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ふらいすたーげ

人生、一生、日々まじめ

※Fleisstage(勤勉日々)は造語です。
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いのちの食べかた

2007-12-16 00:01:06 | オピニオン
話題の食のドキュメンタリー映画をついに見に行きました。セリフはゼロ。穀物、野菜、鶏、牛、豚肉の生産現場がひたすら続くという映画です。

中学のときの牛の解剖を思い出しました。

思ったよりショックは受けませんでした。それより意外に感動があったりもしました。原題は「Our daily bread」です。私たち日々のパン(糧)。毎日私やキリスト教徒は、「我が日用の糧を今日我らに与え給え…」と神様に祈りますがまさにそれでした。日々感謝すべきものは巨大機械の中とても残酷に悲しく作られています。なのにそれでも創造主は良いものを与えてくれます。そして人間がそこまで酷いことをしているとも思えないのです。こんな地獄の中にも感謝があるのです。動物を殺しまくっても、現場の労働者達は一生懸命働いている。仲良く飯を食べている。まだ人間と人間は愛し合って生きていくことができる。この地球と宇宙は感謝で作られていることを実感しました。動物は殺してもいい。結局は人間しかわからないのだから。動物がかわいそうに見えるのも我々がそこにある人間の性質によく似た状態を人間のように見るからです。かといってもちろん無作為に殺してはいけませんが。

ただそれでもショックなのは鳥でした。こんなことを毎日していたらインフルくらい出てきても人間の自業自得に思えてきます。牛豚よりとにかくその量がすごい。まだ子どものころ、養鶏場に満員で埋めつくされるニワトリを初めて見たとき驚いた覚えがある。まさにそれだった。数え切れない無数の野球のボールのようにヒヨコが集められ仕分けされる。そして、一匹一匹が人間なら寝られない、つまり立つくらいしかできない空間で餌づけにされ育てられる。挙げ句回収され籠に詰めるだけ詰めて殺す。どれだけいるかわからないニワトリたちの声が忘れられませんでした。

大学時代、農学部で先生からとさつの現場を一度みた方がいいと勧められたことがあります。やっと映画ですが見ることができました。そのとき「豚は殺されるとき喚くけど牛は従順」と彼はおっしゃってましたがまさにその通りでした。牛は神の意志であるかのように震え、身体を精一杯けいれんさせて死にました。「牛さんほんといい奴だなあ」と思ってしまいます。

あと確認できませんでしたが、見たところ雌豚に雄の精子を無理矢理突っ込んで子を生ませたり、雌牛に欲情した雄牛を止めて精子を採取する場面もあったと思います。これを見ていると、改めて、そういうことをするマニアックなアダルトビデオが気になりました。犯罪は問題外としても、やっぱりあんなもの作らない方がいいのではないかと思わされました。食を作るのにこんな手間がかかっているシーンを見ると。いかに同意の上での撮影とか風俗でも動物じみた行為をつつしまないといつか天罰がくだるでしょうね。マニアの好きにすればいいとか本人の自己責任と言えばそれまでですが。

結局動物を殺すこと、人が生きること、感謝すること、動物と人間の決定的な違い、動物にするように人間が人間にしてはいけないこと、…など様々なことを考えされる映画ではあります。この手が苦手な人もいるでしょうが、なにより現実を描いているドキュメントであり見て損はないはずです。お勧めできます。

米原

2007-09-15 22:30:33 | オピニオン
今日は教会の講義と晩とうに出たいため豊橋まで。金沢から豊橋まで普通列車で移動した。おかげで文庫1.5冊は読めた。

いきなり松任で15分くらい停車して参ったがそれ以降は速く、順調に着いた。

何せ、日本南北をほぼ鈍行制覇した私から見れば敵ではない道程だった。飯の食べ方、トイレの行き方にもコツがあるが、すべては慣れだ。

東海道側にでるとホッとした。巨大洞窟から抜けて太陽の光を浴びたようだ。やはり北陸は差別意識を問わず暗いことに変わりはない。アルプスと日本海に挟まれているため、必然的に地域一帯に籠りの気が流れている。北陸が一つの家のようで、そこから抜け出たようだ。悔しい。

途中当然、米原を通過した。相変わらずという言葉がこれほど似合う地はなかろう。相変わらず「米原」しかない何もない駅だ。乗り換え駅だから建物がでかいわりに何もない。普通ど田舎ならそれなりに田舎くさい建物やお店があるが、何もない。田んぼの真ん中に駅がある。乗り換えのための駅という位置が悲しい。新幹線も止まるのに、通路は短い、座る場所もない。なのに人でごった返して訳のわからない駅である。普段は誰しも無意識に乗り換えているだろうがよく観察すると面白い。人が移動するだけの駅というのも。客に交って駅員や売店のおばちゃんまで顔が早く乗り換えてねと語っているかのように見えてくる。これは冗談、気のせいだろうが。

名古屋からは乗り慣れた快速で豊橋へ向かった。

豊橋ハリストス正教会は大正4年に建立されたらしいが、立派である、ニコライ堂は別格だが、函館とも大差がないくらい、いかにも代表的な教会といった感じで外見的に立派である。あとで神父さんが話してくれたが、ロシアの援助なしで、日本信徒の献金で建立された珍しい建物とのこと。

講座は正教基礎講座と題して、325年ニケヤ公会議に端を発する信仰告白文のていねいな解説を行っている。今日は三位一体と聖神について。とくに聖霊を正教では聖神と訳す。

豊橋での学習会は聖水についてのお話し。生のそれにまつわる現実も交えて話された。

土曜のお祈りは、自分が薬の中毒になり抜け出しと復活すべてにわたっており、いつもあまり考えたくないものだが、おのずと立ち現れてきて感慨深い。しかし正教は教えの形や実践より生活を重視する宗教のためこうした祈りにでないと理解(verstand)は伸びませんな。

帰りはごちそうもいただきありがたい。しかしまさか、普段あまり飲まない酒と肉食を教会で?神父一家とするとは不思議なものだ。


追伸です。
そこで、写真の登場です。教会と教会家を離れ私が向かった先は、久々のなつかしのまんが喫茶です。いえ、今はネットカフェと呼ばれています。思えば、愛子様が生まれ、悪夢のテロとの戦いが始まりだした2001年のクリスマスイブは、新宿雑居ビルのネットカフェでした。このころからリタリンを用量を気にせず、真夜中に飲みはじめおかしくなりました*。そのころです。その後ニコライ堂の近くで夜が明けるまで救いを請いてました。やはり魔術地獄の行き着く先はいま回顧するとよく理解できません。

*その後私は中毒(02年)禁断症状と自宅療養(03年)外出と消費生活(04年)日雇い労働生活(05年)と復帰し今に至っています。

話を戻します。なんと意外にも私はネットカフェ使用暦が長いのです。ですから嫌いにはなれません。コンビニのようにどこの造りも似ているため、ずっと馴染んでいるとどこに行っても代わりのミニハウスに入ったようで落ち着くのでしょう。

また、今の難民問題の温床となっている場所のため、この世と日本経済がともに落ちて、落ち尽くした人間管理・収奪社会の象徴の場としてどこかその「辛さ」を愛しています。今を生きる厳しさが肌で伝わってくるとでも言いますか。だから「反撃」の基地のような気がして愛しています。ホテル、ビジネスホテルは経済成長時代からあるのもので、ただの無愛想な部屋にしか見えません。しかし10年まえなら、野宿の代わりの場所で漫画マニアがいたところです。オタクなキカイが置いてあるところです。不健康な環境です。それがなぜが逆説的に今の都市生活自体のの象徴になっている。置いてあるネットもセットで今の生活を代表するものに善くも悪しくもなってしまいました。これらが自然になじむことが、我々の生活が終わっているように感じられます。

テロと世界情勢

2007-09-14 22:42:36 | オピニオン
問 昨年9月11日、アメリカで発生した「同時多発テロ事件」、およびその後の世界情勢について800字以内で論じなさい。(02上智大・外国語)


 国際的テロ組織で、オサマ・ビン・ラディンを首謀者とする、アルカイダのメンバーがアメリカ国内で航空旅客機を乗っ取り、機体ごと世界貿易センタービルに突っ込んだ。アメリカは、史上初の本土攻撃を味わい、何千人もの一般死傷者を生んだテロであった。

 その後の世界情勢は、まず第一にテロ対策を生んだ。大型の戦闘機が、アメリカ軍事基地を攻撃したのではない。過激派といっても、大した武器も持たない、外見上は普通の市民が、日常の旅客機を武器にして、日常の風景を象徴するビルに突っ込んだのだ。ここから始まった事件ゆえ、過激派の市民は、未然に取り締まるべき対象と化した。全世界で犯罪や犯罪を現に行っている集団ではなく、犯罪を引き起こす可能性をいかに防ぐか、そういった個人の取締りをいかにすべきか、見えないテロとの戦いが開始されることとなった。一方、かかる日常のなかで生み出された「テロ」は、戦いを非日常から日常へと移した。未然の取り締まりは、個人と個人の犯罪ネットワークを断つ方向へと、検察や行政が世界規模で動いていった、台頭するインターネット文化は、見えない犯罪集団の交信基地として機能する。この事件は軍事力を備えた集団同士が戦争という空間で戦うという図式を変えてしまった。

 第二に防衛対策の整備を抜本化する動きが目立った。海に軍艦を備えていた国は、もちろん外敵を意識するが、主に国と国のパワーバランスを意識していた。日本であれば、アメリカに追従し、中国や北朝鮮の東側勢力を警戒した。極東の治安維持を図るには、沖縄基地や本土の基地が最重要の防衛基点であった。しかしその重要性が「事件」により揺らいだ。テロ集団は個人個人で行動し、世界中に「散らばり」、ある時にいくらかが集まり、テロを起こす。こうなると対応策は巨大な監視システムを構築し人員をいかに適切に配置するかとなる。明白に目に見える攻撃を意識した、施設の形成、土地戦略は、変革を迫られている。

(900字程度で解答)

身体文化2

2007-09-14 22:39:45 | オピニオン
 我々は日常的に身体を動かしているが、その身体と常に接し合ってきた衣服もまた身体であると言えよう。身体と衣服の間に空気が閉じ込められ、衣服を変える度に異なった運動が行われる。

 そこで我々日本人が着ている衣服について考えてみる。明治時代以前、洋服文化が浸透する前の日本人たちは、例えば浴衣やわらじなどといった、わりと軽くはおるように身に着ける着物を多く身に着けていた。なるほど、洋服を着ていた西欧人たちも、確かに冬はコートをはおる。夏になれば、サンダルを足に引っ掛けてはおるように着る。しかし彼らは、基本的に空気を密着させて着る。空気を密着させ、服の用途に応じて体を保湿させることは、服本来の機能である。まさに機能として服を使用している。サンダルを例にとると、とても風通しのよい履物であるが、少しの部分を「密着」させ、多くの部分に風通しという空間を作っている色彩が強い。服は、空間を区切り、保温をし、自分の身を守るようにして作られている。

 一方、日本の服装は、古来から、服を外界との境界がよくわからないように着る服装であったとも言える。それを如実に語るのが始めに挙げた浴衣、わらじである。夏の夜に外出すると、今でも浴衣を着た大人、わらじ下駄などを履いたこどもはよく見かける。浴衣は帯でもって服を締めるため、その度合いは着る者が自由に制御できる。また、その幅が広い。締め付けも旅館での寝巻きのようにラフに着てもよい。わらじは紐で結ばれているが、様々な隙間が空いている。履き方によってもそれは様々に現れよう。これらは何を意味するか、密着の度合いが揺らいでいることは、外界の受容が揺らいでいることである。日本人は柔軟に外界の「空気」とうまく付き合ってきたことは歴史が証明しているが、かかる技術もこうした衣服文化を持っていたからではなかろうか。外界の自然は、雨ひとつとっても、雨、小雨、大雨、霧雨、梅雨、台風、みぞれ、夕立と微妙な言葉で表されてきた。外界の変化をかぎ分け、付き合っていくために、密着のあいまいな衣服が発達してきたと見てはどうだろうか。

 もし、あいまいな空気を受け入れるというこの日本衣服にまつわる非密着性が、揺らぐ密着性が見直されるなら、それは教育上も利点が大きいに違いない。微妙な自然の変化に敏感となり、それに順応し、それを、学びやすくなるというだけではない。場の空気を読めとか、共同体への従属や幻想が求められてきたこの国では、周囲の流れの変化のようなもの(風)を知ることは、非常に有益なこととされてきた。道徳を育み、規範を学ぶのも、この国では他者に習うことであった。自然、外界を受け止める衣服の空間が本当に現代服にくらべてあいまいなものならばそれは重要視すべきである。

人間の高貴さ

2007-08-12 00:34:38 | オピニオン
 「高貴」なる言葉は、気まぐれな人が好んで使う言葉に化してしまった。先生、医者など権威者の威厳は、日に日に落ちている。また高貴さの代名詞のように、尊敬された歴史上の人物や貴族は、個人が高尚な趣味として尊敬する対象となった。そして金持ちが、一夜にして交代するような現代では、富豪文化へ対する高貴な念も変動し弱まる。私たちは日々高貴さに追われている。個人が勝手に高貴なものを決めつけ合う、ダイナミズムに生きている。

 しかし、かつては静的だったのだ。高貴さは根強かった。集団よりも個人の自由を重んずる、近代の政治運動や法制が進行する以前は。著者パスカルのように、敬意を払うべき制度があり、尊敬をもたらす現実的で有効な特性があると主張する者がいたのである。制度だけではない。特性も、有効で静的な社会の規範やルール、向かうべき方向などが、しっかりとしていたから、「本来の高貴さ」と称して人間の中に見出せたのである。例えば、この時代は戦争で勇気ある人を尊敬するということになれば、それは一生その人の中にも、社会から見ても強く残るだろう。だが、現代の視聴者が野球の勇気あるプレーに少し尊厳を覚えても、それがはたして勇気という特性の定義にまでつながるのか疑問である。ルールや秩序が崩壊した世界では、制度に、特性に、個人たちが意味を与えようとしてきた。再び野球を例にとると、大リーグが一番偉大な制度であり、メジャーリーガーの幾人かは多くの人を尊敬させる有効な特性を有しているということになろう。万が一、球団経営が破綻する可能性も、リスクも持って。

 社会全体の手本を頼りとしない、気まぐれな高貴性が無数に生み出される。しかし、かつての静的な高貴性が動的なものに移行したととらえれば、この規範の危機を乗り越える発想の転換となるだろう。現にスポーツ選手のドラマの共有や、インターネット等を介しての現実での情報共有の拡大のように、動的な、「いま、ここ」での生きた高貴さを生む念や期待は高まってきている。

(02 上智大・文・仏)


◎近頃よく書く02年度の小論の我が拙劣な解答を載せることにしました。正直ほんとヤバイです。自由に書く力は上がっていても知識抜きで論じる即戦力を問われる大学受験小論はほんとに辛い。