

ですから、人間の頭脳と予算を、戦争を抑止するために使うというものです。しかし、最後の質問が残っています。それでも、「戦争が起こった時にどうするか?」という質問には答えていない。その質問をはぐらかしているというわけです。

私がここで、この問いかけに対する答えを書いてもつまらないと思います。なぜなら、この問いはいつまでも残っているからです。みんなが考え自分自身の答えを持つ必要があるからです。それが自分で考えるということです。

あらゆる力、人間の頭脳、努力、お金(経済)の大半をつぎ込んでそれぞれの国に住む人類が強く結ばれる努力をします。どれだけその努力をしても「でも万一、戦争が起こったらどうする?敵が攻めてきたらどうする?」という問いへの答えは出て来ません。

ここで私は、このブログを読んでくださった方に問いかけをしたいと思います。

1地球に月くらいの隕石が落ちてくる場合 2福島の原発震災

1は自然現象です。ほとんど可能性はないでしょうが、だからと言って絶対ないとは断言出来ません。人類が頭脳、お金、持てるあらゆる力を発揮して戦争が起こらないように努力することはできます。しかし、だからと言って敵が攻めてくることは絶対ないとは言い切れません。この1と同じでしょうか。こんな稀な、天が落ちてくるというような心配のために「敵が攻めて来たら云々」という問いを真に受けているのでしょうか。2は、深刻な原発事故は絶対ないと言われそれを前提に福島の軽水炉原発が運転されていました。他の軽水炉原発も同じでしょう。いわゆる5重の防御壁による安全神話です。しかし5重の防衛ラインは破られてしまいました。戦争はどうでしょうか。人間の持てる人智の全て、頭脳もお金もその総てを使って戦争のない状態を維持する。これが福島と同じく5重の防衛ラインであるなら同じように破られるかも知れません。

1と2への思考から、逆に武器を増やし、人殺しの能力、環境破壊力を高めれば、敵は絶対に攻めてこないという結論が出てくるのでしょうか?「でも万一、戦争が起こったらどうする?敵が攻めてきたらどうする?」という問いかけそのものがどういう立場に立とうとも出てくるのではないでしょうか?この問いは結局何なのか、これ以上はご自身で考えてみてくださいね。

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市民シンポジウムご参加の御礼

2018-04-15 08:18:09 | 原発・エネルギー

ほぼ満席に近いご参加を賜り、おかげさまで充実した面白いシンポジウムになりました。

有り難うございました。

若者の中で、「生活費のない老人、親戚縁者友人などからも援助のない老人、言わば人間が見放した老人を、なぜ税金で助けなければならないのか。なぜ赤の他人の若者がそんな人の生活を支えねばならないのか」という疑問が見えないところで広がっている。前々回のブログを書いたとき、閲覧者数は日頃の20倍に跳ね上がった。若者 vs 無産老人の構図をもとに、70歳を過ぎた人には一切の社会保障をしない政策を打ち出す。もちろん資産のある人はその資産で自由に生きればよいが、資産のない人は安楽死をしてもらう。これでこれから子供を育てていかなければならない若者の極度の負担問題は一挙に解決する。こういう主張を掲げる政党が出現すれば投票し応援する。

ここでブログを止めておけば20倍どころではなく何万倍もの閲覧数に膨れ上がったように思います。

これは間違っている考えです。これは人間の認知による人間の個別視の世界的な潮流だと思います。

この話を中心とした趣旨説明に始まって、その解決策を講演で申し上げました。原点は生物学にあります。

今後も、機会があればお話ししたく思います。

たくさんのご参加に深く感謝いたします。

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市民シンポジウム「種問題とパラダイムシフト」をめぐって

2018-03-18 11:19:01 | 人類の未来

前回のブログに記したが、「生活費のない老人、親戚縁者友人など誰からも援助のない老人を、なぜ税金で助けなければならないのか。なぜ赤の他人の若者がそんな人の生活を支えねばならないのか」という疑問が見えないところで広がっている。前回のブログを書いたとき、閲覧者の数は、なんと日頃の20倍に跳ね上がった。私はその考え方の問題点と処方箋を書いた。もし、70歳を過ぎた人には一切社会保障をしない。無論資産のある人はその資産で自由に生きればよいが、資産のない人は安楽死をしてもらう。こういう政策を掲げる政党があれば投票し応援する。ここで止めておけば、20倍どころか何百倍、何千倍の閲覧者になったと思う。これは、欧州の移民・難民排除の政党の台頭・急進あるいはトランプ現象と同じだと考える。人類社会において、いま何が問題なのか?どういう仕組みで、全世界にこのような潮流が押し寄せるのだろうか?この壁を乗り越えるにはどうしたらよいのだろうか。

新自由主義の原理をなす「リバタリアニズム」。日本語では、自由至上主義とか自由尊重主義と呼ばれる。個人の意志を最上位に置く思想である。貧しい人を支えたい。それを否定はしない。そう考える人がいれば大いに結構だ。そうすればよい。しかし、そう考えない人まで一律に税金を徴収し、そこから支払う。そこに問題があると考えるのである。論考『種問題とパラダイムシフト』にも書いたが、これはリバタリアニズムと少し違うように思うが、一般にはこのような理解だと考える。

この考え方には欠陥がある。というより、この世の実体の半分しか現していないのである。

これが今回の市民シンポジウムの内容であり、何が欠けているのか、何を理解すればよいのか、人類が成長の過程で今迎えた巨大な壁をどうすれば跳躍できるのか・・・

― ― ― ― ―

 種問題、生命論、生物学に端を発し、哲学、現代の社会規範、税金の意味に及ぶ壮大なシンポジウムです。

人類が乗り越えるべき壁を示します。

ぜひおいでください。

 申し込み:森中まで(参加費千円、資料代別途500円、懇親会3500円参加の可否も含めて)メールをお願いします。

宛先:delias@kjd.biglobe.ne.jp

 なお例年の弥生講堂と違って、狭い会場です。早めにお申し込みください。満席になったら締め切ります。

 日時:4月7日(土)午後1時から4時過ぎまで

場所:東京大学農学生命科学 フードサイエンス棟中島菫一郎記念ホール

(メトロ南北線 東大前下車)

報告者:森中定治

論評者:松井暁(専修大学教授)、大西広(慶応大学教授)、原田桃子(元高校生平和大使、立教大学)、春日井治(日本生物地理学会会員)

クロージンングアドレス:養老孟司(東京大学名誉教授、養老昆虫館館長)

ポスター

http://www.nua-alumkanto.net/image/simpo20180407.jpg

 

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究極の選択

2017-10-25 13:25:40 | 社会問題

2017年10月24日(土)スウェーデン大使館オーディトリウムで行われた一般社団法人日瑞基金主催による第1回サイエンスセミナー、立命館大学前副総長、京都大学名誉教授の村上正紀氏による「人口減少での2060年問題に挑む立命館大学」という表題の講演を拝聴した。

日本の人口問題といえば、その減少を憂い、ますます減る若者が一体何人の老人を食べさせるのか、どうしたらもっと子を産む社会をつくることができるのか、そういう視点ばかりである。それ以外の見方はないと言ってもよいくらいである。

講演者の村上正紀氏は、京都大学卒業後UCLAに籍を置き、その後米国のIBMに勤め20年間を米国で過ごした冶金工学者である。帰国後京都大学で教鞭をとり、その後立命館大学で教え、現在は“文理融合”の視点をもって、立命館大学全学プロジェクト第3期「少子高齢化に対応する社会モデル形成」を進めている。

まず私が驚いたのは、「日本の人口減少は“その理想的な姿”に向かっている」との見方である。つまり日本の人口減少を、誰が誰を食べさすとか損とか得とかの視点ではなく、環境問題に関心を持つ人々が使う“エコロジカル フット・プリント”の視点から捉えた点である。日本人が現在の生活水準を維持するためには地球が2.3個いる。地球は2.3個には絶対にならない。1個のままである。ではどうすればよいか。日本人の生活水準を下げるか人口を減らすかである。現在の生活水準を保つと、適正な日本の人口は5800万人になる。幸いにもそちらへ向かっているではないか!

しかし、その人口で現代の生活水準が保てるのか。仕事はあるのか。国家の財政は成り立つのか?・・これらの総合的な解決のために、社会科学、自然科学、あらゆる学問を併せた全集学的なプロジェクトである。人文科学、自然科学からの様々の試みが紹介された。何より、立命館大学の校風か、京都大学の校風か、あるいは講演者の人柄か、講演が真摯で一途、また強い熱意を感じ、聴いていてとても気持ちがよく好感を持った。しかし、人類社会が今どうなっているのか、今後どう動くのか、真摯と一途はとても大事だが、それだけではうまく行かないと思った。それで、講演終了後の質疑で、会場から意見を述べた。
「お話をお聴きして人口減少に対するものの見方、および真摯で一途なご講演に同意し、強い好感を持ちました。しかし、現代の社会の状況で気付いていないと思われる点があるので、それを述べさせていただきます。私は、65歳を過ぎた老人ですが、今日この会場を見渡すと失礼ながら若者はほとんどいない。私が一番若いんじゃないかと思うくらいです。

今の若者が何と言っているか。

もちろん若者全部ではないが、ブログやMLで若者の声を聴き、質疑応答をやれば見えてくるものがあります。

・・・日本は人口が減少する。老人ばかりになる。しかしその問題の解決は非常に簡単だ。国は、70歳以上の老人には生活費の支給は一切しない。福祉的な援助も一切しない。むろんお金のある人は自分のお金でいくつまで生きようと、どう生きようと構わない。しかし、生きてゆくだけの資産のない人、親戚縁者、関係者の誰も助けない人は安楽死をしてもらう。今後人間社会に役立たない人、社会に負担をかけるだけの人、それゆえに現在もお金がないし今後も入る見込みがない。そんな人は消えてもらうのが世のためである。・・・

こう言っているのですよ。

この主張に対して、私が、人間には思考力も意思もある。70歳になってこの世も飽きた。そろそろこの世とさよならしたいと自ら思う人もいるかも知れない。しかし、仮にいてもそれは10人中せいぜい1人だろう。10人中9人はお金がなくても生命ある限り生きたい、生を全うしたいと思うだろう。その人たちの意思はどうなるんですか。その若者は、では貴方はどうしろというんですか。若者に、縁もゆかりもない赤の他人の老人、日本社会の寄生者のような人の面倒を見続けろとでも言うんですかと、私に問い返しました。


講演でお示しくださったグラフのように、一部の若者はそんな考えを持つかもしれないが老人の比率はどんどん増えている。老人が増えるから、そんな若者の意見は取り上げられないと楽観視されるかもしれませんが、決してそうではないのです。問題は、自分で働いて得た金(収入)は自分のものであり、なぜ他人のために出さなくてはならないのかと言う疑問が、人類社会に表面化してきていることです。老人だってお金持ちは、同じことを言うでしょう。なぜ老人になっても蓄えがないのか。それは若い時に怠けてきたからだ。そんな人をなぜ助けなくてはならないのか。老人も金持ちは、先の若者と同じことを言うでしょう。表向きには声に出さなくても、内心ではそう思う人が増えるでしょう。老人の数の多いことは助けにならないのです。要はものの考え方です。自分の富を他人のために使うこと、それが許せない社会になってきていることです。欧州では移民排除の極右政党が著しく伸長し、スウェーデンなど高い税と福祉の北欧も例外ではありません。弱者への福祉や特権を許さないと言う日本のヘイト・クライム、米国のトランプ大統領でさえ、クリントンを富裕者、既得権益層の代弁者と見立て、それへの抵抗者だとの振りによって当選したと私は見ています。世界の潮流だと思います。
スライドでお示しくださった自然科学による素晴らしいブレイク・スルーが絵に描いた餅で終わった時、先ほどの若者の主張はすぐにも現実化すると私は思います。ご講演で素晴らしい言葉がありました。「文理融合」という言葉です。自然科学がいくら発展しても、人間とは何か、人間社会とは何かが分からなければ、その発展した自然科学によって人間は滅ぼされると、私は思います。

上記について翌日メールで意見交換をした。村上氏は、私の指摘を聴いて過去の「姨捨山」を思いだしたとおっしゃった。私はそれに合意した。

昔は、精一杯努力しても、助け合っても生物として生きていくこと自体が難しかった。そのことが身体に染み付いた人間は、次世代の人のために自らが死を選んだ。悲しいがその時代はそれが現実だったのだろう。それゆえに、人間はそんな悲しみを減らすために日夜働き、科学(学問)を発達させた。現代が姥捨山になったら、何のために科学を、学問を深めたのか。人類が日夜働き営々と積み上げてきた文明、学問、科学・・これらの総てが涙を流すだろう。

 今、私が書き上げた論考、生物学と哲学を統合した論考、私がこの世に、次世代の人類に残したい、私の生涯をかけたまとめである。まさに、この講演会でのやり取りで垣間見た世界の現代人類の潮流、その流れを変える答えも示唆している。

まだ案の段階で、いろんな方に見ていただいている最中だが、出版となったら、このブログでも紹介したい。

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