森中定治ブログ「次世代に贈る社会」

人間のこと,社会のこと,未来のこと,いろいろと考えたことを書きます

桎梏“動物性”の一歩先へ『万引き家族』

2018-07-16 10:25:36 | 社会問題

私の専門は分子系統学です。カザリシロチョウという東洋からオーストラリア、ニューギニアに生息するチョウ類(昆虫)を対象として、近縁性を調べ系統樹を書きました。“系統”とは、生物間の血縁の遠近を表す言葉です。(犬と人)、(猿と人)ではどちらの血縁が近いかと問われれば(猿と人)の方が(犬と人)よりも近いと分かります。その通りです。誰もが直感的に分かります。では、(犬と人)、(牛と人)ではどちらの血縁がより近いかと問われれば、これは直感では分かりません。現代では、この生物間の関係を分子生物学を用い、DNAの塩基配列をデータとして推定できるようになり、かなり精密に系統樹を描くことができるようになりました。つまり生物学として、生命の進化の歴史を高い精度で復元できるようになりました。

この純然たる生物学研究から始まって、私の関心は生命の単位つまり“種”に広がりました。生物の種とは何か?長い論争の歴史があり、現代でも確定した答えは有りません。生物学(自然科学)だけでは答えることができない、哲学が必要だからだと私は考えています。この種とは何かといういわゆる“種問題”に私なりの答えを見出し、これが現代の人間社会における貧富の格差、私有と公共、税の論拠など人間の幸福につながる核であることを見出し、生物学、哲学、社会科学を統合した論考『種問題とパラダイムシフト』を書き上げました。私がこの世に生を受けたその目的を果たしたと考えています。この一つ前のブログに書いたアイン・ランド著『水源』も私のこの論考につながります。今回の『万引き家族』も同じです。

家族は、父と母とその両親、そして父と母から生まれた子ども、その子どもの子ども、つまり孫・・これらの人々から成り立っています。つまり生物学的には最も濃い血縁の集団です。部族、民族も血縁の集団です。人種・・・白色人種、黒色人種、黄色人種なども血縁集団です。戦争は多くの場合、この血縁集団間で起こります。動物のもつ桎梏、逃れることの出来ない桎梏、それが血縁です。人間も動物です。繰り返しになりますが、人間の家族は桎梏である血縁で成り立っています。

この映画、2018年第71回カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した是枝監督作品『万引き家族』は、人間が動物であるがゆえに逃げることのできない桎梏への反逆を表現しているかに見えます。この家族6人に、普通の家庭のような血縁を持つ人は一人もいません。けれどもこの6人は皆好きあっています。それが映画の中の何気ない会話や日常から伝わってきます。腕に火傷の跡をつけた女児、その家庭から連れ出してこの家族に加えます。家族の年長者であるお婆さんが死にます。しかし、この家族はそれを役所に届けず、家の下に埋めてしまいます。葬儀の費用がないためか、年金をそのまま継続するためか・・・家族全員の合意です。

それがバレて、家族の母親が総ての罪を一人で被ります。警察内での尋問で彼女は「ここには家族の喜びがあった。苦労はしたけれど、おつりが来るほど幸せだった」・・。この家族は、動物性に由来する血縁の桎梏から離脱した有りえない虚構の家族のように見えます。しかし、そうではありません。“理性”による穏やかな喜びがあります。生々しい血縁に基づく喜びの他に人間は理性的な喜びをもっています。この人間としての理性的な喜びによって、濃い血縁の桎梏を緩和し希釈し、その一歩外側へと踏み出しているのです。動物的な桎梏の外側に踏み出すこと、これこそが人間の真の姿ではありませんか。江戸時代のいわゆる“長家”、ご隠居さんがいる。行き倒れの子どもを連れてくる。長屋の住人総てが一つの家族・・・直接の血縁だけではなく、見ず知らずの人も含めて血縁が外側へ広がったのです。

これは、ある意味では未来の人類の社会形態を先取りしています。人類の貧富の格差は、今後ますます広がるでしょう。食べていくことのできないさらに多くの貧困者、難民が世界中に生まれ移動するでしょう。人間の持つ私有の基本概念、つまり自分が稼いだ富は本源的に自分の所有物である。それを貧しい人に分け与えることは望ましい。しかし個人の意志の限度を超えそうしたくない人にまで、それを強制することは間違いである。この論理に対抗できる論拠を未だ人類は持たないからです。美しい理念やこうあって欲しいという願望は、それぞれの個人の思考であって個人に属するものであり、過半数の個人がそう考えなければ、絵に描いた餅、蜃気楼だからです。美しい理念を多くの人が美しいと認め強い意志を持って積極的に共有しない限り、貧富の格差の進行を止めることはできません。それぞれが心の中に持つ架空の観念を、他人に強制することはできないでしょう。無理にやれば建前と本音の著しく乖離した嘘の人間社会を生み出すでしょう。

人間はそれぞれが分離し、それぞれが独立した個人です。個人の意思は尊重されねばなりません。これはとても大事なことです。しかし、それと同時にまた人間は繋がった一つです。この事実、理念や願望などの個人の観念ではなく“事実”が人類を救うと私は考えます。それを記述した論考『種問題とパラダイムシフト』が、この第71回カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した『万引き家族』に顕在的な明確な論拠を与えると私は思います。

このブログは春日井治さんの随筆『ベランダ植物界』No.121「異常なのに、まともな『家族』」(2018.6.27)を参考にさせていただきました。

http://www.geocities.jp/ocme6904/profile.html#121

御礼申し上げます。

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アイン・ランド『水源』書評

2018-06-17 19:00:19 | 社会問題

私の半生をかけた論考『種問題とパラダイムシフト』が完成し、4月7日(土)東京大学中島ホールで行った市民シンポジウム「次世代にどのような社会を贈るのか?」の今年のテーマとして議論しました。私は昆虫(チョウ)を材料とした分子系統学が専門で、そこから種問題や生命論に広がりました。人間とは何かと言った哲学や人間が織りなす社会問題、人類の未来などには以前から深い興味を持っていたので、私が考えたことを核としてそれら総てを統合した論考となりました。言わば、私がこの世に生を受けた目的とも言える作品です。

その論考は、個体と種の関係について考察したものです。それを社会に当てはめればリバタリアニズムとマルキシズム(コミュニズム)の関係とも言えるかと思います。私はリバタリアニズムに関する本は読みましたが、リバタリアニズムの専門家ではありませんので、その内容についてはリバタリアニズムの権威である森村進先生(一橋大学)に目を通していただきました。

この論考にある人から、あなたはリバタリアニズムについてあれこれ述べているが、リバタリアニズムの原点とも言えるアイン・ランドの『水源』についてどう考えますか?という質問をいただきました。読んでいなかったので曖昧な返事をしました。その方はフェイスブックで自分の母親を毒親などと言っているので『蕁麻の家』3部作を読んだことがありますか、読むと母に対する考えが変わるんじゃないんですかと私も彼に言いました。その後読まれたかどうか知りません。

そのような事情で、5月からこの『水源』を地元の戸塚図書館で借りて読み始めました。1000ページを超える大作です。1回の貸し出し期間が2週間、3回借り直しました。もう1回は必要と思いましたが、最後の方で面白くなって一気に進み3回で読み終えました。

主人公のハワード・ロークは建築物の設計者で、設計図を描くことつまり構想を産み出すことが仕事です。時は1920−30年頃、物語は1922年にロークが大学を退学になったところから始まっているので世界恐慌直前の嵐の前の静けさの米国が舞台です。この小説は、1998年の「20世紀の小説ベスト100」で第二位になっています。著者ランドの小説(思想)は米国の知識層に熱狂的に受け入れられ、その中には連邦準備理事会(FRB)のグリーンスパンなどもいます。米国の学生や知識層の常識のようです。しかし7年がかりで書かれたこの小説は、12の出版社に拒絶され1943年に出版されましたがすぐ絶版となったようです。当時の米国上流社会がどのようなものであったか想像されます。

私の率直な感想は、非常に素晴らしい小説だということです。総てではないにしても、人間の真実を抉り出しています。この小説の舞台となった米国の上流社会、米国には貴族はいませんから財をなした人たちが形成する階層、そこを支配する通念、キリスト教の影響もあるのでしょうが、それは「利他」です。他人に施す恵み、どれほど他人に施したか。利他性こそが人間の美徳であり、最上の人間の証であるとの通念に支配されています。逆に「利己性」は忌むべき性質です。自己中心的な人間であるとの評価は社会から抹殺されるに等しい。

人間は利己性を持っています。修行を積んでそれを穏やかに自己抑制(縮小)する力をもつことは可能かもしれませんが、それを消し去ることはできないと思います。米国でそんな修行がなされたとは聞いたことがありません。だから誰もが抑制されてはいない利己性を持ちながら、表面は利他性を尊ぶ人間関係が出来上がります。これは偽善そのものです。〇〇夫人はあのチャリティーで○万ドルを惜しげもなく寄付したとか、人道主義それが人間の格、存在意義を決める基準になります。他人は自分をどう見ているか、それこそが自分の価値の基準になります。

著者のアイン・ランドは、このような人間社会のあり方に疑義を呈しました。単に疑義を呈しただけでなく、非常に重要な人間社会の本質に関わる指摘をしました。

同じ建築学部の友人であるキーティングとローク、キーティングは誰とも仲良く、教授の覚えもめでたく、学生自治会の会長であり、アメリカ建築家協会から金賞を受け卒業式に集った総ての羨望の眼差しを受けるのに対し、ロークは自分の考えをひけらかしもせず他人の考えに同調もしません。そして学部長に受け入れられる返事をせず、その同じ朝に大学を退学になります。
それからもずっと二人の関係は続いていきます。キーティングは社会から称賛を受ける陽のあたるところを歩き、一方ロークは陰の部分を歩きますが、途中で逆転します。ドミニクという女性も独特であり、彼女を挟んだ二人の関係もまた独特であり、私自身もこれが米国社会の実態なのか?!と驚くくらい、深い面白さを持つ小説です。

キーティングは、政府の貧困者対策のための廉価な住宅、単位あたり○ドルの住宅設計にチャレンジします。しかし自分の力ではどうあってもそれを設計することができません。最後に彼はロークを訪れその設計を頼みます。ロークはキーティングの気持ちを分かっていて、彼が設計したことにしてまた一切の名誉も金もキーティングのものとして設計します。キーティングは設計料の全額をロークに渡すよと申し出ます。ロークは金が欲しくないことはわかっているだろうとキーティングに言葉を返します。ロークの条件はただ一つ、その建物がそのまま世に出ることつまりこの世に生み出されることです。そして二人は契約を結びます。キーティングはその設計図によって社会の称賛を受け、建築を始めたものの政府などの要望によって、建築を一部改変せざるを得なくなります。建築の途中でロークが見たものは約束を違えているものでした。ロークは夜間にそれをダイナマイトで爆破します。

ロークは社会から指弾を受けます。二人は学生時代からの知り合いだというじゃないか。ロークのやっかみか。貧困者を救う崇高な行為になんという自己中心的な男だ!擁護者の新聞社社主も含め社会から抹殺されようとします。しかし、ロークとキーティングの契約が表に出て、裁判の陪審員の前でロークは陳述します。

「人間の格は利他性で決まる。どれほど他人に与えたか、それで人間の格が決まる。それが今の社会です。しかしもっと大事なことがあります。それを忘れています。与えるものを生み出すことです。生み出されていなければ与えることはできません。つまり創造者です。創造者は自分の仕事のために生きます。創造するとき他人を必要としません。人間の精神は他人ではありません。自分自身しかありません・・」ロークはプロメテウスの話をします。「プロメテウスは罰を受け、ハゲワシに腹を裂かれました。なぜか。神から火を盗み人間に与えたからです・・」こうして、ロークは無罪を勝ち取ります。

「利他性」という名の下に偽善が支配し他人の評価によって自分の価値が決まる社会も、アイン・ランドが同意し望んだリバタリアニズムが変形特化して新自由主義の形で現れた現代の米国社会も、どちらも人間が目指す真の社会とは私には思えません。

分け与えることができるもの、それは生産物です。それはとても重要です。生産物がなければ人間は与えることが出来ません。自然を切り出し、加工することつまり労働によって生産物が生まれる。マルクスと重なります。しかし、マルクスが言っていないこと、見落としたか無視したか、それがここで主張されます。生産物を初めてこの世に生み出したその価値です。アイン・ランドはこの小説を水源(The fountainhead)と名付けました。人間の労働によって生産が始まりますが、生産の始まる一番最初、発起点です。日本語では「開闢」と言ってもいいかと思います。社会主義者は労働価値については述べるけれども、創意や生み出した価値を議論しません。無視しているようにすら思えます。それを無視することは美しい理念に目を奪われ人間の心を見過ごすことであり、利他という名の下に偽善の社会を作ることだと私は思います。偽善を美しい人道主義として人間に強要すればどういうことになるでしょうか。本音と建前が入り混じり融通が効かず柔軟性のない暗闇の社会になると、私は思います。

アイン・ランドはロークに自分の主張を語らせます。創造は個人の業であり、個人の意志こそが大事だと言います。しかし、それを総てお金に換算して独り占めせよとは言っていません。ロークは設計はお金のためだ、お金が欲しいとは一言も言わないのです。ランドは素朴な公正感しかもっていません。大金持ちを産み出し想像すらできないような貧富の格差を産み出す現代のグローバリズムとアイン・ランドのリバタリアニズムは合致してはいません。人類の未来を考えるに当たって、リバタリアニズムとマルキシズムが心を開いて議論をするべき時が来ていると私は思います。

論考『種問題とパラダイムシフト』は、まさにその議論そのもの。個体と種、リバタリアニズムとマルキシズム(コミュニズム)、その両方を重ね持ったもの、それが人間です。その証明を試みています。

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平和憲法について考える

2018-05-03 09:58:37 | 原発・エネルギー

生物学に端を発して、人間のこれからの生き様について後世の人類に残したい私の生涯をかけた論考を出版しました。養老孟司先生をはじめとする何人かの先生にお出でいただき、その論考の骨子に関わる市民シンポジウムも終えました。

私の人生における一つの節目を通過し、一息ついたところです。その市民シンポジウムのおかげで人間社会のお金の問題、つまり経済学についての興味深い論点を見出しました。今後の私の大きい興味が一つ広がりました。カザリシロチョウを用いた生物学の論文も学術誌掲載の直前まできています。

併せて歌です。声楽(テノール)を習ってはや6年、昨年は直前に風邪をひいたり総じて不甲斐ない成績でした。先般、和光市のサンアゼリアホールに知人の歌を聴きに行ったところ、「清水かつら記念日本歌曲コンクール」があることを知りました。清水かつらさんは「叱られて」「靴がなる」「みどりのそよ風」「雀の学校」などの童謡を産んだ詩人で、現在の埼玉県和光市で生涯を送りました。今年は、東京国際声楽コンクール、日本クラシック音楽コンクールに加え、この清水かつら記念日本歌曲コンクールにも出てみようと思います。

さて、前置きが長くなりましたが今日は憲法記念日、現代日本の平和憲法について考えてみたいと思います。

 「世界の国に先駆けて 戦争捨てた憲法の こころは忘れずとりもって 平和の日本の民となる これが我らの将来だ」

「窓に見る 富士の高ねをそのままに よろずの国にさきがけて あらゆる武器をうちすてた 文化日本の国民(くにたみ)と 私たちはなるのです」

共に日本の小学校の校歌です。この言葉に現代平和憲法の原点が尽くされています。

先の戦争では、アジアで3000万人もの人が死に、日本国内では広島・長崎の核兵器投下、東京での無差別空爆などによって300万人もの人が死にました。人が死に人類の生存基盤である自然環境が破壊されるだけでなく、戦争は人間を人から鬼に変えます。戦争は人間のすることではないという魂の叫び、万人の思いが上記の歌詞となり現代の我らの平和憲法となったのです。沖縄問題の権威であるオピニオンリーダーからお聴きした意見です。「先の戦争で沖縄は日本の本土決戦の犠牲になった。一番酷い目にあった。それでも日本に復帰したいと考えたのは、日本が二度と戦争はしない、人殺しはしないと誓い、その具象として目に見える形で平和憲法を作ったからである。二度と戦争はしないという人間の国になったから、その国と一体になりたいと思ったからである。それゆえその平和憲法が人を殺すことのできるものに変えられるなら、沖縄が日本に属する最も重要な論拠を失う」

米国が作ったものだとか、現代の日本国憲法の出自があれこれ問われます。そんなことは問題ではありません。人類がこれから未来に向けてどう生きるのか、どういう世界を作るのか、自分、自国の損得だけを頭においた暴力によるねじりあいの世界を作るのか、平和の中に人類の自然科学的な成長と精神的な成長を合わせた総合文明が見込めるような世界にするのか、その問いの中の一つの要素です。

今回の市民シンポジウムでの大きな論点でしたが、それぞれが切り離された単位である個人、それと理性的なもう一つの単位である一つの人類、生物学からその両者が共に実体であることの論証を試みたのですが、これもその問いの中に位置付けられる一つの要素です。

このような視点から見れば、現代の平和憲法の出自がどうとか、問題にならないことがわかっていただけるでしょう。

最大の問題は「では、攻められたらどうするのか」という論点です。上に述べたように人間の頭脳と予算を国家間の平和の構築と維持のために使います。経済的な繋がり、文化や芸術を通した人間の交流、災害時の相互援助、農業、医療技術などの提供、国際結婚、移住、理性的なものを総合してつながりを強めていきます。万が一戦争騒ぎになれば、それぞれの国に住む人類が反対します。そういう国作りをしていけば戦争を防ぐことができるでしょう。抑止力とは、人を殺す武器の殺傷力を高めて相手を威嚇することではなく、経済的な繋がり、文化や芸術を通した人間の交流、災害時の相互援助、農業、医療技術などの提供、国際結婚、移住、理性的なものの総合が戦争の抑止力ではないでしょうか。

ですから、人間の頭脳と予算を、戦争を抑止するために使うというものです。しかし、最後の質問が残っています。それでも、「戦争が起こった時にどうするか?」という質問には答えていない。その質問をはぐらかしているというわけです。

私がここで、この問いかけに対する答えを書いてもつまらないと思います。なぜなら、この問いはいつまでも残っているからです。みんなが考え自分自身の答えを持つ必要があるからです。それが自分で考えるということです。

あらゆる力、人間の頭脳、努力、お金(経済)の大半をつぎ込んでそれぞれの国に住む人類が強く結ばれる努力をします。どれだけその努力をしても「でも万一、戦争が起こったらどうする?敵が攻めてきたらどうする?」という問いへの答えは出て来ません。

ここで私は、このブログを読んでくださった方に問いかけをしたいと思います。

1地球に月くらいの隕石が落ちてくる場合 2福島の原発震災

1は自然現象です。ほとんど可能性はないでしょうが、だからと言って絶対ないとは断言出来ません。人類が頭脳、お金、持てるあらゆる力を発揮して戦争が起こらないように努力することはできます。しかし、だからと言って敵が攻めてくることは絶対ないとは言い切れません。この1と同じでしょうか。こんな稀な、天が落ちてくるというような心配のために「敵が攻めて来たら云々」という問いを真に受けているのでしょうか。2は、深刻な原発事故は絶対ないと言われそれを前提に福島の軽水炉原発が運転されていました。他の軽水炉原発も同じでしょう。いわゆる5重の防御壁による安全神話です。しかし5重の防衛ラインは破られてしまいました。戦争はどうでしょうか。人間の持てる人智の全て、頭脳もお金もその総てを使って戦争のない状態を維持する。これが福島と同じく5重の防衛ラインであるなら同じように破られるかも知れません。

1と2への思考から、逆に武器を増やし、人殺しの能力、環境破壊力を高めれば、敵は絶対に攻めてこないという結論が出てくるのでしょうか?「でも万一、戦争が起こったらどうする?敵が攻めてきたらどうする?」という問いかけそのものがどういう立場に立とうとも出てくるのではないでしょうか?この問いは結局何なのか、これ以上はご自身で考えてみてくださいね。

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市民シンポジウムご参加の御礼

2018-04-15 08:18:09 | 原発・エネルギー

ほぼ満席に近いご参加を賜り、おかげさまで充実した面白いシンポジウムになりました。

有り難うございました。

若者の中で、「生活費のない老人、親戚縁者友人などからも援助のない老人、言わば人間が見放した老人を、なぜ税金で助けなければならないのか。なぜ赤の他人の若者がそんな人の生活を支えねばならないのか」という疑問が見えないところで広がっている。前々回のブログを書いたとき、閲覧者数は日頃の20倍に跳ね上がった。若者 vs 無産老人の構図をもとに、70歳を過ぎた人には一切の社会保障をしない政策を打ち出す。もちろん資産のある人はその資産で自由に生きればよいが、資産のない人は安楽死をしてもらう。これでこれから子供を育てていかなければならない若者の極度の負担問題は一挙に解決する。こういう主張を掲げる政党が出現すれば投票し応援する。

ここでブログを止めておけば20倍どころではなく何万倍もの閲覧数に膨れ上がったように思います。

これは間違っている考えです。これは人間の認知による人間の個別視の世界的な潮流だと思います。

この話を中心とした趣旨説明に始まって、その解決策を講演で申し上げました。原点は生物学にあります。

今後も、機会があればお話ししたく思います。

たくさんのご参加に深く感謝いたします。

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市民シンポジウム「種問題とパラダイムシフト」をめぐって

2018-03-18 11:19:01 | 人類の未来

前回のブログに記したが、「生活費のない老人、親戚縁者友人など誰からも援助のない老人を、なぜ税金で助けなければならないのか。なぜ赤の他人の若者がそんな人の生活を支えねばならないのか」という疑問が見えないところで広がっている。前回のブログを書いたとき、閲覧者の数は、なんと日頃の20倍に跳ね上がった。私はその考え方の問題点と処方箋を書いた。もし、70歳を過ぎた人には一切社会保障をしない。無論資産のある人はその資産で自由に生きればよいが、資産のない人は安楽死をしてもらう。こういう政策を掲げる政党があれば投票し応援する。ここで止めておけば、20倍どころか何百倍、何千倍の閲覧者になったと思う。これは、欧州の移民・難民排除の政党の台頭・急進あるいはトランプ現象と同じだと考える。人類社会において、いま何が問題なのか?どういう仕組みで、全世界にこのような潮流が押し寄せるのだろうか?この壁を乗り越えるにはどうしたらよいのだろうか。

新自由主義の原理をなす「リバタリアニズム」。日本語では、自由至上主義とか自由尊重主義と呼ばれる。個人の意志を最上位に置く思想である。貧しい人を支えたい。それを否定はしない。そう考える人がいれば大いに結構だ。そうすればよい。しかし、そう考えない人まで一律に税金を徴収し、そこから支払う。そこに問題があると考えるのである。論考『種問題とパラダイムシフト』にも書いたが、これはリバタリアニズムと少し違うように思うが、一般にはこのような理解だと考える。

この考え方には欠陥がある。というより、この世の実体の半分しか現していないのである。

これが今回の市民シンポジウムの内容であり、何が欠けているのか、何を理解すればよいのか、人類が成長の過程で今迎えた巨大な壁をどうすれば跳躍できるのか・・・

― ― ― ― ―

 種問題、生命論、生物学に端を発し、哲学、現代の社会規範、税金の意味に及ぶ壮大なシンポジウムです。

人類が乗り越えるべき壁を示します。

ぜひおいでください。

 申し込み:森中まで(参加費千円、資料代別途500円、懇親会3500円参加の可否も含めて)メールをお願いします。

宛先:delias@kjd.biglobe.ne.jp

 なお例年の弥生講堂と違って、狭い会場です。早めにお申し込みください。満席になったら締め切ります。

 日時:4月7日(土)午後1時から4時過ぎまで

場所:東京大学農学生命科学 フードサイエンス棟中島菫一郎記念ホール

(メトロ南北線 東大前下車)

報告者:森中定治

論評者:松井暁(専修大学教授)、大西広(慶応大学教授)、原田桃子(元高校生平和大使、立教大学)、春日井治(日本生物地理学会会員)

クロージンングアドレス:養老孟司(東京大学名誉教授、養老昆虫館館長)

ポスター

http://www.nua-alumkanto.net/image/simpo20180407.jpg

 

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究極の選択

2017-10-25 13:25:40 | 社会問題

2017年10月24日(土)スウェーデン大使館オーディトリウムで行われた一般社団法人日瑞基金主催による第1回サイエンスセミナー、立命館大学前副総長、京都大学名誉教授の村上正紀氏による「人口減少での2060年問題に挑む立命館大学」という表題の講演を拝聴した。

日本の人口問題といえば、その減少を憂い、ますます減る若者が一体何人の老人を食べさせるのか、どうしたらもっと子を産む社会をつくることができるのか、そういう視点ばかりである。それ以外の見方はないと言ってもよいくらいである。

講演者の村上正紀氏は、京都大学卒業後UCLAに籍を置き、その後米国のIBMに勤め20年間を米国で過ごした冶金工学者である。帰国後京都大学で教鞭をとり、その後立命館大学で教え、現在は“文理融合”の視点をもって、立命館大学全学プロジェクト第3期「少子高齢化に対応する社会モデル形成」を進めている。

まず私が驚いたのは、「日本の人口減少は“その理想的な姿”に向かっている」との見方である。つまり日本の人口減少を、誰が誰を食べさすとか損とか得とかの視点ではなく、環境問題に関心を持つ人々が使う“エコロジカル フット・プリント”の視点から捉えた点である。日本人が現在の生活水準を維持するためには地球が2.3個いる。地球は2.3個には絶対にならない。1個のままである。ではどうすればよいか。日本人の生活水準を下げるか人口を減らすかである。現在の生活水準を保つと、適正な日本の人口は5800万人になる。幸いにもそちらへ向かっているではないか!

しかし、その人口で現代の生活水準が保てるのか。仕事はあるのか。国家の財政は成り立つのか?・・これらの総合的な解決のために、社会科学、自然科学、あらゆる学問を併せた全集学的なプロジェクトである。人文科学、自然科学からの様々の試みが紹介された。何より、立命館大学の校風か、京都大学の校風か、あるいは講演者の人柄か、講演が真摯で一途、また強い熱意を感じ、聴いていてとても気持ちがよく好感を持った。しかし、人類社会が今どうなっているのか、今後どう動くのか、真摯と一途はとても大事だが、それだけではうまく行かないと思った。それで、講演終了後の質疑で、会場から意見を述べた。
「お話をお聴きして人口減少に対するものの見方、および真摯で一途なご講演に同意し、強い好感を持ちました。しかし、現代の社会の状況で気付いていないと思われる点があるので、それを述べさせていただきます。私は、65歳を過ぎた老人ですが、今日この会場を見渡すと失礼ながら若者はほとんどいない。私が一番若いんじゃないかと思うくらいです。

今の若者が何と言っているか。

もちろん若者全部ではないが、ブログやMLで若者の声を聴き、質疑応答をやれば見えてくるものがあります。

・・・日本は人口が減少する。老人ばかりになる。しかしその問題の解決は非常に簡単だ。国は、70歳以上の老人には生活費の支給は一切しない。福祉的な援助も一切しない。むろんお金のある人は自分のお金でいくつまで生きようと、どう生きようと構わない。しかし、生きてゆくだけの資産のない人、親戚縁者、関係者の誰も助けない人は安楽死をしてもらう。今後人間社会に役立たない人、社会に負担をかけるだけの人、それゆえに現在もお金がないし今後も入る見込みがない。そんな人は消えてもらうのが世のためである。・・・

こう言っているのですよ。

この主張に対して、私が、人間には思考力も意思もある。70歳になってこの世も飽きた。そろそろこの世とさよならしたいと自ら思う人もいるかも知れない。しかし、仮にいてもそれは10人中せいぜい1人だろう。10人中9人はお金がなくても生命ある限り生きたい、生を全うしたいと思うだろう。その人たちの意思はどうなるんですか。その若者は、では貴方はどうしろというんですか。若者に、縁もゆかりもない赤の他人の老人、日本社会の寄生者のような人の面倒を見続けろとでも言うんですかと、私に問い返しました。


講演でお示しくださったグラフのように、一部の若者はそんな考えを持つかもしれないが老人の比率はどんどん増えている。老人が増えるから、そんな若者の意見は取り上げられないと楽観視されるかもしれませんが、決してそうではないのです。問題は、自分で働いて得た金(収入)は自分のものであり、なぜ他人のために出さなくてはならないのかと言う疑問が、人類社会に表面化してきていることです。老人だってお金持ちは、同じことを言うでしょう。なぜ老人になっても蓄えがないのか。それは若い時に怠けてきたからだ。そんな人をなぜ助けなくてはならないのか。老人も金持ちは、先の若者と同じことを言うでしょう。表向きには声に出さなくても、内心ではそう思う人が増えるでしょう。老人の数の多いことは助けにならないのです。要はものの考え方です。自分の富を他人のために使うこと、それが許せない社会になってきていることです。欧州では移民排除の極右政党が著しく伸長し、スウェーデンなど高い税と福祉の北欧も例外ではありません。弱者への福祉や特権を許さないと言う日本のヘイト・クライム、米国のトランプ大統領でさえ、クリントンを富裕者、既得権益層の代弁者と見立て、それへの抵抗者だとの振りによって当選したと私は見ています。世界の潮流だと思います。
スライドでお示しくださった自然科学による素晴らしいブレイク・スルーが絵に描いた餅で終わった時、先ほどの若者の主張はすぐにも現実化すると私は思います。ご講演で素晴らしい言葉がありました。「文理融合」という言葉です。自然科学がいくら発展しても、人間とは何か、人間社会とは何かが分からなければ、その発展した自然科学によって人間は滅ぼされると、私は思います。

上記について翌日メールで意見交換をした。村上氏は、私の指摘を聴いて過去の「姨捨山」を思いだしたとおっしゃった。私はそれに合意した。

昔は、精一杯努力しても、助け合っても生物として生きていくこと自体が難しかった。そのことが身体に染み付いた人間は、次世代の人のために自らが死を選んだ。悲しいがその時代はそれが現実だったのだろう。それゆえに、人間はそんな悲しみを減らすために日夜働き、科学(学問)を発達させた。現代が姥捨山になったら、何のために科学を、学問を深めたのか。人類が日夜働き営々と積み上げてきた文明、学問、科学・・これらの総てが涙を流すだろう。

 今、私が書き上げた論考、生物学と哲学を統合した論考、私がこの世に、次世代の人類に残したい、私の生涯をかけたまとめである。まさに、この講演会でのやり取りで垣間見た世界の現代人類の潮流、その流れを変える答えも示唆している。

まだ案の段階で、いろんな方に見ていただいている最中だが、出版となったら、このブログでも紹介したい。

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U出版・自費出版と商業出版の間 ー初めての裁判(5)

2017-07-25 09:41:28 | 社会問題

(5)控訴の結果

5月31日に控訴した出版裁判について結審がでました。
(この出版裁判の発端と経緯については過去のブログを参照してください)

私と長瀬氏の敗訴となりました。

私も長瀬さんも、代理人(弁護士)も、社会の一般常識として、出資をした者、つまり金銭的なリスクを負った者がその制作物の所有者であると考えました。しかし結果としては、我々の常識ではなく覚書に書いてある通りの判断でした。
つまり、覚書には著者が100冊献本を受けると記述されており、所有者であれば献本を受けるはずはない。したがって所有者は赤○氏であるという、論理に基づく結論です。
これに対して、もしその論理で考えるなら、赤○氏もパブリシティー献本という言葉で100冊取ったのだから所有者は両者のいずれでもなく、両者に共通する架空の存在であってそこから両者が献本を受けたのではないか、そう論理付けられると主張しました。
実際に、著者が100冊献本を受けるなら、私も同じ部数をもらうよと言ってU出版社長の赤○氏がもって行ったのです。
だからこのことを言えば控訴は勝つだろうと思いました。
ところが、赤○氏もパブリシティー献本という言葉で100冊取ったのは事実だけれども、覚書にはパブリシティー献本100冊と書いてあるだけで赤○氏が献本を受けるとは書いてないのです。

最初から覚書に罠があったというほかはありません。

考えてみるとパブリシティー献本の意味がよく分かりません。出版社とか卸などに配ったのか??国会図書館じゃあるまいし、出版された本がいちいち全部献本されても出版社も卸も書店も保管に困ってしまうでしょう。私の前に同じく“U出版”で本を出した人が一人いました(私が二番目)。講演会で私が講演した時、赤○氏は受付付近にその“U出版”の本を置かせて欲しいと頼み、私はそれを了解しました。その本は、講演と関連があり相当売れたように思いました。そこで販売された本は赤○氏自身が持参した本であり、むろん卸や書店を流通していないので流通経費はありません。売上の全額が利益です。しかも制作費は著者が出していれば一切の負担なく売上全額が自分のものです。こんな虫のいいビジネスはちょっと思い当たりません。

最初のK先生のお話では、赤○氏は出版業界に顔が広いので出版社を紹介して便宜を図ってくれるということでした。大学教授や著名な人にはそうしているのでしょう。しかし赤○氏は、私に対してはどうしてもうちで出版させてくださいとお願いしました。赤○氏は絶版にして全部廃棄したと言いますが、実際大手の書店には私の本はまだ置いてあります。しかし、裁判で敗訴して所有者が彼ということになった以上どうすることもできません。6:4で利益分割の約束が全額赤○氏の取り分になります。本の中身は無論私、本の制作費も全額私、それでいて売り上げは全額赤○氏のものです。私が自分の正当な取り分を受け取るには裁判しかありません。


結論として、赤○氏のような小企業で、お金を出資してくださいという話は全て詐欺だと思った方がよいと思いました。著者の中には、とにかく出版さえすれば出資や利益のことなどどうでもよいという人もいるでしょうから、そういう人は無論のこと、社会的に発言力がないと見た人には積極的に迫っていくのでしょう。赤○氏の謳い文句である著者と出版社のコラボによる新しい出版形態 “U出版” も10冊を超えたということです。この裁判に勝ったので、これから大威張りでこのビジネスを進めるでしょう。何せポイントを押さえた簡単な覚書でスタートすればよいのです。私の場合のように、著者から権利関係が明記してあるちゃんとした契約書を結んでくれと要望が出れば、「もちろん結びます。ただし今は細かい契約書で時間を食っているより本の制作が先です。出版までには結びます」。こうしてお金を入れさせたら赤○氏のもの、「この業界でこれ以上詳しい契約書を結ぶ習慣はありません。誰も結んでいませんよ。どうしてもというならこの出版は止めてもいいですよ。ただ既に動いているので、あまりお金は戻ってきませんが・・」

何れにしても、制作物の書籍は赤○氏が持ち(倉庫代は著者に請求するが)、売り上げも赤○氏のところに入るので、どうにもならないのです。個人出版のようなところにお願いする場合には、全額を支払う前に罠のない覚書(契約書)を作らなければ出版するものではないと思いました。裁判に勝って、怖いビジネスが大手を振れるようになりました。
今後も出版することはあろうかと思います。

いい経験、社会勉強をしました。

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『永遠のゼロ』、『カエルの楽園』他へのコメント

2017-05-04 14:07:33 | 社会問題

ジブリの映画『風立ちぬ』を観て深く感動した。その映画評をこのブログにあげた。これは、言論プラットフォーム『BLOGOS』にも掲載された。しかし、一般に公開された数多くの『風立ちぬ』の映画評の中で“最も分からない映画評”というコメントをいただいた(笑)

私の映画評は、護憲派の人から「零戦という飛行機は血染めの歴史を持つ。最初は真珠湾で太平洋戦争の火蓋を切り、最後は特攻機として数多の若い生命を無意味な死に追いやった。太平洋戦争を象徴する忌むべき飛行機だ。この映画は零戦を主題にしていながら、そのことが全く示されていない。明示すべき真の問題点を避けた駄作である。あなたの映画評も、この映画と同様に零戦の歴史的な意味について全く触れていない」というコメントをいただいた。このコメントは、一つの見方として良くも悪くも私の心を刺した。

ジブリは左寄りだと思っていた。そのジブリの映画を私の映画評も併せて、その護憲派の人はここまで酷評した。

前後して、小説『永遠のゼロ』が映画となった。『永遠のゼロ』の原作者である百田尚樹氏は右翼として著名であり、左派系の集会に行くと彼は蛇蝎のごとく嫌われている。

明示すべきことがなされていないとジブリの映画ですらそこまで厳しく批判されるのなら、右翼原作の零戦映画はさらにどこまで酷いか、試しに観てやろうと思ったのが、それまで読んだことのなかった百田氏の著作に触れる切っ掛けとなった。“零戦については、〇〇と描くべし”・・。その描くべしが描かれていないと、ジブリの映画ですらここまで批判される。だがしかし、その〇〇が描かれてさえいれば立派な映画だということになるのか?それでは新しい発見や気付きが生まれるはずがないではないかと私は思う。発売後数年で『永遠のゼロ』は300万部を超え、映画にもテレビ番組にもなった。一体どれだけの人が影響を受けたかわからない。〇〇さえ描かれていれば・・という考え方それ自体に大きな問題があるように私は思う。

左派系から毛嫌いされる百田氏が零戦をどう描いたか、さぞかし敵をバッタバッタとなぎ倒す無敵の戦闘機として描かれているのだろうと思った。また国のために死ぬことこそ真の男の道だと描かれているのだろうとも想像がついた。『永遠のゼロ』には否定的な書評がたくさん出ていて、中には書評が書籍になっているものすらある。何も知らない幼子を騙し、日本の子どもに憧れさせ、日本を戦争へと導くための嘘と誤魔化しの物語だろうと思った。

そんなことはなかった。それは“純愛物語”であった。自分には生涯を共にしたい伴侶がいる。しかし特攻で自分は死ぬ。死んでなおその伴侶と生涯を共にする。今はやりの霊となってあの世から帰ってくるとか、タイムスリップではない。生身をもって、その伴侶と生涯を共にするのである。さてどう描いたか?!

著者は、零戦乗りの主人公“宮部久蔵”に「俺は自分が人殺しだと思っている!」と言わせた(講談社文庫、p.225)。一体全体、過去の軍人で、自分の行為、役割、仕事を“人殺しである”とストレートに言える人がいるだろうか。ストレートに認めることができるか。おそらく殆ど誰もできないだろう。しかし誰もできなくとも、まさにそれは真実である。軍隊は人殺しの組織であり、兵器は人を殺す道具である。人を殺すためではなく、鳥や魚を殺すための兵器があろうか。著者はこの物語において、主人公の口を借りて、まさにそれを率直にストレートに述べた。このたった一言から、著者が軍隊とは何か、その真実を見抜き、また心の奥底で平和を望んでいることがわかる。著者はまた、零戦が非人道的な機械であることを見抜き、この物語でそれを開示している。『永遠のゼロ』についての賛否両方の実に様々な書評を読んだが、著者がこの物語において真に示したものについて、それを捉え真正面から言及したものを、ついに私はただの一つも見つけることができなかった。

なぜ零戦は非人道的な機械か?それは、零戦が2000km以上もの航続距離をもつという、この点にある。むろんそれだけでは“非人道的機械”にはならない。零戦が単座であることと対になることで、それが生まれる。零戦が単座であることは誰でも知っているので、特に言葉で明示はされていない。零戦に二人が乗り込む場面はどこにもないのでそれは分かる。この両者の組み合わせによって“非人道的機械”が生まれる。プロペラ機なので、最高速度350km/h、平均250 - 300km/hで、計算上最大9時間程度は連続で飛べることになる。それで中国の奥地やラバウルで、片道3時間、戦闘1時間、帰り3時間という行程が可能となった。合計7時間、連続して空を飛ぶ(講談社文庫、p.41、p.212)。

もし生理現象が起きたら、気分が悪くなったら、睡魔に襲われたら・・どうするのか。自動車なら路肩によけて仮眠する。高速道路であればサービスエリアなど、ひととき運転を止め休息することができる。しかしただ一人で、途中で降りること適わず最初から最後まで連続して空を飛ぶのである。ふらふらっとして落ちた飛行機がどれくらいあったか、想像にあまりある。正々堂々と、同じ土俵で闘って負けるのであれば、“非人道的機械”という言葉はそぐわないだろう。たとえ敵戦闘機に比べて大幅に性能が劣ったとしても、それは“性能が劣った機械”というだけで、“非人道的機械”とは言わないだろう。しかし、生身の人間が独りだけで、7時間も8時間も空中にいることを可能にした機械、闘った結果負けて死ぬのではなく、生命があるが故に、生身であるが故に死ぬ。これを非人道的と言わずして何を非人道的というのか。この物語、『永遠のゼロ』がこの世に出なければ、零戦に隠されたその深い罪、心に刻むべき点について私は知ることがなかっただろう。この物語がなかったならば、零戦の真に忌むべき点について知ることはなかっただろう。零戦について様々の主張や指摘がある。しかし、この物語ほど深く零戦に対する指弾と告発を行ったものを、私は知らない。

次に、『風の中のマリア』という小説を読んだ。これは、オオスズメバチの生態を擬人化した小説で『永遠のゼロ』のような感動はなかった。しかし迫力満点の作品で、あっという間に時が過ぎた。私は生物学者なので、エンターテインメントとしてとても面白い良い作品であった。

『カエルの楽園』は、書評がほとんど見当たらない。左派系の人は殆どが、この物語を無視すると言われる。私は、『コスタリカに学ぶ会』に入って、月に1、2回いろんな議論をするが、やはりそこでもこの物語が話題になったことはない。読んでみて、やはり『風の中のマリア』と似て『永遠のゼロ』のような深い感動はなく、しかし『風の中のマリア』ほどのボリュームもなく、あっという間に読み切った。この物語は、現代の日本社会の情勢を背景として、憲法9条をとても大事なものとする護憲派の考え方を批判した著作である。批判は批判として冷静に受け入れ、おかしいと思われる点については、反論すればよい。2016年2月に出版され同5月には優に10万部を突破している。図書館で借りたが数十人の順番待ちであった。

私はやはり“コスタリカに学ぶ会”で話題になったYoutubeの『Kazuya Channel』について自分のブログで真正面から受け止めた上で、批判をしたことがある。

この物語は、人類の未来においてとても重要と思われる憲法9条について批判をしているのであるから、護憲派の人がどうしてコメントしないのか、どうして無視するのか私にはわからない。まさか、この著作の内容に反論できないのではないだろうが。

この物語で、私が手を止めたのは、スチームボートという名のワシが「お前たちカエルどもが自分の国とかよその国とか言っているが、馬鹿馬鹿しい限りだ。この世界は全てわしの監視下にあるのだからな」(新潮社、p.74)というセリフだ。狭いところしか見ない視野狭窄から、視点を高く大きくもてば、自分の国だ、よその国だと騒いでいるのは馬鹿馬鹿しい。

まさにその通りである。その局所しか見ない目、局所しか頭にないことが人間を殺し合いへと導く。まさに馬鹿馬鹿しい限りである。なぜもう少し長い時間で考えないのか。なぜ交渉相手に敬意を払い、友情を持って譲りあおうとしないのか。なぜ初めから疑い、喧嘩腰で接するのか。

この著作には、以下の“3戒”が固く遵守されていることによって平和が保たれているとされる、ツチガエルの国“ナパージュ”が登場する“ナパージュ”とは我が国“日本”のことであり、“3戒”とは現在の平和憲法の比喩であろう。

“3戒” 1「カエルを信じろ」 2「カエルと争うな」 3「争うための力をもつな」

明示された“3戒”のうち最初の“1.カエル(人間のこと)を信じろ”は人類の未来にとってとても重要である。疑いの心、喧嘩腰の態度で折衝してうまくいくだろうか。相手を見下したり、喧嘩腰は、いかに言葉は丁寧でもそれは相手に必ず伝わる。交渉がうまくいくはずはなかろう。ハンドレッド(著者の代弁)も、ウシガエルには敬意を払わないが、ワシには敬意を払っているではないか。“3戒”のうち2つ目の“2.カエル(人間)と争うな”はおかしい。護憲派の人でこんなことを言う人はいないだろう。主張が違い、見方が異なれば堂々と争えばよい。ただし暴力で、殺し合いで争うなと護憲派の人は言うのである。どちらに理があるか、冷静に、敬意を持って、同じ人間としての意思とそれが形となった言葉と態度で争うのである。ワシもヒキガエルも人間の比喩である。別種であれば喰われることもあり得るが、この物語ではアマガエルも、ツチガエルも、ヒキガエルも、ワシもどれも国を表す比喩である。同種であり、実際には喰われることはない。“3戒”のうち3つ目の“3.争うための力をもつな”もまたおかしい。護憲派の人がこんなことを言うはずはない。著者は“3戒”において、護憲派の人を大きく誤解している。争うための力は持っていいと、護憲派の人の殆どは言うだろう。護憲派の人は、人間同士が殺しあう道具、これから生まれる子孫がずっと使うこの大地、自然環境を破壊する力では争ってはならないと考えるのである。交渉相手に暴力の一歩を踏み出させない、グッと留める力は殺し合いや破壊し合う力の強弱ではない。今や世界中が繋がる経済の力、言葉の違いを超える文化や芸術、医療や食料の援助、農業技術そういう力が戦争を防ぎ殺し合いを止めるのである。護憲派の人は、人殺しや環境破壊の軍事力、暴力ではなくて、そういう“力”を、戦争を防ぐために使え、人類はなぜこんな大きな頭が授かったのか、そのためではないかと問うのである。

この物語は、世界最強の“ワシ”が守護神としてツチガエルの国を守ってくれたことになっている。しかし、その“ワシ”も歳をとり弱った。ツチガエルを守って欲しければ、“ワシ”も必要な場合は守って欲しいとツチガエルに逆提案をした。お互い様、至極真っ当な提案である。護憲派の人がこれに反対するわけがなかろう。それはワシの国に、敵が攻めてきた場合である。ワシが、あの国にある金銀財宝を奪いにいくぞ、お前も来い。こう言って、ツチガエルを尖兵として使おうとする。護憲派の人には、それが見えるのである。著者も含め改憲派の人は、ワシに尻を叩かれて一緒に奪いに行くのか?改憲派の人は、護憲派の人がどう考えているのか、これでわかろう。

さらにハンドレッド(著者の代弁)は、こうも言っている。『この国には偉大なるスチームボート様がいるからだ』『それは王の名前なのか』『いや、違う。ナパージュの僭主だ。この国の本当の支配者だ』(新潮社、p. 66)つまり偉大なるワシ(スチームボート)は、このツチガエルの国(日本)の支配者であると明言し、堂々と認めているではないか。現在の平和憲法は米国が作った。日本人独自の憲法を作りたいと、改憲派の人は改憲を主張する。しかし、右翼の百田氏が、この国はワシの支配下にあると堂々と認めている。他国に支配される国が、自分たち独自の憲法を作れるはずがなかろう。日本人だけの独自の憲法を作りたければ、まず支配する他国に出て行ってもらって、その影響を断ち切る必要があろう。でなければ、日本人独自の憲法など寝言であろう。この物語は、ここまで読み取ることができるし、むろん著者の百田氏もそう書いている。スルーせず、一歩を踏み出し、深く読んで大いに議論すれば、護憲派にとっても改憲派にとっても、日本の未来のためにとても有用であろう。

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2017.4.8 市民シンポジウムを終えて

2017-04-15 08:35:42 | 人類の未来

4月8日(土)東京大学弥生講堂で開催した市民シンポジウムにお出でくださいまして有難うございました。学長になられたばかりの自然人類学者の長谷川眞理子先生のお話と、ノーベル賞理論物理学者の益川敏英先生と長谷川眞理子先生の対談、そして質疑の後、放送大学特任教授でカント哲学者の渋谷治美先生に取りまとめをしていただきました。

また最後に元シールズの奥田さん、新外交イニシャティブ(ND)の猿田さんが、飛び込みでいらして人類の次代を継ぐ若者として今日のシンポジウムの内容を受けて感想を述べてくださったことは私としてはとても嬉しかったです。

私も1、プルトニウムと原発、核兵器、2、相模原障害者殺傷事件を表面に出た一つの事例として現代の世界の流れと人間の立ち位置について趣旨説明に盛り込みました。この1と2について4月22日(土)に、それぞれ別の集会で、二つ掛け持ちで話をします。1については、猿田さんが最近プルトニウムについてのご著書を上梓されたというので、是非読んでみたいと思います。2については、私のチョウを対象とした系統学研究や生物の種、生命についての思索が、相模原障害者殺傷事件、トランプ現象、ヘイトクライムや移民排除など、個人あるいは特定の限定された集団の利益擁護という現人類の歴史的な流れそれ自体につながりました。この人類の流れをどのように転轍するか、というより生命自体がもつ本来の流れに戻すこと、これは私の生涯に与えられたテーマとして捉え、今後進展を図りたいと考えます。

ウェルカム・コンサートは初めての試みでしたが、アンケート結果では概ね好評です。声がホールに響き渡ったという感動のコメントを頂いて、お出でいただいたソプラノの岩崎京子先生もとても喜んでいます。今後どうするか伴奏も含めて考えてみたいと思います。

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4月8日市民シンポジウム「次世代にどのような社会を贈るのか? 自然科学者の役割」

2017-02-06 00:05:23 | 原発・エネルギー
日本生物地理学会では、第72回年次大会の中で市民シンポジウム「次世代にどのような社会を贈るのか? 自然科学者の役割」を開催いたします。
20世紀は戦争の世紀と言われました。現世紀になってもそれは終わるどころか、ますます醜く変貌しているように思います。先の相模原障害者殺傷事件、トランプ大統領の出現や世界的な右傾化、排除の論理、なぜこうなるのか?人類は今どういう位置にあるのか、その中で科学者はどういう役割を担っているのか?興味深いシンポジウムになると思います。
最初にウェルカム・コンサートを行います。
 
1.日時:2017年4月8日(土)13:00時(開場12:30)
2.場所:東京大学農学部弥生講堂(東京メトロ南北線 東大前下車歩3分)
3:内容: 
  ウェルカム・コンサート:「花」「朧月夜」「You raise me up」「はっか草」「落葉松」岩崎京子(東京芸術大学大学院修了 ソプラノ)
  趣旨説明:「人類は今どういう位置にあるのか」森中定治(日本生物地理学会会長)
  講演:「次世代に何を贈るか」長谷川眞理子(総合研究大学院大学学長)
  対談:「科学者は戦争で何をしたか」益川敏英(名古屋大学素粒子宇宙起源研究機構長、ノーベル賞受賞者)、長谷川眞理子
  クロージング・アドレス:渋谷治美(放送大学埼玉学者センター長、カント哲学者)
  ポスターをごらんください
4.参加費:1500円(講演要旨集、別途500円)、懇親会4500円
5.参加申込:講演会と懇親会について、参加のご希望の方は、お名前(読み方)と年齢を森中まで。必ず受け付けた旨の返信メールと予約番号を差し上げます。250席程度の席数です。満席の場合はご返事を差し上げませんので、予めご了解ください。また、予約し予約番号を入手の後にキャンセルの場合は必ずその旨ご返事ください。

宛先:日本生物地理学会事務局 森中定治,delias@kjd.biglobe.ne.jp

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