ふらいすたーげ

人生、一生、日々まじめ

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平積み

2007-08-18 22:17:55 | 一般記事
なんと、本日はもうひとつ大ニュースが。雨宮さんの本が平積み扱いになってました。いや、それよりすごいです。サブカル系のトップにきています。

いまや、フリーター問題(この言い方自体が、フリーターを近代的教育観で捉えようとする問題なのでダブル問題)や格差問題の関心の高さが現れているから、全くおかしいことではない。

しかし、フェアの名称で、仕事もエロもという「男の教科書」というカテゴリーが気になるが。

でも金沢とはいえ、北陸の田舎で、日本一と豪語する巨大書店で、この扱いは、うれしい。親しい付き合いでもない私でさえうれしい。

今までのサブカル作家は、どうも若者文化をうまく意味づけて、「利用」してきた面が強い。宮台真司とかあの系統は、頭脳は素晴らしいが、そういった面から絶対ボロがでてくる。

雨宮さんは、現に生きて食って生活している、日常の若者や、その生活改善を訴える団体と、正面から普通に向き合っている。「今の流行りものだから、このテーマで」、「社会の情況分析や新作の物語のために、必要だから」、若者問題を取材する作家ではない。


彼女は自らの経験、生きている現状など、最も近く、自分に馴染みのあるところから、筆と眼を深めている。今回の作品で、作家として山を越え、新境地を示した。その姿勢が、確固たる足場になっているであろう。

2007-08-18 21:51:40 | イベント
◆雅-miyavi-ニューアルバム発売記念「トーク&サイン会」

また、山畜のイベントです。大人気ビジュアルバンド「雅」のライブとサイン会。トークの予定が、ライブになった。これは私としてはうれしい。しかもライブだけで45分はあった。こんな長いイベントは初めてだ。

しかしどんな世界でも王者クラスは、S級クラスは違いますね。

なんというか、音、音楽に確実性があった。リズムがしっかりしている。リズムだけでも楽しいライブだった。野球に喩えると、守備とバントがきっちりしている。

若者向けの、ビジュアルバンドのメロディーなのに、しかも、109でヤリまくってるのに、あまりうるささを感じさせない。落ち着いた感じがあり、誰でも聴いていたら、のってくるかもしれない。絶対な人気にはどこか訳がありますな。はっきりとはわかりませんが。

ただ、それだけの落ち着いた爆発力は逆に宗教性を感じさせた。ライブのエネルギーが外へではなく、内側へ向かう、内観するロック(?)のような印象を受けた。いまの世相は内むきのエネルギーが流行っているわけだし最適かもしれない。ネット、管理社会、勝ち社会、引きこもり、自殺、…というなかで。

ライブにおいて私は、外へ流れる力に影響を受けてきた。世相と日常を噛み合わせ、都市の中で歌う人たちに。社会内存在として社会へと放つメッセージのようなものに影響を受けた*ものだ。
だが、そういった面では、このバンド、素晴らしく通用するだろうが、内向きの力が強いから、世界に堂々と社会的に発信できるまでの曲、詩のエナジーは足りない気がした。うまく説明してなくてすみません。

*とは言うものの、その訴えかける社会自体がいまどうしようもないから、こういうバンドは出てこないだろう。

その他の、欠点は…9割がた女で、うるさすぎた。…。でも!、まってください。いまの子は、わめかないし、うざくもなく礼儀はわきまえている。昔より品格は落ち、だらしなくなっても、こういう場所ではハメ外さない。大人っぽくはなってるんですかね。崩壊してるのは、特定の場所や非日常の場所ではなく、いま生きている日常の場所です。

スタバで普通にジュースをのんで時間をつぶしてサイン会に。恐怖の仔雅軍団や、女の子がばっこしているため、最後尾についた。

「今日、初めて聴いたんですが、素晴らしかったです。」って言ったら、「ありがとう。またきてねー。」って自然に言われた。案外(失礼だけど)いい人だなあと思ってしまった。人は見かけで判断したらいかん。可愛い女の子はともかく、私にも普通に優しいなんて偉い。
全然俺様じゃなかった。
新たな一面を見れたことに感謝。


リズムのみで形成できる新しい音楽を見せてもらった。そして見事に宣伝にはまってしまった。皆さん、ニューアルバムは幅広い客層に、自信持っておすすめです!。

イベント

2007-08-15 01:28:20 | イベント
◆FREENOTE「オトノハトライアングル」レコ発!プレミアライブ@香林坊109アーバンヒル

来ました。フリーノートが。珠洲出身で、プロフみたら学生時代から努力してなんとかはいあがって来たバンドだし、一度見てみたかった。始めはびびってしまった力強い声。粗削りなところはもちろん多いが、基本に忠実な点と、メロディを覚えさせる力を持つ歌唱にかなり印象を受けた。歌詞も現代や生活を映そうとしていて、泉に映る写真のようだった。これからは弱点や細かい点を修正して大活躍してほしい。

CDを買わなかったということは、私への影響度はこれまでだったということだろうか。音楽は好みの守備範囲が広いものだが、文章よりは狭い。そこまで好きになれなかったことになるのか。残念。

10年前もそうだったが、音楽イベントは好き嫌いがもろにでる。見た、聴いた瞬間ある程度決まる。西村由紀江さんのピアノは、予備知識ゼロで行った。本人目の前にしても何も感じなかった。しかし、演奏を聴いたとたん、確実な秩序のもとにあるような一つの世界に引き込まれてしまった。そのあとは、静かなとても静かな豊かな深い感動に包まれた。

さて今回。やはりプロの歌手のイベントは違う。日常空間が、祝祭モードになる。ここまでは祭でも見られる。が、現実の市街の中で、現代社会の代表的な祝祭機能(歌手)とともに、祭へと変容する光景は少ない。素晴らしいと思う。さらにここにラジオが乱入すると、経済空間(企業の宣伝)や生活空間(リスナーの生活)が介されて、さらにパワーアップした素晴らしい作品となる。と私は思う。FM三重の公開放送は、これらの要素がすべてもりこまれていて、大好きだった。


正教では人間は礼拝する動物だと説教たまいましたが、関係あるかわかりませんが、この世でも祭の影が最近薄い気がします。近代で、かつての祝祭機能を取り込んだのは、デパートや博覧会などです。今日の閉塞社会は、日常はそれらや専門店へと、非日常は逃げのうさばらしと化す祭りへと、ニ極化が大きく進行しているように思います。我々の身近な生活に根ざした祭り空間の、大いなる受容と新たなる創造を求めたいです。人間はモノで生きてません。祭りを通して生きています。

人間の高貴さ

2007-08-12 00:34:38 | オピニオン
 「高貴」なる言葉は、気まぐれな人が好んで使う言葉に化してしまった。先生、医者など権威者の威厳は、日に日に落ちている。また高貴さの代名詞のように、尊敬された歴史上の人物や貴族は、個人が高尚な趣味として尊敬する対象となった。そして金持ちが、一夜にして交代するような現代では、富豪文化へ対する高貴な念も変動し弱まる。私たちは日々高貴さに追われている。個人が勝手に高貴なものを決めつけ合う、ダイナミズムに生きている。

 しかし、かつては静的だったのだ。高貴さは根強かった。集団よりも個人の自由を重んずる、近代の政治運動や法制が進行する以前は。著者パスカルのように、敬意を払うべき制度があり、尊敬をもたらす現実的で有効な特性があると主張する者がいたのである。制度だけではない。特性も、有効で静的な社会の規範やルール、向かうべき方向などが、しっかりとしていたから、「本来の高貴さ」と称して人間の中に見出せたのである。例えば、この時代は戦争で勇気ある人を尊敬するということになれば、それは一生その人の中にも、社会から見ても強く残るだろう。だが、現代の視聴者が野球の勇気あるプレーに少し尊厳を覚えても、それがはたして勇気という特性の定義にまでつながるのか疑問である。ルールや秩序が崩壊した世界では、制度に、特性に、個人たちが意味を与えようとしてきた。再び野球を例にとると、大リーグが一番偉大な制度であり、メジャーリーガーの幾人かは多くの人を尊敬させる有効な特性を有しているということになろう。万が一、球団経営が破綻する可能性も、リスクも持って。

 社会全体の手本を頼りとしない、気まぐれな高貴性が無数に生み出される。しかし、かつての静的な高貴性が動的なものに移行したととらえれば、この規範の危機を乗り越える発想の転換となるだろう。現にスポーツ選手のドラマの共有や、インターネット等を介しての現実での情報共有の拡大のように、動的な、「いま、ここ」での生きた高貴さを生む念や期待は高まってきている。

(02 上智大・文・仏)


◎近頃よく書く02年度の小論の我が拙劣な解答を載せることにしました。正直ほんとヤバイです。自由に書く力は上がっていても知識抜きで論じる即戦力を問われる大学受験小論はほんとに辛い。

身体文化

2007-08-09 00:21:38 | オピニオン
我々は日常的に身体を動かしているが、その身体と常に接し合ってきた衣服もまた身体であると言えよう。身体と衣服の間に空気が閉じ込められ、衣服を変える度に異なった運動が行われる。

今や日本人は洋服を着、革靴を履いて暮らしているが、夏を例にとると、昔は浴衣やぞうりなど、外界との距離があいまいな着物をよく身に付けていた。適度に風を通し、外界の空気の雰囲気が肌で伝わってくるものが多い。一方、洋服は、目的や機能ごとに細かく分けられていて、それに応じた空気をまとうものが多い。その際、日本の風通しのよい衣服から伝わってくるあいまいさは遮断されてしまう。

洋服は外界の自然から身を守るものとしての機能が強い。しかし風通しのよい和服や履物は、日本の四季に応じて激変する豊かな自然を着るものである。外界の自然資源を征服するより、それと隣人のように付き合ってきた日本人の精神に、これら和服はよくなじむ。服では天候を、足では土地を、無防備に受け入れることで、近隣にある自然と付き合う知恵を子どもは身につけることができた。また、周囲の風を察知し、その調子に身体を合わせる衣服は、場の空気を読み、共同体と一致する和を尊しとするこの国になくてはならない存在だったであろう。それらの活用で、子どもは、集団のささいな変化に自然とついていけるようになったに違いない。風通しのよさは、自然や集団という環境がもたらす教えをも浸透させやすくしたのだ。

機能的に空気を遮断して生かしてくれる洋服たち。しかしこれらは世間の中で生きるとき、物を対象化して思考、分別する際には大いに役立つが、文字通り「世間」の微妙な風当たりを捉えるに難い。空気をあいまいに着て、風を受け入れる日本の服は、まさに世間の風を知る貴重な材として働き、教育上も活躍したのではなかろうか。早急に見直されるべきである。

(02横浜国立大・教育人間科学)(以上、小論の解答)