濁泥水の岡目八目

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金丸信の「馬糞」と「仁義なき戦い 完結篇」のセリフ「牛の糞」

2017-11-09 14:15:13 | エッセイ


「馬糞の川流れ」とは、金丸信が政治家の派閥が分裂を始めて止まらなくなり跡形もなく消え失せることを揶揄した言葉である。また「牛の糞にも段々があるんで。」とは、世間様から見たら牛の糞みたいな俺達にも格や序列があるんだ、というヤクザの啖呵である。馬糞と牛糞の違いはこの二つの言葉で明らかなのであるが、それを説明したい。
 馬糞を川に放り込むと、浮きながら流れて行く。始めはそのままの形であるが水を吸って二つや三つに分裂し、それらがまた分裂を始めてちりちりバラバラになって消えてしまうのである。つまり馬糞は水に浮くのであり、水によって分解されるのである。金丸信はそれを見たのか聞いたのかして知っていた。馬糞の写真を見れば、コロコロとした団子状で荒い繊維の塊であると分かる。拾って川に放り込めるし、水を吸えば分解することは理解できる。
 一方、牛糞の写真を見てほしい。ねっとりとした流体状で手でつかむ気にはなれないし、水に浮くとも思えない。そのかわり大きく平たい形であるから、多少ではあるが段差が付く。大小はあっても段差など無い馬糞とは違う。牛や馬が普通にいた昔の人々には、そんな事は常識だったのだろう。馬糞と牛糞がこれほど違うのは、草の消化能力が違うからである。草や木にはセルロースという成分が多く含まれる。三分の一から二分の一もあり、繊維状で草木の形状を支えている。このセルロースが極めて消化しにくい物質なのである。牛も馬も自力では消化出来ずに、消化器官内の微生物に分解してもらい養分を吸収しているのである。実は木を食べるシロアリも同じであり、消化器官を殺菌して微生物を殺してしまうと餓死するそうである。ハキリアリが木の葉に菌を植えてそのキノコを食べるのもセルロースを分解してもらう為だろう。一匹一匹の消化器官内で微生物に分解してもらうより、菌による巨大なセルロース分解工場で出来た栄養価の高いキノコを食べるほうがずっと効率的なのであろう。自力でセルロースを消化出来る動物はいないという。
 馬は大きな盲腸を持ち、その中の微生物の働きでセルロースを分解して養分を吸収する。牛には胃が四つもあり、そのうち三つに微生物がいる上に分解しきれない固形物は口に戻してかみ砕いて胃に戻す。いわゆる反芻である。この為に牛のセルロース分解吸収能力は馬の三倍もあるという。つまり馬糞は未消化のセルロース分が多く含まれているので目が粗く水分も少なく水に浮くし、水に漬けるとバラけてしまうのである。一方牛糞は、セルロースを可能な限り分解し尽して養分を吸収した残りカスなので粒子が細かくて水分も多くてねっとりしている。
 「馬糞の川流れ」と「牛の糞にも段々があるんで。」という言葉もその意味を調べれば、色々と興味深い事実が分かる。
 「面白いものは自分で見つけるんだよ、待っていようと向こうからは来ねえぞ。」とは私の敬愛する今東光和尚の言葉であり、私の座右の銘でもある。

 



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