森中定治ブログ「次世代に贈る社会」

人間のこと,社会のこと,未来のこと,いろいろと考えたことを書きます

究極の選択

2017-10-25 13:25:40 | 社会問題

2017年10月24日(土)スウェーデン大使館オーディトリウムで行われた一般社団法人日瑞基金主催による第1回サイエンスセミナー、立命館大学前副総長、京都大学名誉教授の村上正紀氏による「人口減少での2060年問題に挑む立命館大学」という表題の講演を拝聴した。

日本の人口問題といえば、その減少を憂い、ますます減る若者が一体何人の老人を食べさせるのか、どうしたらもっと子を産む社会をつくることができるのか、そういう視点ばかりである。それ以外の見方はないと言ってもよいくらいである。

講演者の村上正紀氏は、京都大学卒業後UCLAに籍を置き、その後米国のIBMに勤め20年間を米国で過ごした冶金工学者である。帰国後京都大学で教鞭をとり、その後立命館大学で教え、現在は“文理融合”の視点をもって、立命館大学全学プロジェクト第3期「少子高齢化に対応する社会モデル形成」を進めている。

まず私が驚いたのは、「日本の人口減少は“その理想的な姿”に向かっている」との見方である。つまり日本の人口減少を、誰が誰を食べさすとか損とか得とかの視点ではなく、環境問題に関心を持つ人々が使う“エコロジカル フット・プリント”の視点から捉えた点である。日本人が現在の生活水準を維持するためには地球が2.3個いる。地球は2.3個には絶対にならない。1個のままである。ではどうすればよいか。日本人の生活水準を下げるか人口を減らすかである。現在の生活水準を保つと、適正な日本の人口は5800万人になる。幸いにもそちらへ向かっているではないか!

しかし、その人口で現代の生活水準が保てるのか。仕事はあるのか。国家の財政は成り立つのか?・・これらの総合的な解決のために、社会科学、自然科学、あらゆる学問を併せた全集学的なプロジェクトである。人文科学、自然科学からの様々の試みが紹介された。何より、立命館大学の校風か、京都大学の校風か、あるいは講演者の人柄か、講演が真摯で一途、また強い熱意を感じ、聴いていてとても気持ちがよく好感を持った。しかし、人類社会が今どうなっているのか、今後どう動くのか、真摯と一途はとても大事だが、それだけではうまく行かないと思った。それで、講演終了後の質疑で、会場から意見を述べた。
「お話をお聴きして人口減少に対するものの見方、および真摯で一途なご講演に同意し、強い好感を持ちました。しかし、現代の社会の状況で気付いていないと思われる点があるので、それを述べさせていただきます。私は、65歳を過ぎた老人ですが、今日この会場を見渡すと失礼ながら若者はほとんどいない。私が一番若いんじゃないかと思うくらいです。

今の若者が何と言っているか。

もちろん若者全部ではないが、ブログやMLで若者の声を聴き、質疑応答をやれば見えてくるものがあります。

・・・日本は人口が減少する。老人ばかりになる。しかしその問題の解決は非常に簡単だ。国は、70歳以上の老人には生活費の支給は一切しない。福祉的な援助も一切しない。むろんお金のある人は自分のお金でいくつまで生きようと、どう生きようと構わない。しかし、生きてゆくだけの資産のない人、親戚縁者、関係者の誰も助けない人は安楽死をしてもらう。今後人間社会に役立たない人、社会に負担をかけるだけの人、それゆえに現在もお金がないし今後も入る見込みがない。そんな人は消えてもらうのが世のためである。・・・

こう言っているのですよ。

この主張に対して、私が、人間には思考力も意思もある。70歳になってこの世も飽きた。そろそろこの世とさよならしたいと自ら思う人もいるかも知れない。しかし、仮にいてもそれは10人中せいぜい1人だろう。10人中9人はお金がなくても生命ある限り生きたい、生を全うしたいと思うだろう。その人たちの意思はどうなるんですか。その若者は、では貴方はどうしろというんですか。若者に、縁もゆかりもない赤の他人の老人、日本社会の寄生者のような人の面倒を見続けろとでも言うんですかと、私に問い返しました。


講演でお示しくださったグラフのように、一部の若者はそんな考えを持つかもしれないが老人の比率はどんどん増えている。老人が増えるから、そんな若者の意見は取り上げられないと楽観視されるかもしれませんが、決してそうではないのです。問題は、自分で働いて得た金(収入)は自分のものであり、なぜ他人のために出さなくてはならないのかと言う疑問が、人類社会に表面化してきていることです。老人だってお金持ちは、同じことを言うでしょう。なぜ老人になっても蓄えがないのか。それは若い時に怠けてきたからだ。そんな人をなぜ助けなくてはならないのか。老人も金持ちは、先の若者と同じことを言うでしょう。表向きには声に出さなくても、内心ではそう思う人が増えるでしょう。老人の数の多いことは助けにならないのです。要はものの考え方です。自分の富を他人のために使うこと、それが許せない社会になってきていることです。欧州では移民排除の極右政党が著しく伸長し、スウェーデンなど高い税と福祉の北欧も例外ではありません。弱者への福祉や特権を許さないと言う日本のヘイト・クライム、米国のトランプ大統領でさえ、クリントンを富裕者、既得権益層の代弁者と見立て、それへの抵抗者だとの振りによって当選したと私は見ています。世界の潮流だと思います。
スライドでお示しくださった自然科学による素晴らしいブレイク・スルーが絵に描いた餅で終わった時、先ほどの若者の主張はすぐにも現実化すると私は思います。ご講演で素晴らしい言葉がありました。「文理融合」という言葉です。自然科学がいくら発展しても、人間とは何か、人間社会とは何かが分からなければ、その発展した自然科学によって人間は滅ぼされると、私は思います。

上記について翌日メールで意見交換をした。村上氏は、私の指摘を聴いて過去の「姨捨山」を思いだしたとおっしゃった。私はそれに合意した。

昔は、精一杯努力しても、助け合っても生物として生きていくこと自体が難しかった。そのことが身体に染み付いた人間は、次世代の人のために自らが死を選んだ。悲しいがその時代はそれが現実だったのだろう。それゆえに、人間はそんな悲しみを減らすために日夜働き、科学(学問)を発達させた。現代が姥捨山になったら、何のために科学を、学問を深めたのか。人類が日夜働き営々と積み上げてきた文明、学問、科学・・これらの総てが涙を流すだろう。

 今、私が書き上げた論考、生物学と哲学を統合した論考、私がこの世に、次世代の人類に残したい、私の生涯をかけたまとめである。まさに、この講演会でのやり取りで垣間見た世界の現代人類の潮流、その流れを変える答えも示唆している。

まだ案の段階で、いろんな方に見ていただいている最中だが、出版となったら、このブログでも紹介したい。

 クリックお願いします。

      


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする