ふらいすたーげ

人生、一生、日々まじめ

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日本人の不思議

2009-09-26 21:01:27 | イベント
先週の土曜日になってしまうが(あの派手な桃紫の夕焼けの日)、東洋大学で環境哲学に関するシンポジウムに参加した。興味のある分野であるし、何より半分はドイツ人教授による講演でドイツ語が聞けると思い参加したのだが、あまり現在の環境問題に対する実地の取り組みの話がいまいちなく、またドイツ語は日本語で聞いたとしても大学院を越えるような難解な概念の連続で、私如きが聞き取れるはずもないものだった。結果、あまり収穫はなかった。

でも最後に有名な河本英夫さん(東洋大学教授)のお話が聞けた。この方は河合文化教育研究所でも寄稿や講演に参加されていた方だった。日独シンポジウムということもあり日本人の社会論が話されたが、それがコンパクトかつ鋭い射程を持つ内容で面白かった。

〈まなざし〉
氏は日本社会の基底に「すでに見られることを含んだまなざし」があるとして、人は周りに誰も見ていなくても誰かに見られているという。しかしこれは西洋哲学やキリスト神学に登場する他者や神ではない。まして市民社会でもない。「世間」に見られている。そこでその「世間」に見られ、「世間に迷惑をおかけした」とは一体誰に対して謝罪しているのかと問う。

〈敬語〉
日本語は話す前からすでに上下関係が含まれてしまっている。この世界から外れて語ろうとすると隠語化することを氏は指摘した。

確かに私はいつも外国語で考えたこと(描写・記述)を日本語化しようとすると、「人に迷惑をかける」ような言葉になる。例えば美術館訪問のレポートを書くとして、英語では「やばいくらいきれい」「派手さ―それは(関係代名詞)紅白に出てくる小林幸子のように―を持っていた」とはいえても日本語では言えない。
「やばい」は特定の限定された世界である。「小林幸子」はレポートを上掲するにどこか場所がふさわしくない。
二つとも公式な場面では使えない。よって友人・知人間にとどめるか、「やばい」などを話続ける人たちはアウトサイド化された集団を形成するため、その領域で語られることになる。そしてそういう領域の集団はその隠語で自らを顕示する(タメ口、ネットスラング、女子高生言葉など)。またスラングがこういった日本語の堅苦しい部分の穴を埋めているという論もある。
「私、オレ、僕…」などの一人称も、すでに話し手との関係で位置が決まっている。日本語での会話や文章は、何かを描出するというより人間との位置関係を確認する作業のようだ。「菊と刀」を書いたルース・ベネディクトはその位置関係を「地図」という。

〈バチ〉
挙げられた例が面白かった。
・農村でひょうが降る。ある家だけが全く被害がなかった。その家の人は自分が悪いような感じがする。
・バスが転落してみんな無事で一人だけ重傷なら、その人は「バチ」があたったことになる。
「バチ」っていったいなんだろう。突き詰めて論じられる人をあまり知らない。何の根拠もないのに何かが悪いとされ、不思議である。

死にたくない

2009-09-25 14:18:18 | 日記
久々に単なる日記を気ままに書いてみる。

近ごろ無職のくせにやたら忙しくなってきた。昨日今日で面接3つ。合間に資料作り、合間にハローワークとこうなるとけっこう混乱する。

就活が得意な人は恋愛も得意だと思う。非常に良く似ている。むしろイコールに近い気もする。

うまくあちらこちらに好感度をアピールできる人をうらやましく思ってしまうときがある。が、何をしようしまいと私はこの特異な人間を背負ってまっすぐ生きていくしかないことだけは確かだろう。ここまでクスリから立ち直ってきただけでも喜ばしいことだ。自分が本当にいただいたいのちだと思うのならそうする義務があると思う。

私の雇用保険によっていた就活特定財源もついに底が見えてきて、資金繰りが厳しくなってきた。先月からアルバイトも派遣も入れて探しているがそれでも見つからない。「本当に厳しい。たぶん一年はかかる。」と自分で言っていたが、本当にそうなり、予想以上に「本当に」厳しいので、仕事に就くということはここまで大変なことなのかと再び思い知らされた。前職ではかなりの金を浪費したので、その報いを自分で欲している部分もあったのだが、まさにそれを味わっている。お金の価値が偉大に見えてくる。お金がほしい。死にたくはない。かといってお金に惑わされて死にたくもない。

今日ももう少しで人身事故になりそうだった事件があった。山手線の目白駅で人が線路に降りて電車が一時止まった。近くだったので遠くから現場が見えそうだった。
原因は自殺ではないかもしれないが、最近本当に多い。都区内を電車移動していると3日に1回は「人身事故による遅れ」の情報を見かける。要は自殺ということだろう。
男の子がお父さんに「ねえなんで線路に降りたの? なんで!?」と執ように聞いていた。「そうだ! なんで降りたんだ!」と自分まで真剣に思った。子どもは正直である。その子の声を聴いていると、自殺がとてつもなく不自然なことに見えてきた。

社会保障をやっている人たち、運動している人たち、まずはセーフティネット作りだと思われる。この社会が一番怖いのはそこがなくなったから。正社員は非正規になったら、非正規はフリーターに、日雇いになったらと続き、その次、最後の「溜め」がない。住まいがなくなったり、餓死したりする。昔は最下層でも「なんとか」生きていけた。下層社会での労働者の集まりがしっかりとあった。そこも今や日雇いや請負でぐちゃぐちゃに壊された。生活保護も難しい。地域社会は解体され、それに代わる集まる空間もない。労働者にこの底がないから「下に落ちたくない」「落ちたらまずい」「もしも落ち続けたら」という脅迫感が社会階層全体を覆っている。これが人を苦しめている。

伝説の岩波文庫

2009-09-22 11:04:48 | 一般記事
最初期の岩波文庫から。

1927年初版のものは持っていたが、こんな言葉が最後に書かれていたとは知らなかった。

世界でこれだけの量の外書が翻訳されている国はたぶん日本だけ。岩波文庫も習ったというレクラム文庫の比ではない。とても誇らしいことだ。
中国人は漢文を勉強するためには日本で学ぶ必要があるからまず日本語を学ぶという話を聞いたことがある。翻訳大国ニッポン。

「~ものであります」などの表現はいかにも戦前らしい。今や普段こんな言葉を使う人はほとんどいない(鳩山総理を除く)。
「小さい形の中に」がどこかかわいい。
「たくさんの内容を盛る形式」はかたい。哲学みたい。
「購求の自由」の意味がよくわからない。庶民が書物を手に入れることの困難さがうかがえる。

私は江戸後期、明治・大正の本はけっこう好きだ。古典が苦手でもなんとなく読めるし、全く理解できないほど昔すぎない。今は大好きかつ尊敬する大黒屋光太夫が登場する「北槎聞略」を読んでいる。
江戸時代は明治政府が暗闇イメージを押し付けてしまった。明治・大正時代は大東亜戦争フラグとして戦後の左翼的教育で暗くされている。
現代の本は昭和・平成に、古典は平安時代に二元化されている印象が強い。確かに暗い時代でもあったろうが、それらの時代も含め、様々な時代の本が出回ることを願ってやまない。

空気読む自然

2009-09-20 08:03:50 | 日記
昨夕の夕焼け。神保町の三省堂書店交差点にて。
紫とピンクでシュールな美を放っていた。



薄い青と薄ピンクの中に白い雲が斑点のように彩りを与えているのも美しい。
お茶の水・神保町の明治時代を思い出させる街並みと重なり油絵のようだった。
自分に関係している明治大学やニコライ堂だけではない。私にとっては無数の思い出や信じられないことが起こったお茶の水エリア。昨日は東洋大学の講演に行き、帰りはニコライ堂の晩祷へ。
そして夜、どこで食べようかと歩いていると、なんと明大の向かいにジーンズメイトが! こはいかに!



ちょっと空気を読んでほしかった。私の思い出の通りに、24時間営業の量販店ががっちり座っていた。とはいえ何も文句のつけようがないから仕方ない。
図書館の向かいのカラオケ屋も微妙だが、あそこはまだ書泉と三省堂にくっついて目に入るからいい。うまく言葉にできないがこの通りにジーンズメイトはどこかKYな気がした。

知的生活の再開

2009-09-18 19:53:02 | 一般記事
私も民主の風を受けたのか、体調はよくないが精神的には調子がいい。半年近く、まともに本を読めない生活が続いていたが、久々に読書生活を再開。その間も聖書と神学関係とドストエフスキーは読んでいたからか、意外と読書スピードは衰えていなかった。でも3日(7時間?)で新書1冊を読めるくらのスピードなので自分としてはまだまだ遅い。徐々にならしていこう。

フィレンツェに感動したので、若きリルケのフィレンツェ日記を読み、そして新書(=写真=)にも入った。古典文学ばかりに偏ってきたから、時事、経済や文学は現代モノを読んでいきたい。といってもはじめが「イスラエル」になるのがやっぱり私なのか。

イスラエル問題は和平を叫ぶすらタブーかのようだ。日常化している当たり前の戦争。
イスラエルはアメリカをさらに複雑化させたような国だ。改めて本を読んでいるだけで、その民族、国家、宗教というものが織り交ざっている複雑さに困惑する。行かないとわからない国だろう。
まずこれだけの外人部隊で構成されたユダヤ国家がアラビア圏世界に取り囲まれていること自体がすでに異常としかいいようがない。この「異常」さが強迫的な国防意識を生み、先制攻撃をしかけるのだろう。

イスラエル人の中には、ユダヤ人、アラブ人、アラブ人のなかにもユダヤ教徒のアラブ人と非ユダヤ教徒のアラブ人がいる。アラブ民族のユダヤ人もいるわけだ。そのなかでさらにパレスチナ人問題が混合している。頭が混乱してくる。
また全世界からユダヤ教徒がやってきて作られた国ゆえ、アメリカ人、ヨーロッパ人、ロシア人、中国人、南米人、アフリカ人の習俗や文化が入り込んでいる。宗教もイスラム教、カトリック、プロテスタント、正教、単性論正教が混ざっている。当然アラブ人のキリスト教徒も多い。ユダヤ教徒といってもただの信者から正統派ユダヤ教徒、シオニスト、過激派もいる。

本の主題でもあったが、イスラエル問題のねっこにある原因は、樹立当初から「イスラエルをどういう国にしたいのか」という明確な目的が欠けていたことである。この国はシオニズムの動きから始まった。しかし思潮とは別にすでに移民は増えていた。原住民(アラブ人)との対立だけでも大変な闘いになるのに、昔からずっとこの国はいったいユダヤ教国家にしたいのか、ユダヤ人国家にしたいのか、イスラエル国民国家にしたいのかわからないから国内外で対立を生んでいる。つまりどんな民族も歓迎するがユダヤ教支配にのっとった国にするのか、宗教、民族的な定義のもと、「ユダヤ人」の国にして他は立ち退いてもらう方向なのか、それともアメリカのようにイスラエル国籍を持った国民主権の近代国家を目指すのかである。

この辺がはっきりしない限り、暫定自治区を増やしてもまたふりだしに戻りそうだ。

人種、宗教とは? さらに近代が生んだ、民族、国民とは何か? そして移民と原住民の衝突はそのまま国際的資本主義と文化の問題にかかわってくる。近代国家の生み出した負の諸問題が凝縮されてイスラエルに詰っている。