ふらいすたーげ

人生、一生、日々まじめ

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里山

2007-01-28 00:19:11 | イベント
◇金沢大学「角間の里山自然学校」シンポジウム

里地里山の生物多様性保全~地域の環境づくりと広域連携~

・雑感
このイベントは一ヶ月前から行こうと決めていた。しかし、出発してから、会場へ行くにはどこのバス停で降りればよいかがわかっていないことに気付いた。金沢大学で開催されることはわかっていたが、中は広い。チラシも忘れてしまった。どうしよう、誰に聞こうか、そうだ104がある!…と考えていた。が、よくよく考えてみると、自分で仕事したことに気がついた。なんだネットでみればわかるではないか。一瞬で解決したが、あれだけ内容を聞いた私が、場所一つわからないなんて。まさか生産した情報から疎外されているとは。まさにマルクス主義の実例?を見た。これだから資本主義は怖いね。

会場は、とにかくすごい人で驚きました。私も微力ながらこの人集めに貢献したのかなと思うと嬉しくなりました。が、それは結果論で、最中はそれどころではなかった。まず、スライドが見えないから内容はわからない、話しは聞こえない、せめてあるべき資料がない、座れない、そして寒い。資料はしばらくして、椅子はだいぶたってきましたが、何より寒さにはこたえた。去年までは暖房があるかないかの場所で動き回っていた。その私も、半袖で仕事している人もいる現在の大企業での暖房暮らしで、寒さに極端に弱くなっていた。辛かった。さらに角間ははっきり言って山としか言いようがない場所だ。熊がでそうだ。まさに里山だ。里山について考えたくなりそうだ。

そろそろ真剣に本題に入ります。

・内容
上記の理由から、内容については、最後以外はあまり記憶にありません。書けることはあまりないです。ただ、大勢の来場は問題の関心を物語っていました。金沢大学が角間という里山のような地域にあること。同大学が環境保全のプロジェクトを立ち上げたり、関心を啓発しようとしていること。熊騒動で、里山や中山間農地への関心が高まっていること。などが複合的に絡みあってこういう結果になったのでしょう。発表を聞いていると、いろいろな活動を研究者として実践されている方々がいることをまた知り、生きていく励みになります。県なら能登のように、過疎がすすみ、一方では開発がすすみ、荒地は多い。里山がなくなり、曖昧な農地は減り、という中で、金沢大学の自然学校は能登の廃校を保全活動の拠点に活用したりしている。研究者、プロジェクト、地域住民、イベント・周知が一体となる活動を目指している。20世紀の終わりから、大学はこうあるべきだと盛んに言われていたものだ。もう始まっているのかもしれない。ただ問題は、もうからないこと。ゆえに戦略
と協力をいかに賢くすすめられるかだろう。

プログラムは以下の通り。
□基調講演
「持続可能な農林水産業を問う~生物多様性の視点~」
□講演
「コウノトリの試験放鳥と野生復帰に向けた取り組み」
「トキの野生復帰と里山・棚田の再生」
「渥美半島の風力発電問題」
「たんぼでカモを守る~農家と一緒にふゆみずたんぼ~」
「琵琶湖周辺域の水田地帯を利用する魚類の保全研究とその実践」
「石川県の里地里山の現状と金沢大学の取り組み」
□議論


☆「ドイツ文学」(放送大学教育振興会)

センター試験 国語 評論

2007-01-24 17:17:12 | スクール
※このコーナーは一社会人が仕事の合間に試みた「適当な解説」なので、細かい間違いの保証はできません。

問1(省略)

問2②

①「凍結」「一瞬の生命の示現」が誤り。どちらも本文中の日本の特徴にはっきり述べてある。②「変化に手を加え」と永遠不変がおかしくないのでとりあえずキープ③親和性と縁は日本だった。本文にある。④「変化こそが本質」も日本だった。よって正反対。⑤造形意志があっているのでキープ。

あとに「日本では…永遠不変の造型を願わないばかりか」「ヨーロッパの芸術観では…永遠的存在なのだから」とあり、②か崩せない。自然の変化に手を加えているのも間違っていない。⑤はよくみると、「自然の素材の『変化』を生かす」のは本文中の日本。素材にして人工を加えないといけない。また堅固な様式に「再構成」は謎であり、話もない。また何をいいたいのかよくわからない。よって②。

問3④

問題にあるように展開する茶の湯、連句の例を読めばいい。はかない命→一期一会。凝縮し純化した時間空間→一期一会。自己没却、仲間→一期一会ときている。

①単位をしぼることで簡素さを強調したという話ではない。②楽しい雰囲気など取り上げていない。「人間関係」が豊かになるかは書いてない。③花の短い命と刹那性がみえるからキープ④個の弱さを強調まで言い切れるかわからないがキープ⑤場の価値にかかわらせるまで、話は進展していない。また芸術における空間性の強調ではない。一期一会しかわからない。よって切る。

③は「時間の短さに注目して、形よりも刹那性を強調」が怪しい。④は連句の所を読んでいれば、間違いとはいえないだろう。さらに最後まで読んでいれば「個の表現としての作品を重んじる近代的な考え」という箇所があり、強調も言い過ぎではないとわかる。だがいずれにしても表現意識とまで踏み込んでいいのか?不安定な問である。

問4⑤

個のキーワードがつながるので、前問ができた人はラッキーですね。ちょっとせこい…。志賀直哉は龍安寺が日常楽しむには厳格過ぎるが精神は歓喜するといい、それは”相阿弥がつくったままだから”なのではないかと筆者は推測。そして”相阿弥がつくったまま”=原形の維持=作者の意図=永遠不変のキネンヒ的な造型志向=個の表現…という近代ヨーロッパ的思考の脈絡だという風に持っていく。

①「幾何学的な構図に…精巧な模倣」がおかしい。そんなもの見出していない。②「幸福な出会い」って何を言っているのかよくわからない。理念が出会うという話は別にしていない。③典型的な無関係問題。日本語的にも、龍安寺の一般論にも符号するかもしれないが、本文には何の関係もない。切り取られた庭の魅力など語っていない。④「純粋な空間の潔さに作者の覚悟」は何かが違う。これも③同様に関係がない。一期一会の歓び、覚悟、直感でミスを誘っている。⑤原型、相阿弥の庭。創造した作者の強固な意図は息づいている。

問5③

最後の段落で解けるが、ポイントはあの龍安寺は”日常=すまい=見る楽しみとしては厳格すぎる”という一点である。すまいとして「例外」なのである。

①「不変の芸術理念を追い求める」が誤り。堅固・造型な面はあったが、そういった様式を追い求めたのがあの寺だなんて言う説明もない。
②後半部がどうしてもおかしい。個の表現だから本道という話はない。例外的に本道という文も変だ。
③緊張感を強いる庭だから例外というところはぴったりである。
④「ヨーロッパ風の芸術理念に即応した造形美」という説明はしていない。②④はセットで作られた誤文であろう。
⑤この文、「のゆえに」までは合っているのでは?。石や砂の様式美だから例外ではない。問われているのは日常か非日常かである。だからこのことは正しいが、この問の理由としては何も意味をなさない。これだから例外に位置づけられることとは全く関係ない。

問6②

①感性の面から…共通性になんて光あててない
②例外があっている
③龍安寺が日本の代表であるわけを説明した文章ではなかった。共通点に普遍性という日本語も変だ。なぜなら2つのものから普遍性を導くなら共通点しか述べれないであろう。まず「の共通点」を削除せよ。
④龍安寺が日本の芸術理念を集約してはいない。むしろ例外であり、ほんらいは自然の変化とともにあるのが日本の庭だった。広く取り上げたのが庭だけになったというのもたいしたことではなく、明らかに作った文である。
⑤抽象的・具体的という区別がおかしいので切れる。むしろ逆かもしれない。前半には花・お茶・連句という具体例があった。後半は相阿弥の意図やら芸術の理念やらで難しい。「例外的に永遠不変性を得る」という日本語もおかしい。この世で例外的に永遠を人の心に刻んだ作品なんてものがあることになり、かなりおかしな日本語である。

センター試験 英語 長文

2007-01-24 17:03:41 | スクール
※このコーナーは一社会人が仕事の合間に試みた「適当な解説」なので、細かい間違いの保証はできません。
取り上げるのは第6問の長文です。といっても今回は傾向が変わったため、そう難しい文章ではありませんでした。
というより…この試験では「長文」ではないかもしれない。

問1③
なぜバレリーとおじいちゃんは笑ったのか?
①ℓ12(以下、行数は新聞)実際バレリーはファッションに全然興味がなかったので笑ったとある。その前でファッションについて得意げに彼女が喋っているから、ここでわかるはずだ。よってピンポイントでわかる問題。バレリーが本当のこと言ってないからおかしいわけで③が正解。「軽装で行かなきゃね、パリでドレスシューズ…」とわかればなおよい。①という話はない。②は本文から判断不能④は×

問2④
旅行計画で価値あるアドバイスってなんだったっけ?-本文より②③は問題外。ZOOはこれから出で来るが、ここで貴重な経験をしましたという話だから別に動物園へ行けとはだれも言っていない。④すべて計画して行くなということだ。ℓ20あたりからだ、孫があの子はあれをしてこれをして…私らあんまり予定はたってないんだといって質問すると、ここぞとばかりにじいさんが出てきて、「ねえでも、時には細かく計画を立てることは一番よいとは限らないのだよ」と諭す光景が目に浮かぶようだ。

問3④

問4②
これもピンポイントで解く正攻法の問題。SNOUFLAKEの人気は…ℓ32の Because of his rare color he had become quite famous.が全て。同意の文は②。正解は②

問5③
おじいちゃんによると、アフリカでゴリラの最も深刻な危機の一つは…。③人々の暴力に脅かされているが正解。ℓ47、48でわかる。こんな素晴らしい動物をおりにとじこめるなんて…という孫の心情に対し、でも野生のたくさんのゴリラがハンターや病気により殺されてるからどっちがいいともいえないんだよ。と言ってるから。ちなみに確かに人間の影響を問うているが、②の大気汚染という話はない。

問5B
①×”おじいちゃんもお前と一緒にいきたいんだけど忙しいんだ”なんて読み取れる箇所はどこにもない。
②×(正確に訳せませんが)ただ旅行が急がしくなったという意味ならラストからそんな話はない。「予定を立てるのに彼女は忙しかった」としても、彼女はだいたい用意が終わって、予定はみんないろいろいってるけどまだ決まらないんだぁ。おじいちゃんどう?といってじいさんの昔話が始まる話だった。だから、忙しいかはわからない。記述がない。
③×SNOWFLAKEを見るためにZOOに行ったのではない。ℓ26あたりから。美術作品を特に見に来たが、気分転換に(for a change)動物園に行ったのだった。
④×③と同じくらいの箇所でわかる。WEがずっと主語になってて、当然ばあさんもいた。昔話は、バルセロナへ初めておばあちゃんと2人でいったのを思い出すなあ、から始まっている。
⑤〇ℓ32参照
⑥×ℓ49、50に約40歳、人間なら80歳にあたるとあるから誤り。
⑧〇ℓ61、62に実際バレリーが旅行に行って、one of Snowflake's grandchildren を見たことがわかる。ラストでわすれないとあるから正しい。
⑦〇よってSNOWFLAKEは大家族になっていたことがわかる。

難民 Fluechtling

2007-01-22 22:16:59 | イベント
◇アムネスティ難民学習会@長町研修館

アムネスティの講演…というより、内部の学習会だった。関東から難民チームの樋口さんがいらして、お話しをしてくれた。難民申請の手続きや方法、実際の現場などについて、法律の知識もときおり交えながら話してくれた。

難民の権利から話しが始まり、本来は送還禁止が強く義務付けられていることが良くわかった。確かに帰ったら、殺されるから亡命してる状態なのだから。でも返されている現実がある。こういう点をごまかしたり蓋をしてはならない。それに法的手続きも面倒でおかしい。もともと法的に自己証明がきちんとできないのが難民となって来ている人だ。申請期限を過ぎると仮滞在が認められないという法もよく理解できなかった。

後半の話が興味深かった。日本は島国らしくかなりこの問題には国際的に無頓着なようで、おかしなことがいっぱいある。本来すべての始まりである空港の窓口にあまりよい人を置いていない。難民問題に詳しく精通している人、法的知識がある人を置くべきだろう。空港で調書をとる人と最終的に判断を下す人が違うというのもおかしい。難民はただでさえ自己を証明するものなど皆無に近いのに、これでは現場でならやっと残せるわずかな痕跡すらも「文書」とならずに、証明できないとされ、却下されるにちがいない。
また、事情聴取もいいかげんらしい。通訳がしっかりしていないのも問題で、アフガニスタンの人には、現地の言葉が似ているということでイラン人とか。当人に反対側の部族の人をつけたり、政治犯に政府側の人をつけたりするとか。

変えるべきは難民の周知と現場のようです。

日本への難民は豊かな人が多い。政治犯が主で、トルコのクルド人、旧ソ連・中国の反体制派、イラン、パキスタン、アフガニスタンなどだ。

支援者はどうコンタクトをとったのかという質問に対しては、法務省のパイプがあって聞いたとか当事国のコミュニティで出会うなどの形があるとのこと。首都圏では特に情報や団体組織の力は大きいと実感、やる人は好き嫌いなどせずうまく連携するフットワークが求められよう。


☆「ギリシャ哲学」(放送大学教育振興会)

価値 Wert

2007-01-21 00:33:01 | 一般記事
またフォーラスのネタです。スープカレー心にはまっています。14種の野菜カレーも食べられる。また、なんとここではあの玄米が食べられます。どちらも大好きな私は引き付けられているようです。野菜はよいにしても、玄米が付加価値のついた商品になる時代が来るかもしれません、もしくはもう来たのでしょうか。健康ブームが食品に付加価値戦略としてのトッピングやスパイスを織りなしています。某人気テレビ番組がひとつの食材を取り上げたとたん、その食材が全国スーパーから姿を消したりする事態が頻繁に起きうる時代になっています。

でも本来、玄米なんて、経済学に出てくる価格弾力性とやらがかなり低い数値のはず。つまり価格が大きく増減しても消費者の購入量はあまり変わらないはず。だからよく考えたら付加価値戦略になるというのはおかしい。「おいしい水」なんていうものも同じだ。いかに健康指向が商品化しているかがわかる。いつか「玄米あります。」の看板がファミレスの前に立ったりして。

20世紀の後半というのは、いま見ると、すべてが商品化していく過程のように映る。高度資本主義は消費主義、記号主義と姿を変え展開していく。商品のパワーは付録からコピー、さらに情報コンテンツに至って〈モノ〉を侵食していくようだ。

また、こうなると昔の貴族とか大金持ちという人たちの存在が薄く感じられる。かつては先祖の継承やら、社会の伝統やら、折り紙つきの遺産やら、モノに高価な価値としての威厳があった*。それらを巨大に所有してある人が金持ちの象徴だった。いくらお金で買えて取引可能とはいっても、実際は規制があった。資本主義とはいえども、商品以外のものをどれだけ持っているかという貧富の差があったのだ。それは観念的な戯れも誘発し、「うらやましい」や「素晴らしい」など人々の目に明確に映ったろう。これを「大小の格差」と仮に命名すると、今は「多少の格差」ではなかろうか。商品化されゆくすべてのモノを多く多方面に多様に「持って」いる人が富豪となる。だから超上流文化が育ちにくい。没落も早い。すべてが商品になったとして、それをたくさん持っている人が何になるのだろう。商品は富にはなりえない何かがある。生産関係が込められている。市場社会に参加させられているのだ。その中からしか富豪が出てこなくなった。


*だから貴族文化も育った。非生産的な物が創造されてきたのも、誇り高き苦しみがあればこそだ。