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ふらいすたーげ

人生、一生、日々まじめ

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フロイト、ユング時代の患者

2013-02-16 10:33:39 | オピニオン
ユングは無意識との対話を通して個がいかに成長すべきかを説いている。だが一方で「集団」的無意識を掲げ、古今東西の神話宗教の知=博学に支えられ、集団的な人だったとも思う。まず幼少期から内面のイメージという世界と交流していた生まれつきの素質があった。また仕事と私生活が安定していたことがとても大きかったろう。本人自身もそれがなければ精神病になっていたと語っているし、アクティブイマジネーションや内面探求を志す人にもまず第一に社会との結びつき、生活の自立安定を挙げている。

深層心理というと個人=内面というイメージが先行するが、人間は社会的な動物である以上、個人が孤独に心をのぞいてまたは人にのぞいてもらってどうこうする話ではない。

そこでまた少し考えたこと。

フロイト、ユング時代の患者を見ていると、まず大金があり、たいていは自立してしっかり仕事を持って、社会的に何らかの経験の積み重ねがあり、それが無意識の反動で発症という人が多いようにみえる。この点孤立した貧乏人であろうが病気を病気として治療される普通の患者とは異なる。

何が言いたいのかというと、お金と生活と社会との結びつきという基本が破綻している人は、精神の病気にかかわらずそれを建て直す、直されることが第一の「治療」だろう。日々労働に追われていれば神経症にかからないという世間の意見もここにあり。それと心理療法が胡散臭がられるということ。

それは次の2点。ひとつは病気の素地が科学的にはっきりしないこと。しかしこれは臨床心理学の学問自体の問題にかかわるのでしかたない。近年は様々な疾患に認知行動療法の効き目があると注目されているし、エビデンスと周知を広げるしかなかろう。
もうひとつは生活に必死に追われていない人が対象者として多いこと。心理臨床は金持ちか余裕ある人の問題と思われている問題。お金持ちが週4回の精神分析を受けるのとワーキングプアが深刻なうつになっているのではカテゴリーが違いすぎる。3つにクラス分けをできないだろうか。訓練された専門家による治療でも一般の精神療法、病状をしぼって安く受けられるもの、保険適用されるべき貧困層で重症な人。

血液型騒動

2011-07-14 10:02:09 | オピニオン
まずはこの記事を。

http://t.asahi.com/361v

松本前大臣の暴言は明らかなので弁護はしない。でも全然違う話。

朝日の動画が削除されているため、あくまで次の原文に従った上の私の意見です。

原文は読売新聞によると

 「私はちょっと、(B型で短絡的なところがあって)、私の本意が伝わらないという部分があるということは、さっき女房からも電話がありましたし、反省しなければならないと思っています」

文中のB型発言は譲歩節である(括弧は筆者)。しかもどうみても挟まっているだけなので、ポロっとでた失言である(この部分が失言なのはまちがいない)。しかし重点はほぼ後半にしかない文だ。それだけをクローズアップすると全然違う話になる。

カッコ内は日本語独特の共通文化感情を誘うことば。「みなさんお好きな血液型ブームでもB型ですから。それによると短絡的らしいですし」という自嘲っぽい意図にもみえる。

だがココだけ英訳したら「弁明(=正当性)の理由としてB型is短絡的」という文になるのは明らか

たとえばアイドルが「私だって、あくまで、AKBみたいなみんなの中の1人ではなく、独り立ちしたいと強く思っています」という発言して、それを「AKBはあくまでみんなのなかの1人」と騒ぎたて「AKBをバカにしている」「メンバーは集団に甘えて没個性的なのか」と批判するのに似ている。真意はソロ活動もしくは独立してやっていきたいという意味である。「あくまで」が「AKB」か「独り立ち」に係るかでも意味は微妙に変化する。

ともかく批判が悪意みえみえの批判なのだ。私には相手のほんの少しの言葉尻を微妙にとらえて、重箱の隅をつついて喜んでいるようにしかみえない。

あと、これは(ビデオ確認できないので)もしもの話、「私はちょっと、B型で短絡的なところがあって、私の本意が伝わらないという部分があるということ」が名詞節扱いならどう責任をとるのか。大臣夫人の失言になってしまう。


失言は言葉の内容ではなく、無意識的に当人が思っていたことが口に出るため批判されることが多い。
だがそれはあくまで個人の想像力の域を出ない。想定されてもマナーや振る舞い(behavior)にしかとどまらないのではと最近思う。

代表的な麻生元総理の「岡崎だからまだよかったけど」も譲歩表現で、真意は名古屋で大洪水が起きたら大変だということだけを述べたかったのだろう。しかし、「岡崎だからまだましだった」という思いがあるからこそ、口をついて出たと聞く側は想像力をはたらかしてしまう。報道では「岡崎だからよかった」になってしまう。そこに問題がある。

とくに日本語化されると問題になるのは仙谷発言の「暴力装置(organizations for violence)」だろう。この発言、概念規定として英語で行われていれば問題になったかどうか。日本語でも、自衛隊は社会学的な見地ではウェーバー用語で暴力装置に当たると言えば問題はなかったかもしれない。ところが「暴力」と言われ傷ついたという。なぜか自衛隊員とその家族の意見は正しいことになってしまう。どうも最近のメディアはおかしい。私が正しいと主張したいのではなく一方的だということだ。

まとめると
1言葉尻をとらえようとする
2日本語の扱い方で増幅される独特の失言
3想像力が失言を生み出しあう

という3点からどうも最近失言問題は疑問と悪意を感じる。本当に問題なのか。
言葉を扱う方々も、読む側も、当然私も、もう少し言葉の重みや真意というものを考え直したほうがいい。

世にも奇妙 2009年春

2009-07-10 12:02:18 | オピニオン
久しぶりに世にも奇妙な物語を鑑賞。遅れたが書かせてもらう。
唯一見続けているTVシリーズなので、これからも楽しみにしている。
2000年以降くらいから、内容の質が落ちたとよく言われる。ホラーはかつての独特の不気味感を失い、感動系もあまり感動できなくなった。とどめに馬鹿げた意味不明の面白くないコメディが増えた。ただのタレント劇場とも揶揄されそうである。
しかし、今回はかなり(あくまで相対的にはだが)面白い作品が多かったと思う。くだらなさの中にも、演出がよかったのか、昔の奇妙さの王道を行く世にもらしさがよくでていた。(以下、ネタばれあり)

「爆弾男のスイッチ」 不思議系。コレだけは面白くはなかった。主人公が少し弱すぎる。好きな女の子の前で、侮辱されても怒らないとか、自分を助けてくれる友人を犠牲にしようという魂胆が理解できない。人間の弱さ………
なのかなあ? だいぶ違うだろう。少なくとも彼を主人公にしてほしくなかった。市原隼人くんがかわいそうだ。主人公がおかしいというその思いが最後に的中したのと、ニュースのギャクで終結したのは面白かった。現代の若者風刺になっている? 一貫しスイッチ一つを巡る緊迫感の演出が昔らしかった。

「輪廻の村」 ホラー系。出た、定番の「美人雑誌記者が取材のネタ探しに怪しい村へ行く」というパターン、何度見たことだろう。予想通り好奇心が恐怖へと変貌し、途中からオチも読めてしまう。あまり怖さもなかった。あの女の子にびびるくらい。あと、輪廻ってこわいかなあ。狐顔のばあさんが暗闇で「私の前世は狐だ」と不気味に囁いてもあまりこわくない。化けて出るほうが私はこわい。終わりもまさしくいつものパターン。ブログで「お家芸の締め方」と書いている方がいた。
中村樹基さんの脚本らしい作品。昔らしかったのは定番のパターンと必ず何か起こりそうな村の不気味さが伝わってきたことだ。
(全然関係ないが、武田鉄矢が「なんで生徒ばかり恋愛ができるんだ。金八に伊東美咲と恋愛をさせろ」と言って以来、伊東美咲を見るとあの顔が背後に浮かぶ。私の頭の中ではそのほうがよほど奇妙な物語だった。)

「クイズ天国・クイズ地獄」 コメディ系。だれもが最後は最も大事なこともクイズになるのは読める展開。でもこの作品、くだらないがクイズ一つを巡る細かい場面場面の凝ったつくりが昔らしかった。

「真夜中の殺人者」 サスペンス・奇妙系。実はブログを書いたのはこの作品について書きたかったから。小説版で原作が事前に流れていたらしいが、これは名作だと思う。
賛否両論ある内容のようだが、この作品の素晴らしいところは、事件について、誰もが想像する通りではない可能性をいろいろと想像できることにある。
タモリの言葉が伏線になっている。最後まで「起こっていることが本当なのか」「すべて結びついているのか」「私の思い込みではないか」と思わせる。そして緊迫感。結末は誰もが考える通りなのか? それとも別のマンションで起こった出来事が重なったのか? あそこで事件は起きたが、最後に起きたことは偶然か? 犯人は彼と別人か? これが嘘なら彼は何をするのだろうか? などなど、いろいろ想像させられた。見事にはめられてしまった。昔は想像力を働かせる作品が多かった。これが世にもの真骨頂。もし話どおりの結末だとしても、この不条理さ理不尽さがまさに奇妙な世界だ。(以上、一部をyonikimo.comにも書いた)
ところで主人公の友人は鈴木亜美だったのか。なんかそういう人いたなあ。完全に忘れていた。まだしっかり生き残っておられたとは。見違えた。というかあまりいい意味ではなく。ただのキャバ嬢かと思った。
このどんでん返しは本当に昔らしい。

「ボランティア降臨」 感動・不思議系。これもだが、今回は結末が読める話も多かった。善意の売り込みという視点は、現代のボランティア病や安易な左傾化を見直す意義も持つと思う。大竹しのぶの好演が光った。さすがだ。目が完璧に新興宗教だった。自分が善人だと信じているからこうゆう人は困る。「善い事をするほど難しいことはない」という台詞が金八にあった。善意はよいことだが押し売りはいけない。人の自由を傷つけている。
あとあの家族、なぜ他人をあんなに信用して好きになれるのか疑問は残る。
「神さまみたい」―違うよ。神様は病気や苦しみを取り除くのではなく、癒してその前に向かわされる方、再度、何度でも立たせるお方だよ。時には厳しく人間を打ち、立ち返りを求めるお方だよ。
これはありえない話をありえそうに描くところ、ボランティアが迷惑をかけないようで、妙にエスカレートしていく展開が昔らしい。

というわけで全てが昔らしく楽しい。でも圧巻は「真夜中の殺人者」だ。相武紗季は得をした。あれはあまり主人公の演技力に左右されない話だった。途中までサスペンス要素満載だったのに。普通そういう話は主人公一本に注目があつまるのに。まさかのひっくり返しが待っているのだから。
あとすべての作品にわたり、現代社会の身近にひそむ問題が皮肉られていたことに気付いた。「爆弾男」は精神的に弱くもろい大学生が、「輪廻」は仕事に追われるキャリア社会と報復思想が、「クイズ」はくだらない民放と速攻で大衆文化に迎合する社会が、「殺人者」は唯我な短絡的な殺人と、与えられた情報と言葉を安易に信頼してしまう我々が、「ボランティア」は自分勝手な善意を押し売ろうとするいまの自分満たし合い社会が、それぞれうまく背景に描かれていた。

声の深み

2009-07-03 13:05:27 | オピニオン
かつてアニメのドラゴンボールは私にとって聖書のようなものでした。今では神に心を向けるまでの単なる踏み台や詩にすぎなくなりましたが。いや、でもそれをむしろ「今でも」といいたいです。あれほど大きな影響を受けたアニメはありません。いま思うと声優陣が豪華でした。よく声に励まされました。声だけ聴いていても楽しかった。うろ覚えですが、野沢雅子さんは意識のない病気の子に孫悟空の声で呼びかけたら、体が反応したのを見て、アニメの力を知ったとインタビューで答えていました。声は深いです。

私も昨日、以前購入した朗読聖書を聴いてきて、助けられました。心が楽になりました。声優は確かに演技ですが、こちらの「読み」さえしっかりしていれば、神の美しさとして読むことができます。キリスト教を描くドラマや歌や絵画(イコン)は無理です。信仰者のはしくれからすると、それ相応の信仰がある方でないと。が声は別でした。
あまり「神さま」を持ち出すと一般の方はいやだと思うので、天皇陛下で喩えましょう。天皇陛下の、単なるドラマ化ではなくて、国家の、公式の、宮内庁の、ここぞというときの、本当に重大なドラマ、歌、絵画をつくり、保存し、後世に伝えることになったと仮定してみてください。それを演じ、歌い、描く人は、ただ技術のある見栄えが良い人ではダメでしょう? 「それ相応」の人をと考えるでしょう? それに似ています。が、陛下の公式文書を読む人は、声優でもいいのではないでしょうか。演技しても声は声です。人間の声です。不思議。「美しく」あるだけでは、演技や歌や絵画は内面のボロが出るのに、もちろん声も心がでるでしょうが、声の演技はそれが少ない気がします。演技や歌より求められる人間性などという基準はゆるい気がします。
聞き手が声を読もうとするからでしょう。キリスト者なら神の声として聴く。日本国民なら陛下の声として聴くわけです。

音声は素晴らしい。が音声の強調を批判した人にデリダがいました。私も大好きな哲学者でした。西欧、近代文明は、書くこと、聞くことをおろそかにしてきました。デリダは西洋文化がロゴスに特権的な立場を与え、音声を中心とした真理の再現前化を要求してきたこと(「現前の形而上学」)を音声中心主義として批判しました。確かに声に出して真理を主張、表現、創造するだの、内面の声を聴くだのはここ数百年で急に世界中で病気のようになり、そのあたりから来た気もします。だが気もするし、それもある程度正しいのでしょうが、それだけのことです。決してこの言説で祈りや静寂のロゴス性は否定できません。それらは対話として人類に与えられたものです。私はむしろロゴスを対話にまでもっていった(発展させた)ギリシャや古代オリエント文明を、いたずらに個人の思索へと追いやったのが西洋文化の功罪だと思います。そしてそれでも失われたロゴスが全体や無限を希求し、個々の内面で病的な再現前化を繰り返したのが「意味の病」、「概念病」だと思っています。
話を戻して、二年前にも一度書いたことがあるこの聖書のMP3版。たぶんレビ記の朗読は中江真司さんだと思いながら聴いています。この「トリビアの声」はあの人しかいない。間違っていたら申し訳ないですが…。中江さんがお亡くなりになったのは、かつてこれを聴いて楽しんでいた4ヶ月後でした。日本の声優の大御所が1人いなくなるのは寂しいけれど、声を聴いていると別の意味で静かな心持ちになります。これに参加された声優さんたちは本当に大変だったと思います。ありがたい賜物、遺産です。

手負いの若者

2009-06-06 11:15:03 | オピニオン
                  

都内某ネットカフェにて。昨年は日雇い募集の広告が貼られているのを見たことがある。今年はもはやここまできたかと、思い込みなのは承知でも思ってしまう。この写真が私たちに追い詰められた若者の貧困を語りかけている。

格差問題はマスコミにかなり取り上げられてきたが、面白がっている方たちは困る。どうも平均年収が減っている、非正規労働者が増えて働き方が不安定になっているなどということばかり取り上げられている気がする。

だが問題の本質は「生きていけない」貧困層が増加していることにある。世界一の自殺者とホームレスと餓死者を自己責任にして容認し、有効な保護策を打とうとしない国は先進国として異常である。彼らは助けを求める気力も残っていない。昔のような地縁やコミュニティが金権と情報社会で分断されている。社会が資本主義なら資本を彼らに提供すべきだ。緊急の課題なのにまだほとんど手が打たれていない。信じられない。
また、精神的な貧困も解決が必要だ。非正規労働者は「もし、生活できなくなったらどうしよう」で奴隷的に仕事にしがみつく、正社員は「非正規になったらどうしよう」で過労する。管理職は両者から妬まれ恨まれるとともに「普通の社員になったらどうしよう」で病んでしまう。この強迫神経症のような病院社会をなんとかしないといけないのだ。今の日本はカネインフル社会だ。「カネか、カネではないか」の二者択一に陥る地点で何かにおかされている。何かが分断されている。それが大貧民層から富裕層すべてにわたって、絶大な恐怖となり景気=空気=K=「くうき」となって覆ってうつりあっているのだ。これに気付かなければいかに好景気になろうと、日本の真の「景気」回復はない。

もし、好景気の代わりにほとんどの人が年収300万以下になったと仮定してみる。それで本当に楽しい活気ある社会になるなら文句は出ないはずだ。でもこの言説に抵抗を感じる人は多いだろう。私たちが年収300万では生活が苦しいと感じる社会(文化的貧困)、経済がどんなに繁栄しても楽しくないと感じる社会(精神的貧困)に問題がある。

「経済さえ回復すればいい」という知識人と政治家にしてもだ。最低このこと(お金があっても幸せになれない社会)に言及する義務がある。