森中定治ブログ「次世代に贈る社会」

人間のこと,社会のこと,未来のこと,いろいろと考えたことを書きます

4月13日(土)市民シンポジウムの趣旨説明

2019-04-10 10:55:32 | 人類の未来

今回は作家の橘玲さんをお迎えして、「リベラル化する世界の分断」というテーマでお話しいただきます。論評者として作家の吉川浩満さん、哲学者の神戸和佳子さん、弊学会の春日井治さんに論評をいただきます。最初にウェルカム・コンサートで私も2曲歌います(笑)

https://www.tachibana-akira.com/2019/03/11583

おかげさまで400名の会場が満席でキャンセル待ちの状態です。ご参考までに私の趣旨説明を以下に添付いたします。

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我々が生活を営むこの人類社会の終焉は、どのように来るだろうか。

日本には1 億3000 万の人が住み、先進国として多様な食べもの、きれいな水、そして高い利便性をもち、物質的にもとても恵まれた生活を享受している。中国には13 億6000 万、インドには12 億6000 万の人がいる。ともに日本のほぼ10 倍である。この人たちが日本、米国を追いつけ追い越せと現資本主義のルールで世界的な展開を図っている。中国がアフリカの資源と北海道の水を押さえに入っているというニュースは、既にインターネットや週刊誌などで広く話題になっている。しかし、それらの国がコモディティー(生活用品)と生活の利便性において、日本と同レベルに至るには地球が2.5 個必要である(拙著『プルトニウム消滅!』p.205-210)。地球を2.5 個に増やすことは絶対にできない。ゆえに、我々が公正と認め標準にしている現在の自由主義、資本主義のルールが破綻し、現在の人類社会の終焉が来るのは、論理的な帰結のように思える。人類は、これをどのように平和裡に乗り越えるのか。これこそが、我々人類の現代の究極の課題ではないのか。 

「善悪に関心持たぬテクノロジー」 崩 彦(中畑流万能川柳 2018.10.3)

どれほどAI が進歩しても、仮にシンギュラリティー(技術的到達点)が到来して人工頭脳が人間の管理を離れ、それ自体が自ら考え設計し生産するようになったとしても、どういう目的を持って自ら生産を行うのか、それは我々人間がAI にインプットする。シンギュラリティーなど来ても来なくてもどちらでも同じ。我々人類は、これからどういう目的を持って人類社会を営んでいくのか、発展させていくのか。我々は今、その方向性を定めるべき歴史的な到達点を迎えたのだと思う。

自由社会とは個々の人間がそれぞれの自由な意思で好き勝手に暮らす社会である。ゆえに人類社会の方向なんてものはない。それぞれ個人が好き勝手に歩んで来た道が人類の道である。こういう考え方に、私は与しない。ステュアート・ミルが言ったように「自由」とは勝手気ままではなく一つの方向がある、と私も思う。その方向とは、どの方向か。それは、ミルの時代では、人間の思考だけによる思弁、観念論だった。その時代は過ぎ、自然科学から得られたデータやエビデンスを土台にして、多くの人が納得できる目に見えるものを提案する時を、人類は迎えたと思う。

コモディティー(生活用品)と生活の利便性において、地球が2.5 個必要な状態へと、今後も同じ方向にさらに突き進んだ時、現在の自由主義、資本主義社会の状態で人類社会はどうなるだろうか。

2019 年1 月、ダボス会議に合わせNGO オクスファムは、世界の富の偏在に関する報告書を公開した。世界の富裕者上位26 人が所有する資産は、世界の人口の約半数に当たる貧困層38 億人が持つ資産と、ほぼ同額と指摘した。私有資産では、26 人:世界の人口の半分、という構図である。今後も、裕福な人はますます裕福になり、貧しい人はますます貧しくだろう。なぜなら、裕福な人はさらに裕福になるように働く(行動する)からである。その上、政府もメディアも警察も全てが彼らを守る盾となるだろう。そのように働く(知力、財力を用いる)からである。過去のように特定のイデオロギーの下に暴力革命で富裕者を殺し、生産手段を奪い取ることは不可能である。第一、暴力に正義はない。むろん解決もしない。

その結果、現在は私有資産において世界の富裕者とバランスする世界の人口の50%の貧困者が、未来においては60%、70%と増えていくであろう。つまり超富裕者が存在し、一方で貧困者は世界の過半数を占めるという人類社会の構図である。こういう人類社会は正しいのだろうか。善なのだろうか。

我々の社会、人類社会のあり方に正邪、善悪はない。我々個人はそれぞれが分離しそれぞれに独立した考え方、主張、理念・理想をもつ。それは個人の価値観であって、他人の価値観は尊重されねばならない。だからどういう社会にするかは、その時を生きる人の多数決になる。神ならぬ人間の持つ知識は非対称で不完全である。すなわちある人は知っていても他の人は知らないということは普通にある。またフェイクニュースを信じたり、詐欺に引っかかることはオレオレ詐欺がいつまでもなくならないことを考えば容易にわかる。間違い、誤解、偏見、好悪・・、人類からこれらがなくなることはないだろう。こういった不完全な情報と感情の統合によって人間は意思決定する。

しかし、逆に多くの人がアプリオリ(先験的)に望ましいと考えることがある。アプリオリとは、あれこれ損得を考え計算した結果、〇〇が正しいと意思を決定するものではない。多くの人の心に、理由なくそれが正しい、そうしたいという思い、心の中に自然と湧き上がる願望である。現代社会を形作るその基礎となっている大前提、社会規範である。具体的に示せば、現在の日本国憲法に規定された基本的人権である。誰もが幸福になる権利を持ち、誰もが平等であり、誰もが差別されることがなく、誰もが生きる権利、教育を受ける権利を持つことである。誰もが人間らしい生活を通して幸せになる権利である。こういう理念は、多くの人が共有し、考えるまでもなく当たり前だと思う。多数決を取れば、誰もが迷うことなく賛成するから盤石なのである。しかし、我々個人一人々は離れた異なる存在であり、異なる意見を持つ。自分に全く無関係の、赤の他人の生存のために自分の所有する富を提供したくないとか、あの国は仲間だからあの国の人は助けたいが、この国は敵だからそこの人々は助けたくないとか、そう考える人が過半数になったらどうだろうか。誰もが当たり前として疑うことのなかった基本的人権を、私はそうは思わないと考える人が過半数になったらどうなるだろうか。所与の大前提として現代人の心に湧き上がる基本的人権が、それがどこから来るのか、その思考を深めなかった人類の怠慢であり、先に述べた少数の超富裕者が全人類の半数の貧困者を超えてさらに大きくなる人間社会は、基本的人権を所与の大前提ではないとする人がさらに拡大することとパッケージであるように、私には思われる。

現代人の誰もが理由なく正しいと考える、心から湧き上がる基本的人権は、人間が進化の過程で身につけたものであろう。人類は600 万年もの狩猟採集生活の時代、厳しい自然環境の中で集団で暮らすことによって生命を永らえてきたのだろう。だから仲間を自分自身と同様に大事にし、逆に仲間はずれにされることは死を意味した。非常に強い集団への尊重と敵味方の判別の指向性が生まれたのだろう。俺たちとあいつら、つまり味方と敵を峻別し、それに従わないものには厳しい罰が与えられる。そういうしきたりをなぜ作ったのか、なぜ尊重するのかと問われても答えることは難しい。そのような指向を持った集団ゆえに現代まで生命を永らえてきたのであろう。そしてその集団内でより多く子孫を残した人たちがやはり現代まで生命を永らえてきたのだろう。ゆえに、なぜ個人が競争に打ち勝ってより裕福になろうとし、裕福なものが財力、知力、持てる力の全てを駆使してさらに裕福になろうとするのか理解することは難しいが、生物学的な視点を持つことによって明確な認識が可能になりまた理解しやすくなろう。もちろんより裕福になろうとする指向性は、そのまま無制限に肯定されるものではなく制御せねばならない。生物学的な視点からの理解は、我々人類がその真の制御方法を構築するために必須であろう。その指向性は人間の進化の過程と次に述べる生命の仕組みから生み出されるものであり、その理解と認識なくしてそれを真に制御することはできない。その指向性に対する明確な認識と理解が進むことによって、その制御は強制ではなく真の制御つまり和解となる。

しかし、そういった狩猟採集生活時代における自然選択によって自然発生的に生じたとする説明は、集団における敵味方の枠を超えた普遍的な人類愛については説明が難しい。種を超えた生命愛についてはなお説明が難しい。人間にはもう一つ、それは人間が生物であること、つまり生命の仕組みそれ自体から湧き出てくる意思がある。そしてそれら総ての意思が一人の人間の中で協力しあるいは相剋している。

現代の日本国憲法の基本的な理念は、自然科学のバックボーンを持つ。まずこれを理解することが重要である。現代の人類が普遍的に持つ理念は生物学的な視点からの検討が必要である。個人の価値観は、あくまでその個人の考えであり、生物学から得られたデータや知見、あるいは計算によって唯一の正解が証明され得るものではない。個人の価値観や意思は、どうであろうとあくまで個人が決定すべきものである。生物学的な発見は、人間の価値観はこれが正しいと証明するものではなく、個人の価値観や意思決定に単に影響を与えるものである。しかし、これはとてつもなく大きい意味を持つ。

人間はどのように生きるべきか。どのような社会を作るべきか。この問いに対して自然科学はずっとそっぽを向いてきた。自然科学における発見やエビデンスと、個人が持つ価値観とは無関係と断じてきた。その結果、人間がどのような未来を持つか、未来へと歩む道の探索は哲学や心理学など社会科学の独壇場となった。しかし、人を殺すなとか、他人に迷惑をかけるなとか、人間はこうあるべきなどという道徳や倫理は人間の本源的な美意識に基づいており、その美意識は生物学的な基盤を持ち、人間の心の中に自然発生する。どういう時にあるいはどういう相剋があって自然発生するのか、それを一緒に考えることがこれからの教育の大きい一面だと、私は考える。

今回ご講演をいただく作家の橘玲先生は、2019年1月に新著『もっと言ってはいけない』を上梓された。今まで言ってはいけないことになっていたこと、考えてはいけないこと、タブー、それを明らかにして議論を進めるべきときがきたのである。その内容は、多くが生物学を基盤とし、それから得られたエビデンス(証拠)に基づいた人間社会論の展開、つまり自然科学と社会科学の融合である。これが人間の基本的人権を、自然科学を土台にして改めて認識する大きな力を与えてくれるだろう。そして、人類が生命体としてどういう存在なのかを示した拙考『種問題とパラダイムシフト』は、生物学と哲学の融合であり、今回のシンポジウムと重なる。

本日の講演とその論評と活発な討議が、人類社会の夜明けに射す光となると私は考える。

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