森中定治ブログ「次世代に贈る社会」

人間のこと,社会のこと,未来のこと,いろいろと考えたことを書きます

PCR推進に関する一つの提案と考察

2020-10-17 16:13:59 | 社会問題

埼玉県では、県が主体となり、埼玉県河川環境団体連絡協議会(埼河連)が協力して、毎年2月に県内の河川に関わるNPOが一堂に会する「川の再生交流会」が開催されます。
埼玉県は、県の総面積に占める河川の面積が3.9%で日本一、同じく道路の占める面積が6.8%ですから、道路の面積には及ばないもののそれに近い川の面積を持ちます。環境問題に力を入れた上田前知事以来、河川を埼玉県の環境向上の大きな目玉にしてきました。
来年度(2021年)は2月13日(土)にさいたま市のホールで開催の予定ですが、新型コロナの問題があり例年通りの開催ができるのかどうか、行うとしても参加人数や集いの進め方、あるいはZoom等で行うのか、それとも中止にするのか、抜本的な対応が必要です。10月6日に県、埼河連及びNPO有志が集まって、その第1回の会合が開催されました。
私は、「綾瀬川を愛する会」の代表として参加しましたが、その席で参加者全員の事前のPCR実施を提案しました。その費用は、県に特別予算を組むようお願いしました。
去る10月10日にはさいたま市市内の劇団「ミュージカル座」で62人のクラスターが発生しました(見出し記事)。当然ながら検温やマスク着用、社会的距離は相応に配慮されていました。要は、たった一人の無症状の感染者がその集いに混じれば、クラスターが生じます。

ですから、対策はただ無症状の感染者を見出せばよいだけなのです。
その無症状の感染者をどうやって見つけるのか?
開催日直前にPCRを実施して、その陽性者を外せばよいだけです。
この提案は、数名の参加者から即座に否定されました。

謂く、偽陽性、偽陰性が生じる。差別につながる・・。
人間のすることは完全ではありません。
偽陽性、偽陰性は混じるかもしれませんが、検温だってそれは同じです。検温で37.5度以上の人を不参加にしても、その方は他の理由で体温が高いのかもしれないし、逆に体温37.5度未満でもコロナの人が混じっているかもしれない。
差別につながるとは・・!!
陽性反応が出た人を不参加にすることが、どうして人種差別やLGBT差別と同じなのでしょうか?
検温で、体温37.5度以上の人を不参加扱いとすることを差別だという人はいないでしょう。それと何が違うのでしょうか!
僅かにこんなやりとりがあって、すぐにここは「川の再生交流会」の具体的な内容を検討する場であって、コロナについて議論する場ではないという主張が出て、それでこの話は終わってしまいました。

フランスでは、9月には感染者が1日1万人を超え、現在では3万人を超えています(下の記事も参照)。
https://news.yahoo.co.jp/byline/saorii/20201016-00203244/
なぜ1日に3万人もの陽性者が見つかるのでしょうか?
それは、1日に20万件ものPCRがなされているからです。北京では1日100万件、米国ではトランプ大統領が4月末の時点で1日に500万件を目指すという数字を挙げています。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020091700707&g=soc
日本はこの10月の状況では最大で5万件、米国、中国、フランスと比べて桁違いに少ないのです。今年4月末の時点で、OECD加盟の36カ国中35番目でした。

https://news.yahoo.co.jp/byline/takahashikosuke/20200430-00176176/

その時から、この順位は大して変わっていないのではないかと想像します。トランプ大統領は1日に500万件を目指すとアピールをしました。では、日本の首相は1日何件を目指すと言ったのでしょうか?

私はついぞそれを聞いた記憶がありません。
種々の政治団体やその他様々の有力団体が各地の首長に、PCRを増やすよう要望書を提出します。要望された各首長もそれを有り難く受け取ります。埼玉県でもPCRを増やすことには前向きです。

でも私は、海外と対比すれば実質的にはほとんど増えていないと思います。それらの行為はまず入り口の意思表示、いわば一種の儀式であり、それだけでは十分ではないように思います。
我々の提案のように、PCRを実際にどうやるのか、その具体策が最初の意思表示と一体になってこそ、抜本的にPCRを増やすにはどうしたらよいかという、次の行動につながるのだと思います。市や県や公共機関が主催する集い、GoToトラベルもGotoイートもPCR実施を前提にすればよいでしょう。これでこそ、Gotoキャンペーンへの安心感も高まるでしょう。そしてその費用は、いつでもどこでも希望に応じて実施できるように、国や公的機関が持つようにすべきです。
そしてこれは日本における、新コロナウィルスに対する具体的な対策の新しい一歩を踏み出すことなのだと思います。

我々の提案は、その場で即座に否定されました。
でも最初はそういう目に合うものだと思っています。
おそらく具体的な集いにおいて参加者全員がPCRを事前に実施すべきというような提案は、日本で初めてだと思います。

日本で初めて・・、そういう前例のない提案は、いわば目の前にそびえる大きな壁です。そんな壁を眼前にすれば、革新的な人ですら身構えるのでしょう。我々も、理由にならないような理由で剣もほろろに否定されました。
でも、こういう試みを数回繰り返せば、どこかで必ず日の目を見ると思います。
そうやって、人間は壁を打ち破っていくのだと思います。
日本社会の壁を破ろうとする我々の提案は、実りはしなかったけれども、大きな一歩を踏み出したと考えています。

 

 

 

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コロナ風邪と緊急事態宣言

2020-04-09 22:58:40 | 社会問題

2020年4月7日に発令された緊急事態宣言が一体何を目的としているのか、私にはそれが不明瞭だ。私なりに見るとまるで「コロナ狂躁曲」だ。狂躁曲のビートに乗ってみんな踊り狂っているかのように感じる。
感染者の咳による飛沫は約2m。誰が感染者か分からない。だから他人とは常に2mの距離を維持せよ!他人との接触を80%減らせ! モデル式による計算結果をそのまま人間社会に当てはめればそうなるのだろうが・・。

コロナウィルス1粒たりとも吸わない、触れない。私には、皆これを目標にしているかのごとく、血走ってきているように見える。それに従わない人は白い目で見られ指弾される。このままでは、それは、これからもっとエスカレートして行くだろう。目に見えないウィルス危機、それにはそれ相応の対策が必要であることはよく理解できる。しかし、お互いを敵視し指弾し合う相互監視社会にしてはならないと私は思う。『天敬愛人』を説いた西郷隆盛は「我が誠の足らざるを尋ぬべし」と言った。我々は、政府の出した政策や社会の動きを注視することは必要であるが、それだけではなくウィルスに対する自分自身への対応についても同じように注視する必要があるのではないか。

コロナウィルスは、感染者の咳だけではなく呼吸そのもの、つまり吐く息からも出ている。感染者の呼吸から水分と一緒にウィルスが出て周辺の気中を浮遊しているのだろう。その参考事例を以下に示す。

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3月のある夜、友人3人と食事をした。別のグループに、後に感染者と分かる知人がいた。自分と知人の距離は複数の人を挟んで3~5メートル。互いの席で、会釈程度のあいさつをした。店内では従業員らが動くから空気も動く。離れていても感染するのかもしれない。トイレには行っておらず、ドアノブにも触っていないので、接触感染の可能性は低いと思う。(福井新聞 2020.4.10)https://this.kiji.is/620895554607481953

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感染者が触ったドア、エレベーターのボタン、エスカレーターの手すり・・、活性化している時間はそれぞれ異なるけれども、あらゆる場所にウィルスがいると考えた方がよいだろう。そんな状態で、どのような対処をしてもウィルスを1粒たりとも吸わない、1粒たりとも触れないを目指すのは現実を無視した架空の目標のように思う。
この自然界には、様々なウィルスが無尽蔵にいる。人間は日頃それを吸ったり、触ったりしている。でも何ともないのは、それらと共生しているか、あるいは無害化しているからだろう。いくらかは吸いこんでも病気を起こさない身体にすることがまず大事であろう。つまり体内で人為的に撃退することと、自己免疫を強化して無害化することが重要だろう。
コロナウィルスが病気を発症させるまでに3、4日の潜伏期がある。この3、4日、ウィルスは何をしているのだろうか。まさか休暇をとって遊んでいるわけではないだろう。最初に人の身体に付着した幾らかのウィルスが細胞の中に入り込み、細胞を工場にように使って次々と子どもを産み出し、それを工場の外に出す。細胞の外に出た子どもは次の細胞に入り込む・・。このようにして、人が体調がおかしいと感じるまでに増殖するのだろう。ある場所でそこが満杯になるまで増殖し、気管を通って肺にこぼれ落ちる。治療薬のない現時点では、免疫力の落ちた老人はウィルスが肺に入ってそこで増殖が始まればもはや回復は難しいだろう。
ではそのある場所、つまり最初に増殖する場所とはどこだろうか。どこから肺に落ちるのだろうか。論理的に考えればすぐ分かる。それは喉(咽頭)だろう。
昼間、咽頭で増殖を始めても3度の食事で大量の固形物や飲み物と一緒にウィルスの多くは胃に落ちる。だから増殖は進み難いだろう。つまりウィルスの増殖は、夜間、人が寝ている間が勝負だろう。しかも睡眠中は体温が下がりウィルスの増殖には願ってもない時だ。そして喉で一気に増殖したウィルスの一部が、気管を通って肺に入るのだろうと私は推測する。
だから私は、深夜2−3時、例えばトイレに起きた時にお湯でうがいをする。それで喉で増殖中のウィルスを一掃し、あとは暖かいお茶かお湯をうがいしながら飲みこんで、残りのウィルスを胃に流してしまう。次々子どもを消せば新しい工場は作り難く、古い工場は疲弊しアポトーシス(滅死)を起こして分解しウィルスもろとも遺伝子は断片になる。ほぼ毎日定時に食事とうがいをすれば、これでウィルスの増殖に対する防衛はかなりできるのではないかと、私は考える。
私は医学者でもないし、ウィルスの専門家でもない。異分野の生物学者だ。でも、自分なりにこの程度の推論はできる。社会の取り決めにはもちろん従うがそれだけではなく、自分の見出した推論に従って、自分自身の身体に対してもできる限りの対処をしていきたい。

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日本のトランプ N国党首・立花孝志

2019-10-12 14:31:28 | 社会問題

私の暮らす埼玉県の参議院補欠選挙で、本命候補の前埼玉県知事・上田清司氏に対して、N国党首の立花孝志氏が夏の参議院普通選挙で当選したばかりの参議院議員の職を辞して、改めて埼玉県参議院議員補欠選挙に出馬した。


同じ参議院議員であるし既に当選しているのに、どうしてわざわざこんなことをするのだろうと不思議に思った。N国は比例代表で彼一人が当選しただけである。彼が職を辞せば2位の者が繰り上がるからN国の国会議員1名は消えることはない。だからもう1名増やしたいのだろうと思った。しかし、負ければN国の国会議員数は減らなくとも自分自身は失職するのである。当然ながら上田氏に勝てる公算がなければそんなリスキーなことをわざわざしないだろう。

上田氏は、先の埼玉知事選で国民民主の議員を辞して立候補した大野氏を応援した関係で国民、立憲が支援する。自民は、今度は対抗馬を出さず、上田氏の出陣式には自民党議員が応援に参加した。野党と自民の相乗りに見える無敵の大本命である。

N国は「NHKをぶっ壊す」がスローガンでもあり、またそのワンイシューの政党であった。しかし今度の補選でのスローガンは「既得権益をぶっ壊す」である。そしてホリエモンに協力を要請した。


これで分かった。


一般にはとてもリスキーな行為と見えるかもしれないが、世界の潮流を見れば十分に勝つ公算があることを示している。潮目の変わった流れがひたひたと押し寄せるその音が、このN国党首にもホリエモンにも聞こえるのだろう。


上田 vs 立花。この構図をあえて言えば、上田清司氏はエスタブリッシュの代表と例えられるだろう。既得権益に守られた財界、既得権益に守られ安定した生活の労働者(連合)、裕福な人たち、上流階級、言わばクリントンである。立花孝志氏は言わばラストベルトを代表する。既得権益を受けられない落ちぶれた中年、どれだけ働いても楽にならない若者・・。立花氏は「既得権益をぶっ壊す」と言った。トランプと同じ。私には、この補選にこの構図が見える。米国での勝利は「よもや」のトランプだった。


2019年10月11日のニュースで、クルド人に対するトルコの軍事行動の停止を求めたEUに対して、トルコのエルドアン大統領が「我々の作戦を侵略と呼ぶなら、ドアを開けて360万人のシリア難民をあなたのところに送る」と発言した。


貧困の移民や難民は受けれたくない。トランプが築くメキシコ国境の壁も、広くEUで難民排除の極右政党が台頭するのも同じ。縁もゆかりもない他人を、なぜ俺たちの金で食わさねばならないのか。高額の税金を納め、あらゆる面で行き届いた福祉社会を築いてきたスウェーデンでさえも今や同じ。縁もゆかりもない、赤の他人の食べていけない老人や障害者、弱者を俺たちが働いて苦労して手に入れたお金でなぜ食わさねばならないのか。N国の立花党首もホリエモンも同じだと私は思う。次は安楽死政党が出て来るだろう

人間は誰もが生きる権利がある。誰もが平等であり、誰もが同じように幸せを得る権利を持つ。誰の生命も同じ。


こういった主張は、それを総ての人が当たり前だ!理由などいらない!と論拠なく肯定する場合には大きな力を持つ。人間が王様や領主の所有物であった封建時代から人類は脱出し、「我思う 故に我あり」と言ったデカルトやホッブスやロック、ルソーといった哲学者が生まれた近代から今まではそうであった。それを疑う必要のない大前提として、論拠など不要の大前提として様々な社会理論が生まれた。しかし、そう考える人が人間総数の半分以下になれば事情は変わる。そういう潮流が米国にも、欧州にも、世界に押し寄せている。日本においても同じ、その嚆矢が津久井やまゆり園で起きた相模原障害者施設殺傷事件だと私は考える。その潮流を元に戻すために、潮流のブレを是正するために、我々はその論拠を改めて考えねばならない時に来ていると思う。


トランプ現象。立花現象。同じである。
よもやとは思うが、埼玉でのこの参議院補選でN国党首、立花孝志氏が勝ったら、日本にも押し寄せてきた潮流の変化が目に見えるようになるだろう。

 



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桎梏“動物性”の一歩先へ『万引き家族』

2018-07-16 10:25:36 | 社会問題

私の専門は分子系統学です。カザリシロチョウという東洋からオーストラリア、ニューギニアに生息するチョウ類(昆虫)を対象として、近縁性を調べ系統樹を書きました。“系統”とは、生物間の血縁の遠近を表す言葉です。(犬と人)、(猿と人)ではどちらの血縁が近いかと問われれば(猿と人)の方が(犬と人)よりも近いと分かります。その通りです。誰もが直感的に分かります。では、(犬と人)、(牛と人)ではどちらの血縁がより近いかと問われれば、これは直感では分かりません。現代では、この生物間の関係を分子生物学を用い、DNAの塩基配列をデータとして推定できるようになり、かなり精密に系統樹を描くことができるようになりました。つまり生物学として、生命の進化の歴史を高い精度で復元できるようになりました。

この純然たる生物学研究から始まって、私の関心は生命の単位つまり“種”に広がりました。生物の種とは何か?長い論争の歴史があり、現代でも確定した答えは有りません。生物学(自然科学)だけでは答えることができない、哲学が必要だからだと私は考えています。この種とは何かといういわゆる“種問題”に私なりの答えを見出し、これが現代の人間社会における貧富の格差、私有と公共、税の論拠など人間の幸福につながる核であることを見出し、生物学、哲学、社会科学を統合した論考『種問題とパラダイムシフト』を書き上げました。私がこの世に生を受けたその目的を果たしたと考えています。この一つ前のブログに書いたアイン・ランド著『水源』も私のこの論考につながります。今回の『万引き家族』も同じです。

家族は、父と母とその両親、そして父と母から生まれた子ども、その子どもの子ども、つまり孫・・これらの人々から成り立っています。つまり生物学的には最も濃い血縁の集団です。部族、民族も血縁の集団です。人種・・・白色人種、黒色人種、黄色人種なども血縁集団です。戦争は多くの場合、この血縁集団間で起こります。動物のもつ桎梏、逃れることの出来ない桎梏、それが血縁です。人間も動物です。繰り返しになりますが、人間の家族は桎梏である血縁で成り立っています。

この映画、2018年第71回カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した是枝監督作品『万引き家族』は、人間が動物であるがゆえに逃げることのできない桎梏への反逆を表現しているかに見えます。この家族6人に、普通の家庭のような血縁を持つ人は一人もいません。けれどもこの6人は皆好きあっています。それが映画の中の何気ない会話や日常から伝わってきます。腕に火傷の跡をつけた女児、その家庭から連れ出してこの家族に加えます。家族の年長者であるお婆さんが死にます。しかし、この家族はそれを役所に届けず、家の下に埋めてしまいます。葬儀の費用がないためか、年金をそのまま継続するためか・・・家族全員の合意です。

それがバレて、家族の母親が総ての罪を一人で被ります。警察内での尋問で彼女は「ここには家族の喜びがあった。苦労はしたけれど、おつりが来るほど幸せだった」・・。この家族は、動物性に由来する血縁の桎梏から離脱した有りえない虚構の家族のように見えます。しかし、そうではありません。“理性”による穏やかな喜びがあります。生々しい血縁に基づく喜びの他に人間は理性的な喜びをもっています。この人間としての理性的な喜びによって、濃い血縁の桎梏を緩和し希釈し、その一歩外側へと踏み出しているのです。動物的な桎梏の外側に踏み出すこと、これこそが人間の真の姿ではありませんか。江戸時代のいわゆる“長家”、ご隠居さんがいる。行き倒れの子どもを連れてくる。長屋の住人総てが一つの家族・・・直接の血縁だけではなく、見ず知らずの人も含めて血縁が外側へ広がったのです。

これは、ある意味では未来の人類の社会形態を先取りしています。人類の貧富の格差は、今後ますます広がるでしょう。食べていくことのできないさらに多くの貧困者、難民が世界中に生まれ移動するでしょう。人間の持つ私有の基本概念、つまり自分が稼いだ富は本源的に自分の所有物である。それを貧しい人に分け与えることは望ましい。しかし個人の意志の限度を超えそうしたくない人にまで、それを強制することは間違いである。この論理に対抗できる論拠を未だ人類は持たないからです。美しい理念やこうあって欲しいという願望は、それぞれの個人の思考であって個人に属するものであり、過半数の個人がそう考えなければ、絵に描いた餅、蜃気楼だからです。美しい理念を多くの人が美しいと認め強い意志を持って積極的に共有しない限り、貧富の格差の進行を止めることはできません。それぞれが心の中に持つ架空の観念を、他人に強制することはできないでしょう。無理にやれば建前と本音の著しく乖離した嘘の人間社会を生み出すでしょう。

人間はそれぞれが分離し、それぞれが独立した個人です。個人の意思は尊重されねばなりません。これはとても大事なことです。しかし、それと同時にまた人間は繋がった一つです。この事実、理念や願望などの個人の観念ではなく“事実”が人類を救うと私は考えます。それを記述した論考『種問題とパラダイムシフト』が、この第71回カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した『万引き家族』に顕在的な明確な論拠を与えると私は思います。

このブログは春日井治さんの随筆『ベランダ植物界』No.121「異常なのに、まともな『家族』」(2018.6.27)を参考にさせていただきました。

http://www.geocities.jp/ocme6904/profile.html#121

御礼申し上げます。

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アイン・ランド『水源』書評

2018-06-17 19:00:19 | 社会問題

私の半生をかけた論考『種問題とパラダイムシフト』が完成し、4月7日(土)東京大学中島ホールで行った市民シンポジウム「次世代にどのような社会を贈るのか?」の今年のテーマとして議論しました。私は昆虫(チョウ)を材料とした分子系統学が専門で、そこから種問題や生命論に広がりました。人間とは何かと言った哲学や人間が織りなす社会問題、人類の未来などには以前から深い興味を持っていたので、私が考えたことを核としてそれら総てを統合した論考となりました。言わば、私がこの世に生を受けた目的とも言える作品です。

その論考は、個体と種の関係について考察したものです。それを社会に当てはめればリバタリアニズムとマルキシズム(コミュニズム)の関係とも言えるかと思います。私はリバタリアニズムに関する本は読みましたが、リバタリアニズムの専門家ではありませんので、その内容についてはリバタリアニズムの権威である森村進先生(一橋大学)に目を通していただきました。

この論考にある人から、あなたはリバタリアニズムについてあれこれ述べているが、リバタリアニズムの原点とも言えるアイン・ランドの『水源』についてどう考えますか?という質問をいただきました。読んでいなかったので曖昧な返事をしました。その方はフェイスブックで自分の母親を毒親などと言っているので『蕁麻の家』3部作を読んだことがありますか、読むと母に対する考えが変わるんじゃないんですかと私も彼に言いました。その後読まれたかどうか知りません。

そのような事情で、5月からこの『水源』を地元の戸塚図書館で借りて読み始めました。1000ページを超える大作です。1回の貸し出し期間が2週間、3回借り直しました。もう1回は必要と思いましたが、最後の方で面白くなって一気に進み3回で読み終えました。

主人公のハワード・ロークは建築物の設計者で、設計図を描くことつまり構想を産み出すことが仕事です。時は1920−30年頃、物語は1922年にロークが大学を退学になったところから始まっているので世界恐慌直前の嵐の前の静けさの米国が舞台です。この小説は、1998年の「20世紀の小説ベスト100」で第二位になっています。著者ランドの小説(思想)は米国の知識層に熱狂的に受け入れられ、その中には連邦準備理事会(FRB)のグリーンスパンなどもいます。米国の学生や知識層の常識のようです。しかし7年がかりで書かれたこの小説は、12の出版社に拒絶され1943年に出版されましたがすぐ絶版となったようです。当時の米国上流社会がどのようなものであったか想像されます。

私の率直な感想は、非常に素晴らしい小説だということです。総てではないにしても、人間の真実を抉り出しています。この小説の舞台となった米国の上流社会、米国には貴族はいませんから財をなした人たちが形成する階層、そこを支配する通念、キリスト教の影響もあるのでしょうが、それは「利他」です。他人に施す恵み、どれほど他人に施したか。利他性こそが人間の美徳であり、最上の人間の証であるとの通念に支配されています。逆に「利己性」は忌むべき性質です。自己中心的な人間であるとの評価は社会から抹殺されるに等しい。

人間は利己性を持っています。修行を積んでそれを穏やかに自己抑制(縮小)する力をもつことは可能かもしれませんが、それを消し去ることはできないと思います。米国でそんな修行がなされたとは聞いたことがありません。だから誰もが抑制されてはいない利己性を持ちながら、表面は利他性を尊ぶ人間関係が出来上がります。これは偽善そのものです。〇〇夫人はあのチャリティーで○万ドルを惜しげもなく寄付したとか、人道主義それが人間の格、存在意義を決める基準になります。他人は自分をどう見ているか、それこそが自分の価値の基準になります。

著者のアイン・ランドは、このような人間社会のあり方に疑義を呈しました。単に疑義を呈しただけでなく、非常に重要な人間社会の本質に関わる指摘をしました。

同じ建築学部の友人であるキーティングとローク、キーティングは誰とも仲良く、教授の覚えもめでたく、学生自治会の会長であり、アメリカ建築家協会から金賞を受け卒業式に集った総ての羨望の眼差しを受けるのに対し、ロークは自分の考えをひけらかしもせず他人の考えに同調もしません。そして学部長に受け入れられる返事をせず、その同じ朝に大学を退学になります。
それからもずっと二人の関係は続いていきます。キーティングは社会から称賛を受ける陽のあたるところを歩き、一方ロークは陰の部分を歩きますが、途中で逆転します。ドミニクという女性も独特であり、彼女を挟んだ二人の関係もまた独特であり、私自身もこれが米国社会の実態なのか?!と驚くくらい、深い面白さを持つ小説です。

キーティングは、政府の貧困者対策のための廉価な住宅、単位あたり○ドルの住宅設計にチャレンジします。しかし自分の力ではどうあってもそれを設計することができません。最後に彼はロークを訪れその設計を頼みます。ロークはキーティングの気持ちを分かっていて、彼が設計したことにしてまた一切の名誉も金もキーティングのものとして設計します。キーティングは設計料の全額をロークに渡すよと申し出ます。ロークは金が欲しくないことはわかっているだろうとキーティングに言葉を返します。ロークの条件はただ一つ、その建物がそのまま世に出ることつまりこの世に生み出されることです。そして二人は契約を結びます。キーティングはその設計図によって社会の称賛を受け、建築を始めたものの政府などの要望によって、建築を一部改変せざるを得なくなります。建築の途中でロークが見たものは約束を違えているものでした。ロークは夜間にそれをダイナマイトで爆破します。

ロークは社会から指弾を受けます。二人は学生時代からの知り合いだというじゃないか。ロークのやっかみか。貧困者を救う崇高な行為になんという自己中心的な男だ!擁護者の新聞社社主も含め社会から抹殺されようとします。しかし、ロークとキーティングの契約が表に出て、裁判の陪審員の前でロークは陳述します。

「人間の格は利他性で決まる。どれほど他人に与えたか、それで人間の格が決まる。それが今の社会です。しかしもっと大事なことがあります。それを忘れています。与えるものを生み出すことです。生み出されていなければ与えることはできません。つまり創造者です。創造者は自分の仕事のために生きます。創造するとき他人を必要としません。人間の精神は他人ではありません。自分自身しかありません・・」ロークはプロメテウスの話をします。「プロメテウスは罰を受け、ハゲワシに腹を裂かれました。なぜか。神から火を盗み人間に与えたからです・・」こうして、ロークは無罪を勝ち取ります。

「利他性」という名の下に偽善が支配し他人の評価によって自分の価値が決まる社会も、アイン・ランドが同意し望んだリバタリアニズムが変形特化して新自由主義の形で現れた現代の米国社会も、どちらも人間が目指す真の社会とは私には思えません。

分け与えることができるもの、それは生産物です。それはとても重要です。生産物がなければ人間は与えることが出来ません。自然を切り出し、加工することつまり労働によって生産物が生まれる。マルクスと重なります。しかし、マルクスが言っていないこと、見落としたか無視したか、それがここで主張されます。生産物を初めてこの世に生み出したその価値です。アイン・ランドはこの小説を水源(The fountainhead)と名付けました。人間の労働によって生産が始まりますが、生産の始まる一番最初、発起点です。日本語では「開闢」と言ってもいいかと思います。社会主義者は労働価値については述べるけれども、創意や生み出した価値を議論しません。無視しているようにすら思えます。それを無視することは美しい理念に目を奪われ人間の心を見過ごすことであり、利他という名の下に偽善の社会を作ることだと私は思います。偽善を美しい人道主義として人間に強要すればどういうことになるでしょうか。本音と建前が入り混じり融通が効かず柔軟性のない暗闇の社会になると、私は思います。

アイン・ランドはロークに自分の主張を語らせます。創造は個人の業であり、個人の意志こそが大事だと言います。しかし、それを総てお金に換算して独り占めせよとは言っていません。ロークは設計はお金のためだ、お金が欲しいとは一言も言わないのです。ランドは素朴な公正感しかもっていません。大金持ちを産み出し想像すらできないような貧富の格差を産み出す現代のグローバリズムとアイン・ランドのリバタリアニズムは合致してはいません。人類の未来を考えるに当たって、リバタリアニズムとマルキシズムが心を開いて議論をするべき時が来ていると私は思います。

論考『種問題とパラダイムシフト』は、まさにその議論そのもの。個体と種、リバタリアニズムとマルキシズム(コミュニズム)、その両方を重ね持ったもの、それが人間です。その証明を試みています。

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究極の選択

2017-10-25 13:25:40 | 社会問題

2017年10月24日(土)スウェーデン大使館オーディトリウムで行われた一般社団法人日瑞基金主催による第1回サイエンスセミナー、立命館大学前副総長、京都大学名誉教授の村上正紀氏による「人口減少での2060年問題に挑む立命館大学」という表題の講演を拝聴した。

日本の人口問題といえば、その減少を憂い、ますます減る若者が一体何人の老人を食べさせるのか、どうしたらもっと子を産む社会をつくることができるのか、そういう視点ばかりである。それ以外の見方はないと言ってもよいくらいである。

講演者の村上正紀氏は、京都大学卒業後UCLAに籍を置き、その後米国のIBMに勤め20年間を米国で過ごした冶金工学者である。帰国後京都大学で教鞭をとり、その後立命館大学で教え、現在は“文理融合”の視点をもって、立命館大学全学プロジェクト第3期「少子高齢化に対応する社会モデル形成」を進めている。

まず私が驚いたのは、「日本の人口減少は“その理想的な姿”に向かっている」との見方である。つまり日本の人口減少を、誰が誰を食べさすとか損とか得とかの視点ではなく、環境問題に関心を持つ人々が使う“エコロジカル フット・プリント”の視点から捉えた点である。日本人が現在の生活水準を維持するためには地球が2.3個いる。地球は2.3個には絶対にならない。1個のままである。ではどうすればよいか。日本人の生活水準を下げるか人口を減らすかである。現在の生活水準を保つと、適正な日本の人口は5800万人になる。幸いにもそちらへ向かっているではないか!

しかし、その人口で現代の生活水準が保てるのか。仕事はあるのか。国家の財政は成り立つのか?・・これらの総合的な解決のために、社会科学、自然科学、あらゆる学問を併せた全集学的なプロジェクトである。人文科学、自然科学からの様々の試みが紹介された。何より、立命館大学の校風か、京都大学の校風か、あるいは講演者の人柄か、講演が真摯で一途、また強い熱意を感じ、聴いていてとても気持ちがよく好感を持った。しかし、人類社会が今どうなっているのか、今後どう動くのか、真摯と一途はとても大事だが、それだけではうまく行かないと思った。それで、講演終了後の質疑で、会場から意見を述べた。
「お話をお聴きして人口減少に対するものの見方、および真摯で一途なご講演に同意し、強い好感を持ちました。しかし、現代の社会の状況で気付いていないと思われる点があるので、それを述べさせていただきます。私は、65歳を過ぎた老人ですが、今日この会場を見渡すと失礼ながら若者はほとんどいない。私が一番若いんじゃないかと思うくらいです。

今の若者が何と言っているか。

もちろん若者全部ではないが、ブログやMLで若者の声を聴き、質疑応答をやれば見えてくるものがあります。

・・・日本は人口が減少する。老人ばかりになる。しかしその問題の解決は非常に簡単だ。国は、70歳以上の老人には生活費の支給は一切しない。福祉的な援助も一切しない。むろんお金のある人は自分のお金でいくつまで生きようと、どう生きようと構わない。しかし、生きてゆくだけの資産のない人、親戚縁者、関係者の誰も助けない人は安楽死をしてもらう。今後人間社会に役立たない人、社会に負担をかけるだけの人、それゆえに現在もお金がないし今後も入る見込みがない。そんな人は消えてもらうのが世のためである。・・・

こう言っているのですよ。

この主張に対して、私が、人間には思考力も意思もある。70歳になってこの世も飽きた。そろそろこの世とさよならしたいと自ら思う人もいるかも知れない。しかし、仮にいてもそれは10人中せいぜい1人だろう。10人中9人はお金がなくても生命ある限り生きたい、生を全うしたいと思うだろう。その人たちの意思はどうなるんですか。その若者は、では貴方はどうしろというんですか。若者に、縁もゆかりもない赤の他人の老人、日本社会の寄生者のような人の面倒を見続けろとでも言うんですかと、私に問い返しました。


講演でお示しくださったグラフのように、一部の若者はそんな考えを持つかもしれないが老人の比率はどんどん増えている。老人が増えるから、そんな若者の意見は取り上げられないと楽観視されるかもしれませんが、決してそうではないのです。問題は、自分で働いて得た金(収入)は自分のものであり、なぜ他人のために出さなくてはならないのかと言う疑問が、人類社会に表面化してきていることです。老人だってお金持ちは、同じことを言うでしょう。なぜ老人になっても蓄えがないのか。それは若い時に怠けてきたからだ。そんな人をなぜ助けなくてはならないのか。老人も金持ちは、先の若者と同じことを言うでしょう。表向きには声に出さなくても、内心ではそう思う人が増えるでしょう。老人の数の多いことは助けにならないのです。要はものの考え方です。自分の富を他人のために使うこと、それが許せない社会になってきていることです。欧州では移民排除の極右政党が著しく伸長し、スウェーデンなど高い税と福祉の北欧も例外ではありません。弱者への福祉や特権を許さないと言う日本のヘイト・クライム、米国のトランプ大統領でさえ、クリントンを富裕者、既得権益層の代弁者と見立て、それへの抵抗者だとの振りによって当選したと私は見ています。世界の潮流だと思います。
スライドでお示しくださった自然科学による素晴らしいブレイク・スルーが絵に描いた餅で終わった時、先ほどの若者の主張はすぐにも現実化すると私は思います。ご講演で素晴らしい言葉がありました。「文理融合」という言葉です。自然科学がいくら発展しても、人間とは何か、人間社会とは何かが分からなければ、その発展した自然科学によって人間は滅ぼされると、私は思います。

上記について翌日メールで意見交換をした。村上氏は、私の指摘を聴いて過去の「姨捨山」を思いだしたとおっしゃった。私はそれに合意した。

昔は、精一杯努力しても、助け合っても生物として生きていくこと自体が難しかった。そのことが身体に染み付いた人間は、次世代の人のために自らが死を選んだ。悲しいがその時代はそれが現実だったのだろう。それゆえに、人間はそんな悲しみを減らすために日夜働き、科学(学問)を発達させた。現代が姥捨山になったら、何のために科学を、学問を深めたのか。人類が日夜働き営々と積み上げてきた文明、学問、科学・・これらの総てが涙を流すだろう。

 今、私が書き上げた論考、生物学と哲学を統合した論考、私がこの世に、次世代の人類に残したい、私の生涯をかけたまとめである。まさに、この講演会でのやり取りで垣間見た世界の現代人類の潮流、その流れを変える答えも示唆している。

まだ案の段階で、いろんな方に見ていただいている最中だが、出版となったら、このブログでも紹介したい。

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U出版・自費出版と商業出版の間 ー初めての裁判(5)

2017-07-25 09:41:28 | 社会問題

(5)控訴の結果

5月31日に控訴した出版裁判について結審がでました。
(この出版裁判の発端と経緯については過去のブログを参照してください)

私と長瀬氏の敗訴となりました。

私も長瀬さんも、代理人(弁護士)も、社会の一般常識として、出資をした者、つまり金銭的なリスクを負った者がその制作物の所有者であると考えました。しかし結果としては、我々の常識ではなく覚書に書いてある通りの判断でした。
つまり、覚書には著者が100冊献本を受けると記述されており、所有者であれば献本を受けるはずはない。したがって所有者は赤○氏であるという、論理に基づく結論です。
これに対して、もしその論理で考えるなら、赤○氏もパブリシティー献本という言葉で100冊取ったのだから所有者は両者のいずれでもなく、両者に共通する架空の存在であってそこから両者が献本を受けたのではないか、そう論理付けられると主張しました。
実際に、著者が100冊献本を受けるなら、私も同じ部数をもらうよと言ってU出版社長の赤○氏がもって行ったのです。
だからこのことを言えば控訴は勝つだろうと思いました。
ところが、赤○氏もパブリシティー献本という言葉で100冊取ったのは事実だけれども、覚書にはパブリシティー献本100冊と書いてあるだけで赤○氏が献本を受けるとは書いてないのです。

最初から覚書に罠があったというほかはありません。

考えてみるとパブリシティー献本の意味がよく分かりません。出版社とか卸などに配ったのか??国会図書館じゃあるまいし、出版された本がいちいち全部献本されても出版社も卸も書店も保管に困ってしまうでしょう。私の前に同じく“U出版”で本を出した人が一人いました(私が二番目)。講演会で私が講演した時、赤○氏は受付付近にその“U出版”の本を置かせて欲しいと頼み、私はそれを了解しました。その本は、講演と関連があり相当売れたように思いました。そこで販売された本は赤○氏自身が持参した本であり、むろん卸や書店を流通していないので流通経費はありません。売上の全額が利益です。しかも制作費は著者が出していれば一切の負担なく売上全額が自分のものです。こんな虫のいいビジネスはちょっと思い当たりません。

最初のK先生のお話では、赤○氏は出版業界に顔が広いので出版社を紹介して便宜を図ってくれるということでした。大学教授や著名な人にはそうしているのでしょう。しかし赤○氏は、私に対してはどうしてもうちで出版させてくださいとお願いしました。赤○氏は絶版にして全部廃棄したと言いますが、実際大手の書店には私の本はまだ置いてあります。しかし、裁判で敗訴して所有者が彼ということになった以上どうすることもできません。6:4で利益分割の約束が全額赤○氏の取り分になります。本の中身は無論私、本の制作費も全額私、それでいて売り上げは全額赤○氏のものです。私が自分の正当な取り分を受け取るには裁判しかありません。


結論として、赤○氏のような小企業で、お金を出資してくださいという話は全て詐欺だと思った方がよいと思いました。著者の中には、とにかく出版さえすれば出資や利益のことなどどうでもよいという人もいるでしょうから、そういう人は無論のこと、社会的に発言力がないと見た人には積極的に迫っていくのでしょう。赤○氏の謳い文句である著者と出版社のコラボによる新しい出版形態 “U出版” も10冊を超えたということです。この裁判に勝ったので、これから大威張りでこのビジネスを進めるでしょう。何せポイントを押さえた簡単な覚書でスタートすればよいのです。私の場合のように、著者から権利関係が明記してあるちゃんとした契約書を結んでくれと要望が出れば、「もちろん結びます。ただし今は細かい契約書で時間を食っているより本の制作が先です。出版までには結びます」。こうしてお金を入れさせたら赤○氏のもの、「この業界でこれ以上詳しい契約書を結ぶ習慣はありません。誰も結んでいませんよ。どうしてもというならこの出版は止めてもいいですよ。ただ既に動いているので、あまりお金は戻ってきませんが・・」

何れにしても、制作物の書籍は赤○氏が持ち(倉庫代は著者に請求するが)、売り上げも赤○氏のところに入るので、どうにもならないのです。個人出版のようなところにお願いする場合には、全額を支払う前に罠のない覚書(契約書)を作らなければ出版するものではないと思いました。裁判に勝って、怖いビジネスが大手を振れるようになりました。
今後も出版することはあろうかと思います。

いい経験、社会勉強をしました。

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『永遠のゼロ』、『カエルの楽園』他へのコメント

2017-05-04 14:07:33 | 社会問題

ジブリの映画『風立ちぬ』を観て深く感動した。その映画評をこのブログにあげた。これは、言論プラットフォーム『BLOGOS』にも掲載された。しかし、一般に公開された数多くの『風立ちぬ』の映画評の中で“最も分からない映画評”というコメントをいただいた(笑)

私の映画評は、護憲派の人から「零戦という飛行機は血染めの歴史を持つ。最初は真珠湾で太平洋戦争の火蓋を切り、最後は特攻機として数多の若い生命を無意味な死に追いやった。太平洋戦争を象徴する忌むべき飛行機だ。この映画は零戦を主題にしていながら、そのことが全く示されていない。明示すべき真の問題点を避けた駄作である。あなたの映画評も、この映画と同様に零戦の歴史的な意味について全く触れていない」というコメントをいただいた。このコメントは、一つの見方として良くも悪くも私の心を刺した。

ジブリは左寄りだと思っていた。そのジブリの映画を私の映画評も併せて、その護憲派の人はここまで酷評した。

前後して、小説『永遠のゼロ』が映画となった。『永遠のゼロ』の原作者である百田尚樹氏は右翼として著名であり、左派系の集会に行くと彼は蛇蝎のごとく嫌われている。

明示すべきことがなされていないとジブリの映画ですらそこまで厳しく批判されるのなら、右翼原作の零戦映画はさらにどこまで酷いか、試しに観てやろうと思ったのが、それまで読んだことのなかった百田氏の著作に触れる切っ掛けとなった。“零戦については、〇〇と描くべし”・・。その描くべしが描かれていないと、ジブリの映画ですらここまで批判される。だがしかし、その〇〇が描かれてさえいれば立派な映画だということになるのか?それでは新しい発見や気付きが生まれるはずがないではないかと私は思う。発売後数年で『永遠のゼロ』は300万部を超え、映画にもテレビ番組にもなった。一体どれだけの人が影響を受けたかわからない。〇〇さえ描かれていれば・・という考え方それ自体に大きな問題があるように私は思う。

左派系から毛嫌いされる百田氏が零戦をどう描いたか、さぞかし敵をバッタバッタとなぎ倒す無敵の戦闘機として描かれているのだろうと思った。また国のために死ぬことこそ真の男の道だと描かれているのだろうとも想像がついた。『永遠のゼロ』には否定的な書評がたくさん出ていて、中には書評が書籍になっているものすらある。何も知らない幼子を騙し、日本の子どもに憧れさせ、日本を戦争へと導くための嘘と誤魔化しの物語だろうと思った。

そんなことはなかった。それは“純愛物語”であった。自分には生涯を共にしたい伴侶がいる。しかし特攻で自分は死ぬ。死んでなおその伴侶と生涯を共にする。今はやりの霊となってあの世から帰ってくるとか、タイムスリップではない。生身をもって、その伴侶と生涯を共にするのである。さてどう描いたか?!

著者は、零戦乗りの主人公“宮部久蔵”に「俺は自分が人殺しだと思っている!」と言わせた(講談社文庫、p.225)。一体全体、過去の軍人で、自分の行為、役割、仕事を“人殺しである”とストレートに言える人がいるだろうか。ストレートに認めることができるか。おそらく殆ど誰もできないだろう。しかし誰もできなくとも、まさにそれは真実である。軍隊は人殺しの組織であり、兵器は人を殺す道具である。人を殺すためではなく、鳥や魚を殺すための兵器があろうか。著者はこの物語において、主人公の口を借りて、まさにそれを率直にストレートに述べた。このたった一言から、著者が軍隊とは何か、その真実を見抜き、また心の奥底で平和を望んでいることがわかる。著者はまた、零戦が非人道的な機械であることを見抜き、この物語でそれを開示している。『永遠のゼロ』についての賛否両方の実に様々な書評を読んだが、著者がこの物語において真に示したものについて、それを捉え真正面から言及したものを、ついに私はただの一つも見つけることができなかった。

なぜ零戦は非人道的な機械か?それは、零戦が2000km以上もの航続距離をもつという、この点にある。むろんそれだけでは“非人道的機械”にはならない。零戦が単座であることと対になることで、それが生まれる。零戦が単座であることは誰でも知っているので、特に言葉で明示はされていない。零戦に二人が乗り込む場面はどこにもないのでそれは分かる。この両者の組み合わせによって“非人道的機械”が生まれる。プロペラ機なので、最高速度350km/h、平均250 - 300km/hで、計算上最大9時間程度は連続で飛べることになる。それで中国の奥地やラバウルで、片道3時間、戦闘1時間、帰り3時間という行程が可能となった。合計7時間、連続して空を飛ぶ(講談社文庫、p.41、p.212)。

もし生理現象が起きたら、気分が悪くなったら、睡魔に襲われたら・・どうするのか。自動車なら路肩によけて仮眠する。高速道路であればサービスエリアなど、ひととき運転を止め休息することができる。しかしただ一人で、途中で降りること適わず最初から最後まで連続して空を飛ぶのである。ふらふらっとして落ちた飛行機がどれくらいあったか、想像にあまりある。正々堂々と、同じ土俵で闘って負けるのであれば、“非人道的機械”という言葉はそぐわないだろう。たとえ敵戦闘機に比べて大幅に性能が劣ったとしても、それは“性能が劣った機械”というだけで、“非人道的機械”とは言わないだろう。しかし、生身の人間が独りだけで、7時間も8時間も空中にいることを可能にした機械、闘った結果負けて死ぬのではなく、生命があるが故に、生身であるが故に死ぬ。これを非人道的と言わずして何を非人道的というのか。この物語、『永遠のゼロ』がこの世に出なければ、零戦に隠されたその深い罪、心に刻むべき点について私は知ることがなかっただろう。この物語がなかったならば、零戦の真に忌むべき点について知ることはなかっただろう。零戦について様々の主張や指摘がある。しかし、この物語ほど深く零戦に対する指弾と告発を行ったものを、私は知らない。

次に、『風の中のマリア』という小説を読んだ。これは、オオスズメバチの生態を擬人化した小説で『永遠のゼロ』のような感動はなかった。しかし迫力満点の作品で、あっという間に時が過ぎた。私は生物学者なので、エンターテインメントとしてとても面白い良い作品であった。

『カエルの楽園』は、書評がほとんど見当たらない。左派系の人は殆どが、この物語を無視すると言われる。私は、『コスタリカに学ぶ会』に入って、月に1、2回いろんな議論をするが、やはりそこでもこの物語が話題になったことはない。読んでみて、やはり『風の中のマリア』と似て『永遠のゼロ』のような深い感動はなく、しかし『風の中のマリア』ほどのボリュームもなく、あっという間に読み切った。この物語は、現代の日本社会の情勢を背景として、憲法9条をとても大事なものとする護憲派の考え方を批判した著作である。批判は批判として冷静に受け入れ、おかしいと思われる点については、反論すればよい。2016年2月に出版され同5月には優に10万部を突破している。図書館で借りたが数十人の順番待ちであった。

私はやはり“コスタリカに学ぶ会”で話題になったYoutubeの『Kazuya Channel』について自分のブログで真正面から受け止めた上で、批判をしたことがある。

この物語は、人類の未来においてとても重要と思われる憲法9条について批判をしているのであるから、護憲派の人がどうしてコメントしないのか、どうして無視するのか私にはわからない。まさか、この著作の内容に反論できないのではないだろうが。

この物語で、私が手を止めたのは、スチームボートという名のワシが「お前たちカエルどもが自分の国とかよその国とか言っているが、馬鹿馬鹿しい限りだ。この世界は全てわしの監視下にあるのだからな」(新潮社、p.74)というセリフだ。狭いところしか見ない視野狭窄から、視点を高く大きくもてば、自分の国だ、よその国だと騒いでいるのは馬鹿馬鹿しい。

まさにその通りである。その局所しか見ない目、局所しか頭にないことが人間を殺し合いへと導く。まさに馬鹿馬鹿しい限りである。なぜもう少し長い時間で考えないのか。なぜ交渉相手に敬意を払い、友情を持って譲りあおうとしないのか。なぜ初めから疑い、喧嘩腰で接するのか。

この著作には、以下の“3戒”が固く遵守されていることによって平和が保たれているとされる、ツチガエルの国“ナパージュ”が登場する“ナパージュ”とは我が国“日本”のことであり、“3戒”とは現在の平和憲法の比喩であろう。

“3戒” 1「カエルを信じろ」 2「カエルと争うな」 3「争うための力をもつな」

明示された“3戒”のうち最初の“1.カエル(人間のこと)を信じろ”は人類の未来にとってとても重要である。疑いの心、喧嘩腰の態度で折衝してうまくいくだろうか。相手を見下したり、喧嘩腰は、いかに言葉は丁寧でもそれは相手に必ず伝わる。交渉がうまくいくはずはなかろう。ハンドレッド(著者の代弁)も、ウシガエルには敬意を払わないが、ワシには敬意を払っているではないか。“3戒”のうち2つ目の“2.カエル(人間)と争うな”はおかしい。護憲派の人でこんなことを言う人はいないだろう。主張が違い、見方が異なれば堂々と争えばよい。ただし暴力で、殺し合いで争うなと護憲派の人は言うのである。どちらに理があるか、冷静に、敬意を持って、同じ人間としての意思とそれが形となった言葉と態度で争うのである。ワシもヒキガエルも人間の比喩である。別種であれば喰われることもあり得るが、この物語ではアマガエルも、ツチガエルも、ヒキガエルも、ワシもどれも国を表す比喩である。同種であり、実際には喰われることはない。“3戒”のうち3つ目の“3.争うための力をもつな”もまたおかしい。護憲派の人がこんなことを言うはずはない。著者は“3戒”において、護憲派の人を大きく誤解している。争うための力は持っていいと、護憲派の人の殆どは言うだろう。護憲派の人は、人間同士が殺しあう道具、これから生まれる子孫がずっと使うこの大地、自然環境を破壊する力では争ってはならないと考えるのである。交渉相手に暴力の一歩を踏み出させない、グッと留める力は殺し合いや破壊し合う力の強弱ではない。今や世界中が繋がる経済の力、言葉の違いを超える文化や芸術、医療や食料の援助、農業技術そういう力が戦争を防ぎ殺し合いを止めるのである。護憲派の人は、人殺しや環境破壊の軍事力、暴力ではなくて、そういう“力”を、戦争を防ぐために使え、人類はなぜこんな大きな頭が授かったのか、そのためではないかと問うのである。

この物語は、世界最強の“ワシ”が守護神としてツチガエルの国を守ってくれたことになっている。しかし、その“ワシ”も歳をとり弱った。ツチガエルを守って欲しければ、“ワシ”も必要な場合は守って欲しいとツチガエルに逆提案をした。お互い様、至極真っ当な提案である。護憲派の人がこれに反対するわけがなかろう。それはワシの国に、敵が攻めてきた場合である。ワシが、あの国にある金銀財宝を奪いにいくぞ、お前も来い。こう言って、ツチガエルを尖兵として使おうとする。護憲派の人には、それが見えるのである。著者も含め改憲派の人は、ワシに尻を叩かれて一緒に奪いに行くのか?改憲派の人は、護憲派の人がどう考えているのか、これでわかろう。

さらにハンドレッド(著者の代弁)は、こうも言っている。『この国には偉大なるスチームボート様がいるからだ』『それは王の名前なのか』『いや、違う。ナパージュの僭主だ。この国の本当の支配者だ』(新潮社、p. 66)つまり偉大なるワシ(スチームボート)は、このツチガエルの国(日本)の支配者であると明言し、堂々と認めているではないか。現在の平和憲法は米国が作った。日本人独自の憲法を作りたいと、改憲派の人は改憲を主張する。しかし、右翼の百田氏が、この国はワシの支配下にあると堂々と認めている。他国に支配される国が、自分たち独自の憲法を作れるはずがなかろう。日本人だけの独自の憲法を作りたければ、まず支配する他国に出て行ってもらって、その影響を断ち切る必要があろう。でなければ、日本人独自の憲法など寝言であろう。この物語は、ここまで読み取ることができるし、むろん著者の百田氏もそう書いている。スルーせず、一歩を踏み出し、深く読んで大いに議論すれば、護憲派にとっても改憲派にとっても、日本の未来のためにとても有用であろう。

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U出版・自費出版と商業出版の間 ー初めての裁判(1)

2016-09-30 07:28:17 | 社会問題

(1)次世代に贈る

今まで共著で何冊かの本を出してはいました。しかし「この章を書いてください」という依頼ばかりで、自ら単著を出したことはありませんでした。

長い人生を歩んできて、もともと好奇心の強い性格でしたので、人間、あるいは人間社会について自分なりにいろいろと知りました。残された自分の生命はせいぜいあと10年か15年、自分が理解したこと、身に付けたことを、お世話になった人類社会に残したい、次世代に贈りたいと思いました。

プルトニウムを、塵・埃のような微粉にして東京の空に撒けば日本経済は壊滅し、事実上日本は滅びます。これは汚い爆弾“Dirty Bomb”と呼ばれて以前から知られ、米国政府のHPにも出ています(Figure 3. 放射性微粒子の無人航空機散布)。わざわざハイテクの核ミサイルなどにする必要はないんです。私はもともと反原発ですが、感情的な反対論者ではなく、ウラン235の3万倍もの強さと2万年以上の半減期を持つプルトニウムはこの世にあってはならないと考えていました。

プルトニウムをこの世から消すことが真にできる“熔融塩炉”と言う原子炉があることを知りました。福島の原発事故によって日本の軽水炉原発に対する社会的な指弾を目の当たりにしている時でしたから、社会に殆ど知られていないこの“熔融塩炉”を紹介することは人類の現在の状態にとって相応の意味があるのではないかと考えました。それをまずトピック的な話題として前半とし、自分自身が学んできたこと、理解したこと、経済学、公共哲学、生物学が総合されたいわば私の生き様・・、それを後半としたそんなに内容になりました。書いて何人かの方に読んでもらうと特に女性から「大変読み易い」、「一晩で読んだ」などとのご返事をいただき、これは書いた価値があったと思いました。

で、もちろんこれを書籍にしたいと思いました。しかし、今まで出版社から書いてくれと頼まれたこともなく、これと言って強いコネもありませんでした。私が深い関心を持ち参加していた公共哲学の講演会を主催していたK先生(ETVマイケル・サンデル白熱教室の解説で著名)に相談しました。K先生には、一度非公式な討議の場でその内容を聴いていただいていました。その公共哲学の講演会の受付をしていたAさんは、過去出版社に勤めていたため出版界に強いコネを持っていて、適切な出版社を紹介してくれたりつないでくれるという情報をくださいました。K先生も彼の仲介で出版された本があったようです。

で私の原稿をA氏に見せると、もちろん他社につなぐこともできるけれども、これは自分のところで是非出版させてくれないかと強く要望されました。私は内心相応の名のある出版社につないでくれたら嬉しいと思いました。けれど、まずは本を世に出したかったので、手っ取り早いその申し出を有難いと思ったことを覚えています。

彼は株式会社S・Fという書籍制作の会社を経営していて、U出版という新しい出版形態を取っているとのことでした。

この本の出版にあたって、A氏から著者である私に本の制作費100万円を支払って欲しいと言われました。50万と言いよどんで100万と言い換えたことを記憶しています。

「えっ、私が制作費を出すんですか? じゃあなに! 自費出版なんですか」

「いいえ違います。無論、通常出版社が行う商業出版でもありません。著者と制作者が一つのユニット(単位)となる全く新しい素晴らしい出版形態なんです!」

「どういうことですか?」

「著者に制作費をご負担いただきます。私がその資金で本を作り上げ、書店に並ぶところまで持ち込みます。その時点まで私は利益を一切いただきません」

「まだよく分かりません」

「制作費は著者が負担する。私が制作し流通に乗せる。流通に大体売り上げの50%を支払います。残り50%が利益なんです。この利益を著者と私で分割します。こういう出版形態なんです。ですから、私が利益を得るためにはどうしても本が売れねばなりません。著者と制作者が一丸となって本を売ろうという素晴らしい出版形態なんです。商業出版ではすべての経費を出版社が出します。つまり全てのリスクを出版社が負います。著者は販売のリスクを負わない代わりに本の体裁やタイトルなど決める権利も出版に関わる何の権利もなく、出版社が決めた僅かの印税が行くだけです。U出版の場合は、売上高の50%の利益を双方の合意で分割します。私としては双方が対等に販売に努めるという趣旨から、利益は折半、50%/50%を提案します」

この説明を聴いて、内心これは何が起こるかわからないと不安を感じました。しかし、本の制作費を私が出すのであれば、その本に対する私の権利が強くなるのは当然であり、権利関係を契約書に明記しておけば、この本のコントロールは私ができると思いました。今後何冊も何冊もビジネスのように本を書くつもりはないし、後に続く人類に私の得たものを残したいという気持ちの著作ですから、自分で自著をコントロールしたいと思ったのです。自費出版は、言わば記念品を作るようなもので、もし本が売れてもその利益は全部著者のものですから、基本的に出版社は販売の努力はしてくれません。U出版の場合は、業界に詳しいA氏が販売に注力してくれ、しかも本が売れれば商業出版のような10%以下の印税ではなく利益は大きいのですから、考えてみれば著者にとっても好都合なアイディアだと思われました。

でもそうはなりませんでした。

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