ふらいすたーげ

人生、一生、日々まじめ

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報告

2009-04-05 22:14:40 | 一般記事
金曜から名古屋教会へ行き、今回のオーストラリア報告など。斎(復活祭までの準備期間)中なので、お祈りもバリエーションがあってきれいだった。

合間はできるだけ手伝いもした。聖堂で燭台磨きも数時間やった。修道院のおかげか、簡単な労働も楽しい。名古屋教会様には、献金もろくにしていない身なのに、お世話になりっぱなしだから、微力ながら、もはや体で返すしかない。いや、違った。働いて返すしかない。無事に仕事についたら二倍にして返そう。
修道院からのお土産もたくさんもらったので、だいぶ分けた。「最後の最後になって大量にくれるのがロシアらしいね」と言われた。そうなのか……。
久しぶりに接した日本語のお祈りが妙に新鮮だった。あちらがすごい緊張感のあるお祈りの連続だったので、日本語でもあるし、馴染みの教会でもあるし、精神的に楽だった。
決して日本の教会が真剣ではないというつもりはない。修道院は「質」が違った。お祈りが始まると、今さっきまで笑っていた人たちが、何かこの先の明暗を分ける重大な仕事に向かい合うかのような顔つきでお祈りしている。もしくは、手術に向かい合う医師のようにお祈りしている。怖いくらい真剣な顔つきだった。完全に集中している。それでいて、眠くなるくらい落ち着いたお祈りだ。その姿勢はとても参考になった。
日本の聖堂は入ると家のような安心感があり、本当にこころが落ちついて静かな心地になる。一方あちらはそれプラス、道場にいるみたいな緊張感があった。

正直、「なんでそこまで真剣に祈るのだ」と思ってしまった。その瞬間、今まで真剣に祈ったことなどない自分に気付かされた。その後1週間、祈ることができなくなった。どんなに心から湧いたときでも、頭で字を読んでいる気がした。Frはヒントとしてルカ書の「パリサイと取税人の祈り」を挙げてくれたが、あれが本質だと思う。だが、一番言われたのは「どう祈るかを誰もが最初に聞きたがるが、それは一番難しいこと」で、長い年月を要することだから、まだ洗礼を受けて1年のあなたはあわてずゆっくりゆっくり取り組むようにということだった。
キリスト教化が始まってから頭で思索することはできるだけ辞めているから書かなかったが、本当にいろいろ精神的な収穫が得られたと思う。

今日はまたもやロシア旅行の話を聞いた。誰の旅行話を聞いても、聞けば聞くほど、ロシアは依然として謎の国だ。水道水から下水の匂いがするとか、地下鉄のエスカレーターが速すぎるとか、電車のドアの締まり方が怖すぎるとか。いつもロシアには世にも奇妙な物語が満載だ。でも、私が一番怖いのは「地球の歩き方」に書いてある、警察がワイロを要求してくるというやつだ。「悪徳警官から身を守るには」と書いてある。警官が味方でない国なんて、もう手のうちようがない。

▽今回の旅でやはり鉄道旅行だけはいずれしたくなった。先述したが、シドニー近郊から市街へ行っただけでもとても楽しかった。見ず知らずの路線をさらに体験できることが鉄道好きとしてうれしくてしかたなかった。
近郊住宅地を眺めていて、急に地下に入ったとき、新宿に接近した京王線と同じ感じだったが、ここは京王線ではないと気がついたとき、未知の路線を体験していることを実感した。日本縦断で冷めていた強烈な鉄道熱が奥底で再燃した。さらに先を見たくなった。
帰り道は、通勤客や買い物客でいっぱいになった。皆が日常の帰路に着いていた。これまた当たり前のことだが、日本の外で日本で見てきた日常が展開していると、鉄道を制覇した気になっていた「井の中の蛙」はさらに先を知りたくなったのだ。稚内に到達して何かを達成したと思っていた自分がとても小さくみえた。シベリア鉄道でなくてもいいが、いつか海外列車にも挑戦したい。