森中定治ブログ「次世代に贈る社会」

人間のこと,社会のこと,未来のこと,いろいろと考えたことを書きます

コロナウィルスに対する壮大な社会実験は、藤井モデルが望ましい

2020-04-26 09:28:10 | 原発・エネルギー

4月7日に緊急事態宣言がなされ、西浦モデルに基づく壮大な社会実験が始りました。
西浦モデルに基づくと2週間後には、急激に感染者が減るはずです。西浦モデルのグラフのようには、急激には減っていません。有効性よりもリスクの方が大き過ぎです。5月6日には終わるべきのように、私は思います。

西浦モデルでは、人から人への感染、人からモノ、モノから人への感染ルートが異なることを理解していません。これを混同しています。この二つは別物です。日本人は有利なことに、欧米と違ってキスやハグの習慣がありません。だから人から人への感染は基本、飛沫感染と空気を通したエアロゾル感染だけです。マスクで足ります。それなのに、人と人との接触を7割も8割も避けよと言います。キスとハグが習慣の欧米のやり方を深く考えずにただ真似ているのです。そのために店を閉めさせたり、あらゆる集いをやめさせます。経済が止まり、人が死にます。無茶苦茶です。ソーシャル・ディスタンスとして2mの距離をとれと言います。一つ前のブログでお示しした福井新聞の記事のように、マスクをしなければ3mでも5mでも感染します。距離ではなく、マスクをしているかどうかだと思います。
マスクは自分のウイルスを飛ばさないと言う利点だけではなく、他人のウイルスを大幅削減して吸い込むと言う利点があります。それで身体が勝てば、ワクチンと同じ意味になります。PCR陽性の感染者の10倍以上の無症状保菌者がいるのではないかと言われますが、マスクが、コロナウィルスを擬似ワクチンに仕立てているのではないか、だからそんなことになるのではないかと私は思っています。欧米は今になってマスクを重要視するようになりましたが・・。
代わって藤井モデルがあります。こちらは併せて書いてはいますが、二つの感染ルートの違いを明確に理解し、区別しています。
http://www.youtube.com/watch?v=Vu3EbKx_uU4

5月6日以降に社会実験として採用するモデルであれば、こちらの方が望ましいと私は思います。
日本政府は5月6日以降、マスク着用必須のうえでの藤井モデルを採用する方が望ましいように私は思います。

少し前、スーパースプレッダーという言葉がありました。ウィルスを広く撒き散らす人のことを言ったと思います。マスクをしない人が、実質的な機能としてスーパースプレッダーの役目を担っているのではないかと思います。

あるMLにこのブログの内容を紹介したら、藤井モデルは他の欧米諸国とは一線を画した、スウェーデン方式と同じだと言われました(4月27日)。

スウェーデン方式は他の欧米と違って10倍の人が死ぬ。それを覚悟してやっている。日本人の人口に換算すれば約100万人になる。藤井モデルは日本人100万人を殺す殺戮モデルだと言われました。

 
 
これは、全く違うと思います。
自分自身が絶対正しいと思い込んでいるので、私が主張したい重要な点を全く理解していません。
上のインターネットやYoutubeを見ると、スウェーデン人のほとんど誰もマスクをしていません。これでは感染者からモロに大量のウィルスを浴びます。私が強調するマスクの有無がとても大きいのです。次に、その方にスウェーデンでは他の欧米と違って、キスやハグはしないのでしょうか。日本と同じようにキスやハグをしない習慣なのでしょうかと問いました。もし他の欧米と同じくキスやハグをする習慣であれば、人から人へは物凄い感染力です。初期のイタリアで何が起こったか、それを思い浮かべれば簡単にわかることです。スウェーデン方式であれば。そりゃたくさんの人が死ぬでしょう。
日本人と欧米人では、キスやハグなど身体をくっつける習慣がない。これがとても大きい違いです。次にマスクをすること、これで感染者からも大量のウィルスをもらうことが大きく減少します。マスク着用必須のうえでの藤井モデルと書いた意味がわかってもらえると思います。
 
東京の小池知事は、人間が生きていくに最重要な食料まで3日に一度にしろと言います。残りのすべての時間は自宅で自粛しろ(引きこもっていろ)。もちろんお店は皆閉めます。開けていたって、お客がいないんじゃ閉める方がマシでしょう。資金繰りに困ってつぶれるところがいっぱい出てきます。自殺者もたくさん出るでしょう。おかしなことを言う人が出てきました。お金に困った美人が風俗に来るぞ。これはチャンスだ!と言います。

こんな方式が人間らしいでしょうか。私は西浦モデルはここまでいくように思います。
藤井モデルの方がずっと穏やかで、人間のやれることかどうか、よく考えて練ったモデルだと思います。
西浦モデルは「角を矯めて牛を殺す」だと思います。

5月6日で終わるのではなければ、さらに厳しく徹底的に西浦モデルをやるのではなく、欧米のマネではなく、日本人固有の特性を上手く活かした上での藤井モデルの方が望ましいと私は思います。

 

 

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コロナ風邪と緊急事態宣言

2020-04-09 22:58:40 | 社会問題

2020年4月7日に発令された緊急事態宣言が一体何を目的としているのか、私にはそれが不明瞭だ。私なりに見るとまるで「コロナ狂躁曲」だ。狂躁曲のビートに乗ってみんな踊り狂っているかのように感じる。
感染者の咳による飛沫は約2m。誰が感染者か分からない。だから他人とは常に2mの距離を維持せよ! 他人との接触を80%減らせ! モデル式による計算結果をそのまま人間社会に当てはめればそうなるのだろうが・・。

コロナウィルス1粒たりとも吸わない、触れない。私には、皆これを目標にしているかのごとく、血走ってきているように見える。それに従わない人は白い目で見られ指弾される。このままでは、それは、これからもっとエスカレートして行くだろう。目に見えないウィルス危機、それにはそれ相応の対策が必要であることはよく理解できる。しかし、お互いを敵視し指弾し合う相互監視社会にしてはならないと私は思う。『天敬愛人』を説いた西郷隆盛は「我が誠の足らざるを尋ぬべし」と言った。我々は、政府の出した政策や社会の動きを注視することは必要であるが、それだけではなくウィルスに対する自分自身への対応についても同じように注視する必要があるのではないか。

コロナウィルスは、感染者の咳だけではなく呼吸そのもの、つまり吐く息からも出ている。感染者の呼吸から水分と一緒にウィルスが出て周辺の気中を浮遊しているのだろう。その参考事例を以下に示す。

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3月のある夜、友人3人と食事をした。別のグループに、後に感染者と分かる知人がいた。自分と知人の距離は複数の人を挟んで3~5メートル。互いの席で、会釈程度のあいさつをした。店内では従業員らが動くから空気も動く。離れていても感染するのかもしれない。トイレには行っておらず、ドアノブにも触っていないので、接触感染の可能性は低いと思う。(福井新聞 2020.4.10)https://this.kiji.is/620895554607481953

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感染者が触ったドア、エレベーターのボタン、エスカレーターの手すり・・、活性化している時間はそれぞれ異なるけれども、あらゆる場所にウィルスがいると考えた方がよいだろう。そんな状態で、どのような対処をしてもウィルスを1粒たりとも吸わない、1粒たりとも触れないを目指すのは現実を無視した架空の目標のように思う。
この自然界には、様々なウィルスが無尽蔵にいる。人間は日頃それを吸ったり、触ったりしている。でも何ともないのは、それらと共生しているか、あるいは無害化しているからだろう。いくらかは吸いこんでも病気を起こさない身体にすることがまず大事であろう。つまり体内で人為的に撃退することと、自己免疫を強化して無害化することが重要だろう。
コロナウィルスが病気を発症させるまでに3、4日の潜伏期がある。この3、4日、ウィルスは何をしているのだろうか。まさか休暇をとって遊んでいるわけではないだろう。最初に人の身体に付着した幾らかのウィルスが細胞の中に入り込み、細胞を工場にように使って次々と子どもを産み出し、それを工場の外に出す。細胞の外に出た子どもは次の細胞に入り込む・・。このようにして、人が体調がおかしいと感じるまでに増殖するのだろう。ある場所でそこが満杯になるまで増殖し、気管を通って肺にこぼれ落ちる。治療薬のない現時点では、免疫力の落ちた老人はウィルスが肺に入ってそこで増殖が始まればもはや回復は難しいだろう。
ではそのある場所、つまり最初に増殖する場所とはどこだろうか。どこから肺に落ちるのだろうか。論理的に考えればすぐ分かる。それは喉(咽頭)だろう。
昼間、咽頭で増殖を始めても3度の食事で大量の固形物や飲み物と一緒にウィルスの多くは胃に落ちる。だから増殖は進み難いだろう。つまりウィルスの増殖は、夜間、人が寝ている間が勝負だろう。しかも睡眠中は体温が下がりウィルスの増殖には願ってもない時だ。そして喉で一気に増殖したウィルスの一部が、気管を通って肺に入るのだろうと私は推測する。
だから私は、深夜2−3時、例えばトイレに起きた時にお湯でうがいをする。それで喉で増殖中のウィルスを一掃し、あとは暖かいお茶かお湯をうがいしながら飲みこんで、残りのウィルスを胃に流してしまう。次々子どもを消せば新しい工場は作り難く、古い工場は疲弊しアポトーシス(滅死)を起こして分解しウィルスもろとも遺伝子は断片になる。ほぼ毎日定時に食事とうがいをすれば、これでウィルスの増殖に対する防衛はかなりできるのではないかと、私は考える。
私は医学者でもないし、ウィルスの専門家でもない。異分野の生物学者だ。でも、自分なりにこの程度の推論はできる。社会の取り決めにはもちろん従うがそれだけではなく、自分の見出した推論に従って、自分自身の身体に対してもできる限りの対処をしていきたい。

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学習院大学における尖った謝辞

2020-04-02 12:37:51 | 原発・エネルギー

学習院大学では卒業式が中止になったことを受けて、2020年3月20日に卒業生による謝辞が国際社会科学部のHPに掲載された。小堀奈穂子さんは、国際社会科学部卒業生の代表の一人として大変興味深い謝辞を述べた。
https://togetter.com/li/1485459

ツゲッターなどでは、「これは伝説に残る文章だ」とか、パンチが効いているとか、オリジナリティーと攻撃力に満ちているなどというコメントが目についた。学習院大学では最高の名誉ある安倍能成記念基金奨学金をもらった人であるから、賢い人であることは疑いがない。どういう謝辞をすれば社会が彼女を称賛するか、そんなことは百も承知だろう。だから、この尖った謝辞は確信を持った明確な自己主張であり、またその意志を入学から卒業まで一貫して貫いてきた人であることが分かる。
ではどういう意志だろうか。
この世には自分の意志しかないという確信であり、自分の意志を最優先すべきという確信である。この謝辞の内容に対して、現代社会や先人に感謝をすべきだというコメントが多い。例えば学習院大学において図書館を使って知識を深めるのも様々の便利な機器を使えるのも多くの先輩達のおかげだ。それに感謝すべきだというコメントである。
彼女の謝辞は、まさにそれを否定している。感謝がいけないというのではない。感謝するなというのではない。感謝をしたい人はすればよい。感謝をしたくない人にまでそれを強要するなというのである。まさに自分の意志を尊重し、それがまた他人の意志を尊重することになると、彼女は考えるのである。
だから彼女は「自分に感謝する」という。図書館を利用するのも、便利な機器を使うのも自分の意志である。図書館に頼みこんで無理やり使わせてもらったのではない。あくまで自分のアイディア、意志、そして必要ならば幾ばくかの自分のお金である。それで自分自身が大きな収穫を得たのなら自分の意志のおかげであって、図書館を作ったあるいは維持している人々のおかげではないと、彼女は考える。だから感謝するならそれは自分だと彼女は考えるのである。むろん過去の長い間に渡って、この社会を作り上げてきた多くの人に感謝したい人はそうすればよい。他人の自由を制約し、感謝をするなと強要するつもりは彼女にはない。だが、逆には自分の意志にそぐわないことはするべきではないと彼女は考える。
自分と、そして他人の自由を尊重するのである。
その意味では、相模原障害者殺傷事件の犯人の植松聖と同じである。メキシコ国境に巨大な壁を作ったトランプ大統領、難民を入れないEUの防御フェンス・・。なぜそれらを作るのか?自分で食べていけない貧困者を自国の税金で食べさせることをしたくないのである。食い詰めた縁もゆかりもない赤の他人をなぜ私たちのお金で食わさねばならないのかと疑問に思い、それを望まない人々が急激に増えている。それらの人たちの収めたお金が税金には含まれている。そう考える人たちは当然ながら、難民排除を掲げる政党に投票する。欧州では難民排除の極右政党が台頭している。もはや政権与党になってしまった国すらある。この流れが濁流となって世界中を席巻しつつある。日本では、卒業生の代表として謝辞を述べるくらいの、著名な大学の最優秀の生徒が、この流れの先陣を切ったのである。


以前このブログに書評を掲載したが、アイン・ランドの小説『水源』の主人公ハワード・ロークと重なる。ハワード・ロークは自分の意志を貫き自分が生み出したものを守ったが、その自分自身が生み出したものが大きな財貨をもたらした。しかし、ハワード・ロークは生み出したものに付随して生まれる財貨には関心をもたなかった。小説ではそうだが、現実はそんな綺麗事ではすまない。自分自身が生み出した固有のものではなく、それに伴う財貨によって貧富の差が拡大する。GAFAを見ればそれがわかる。
この『水源』の主人公ハワード・ロークあるいは、優秀な小堀奈穂子さんの謝辞に対して、堂々と対峙する有識者からのコメントやメディアなどからの論陣はないのか?

この考え方を食い止めるだけの論理を持つコメントあるいは論陣を張ることができなければ、現代において飛び抜けて優秀な第2、第3の小堀奈穂子が出てくることは、もはや必然のように思われる。小堀奈穂子の考え方を変える力を持つ、あるいは相模原障害者殺傷事件の犯人、死刑を宣告されそれを堂々と受ける植松聖の心を揺さぶる論理である。


皆さんは、この流れは正しいと思われるだろうか?
もしこの流れを止めたいと思うならば、どうすればよいだろうか?

 

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相模原障害者殺傷事件 植松聖被告に死刑判決へのコメント

2020-03-17 10:04:42 | 人類の未来

昨日、2020年3月16日、横浜地方裁判所は多くの障害者を殺傷した植松聖に死刑を言い渡した。

NHKニュース

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200316/k10012333681000.html?fbclid=IwAR2D1Apc7Le0pP3z9MMwvf4O38Z28ygwTnRaC9hBBuS1hJJhMpZmzp_SR4U

この記事の最後に、この事件に深く関わった8名の人たちのコメントが出てくる。特に4名は社会的にも知名度の高い有識者である。

私が取り組んできた種問題がこの事件と深く関わり、解決への方向を示す一つの答えがあるので、ここでこの事件についてコメントをしておきたい。4月18日の市民シンポジウムの趣旨説明でお話をさせていただく予定であったが、コロナウィルス収束の見込みがなく、今年の市民シンポジウムは中止となったので、特にここでコメントしておきたい。

NHKニュースの、記事の最後に付記された森監督のコメントにあるように「被告は僕らの矛盾をついた」と言う点である。これは他の有識者も同様の視点を持っているように感じられるが、ではそれがどういう矛盾なのか、誰にもわかるよう具体的にはほとんど誰も指摘していない。

その点について、私は2017年11月に放送大学文京SCで機会をいただいて講演した。問題点は明確である。トランプはメキシコ国境に巨大な壁を作った。ベルリンを東西両陣営に分断した壁は30年前に打ち壊されたが、現代はその6倍にも及ぶ通行防止柵が空爆地域からの難民流入を防ぐために作られた。

なぜ、それらが作られたのか?

貧しい移民や難民を国に入れれば、国費(国民の税金)で食べさせねばならないからである。難民を排除するという政策を掲げたポピュリスト政党が欧州で台頭している。既に政権与党になった国すらある。日本でも同じ流れがある。若者が苦しい生活のなか、なぜ何の関係もない赤の他人の食い詰め老人を食べさせなければならないのかという声を聞いた。70歳以上の老人に対する生活保護や弱者への福祉を一切やめるべきだという声を私は聞いた。助けたいと思う人が助ければよい。私は嫌だという声を聞いた。もちろん自分自身の財力で生きている人は別である。しかし、お金のない人、自分自身で生きていけない赤の他人をなぜ俺たちのお金で食わさねばならないのかという素朴な疑問を聞いた。この疑問が世界の巷に溢れ出てきている。自分たちの考えだけが絶対に正しいという盲信が、このような異質の声を排除してしまい、それゆえにその対策をとることができないのである。

植松聖は、自分自身を救世主と言った。日本を含む、世界中にこのような考え方が溢れ出し、今や濁流となって世界を飲み込もうとしている。

植松聖の行為は、その濁流から目に見える形で吹き出した一つのあぶくである。植松聖のこの考え方が一方的であること、その意味で誤りであることを、彼に認めさせないまま彼をあの世に送ったら、彼の逃げ切りだろう。彼の考え方に賛同する人は、今や世界を席巻する濁流となっている。言うまでもなく日本にもたくさんいる。植松聖は、その人たちのその考え方を背負って、その人たちの救世主として、異教徒から死刑に追い込まれたジャンヌダルクとなって死んでいくことになる。それでは彼をあの世に送った我々の敗北だろう。NHKニュースが記事の最後に列記した有識者は、そのことがなんとなくわかっているのだろう。

彼は、一方しか見ていない。しかし一面で正鵠を突いている。だから難しいのである。

人間はそれぞれが独立しそれぞれ固有の意志を持つ個人である。しかしもう一方で、種として一つの存在である。こちらの視点が完全に欠けている。こちらの視点を持つ者もまた、一方的に自分だけが正しいと盲信し、もう一方の視点を意に介さない。実際にはこの両方が現存する。生物学で議論されてきた種とは何かという「種問題」は、新しい実在論を伴って現在の人類が飲み込まれようとする濁流を止める一つの盾となる。自然科学から派生した問題であるが今人類にそれが求められていると私は考える。

植松聖の考えが一方的であることを彼に理解させることができれば、その濁流に与する人たちの考え方を変える嚆矢となる。現代は、一方的な濁流とともに、それを止める手立ても一緒にやってきたと私は考える。

 

 

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2020市民シンポジウム

2020-03-03 21:47:45 | 人類の未来

以下に示すように、4月18日に東大弥生講堂にて市民シンポジウムを開催します。
https://biogeography.iinaa.net/index.html
折からのコロナウィルス禍で予断を許しませんが、3月になりましたのでご案内をさせていただきます。
私の趣旨説明の後半部分を以下に添付いたします。
楽しいウェルカムコンサートもあります。ご関心のある方はぜひおいでください。
3月18日頃に開催の可否を決定しますので、申し込みはその後にお願いいたします。
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2019年11月9日、人間の分断のまさにその象徴とも言いうるベルリンの壁が崩壊してちょうど30年が経ちました。「自由主義は多くの難題を抱え、民主主義も完全ではない。しかし、私たちは人を閉じ込める壁を作ったりはしない」と、1963年に西ベルリン市民に向かって米国のケネディ大統領が演説しました。しかし、その米国の大統領がまさに今にメキシコとの国境に巨大な壁を作りました。ベルリンの壁崩壊30年の記念式典で演説したドイツのメルケル首相は、「壁の崩壊は、人々を分断する壁がいかに高くあろうと、それを打ち破ることができる証だ」と述べました。しかし、ベルリンの壁崩壊30年後の現代、一つの欧州を実現した欧州連合(EU)において、長さの総計がなんとベルリンの壁の6倍にもなる難民流入防止用フェンス(壁)が生まれました。

「平成の野麦峠ね 実習生」 夏休み(中畑流万能川柳 2019. 03. 06)

我々の社会、人類社会のあり方に善悪はありません。我々個人はそれぞれが分離し、それぞれに独立した考え方、主張、理念・理想をもちます。それは個々の個人の価値観であって、相互に個人の価値観を尊重するが故に自由主義、民主主義が成立します。だからどういう社会にするかは、その時を生きる人の多数決になります。神ならぬ人間の持つ知識は非対称で不完全です。すなわち、ある人は知っていても他の人は知らないということは普通です。またフェイクニュースを信じたり、詐欺に引っかかることはオレオレ詐欺がいつまでもなくならないことを考えれば容易に理解できます。間違い、誤解、偏見、好き嫌い、人類からこれらがなくなることはないでしょう。こういった不完全な情報と感情の統合によって人間は意思決定します。
しかし、逆に多くの人がアプリオリ(先験的)に望ましいと考えること、願うことがあります。アプリオリとは、あれこれ損得を考え理性的に計算した結果、〇〇が正しいと意思決定することではありません。多くの人の心に、理由なくそれが正しい、そうしたいという願い、心の中に自然に湧き上がる願望です。現代社会を形作るその基礎となっている大前提、社会規範のことです。具体的に示せば、現在の日本国憲法に規定された基本的人権です。誰もが幸福になる権利を持ち、誰もが平等であり、誰もが差別されることがなく、誰もが生きる権利、教育を受ける権利を持つことです。誰もが人間らしい生活を通して幸せになる権利です。こういう理念は、多くの人が共有し、その理由など考えるまでもなく当たり前だと誰もが思います。多数決を取れば、誰もが迷うことなく賛成するから盤石なのです。
しかし、我々個人々は離れた異なる存在であり、異なる意見を持ちます。自分に全く無関係の、赤の他人の生存のために自分の所有する富を提供したくないとか、この国は仲間だからこの国の人は助けたいが、あの国は嫌いだからそこの人々は助けたくないとか、こう考える人が大多数になったらどうでしょうか。誰もが当たり前として疑うことのなかった基本的人権を、私はそうは思わないと考える人が過半数になったらどうなるでしょうか。所与の大前提として現代人の心に湧き上がる基本的人権が、なぜそうのか、それが一体どこから来るのか、その点について思考を深めなかった人類の怠慢であり、少数の超富裕者のもつ富が全人類の半数にも及ぶ貧困者の富の合計を超えてさらに大きくなろうとする現代社会は、基本的人権は人類の所与の大前提ではないとする人がさらに拡大することとパッケージであるように、私には思われます。
現代人の誰もが理由なく正しいと考える、心から湧き上がる基本的人権は、人間が進化の過程で身につけたものだとすれば理解が容易でしょう。人類はチンパンジーの祖先と袂を分かった600万年前から現代までほとんどが狩猟採集生活の時代でした。一人で生きていくことはほぼできなかったでしょう。厳しい自然環境の中で集団で暮らすことによってのみ生命を永らえてきたのでしょう。だから仲間外れにされることは死を意味しました。つまり仲間外れの人間というものは誰もいないのです。集団への強い尊重の意識と敵味方の意識が生まれたのでしょう。俺たちとあいつら、つまり味方と敵を峻別し、それに従わないものには厳しい罰。そういうしきたりをなぜ作ったのかと問われても答えはないのです。そのような指向を持った集団ゆえに現代まで生命を永らえてきたと考えると理解がしやすいのです。それは進化心理学という学問になっています。そしてその集団内では個々に個人が競争し、その競争に打ち勝った個人が持つ遺伝子が次世代へと伝わって、その遺伝子を持つ人たちがやはり現代まで生命を永らえてきたのでしょう。なぜ他人と争うのか、他人との競争に勝とうとするのか、それにも本源的な論拠はないのです。ゆえに、個人がより裕福になろうとする指向性について、その論拠は説明し難いし、裕福なものが財力、知力、持てる力の全てを駆使してより裕福になろうとするその意志が普遍的(誰にもある)であることがわかっていただけると思います。もちろんそれは、そのまま肯定されるものではありません。しかし、人類は今後どう存続していくのか、それを考えるための一つの大きな要素ではあります。
しかし、そういった狩猟採集生活時代における自然選択(生と死)によって自然発生的に人類の指向性が生じたとする説明は、集団同士における敵味方の枠を超えた人類愛については説明が難しいのです。種を超えた生命愛についてはなお説明が難しいのです。人間にはもう一つ、それは人間が生物であること、有性生殖生物であること、つまり生命の仕組みそれ自体から湧き出てくる指向性があると考えられます。そしてそれら総ての指向性が一人の人間の中で協力し、あるいは相克しています。
現代の日本国憲法に記された基本的人権は、自然科学的なバックボーンを持ちます。まずこれを理解することが重要です。現代の人類が普遍的に持つ理念は生物学的な視点からの検討が必要です。個人の価値観は、あくまでその個人のが生きてきた歴史、好悪、嗜好などが入り混じったものであり、生物学から得られたデータや知見、あるいは理性的な計算によって唯一の正解が見出されるものではありません。個人の価値観や意思は、たとえどのような内容であろうとも、あくまで個人が決定すべきものです。生物学的な発見や理解は、これが正しい人間の価値観だと証明するものではありません。個人の価値観や意思決定に役にたつけれども、あくまで単なる一つの要素です。しかし、現代の人類にとっては、とてつもなく大きな意味を持つと私は考えます。
人間はどのように生きるべきか。どのような社会を作るべきか。この問いに対して自然科学はずっとそっぽを向いてきました。個人が持つ価値観、個人が持つ人類社会はこのようにあるべきという理念や理想と自然科学は交わりませんでした。その結果、人類がどのような未来を持つべきなのか、未来社会のあるべき姿の探索は哲学や心理学など社会科学の独壇場となりました。しかし、人を殺すなとか、他人に迷惑をかけるなとか、人間はこうあるべきなどという道徳や倫理は人間の本源的、普遍的な美意識に基づいており、その美意識は生物学的な基盤を持ち、それぞれの人間の心の中に論拠なく自然発生します。どういう時にあるいはどういう相克があって自然発生するのか、それを社会科学に携わる者と自然科学に携わる者がともに手を取り、一緒に考えることがこれからの学問の道であり、また教育の大きい一面だと、私は考えます。

1.人間はなぜ対立(壁、分断)するのか?
2.その対立はいつまで続くのか?
3.その対立を解消する方法はあるのか?

この3つの問題に対する一つの答えが、私が扱った生物学(種問題)への理解から得られます。

今回ご講演をいただく丹羽宇一郎先生は、総合商社でずっと働いて伊藤忠商事社長、会長を務められ日本の民間会社の中で人間というものをずっと見ていらっしゃいました。そして中華人民共和国駐箚特命全権大使を務められ、日本人と中国人、アジア人・・、人類の所業とその未来について考えていらっしゃいました。今回丹羽先生からいただきましたテーマの一部である~人こそ最大の資産~は、丹羽宇一郎先生の長く波乱万丈の人生経験における個別のお話ではなく、日本の、そして人類の未来を見据えた総合論になるかと存じます。何より、人間そのものについての思索をお聴きできればと思います。
本日のご講演とその論評と活発な討議が、人類社会の夜明けに射す光となることを私は願います。

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オペレッタを歌う

2020-02-12 12:17:36 | 声楽

昨年(2019年)11月に前ブログ “残された人生” を書きました。
だんだんと身体がしんどくなり、行動もスローになってきました。

10年くらい前は社会問題や哲学的な会合やシンポジウムなどがあれば喜んで参加しましたが、もうそう言うものにはほとんど行かなくなりました。
残された時間は貴重だと思うので、やる事を絞らざるを得ません。
4月18日(土)午後、東大の弥生講堂で丹羽宇一郎先生をお迎えして市民シンポジウム「次世代にどのような社会を残すのか?」を開催します。丹羽先生からいただいたご講演のテーマは「日本の国是は平和と自由」~人こそ最大の資産~ なので、人間とは何かと言う内容になると考えています。

私の生命論については、その趣旨説明で話します。
・人間はなぜ対立するのか?
・その対立はいつまで続くのか?
・その対立を解消する方法はあるのか?  の答えが出できます。
3月には私の趣旨説明の要旨をブログにあげたいと思います。

その前に、私の人生の最後にとても面白いことが起こりました。歌のコンクールで1位になりました。昨年東京で開催されたウィーン・オペレッタコンクールシニア部門で1位をいただき、その受賞コンサートが1月19日に東京オペラシティーで行われました。
その時のYoutubeを添付します。

https://www.youtube.com/watch?v=UvfKreXEDD0

東京オペラシティーで歌ったオペレッタ2曲です。最初は軽い曲ですが、2曲目はレハールのオペレッタ『微笑みの国』から「我がすべての命を捧げる」、なかなか雄大な歌です。2曲とも日本語です。2曲で7分程度です。ご関心のある方はぜひ聴いてみてください😄

なお、3月29日(日)に浜松町のサン・ミケーレで歌います。グルメのお医者さんが作ったイタリアンレストランで、豪華です😆

クリックお願いします。

  

 

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残された人生

2019-11-21 21:37:16 | 声楽

2019年11月16日、日本技術士会の愛知県支部で講演依頼をいただき約1時間の講演をした。依頼の内容は“プルトニウムと原子炉”についてであった。しかし私は生物学者であり、かつ単にその専門家ということではなく私自身の研究が現代人類に大きな意味を持つので、その話を前半にさせて欲しいと申し出た。

その結果、 講演の演題は「現代人類における熔融塩炉の意義」であったが、1.現代人類が迎えた情勢(偏った潮流) 2.生物学研究(種問題、人間の実在の形) 3.熔融塩炉の意味(福島、プルトニウム、専焼炉と原子炉の用途)という配分で話をさせていただいた。

東洋熱帯からオーストラリア、ニューギニアにかけて広く生息するカザリシロチョウを材料にした分子系統学研究と、その翅の鮮やかで多様な色彩が自然界でどのような意味を持つのか、それを見つけることが私の主たる研究テーマであった。2017年にカザリシロチョウの分子系統地理学の論文が英国のリンネ学会の雑誌に掲載され、2018年にカザリシロチョウの毒性と擬態(外敵に対する色彩の効果)についての論文が日本昆虫学会の雑誌に掲載され、今年2019年は毒性に関する続報が日本生物地理学会の英文誌Biogeographyに掲載された。カザリシロチョウの艶やかな色彩と著しい多様な模様が持つ意味について、最後の論文を来年に書く。こうして私の人生における生物学研究は概ね幕が閉じる。私の生涯にやりたいことの一つが終わる。

その生物学研究の過程で、種問題にぶつかった。生物の種とは何か?これは、生物学者が長年にわたって深く考察し研究し、侃侃諤諤の議論をしても答えの出ない超難問である。生物学者ではないこのブログの読者は、生物の種とは例えば“犬”とか“猫”と聞けば、それは誰にもわかる現実にあるものだ。当たり前のことだ。いったいそれのどこが超難問なのかと不思議に思うだろう。では、犬という種がこの世にあるなら、どういう形なのかと問われるとその途端に答えに窮する。犬のそれぞれの個体のことではない。犬という“種”そのものが個体なのかという問いである。

“種”などはない。この自然界に実在する唯一の生物はそれぞれの個体である。人で言えば個々の個人である。個体だけが現実に存在する。そのそれぞれの個体を構成員として人間が意図的に束ねた(グループ化した)ものが種であって、種は単なる人間の作為的な集合(クループ)である。この考え方を、唯名論という。個体以外の総てが名前だけだという意味である。生物の分類には種の他にも“属”や“科”やその他たくさんの階層に分かれているが、それらは総て人間が考え出した空想の産物、人間の頭に中だけにある観念である。この考え方、唯名論は中世の時代から知られ、現在まで続いている。こう言われてみると、なるほどそうかとも思える。

ある人が“規約種”という概念を出し、その分かり易い事例として“1グラム種”を提示した。重さが1gであるものは総て含まれる。それだけがこの種に属するための規約である。誰が考えてもわかるが、これこそまさに人間が恣意的に束ねたグルーピングである。“1グラム種”というものがこの世に実在しないことは直感的にわかるし、無論それは個体でもないし、形もない。この“1グラム種”と“犬”や“猫”という生物種とは同じ空想上の産物、人間の頭の中だけの観念だろうか?そう問われると、“1グラム種”は明らかに人間が作ったものだが、“犬”や“猫”はそうではないだろうと、これも直感的にわかる。

この唯名論に対して、1950年代から1970年代に複数の学者が、生物は種こそが一つの実体であり個体であり、個々の個体はグループを構成する構成員(メンバー)ではなく、種という一つの個体の部分(パート)であるという“種の個体説”を打ち出した。“種の個体説”は、個々の個体こそが唯一の実在する構成員であって、種は単なる観念(グルーピング)であるという唯名論と真っ向対立し、どちらが正しいか生物学者の長年にわたる議論でも決着がつかないのである。

私は、この種問題について、チョウを材料とした純粋生物学研究とともにずっと考え続けてきた。そして“実在する”とは人間が実感することであることを見出した。生物学的視点からの実在論である。

自分自身がこの世に実在することを疑う人は、ほとんど誰もいないだろう。「我思う 故に我ある」とデカルトは言った。人間は、自分自身を認識するつまり知覚することで実在する実感を持つ。さらにもう一つある。知覚できないものでも、理性によってつまり論理によって実在を認識できるものもある。例えば原子。人間は原子を見ることはできない。五感で知覚できない。しかしすべての物質の構成因子である。原子がなければこの世の全ての物質はない。原子がこの世に実在することを疑う人はほとんどいないだろう。このように、人間は知覚と理性によって実在しているという実感を持つのである。

私は、個々の個体もこの世に実在し、同時にまた種も実在することを見出した。私は、このどちらかではなく、両者が実在することを見出した。そして両者が実在するというこの理解こそが、現代人類が今まさに直面している危機を乗り越えるために、もっとも必要なものの一つだと思う。

1.      人間はなぜ対立するのか?

2.      その対立はいつまで続くのか?

3.      その対立を解消する方法はあるのか?

この3つの問題が、種問題への理解から解けるのである。

これが、私の生涯に与えられたなすべき仕事である。純粋な生物学研究はまもなく終わるが、この仕事はもっと長く続くだろう。

こういった話とは全く別に、私は歌(声楽)をやっている。生活費を稼ぐための仕事からリタイアしたその2年後から始め、およそ8年が経過した。2019年10月14日にウィーン・オペレッタコンクールが開催され、その愛好家シニア部門で1位をいただいた。2020年1月19日には東京オペラシティで受賞者コンサートがあり、それに出演する(チラシのリンクFBを添付します。興味のある方は是非おいでください)。8年間やってやっと片目が開いた。2019年12月4日には日本クラシック音楽コンクールの声楽部門全国大会があり、それに出る。まだ伸び代があり伸びるうちはやる。とても楽しいが、伸びが止まったらきっと熱が冷めるだろう。

 

https://teamroom.jp/team/661/album/578

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=2476602605947137&set=pcb.2701261333269616&type=3&theater

https://www.facebook.com/sadaharu.morinaka.3?__tn__=%2Cd*F*F-R&eid=ARAN3SCiZI30NF1K3hgrldYI13rkAOSQelxFS3MjArc7F2satC2DMLofoayV2qp7mrFB20iC7l50wgNT&tn-str=*F

先般、放送大学埼玉学習センターで「日本歌曲の魅力と発声法1」を受講した。埼玉県のバリトン歌手、福井克明先生が歌い方を教えてくださった。日本歌曲「くちなし」を初めて歌った。

 “熟しても、口を開かぬくちなしの実だ・・”

あれもしたい、これもしたい、ああなりたい、こうなりたいと一所懸命努力し、恋い焦がれても口を開かぬ、つまり成就しない。

それこそが人間の“生”である。こういう意味を持つ歌である。

生涯においてやれるだけやれば、その結果がどうであっても、たとえ不首尾に終わっても清々しい気持ちでこの世を去ることができるだろう。

私もあと残された時間、やれるだけやってみたい。

 

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日本のトランプ N国党首・立花孝志

2019-10-12 14:31:28 | 社会問題

私の暮らす埼玉県の参議院補欠選挙で、本命候補の前埼玉県知事・上田清司氏に対して、N国党首の立花孝志氏が夏の参議院普通選挙で当選したばかりの参議院議員の職を辞して、改めて埼玉県参議院議員補欠選挙に出馬した。


同じ参議院議員であるし既に当選しているのに、どうしてわざわざこんなことをするのだろうと不思議に思った。N国は比例代表で彼一人が当選しただけである。彼が職を辞せば2位の者が繰り上がるからN国の国会議員1名は消えることはない。だからもう1名増やしたいのだろうと思った。しかし、負ければN国の国会議員数は減らなくとも自分自身は失職するのである。当然ながら上田氏に勝てる公算がなければそんなリスキーなことをわざわざしないだろう。

上田氏は、先の埼玉知事選で国民民主の議員を辞して立候補した大野氏を応援した関係で国民、立憲が支援する。自民は、今度は対抗馬を出さず、上田氏の出陣式には自民党議員が応援に参加した。野党と自民の相乗りに見える無敵の大本命である。

N国は「NHKをぶっ壊す」がスローガンでもあり、またそのワンイシューの政党であった。しかし今度の補選でのスローガンは「既得権益をぶっ壊す」である。そしてホリエモンに協力を要請した。


これで分かった。


一般にはとてもリスキーな行為と見えるかもしれないが、世界の潮流を見れば十分に勝つ公算があることを示している。潮目の変わった流れがひたひたと押し寄せるその音が、このN国党首にもホリエモンにも聞こえるのだろう。


上田 vs 立花。この構図をあえて言えば、上田清司氏はエスタブリッシュの代表と例えられるだろう。既得権益に守られた財界、既得権益に守られ安定した生活の労働者(連合)、裕福な人たち、上流階級、言わばクリントンである。立花孝志氏は言わばラストベルトを代表する。既得権益を受けられない落ちぶれた中年、どれだけ働いても楽にならない若者・・。立花氏は「既得権益をぶっ壊す」と言った。トランプと同じ。私には、この補選にこの構図が見える。米国での勝利は「よもや」のトランプだった。


2019年10月11日のニュースで、クルド人に対するトルコの軍事行動の停止を求めたEUに対して、トルコのエルドアン大統領が「我々の作戦を侵略と呼ぶなら、ドアを開けて360万人のシリア難民をあなたのところに送る」と発言した。


貧困の移民や難民は受けれたくない。トランプが築くメキシコ国境の壁も、広くEUで難民排除の極右政党が台頭するのも同じ。縁もゆかりもない他人を、なぜ俺たちの金で食わさねばならないのか。高額の税金を納め、あらゆる面で行き届いた福祉社会を築いてきたスウェーデンでさえも今や同じ。縁もゆかりもない、赤の他人の食べていけない老人や障害者、弱者を俺たちが働いて苦労して手に入れたお金でなぜ食わさねばならないのか。N国の立花党首もホリエモンも同じだと私は思う。次は安楽死政党が出て来るだろう

人間は誰もが生きる権利がある。誰もが平等であり、誰もが同じように幸せを得る権利を持つ。誰の生命も同じ。


こういった主張は、それを総ての人が当たり前だ!理由などいらない!と論拠なく肯定する場合には大きな力を持つ。人間が王様や領主の所有物であった封建時代から人類は脱出し、「我思う 故に我あり」と言ったデカルトやホッブスやロック、ルソーといった哲学者が生まれた近代から今まではそうであった。それを疑う必要のない大前提として、論拠など不要の大前提として様々な社会理論が生まれた。しかし、そう考える人が人間総数の半分以下になれば事情は変わる。そういう潮流が米国にも、欧州にも、世界に押し寄せている。日本においても同じ、その嚆矢が津久井やまゆり園で起きた相模原障害者施設殺傷事件だと私は考える。その潮流を元に戻すために、潮流のブレを是正するために、我々はその論拠を改めて考えねばならない時に来ていると思う。


トランプ現象。立花現象。同じである。
よもやとは思うが、埼玉でのこの参議院補選でN国党首、立花孝志氏が勝ったら、日本にも押し寄せてきた潮流の変化が目に見えるようになるだろう。

 



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4月13日(土)市民シンポジウムの趣旨説明

2019-04-10 10:55:32 | 人類の未来

今回は作家の橘玲さんをお迎えして、「リベラル化する世界の分断」というテーマでお話しいただきます。論評者として作家の吉川浩満さん、哲学者の神戸和佳子さん、弊学会の春日井治さんに論評をいただきます。最初にウェルカム・コンサートで私も2曲歌います(笑)

https://www.tachibana-akira.com/2019/03/11583

おかげさまで400名の会場が満席でキャンセル待ちの状態です。ご参考までに私の趣旨説明を以下に添付いたします。

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我々が生活を営むこの人類社会の終焉は、どのように来るだろうか。

日本には1 億3000 万の人が住み、先進国として多様な食べもの、きれいな水、そして高い利便性をもち、物質的にもとても恵まれた生活を享受している。中国には13 億6000 万、インドには12 億6000 万の人がいる。ともに日本のほぼ10 倍である。この人たちが日本、米国を追いつけ追い越せと現資本主義のルールで世界的な展開を図っている。中国がアフリカの資源と北海道の水を押さえに入っているというニュースは、既にインターネットや週刊誌などで広く話題になっている。しかし、それらの国がコモディティー(生活用品)と生活の利便性において、日本と同レベルに至るには地球が2.5 個必要である(拙著『プルトニウム消滅!』p.205-210)。地球を2.5 個に増やすことは絶対にできない。ゆえに、我々が公正と認め標準にしている現在の自由主義、資本主義のルールが破綻し、現在の人類社会の終焉が来るのは、論理的な帰結のように思える。人類は、これをどのように平和裡に乗り越えるのか。これこそが、我々人類の現代の究極の課題ではないのか。 

「善悪に関心持たぬテクノロジー」 崩 彦(中畑流万能川柳 2018.10.3)

どれほどAI が進歩しても、仮にシンギュラリティー(技術的到達点)が到来して人工頭脳が人間の管理を離れ、それ自体が自ら考え設計し生産するようになったとしても、どういう目的を持って自ら生産を行うのか、それは我々人間がAI にインプットする。シンギュラリティーなど来ても来なくてもどちらでも同じ。我々人類は、これからどういう目的を持って人類社会を営んでいくのか、発展させていくのか。我々は今、その方向性を定めるべき歴史的な到達点を迎えたのだと思う。

自由社会とは個々の人間がそれぞれの自由な意思で好き勝手に暮らす社会である。ゆえに人類社会の方向なんてものはない。それぞれ個人が好き勝手に歩んで来た道が人類の道である。こういう考え方に、私は与しない。ステュアート・ミルが言ったように「自由」とは勝手気ままではなく一つの方向がある、と私も思う。その方向とは、どの方向か。それは、ミルの時代では、人間の思考だけによる思弁、観念論だった。その時代は過ぎ、自然科学から得られたデータやエビデンスを土台にして、多くの人が納得できる目に見えるものを提案する時を、人類は迎えたと思う。

コモディティー(生活用品)と生活の利便性において、地球が2.5 個必要な状態へと、今後も同じ方向にさらに突き進んだ時、現在の自由主義、資本主義社会の状態で人類社会はどうなるだろうか。

2019 年1 月、ダボス会議に合わせNGO オクスファムは、世界の富の偏在に関する報告書を公開した。世界の富裕者上位26 人が所有する資産は、世界の人口の約半数に当たる貧困層38 億人が持つ資産と、ほぼ同額と指摘した。私有資産では、26 人:世界の人口の半分、という構図である。今後も、裕福な人はますます裕福になり、貧しい人はますます貧しくだろう。なぜなら、裕福な人はさらに裕福になるように働く(行動する)からである。その上、政府もメディアも警察も全てが彼らを守る盾となるだろう。そのように働く(知力、財力を用いる)からである。過去のように特定のイデオロギーの下に暴力革命で富裕者を殺し、生産手段を奪い取ることは不可能である。第一、暴力に正義はない。むろん解決もしない。

その結果、現在は私有資産において世界の富裕者とバランスする世界の人口の50%の貧困者が、未来においては60%、70%と増えていくであろう。つまり超富裕者が存在し、一方で貧困者は世界の過半数を占めるという人類社会の構図である。こういう人類社会は正しいのだろうか。善なのだろうか。

我々の社会、人類社会のあり方に正邪、善悪はない。我々個人はそれぞれが分離しそれぞれに独立した考え方、主張、理念・理想をもつ。それは個人の価値観であって、他人の価値観は尊重されねばならない。だからどういう社会にするかは、その時を生きる人の多数決になる。神ならぬ人間の持つ知識は非対称で不完全である。すなわちある人は知っていても他の人は知らないということは普通にある。またフェイクニュースを信じたり、詐欺に引っかかることはオレオレ詐欺がいつまでもなくならないことを考えば容易にわかる。間違い、誤解、偏見、好悪・・、人類からこれらがなくなることはないだろう。こういった不完全な情報と感情の統合によって人間は意思決定する。

しかし、逆に多くの人がアプリオリ(先験的)に望ましいと考えることがある。アプリオリとは、あれこれ損得を考え計算した結果、〇〇が正しいと意思を決定するものではない。多くの人の心に、理由なくそれが正しい、そうしたいという思い、心の中に自然と湧き上がる願望である。現代社会を形作るその基礎となっている大前提、社会規範である。具体的に示せば、現在の日本国憲法に規定された基本的人権である。誰もが幸福になる権利を持ち、誰もが平等であり、誰もが差別されることがなく、誰もが生きる権利、教育を受ける権利を持つことである。誰もが人間らしい生活を通して幸せになる権利である。こういう理念は、多くの人が共有し、考えるまでもなく当たり前だと思う。多数決を取れば、誰もが迷うことなく賛成するから盤石なのである。しかし、我々個人一人々は離れた異なる存在であり、異なる意見を持つ。自分に全く無関係の、赤の他人の生存のために自分の所有する富を提供したくないとか、あの国は仲間だからあの国の人は助けたいが、この国は敵だからそこの人々は助けたくないとか、そう考える人が過半数になったらどうだろうか。誰もが当たり前として疑うことのなかった基本的人権を、私はそうは思わないと考える人が過半数になったらどうなるだろうか。所与の大前提として現代人の心に湧き上がる基本的人権が、それがどこから来るのか、その思考を深めなかった人類の怠慢であり、先に述べた少数の超富裕者が全人類の半数の貧困者を超えてさらに大きくなる人間社会は、基本的人権を所与の大前提ではないとする人がさらに拡大することとパッケージであるように、私には思われる。

現代人の誰もが理由なく正しいと考える、心から湧き上がる基本的人権は、人間が進化の過程で身につけたものであろう。人類は600 万年もの狩猟採集生活の時代、厳しい自然環境の中で集団で暮らすことによって生命を永らえてきたのだろう。だから仲間を自分自身と同様に大事にし、逆に仲間はずれにされることは死を意味した。非常に強い集団への尊重と敵味方の判別の指向性が生まれたのだろう。俺たちとあいつら、つまり味方と敵を峻別し、それに従わないものには厳しい罰が与えられる。そういうしきたりをなぜ作ったのか、なぜ尊重するのかと問われても答えることは難しい。そのような指向を持った集団ゆえに現代まで生命を永らえてきたのであろう。そしてその集団内でより多く子孫を残した人たちがやはり現代まで生命を永らえてきたのだろう。ゆえに、なぜ個人が競争に打ち勝ってより裕福になろうとし、裕福なものが財力、知力、持てる力の全てを駆使してさらに裕福になろうとするのか理解することは難しいが、生物学的な視点を持つことによって明確な認識が可能になりまた理解しやすくなろう。もちろんより裕福になろうとする指向性は、そのまま無制限に肯定されるものではなく制御せねばならない。生物学的な視点からの理解は、我々人類がその真の制御方法を構築するために必須であろう。その指向性は人間の進化の過程と次に述べる生命の仕組みから生み出されるものであり、その理解と認識なくしてそれを真に制御することはできない。その指向性に対する明確な認識と理解が進むことによって、その制御は強制ではなく真の制御つまり和解となる。

しかし、そういった狩猟採集生活時代における自然選択によって自然発生的に生じたとする説明は、集団における敵味方の枠を超えた普遍的な人類愛については説明が難しい。種を超えた生命愛についてはなお説明が難しい。人間にはもう一つ、それは人間が生物であること、つまり生命の仕組みそれ自体から湧き出てくる意思がある。そしてそれら総ての意思が一人の人間の中で協力しあるいは相剋している。

現代の日本国憲法の基本的な理念は、自然科学のバックボーンを持つ。まずこれを理解することが重要である。現代の人類が普遍的に持つ理念は生物学的な視点からの検討が必要である。個人の価値観は、あくまでその個人の考えであり、生物学から得られたデータや知見、あるいは計算によって唯一の正解が証明され得るものではない。個人の価値観や意思は、どうであろうとあくまで個人が決定すべきものである。生物学的な発見は、人間の価値観はこれが正しいと証明するものではなく、個人の価値観や意思決定に単に影響を与えるものである。しかし、これはとてつもなく大きい意味を持つ。

人間はどのように生きるべきか。どのような社会を作るべきか。この問いに対して自然科学はずっとそっぽを向いてきた。自然科学における発見やエビデンスと、個人が持つ価値観とは無関係と断じてきた。その結果、人間がどのような未来を持つか、未来へと歩む道の探索は哲学や心理学など社会科学の独壇場となった。しかし、人を殺すなとか、他人に迷惑をかけるなとか、人間はこうあるべきなどという道徳や倫理は人間の本源的な美意識に基づいており、その美意識は生物学的な基盤を持ち、人間の心の中に自然発生する。どういう時にあるいはどういう相剋があって自然発生するのか、それを一緒に考えることがこれからの教育の大きい一面だと、私は考える。

今回ご講演をいただく作家の橘玲先生は、2019年1月に新著『もっと言ってはいけない』を上梓された。今まで言ってはいけないことになっていたこと、考えてはいけないこと、タブー、それを明らかにして議論を進めるべきときがきたのである。その内容は、多くが生物学を基盤とし、それから得られたエビデンス(証拠)に基づいた人間社会論の展開、つまり自然科学と社会科学の融合である。これが人間の基本的人権を、自然科学を土台にして改めて認識する大きな力を与えてくれるだろう。そして、人類が生命体としてどういう存在なのかを示した拙考『種問題とパラダイムシフト』は、生物学と哲学の融合であり、今回のシンポジウムと重なる。

本日の講演とその論評と活発な討議が、人類社会の夜明けに射す光となると私は考える。

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4月13日ウェルカム・コンサートで歌います

2019-03-23 07:34:35 | 原発・エネルギー

4月13日(土)午後の市民シンポジウムのウェルカム・コンサートで歌います。
場所は東京大学赤門を入ったすぐ右側、伊藤国際学術研究センターの地下2階、伊藤謝恩ホールです。

先日初めて見ましたが、400名の素晴らしいホールです。音楽ホールではなくて、学術シンポジウム用のホールですが、ちょっと声を出してみたら素晴らしい響きです。このホールで歌を唱った人はまだいないでしょう。とても楽しみです😊

お呼びした小林純子さんは、昨年山田耕筰の石碑のある巣鴨協会で行われた小川明子先生の発表会で『蘇州夜曲』を唱われ、私は感動しました。3曲唱ってくださいます。私は『星は光りぬ』と『やがて来る自由の日』の2曲を歌います。

おかげさまで市民シンポジウムの申し込みは、すでに380名に達しました。ほぼ満席の状態です。有難うございます。

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