長崎の証言誌1978年第10集より
失対事業に生きる被爆者たち
―自労の仲間たちと歩んだ歳月から―
権藤菊枝(全日自労長崎県支部書記長)
1 「国際文化都市」という名が原爆で破壊された長崎市に与えられて、その戦災復興がやっと端緒についた昭和二十七年、わたし達は諫早から長崎に移り住んだ。長崎駅前、いまの県営バスターミナルの駅がわの歩道に、二本のサワクルミの樹が植えられていた。このサワクルミは、松山の爆心地から一〇〇〇メートルの三菱兵器廠構内で、原爆の爆風により地上一・五メートルのところで吹き折られたものだった。「長崎県」と白いペンキぬりの札をさげて立っていた。幹のさしわたしは三十センチもあったろうか。かなりの大木の、それも木質の硬いクルミが、ぐさっと折れちぎれた低い樹のなりで、それでも勢よく葉をしげらせ、木陰をつくっているのをみて、私は感動した。私も敗戦の翌年七月、奉天から三人の子を連れて引き揚げて来、根こそぎものをなくして、からだひとつをもとでに、この原爆の長崎に住みつこうとしていた。原爆クルミは、そこを通るたびに、わたしに慰めを感じさせた。
2 わたしは百姓の子だから、土や木ととっくむ仕事は苦にならない。日ぜにのほしい時なので、土木現場に働きだした。三菱造船が、ビーグル号を受注する前、長崎は戦後のインフレと不況(というより経済の混乱そのもの)のまっただ中にあった。仕事のえりごのみの出来るような状態ではなく、失業者はそこここにあふれていた。昭和二十五年四月、吉田内閣はあふれる失業者群の救済の名目で、失業対策事業を開始した。その直後に始められた朝鮮戦争のもとで、高まる政治不安や反戦独立の気運をそらす治安対策ともなっていた。この失対事業に雇われた労働者が、全日本自由労働組合(全日自労)を結成して、自分たちの生活と権利を守ろうとしたのは、いうまでもなかった。いま平和公園といい、文化会館から松山公園まで一帯、原爆の爆心地を公園化したのが、唯一の「文化都市」の顔つくりであったろうか。いま平和像を立てて観光地になってしまった岡町の丘は、もとの長崎拘置所のあと地である。その場所でわたしらが公園づくりで働いていたある日、国道がわのガケにいくつもほられている防空壕から、27年になってもまだ残っている被爆者の遺骨をあつめたことがある。
深い防空壕は、水びたしになっていた。男の工夫達がふんどし一つでその壕にはいっていき、水びたしの遺骨をあつめた。あの恐怖の日……。捕われて拘禁されていた人達が、避難するひまも與えられず、被爆する。死傷者が防空壕にはこばれる。そして、呻きあえぎながら、くらやみの壕の中で死んでいく。一ばん奥の、片すみで死んだ囚人は死体処理の時も取残されて、壕の中で腐爛する。雨が降る。水びたしの骸が水びたしとなり……口に言えないいたましさで、私達はその遺骨収集を見ていた。
有吉佐和子は、「数多い戦記が書きつがれたが、軍隊に適応できず、重営倉のなかで発狂した兵隊の記録はまだ書かれたのを見ない」と言っていた。あの遺骨はおそらく、平和像の傍の原爆無縁仏の遺骨の中に収められているだろうと思う。どんな嫌疑で、どんな人があそこで囚われていたろうか。どんな思いで最後のまなこを閉ざしたろうか。私はあの碑のまえで、いつもそのことを思いながら合掌する。(ずっとあとになって、浦上刑務所での百五名の死者の中に、「間諜・利敵・陰謀・窃盗」等の容疑で捕らえられた趙文章ら三十三人の中国人と一人の朝鮮人がいたことが判明した。『長崎の証言』第六集、内田伯証言)
3 駅前のあのサワクルミの樹が姿を消したのは、同道の幅が拡げられ、くるまの往来のようやくはげしくなりはじめた昭和二十九年から三十年頃であったと思う。安保闘争のときは、すでにあの樹はなかった。国そのものが原爆を忘れたがり、長崎駅前にれいれいしく原爆の記念樹をおくことは、県も都合がわるくなったらしいと思った。
その頃、わたし達、失業対策事業にはたらく仲間は、千五百人ぐらいいた。引揚げ、原爆、疎開、三菱三工場からの閉め出され、レッド・パージ、みんなここに流れ込み、その日ぐらしをした。失業事業は、明らかに治安対策として発足した。あの二十五~三十年の時代、あれだけの生活不安の中でこの事業がなかったら、日本は今のイタリヤのようになっていただろう。
仲間の中に、たくさんの原爆被爆者がいた。わたし達はとらえがたいそれら仲間の状態をしらべ、原爆に縁のふかい平和公園に、被爆者や高齢者を中心に軽作業の現場をつくった。公園の草とりや、新しく移植した文化会館の植込みの水やりが仕事であった。広い長崎市の方々に散在する作業現場まで、毎朝歩いていく苦労がなく、平和公園にまっすぐに来られるという恩典であったが、われもわれもと希望した。その頃、千五百人のうち、半数は被爆者であったろう。妻子をうしなって、老人ひとり残った被爆者は、あわれであった。黙って働いて、黙ってひとりきりの家に帰る。なんにも言わない。そういう人を、何人か見送った。私はそういう人達の顔をいくつか思いうかべるとき、きまったように「無明長夜」という言葉を思った。くらがりから生まれてきて、きびしい戦争の中を生き、そのある日、一瞬に身寄りを喪って孤独の生涯となる。何が自分をそうしたのか、なにもわからないし、わかってもどうしようもない。くらがりの中に手さぐりしているような生涯。何日か顔がみえないので、たずねて行ってみると、死んでいたということが何度かあった。それでも日雇健康保険ができてから、病院にかかれるようになってよかった。入院しても、老いた被爆者はよく死んだ。健康保険の埋葬料では、とむらいも出せず、わたし達は長崎医大にその亡骸をおくった。学用解剖がすんだあと、手厚く葬ってくれるからである。しかし、医大に死体をわたすについても、心は痛んだ。
一昨年、残りすくなくなってゆく被爆者の仲間によびかけて、「自労被爆者の会」をつくった。被爆の仲間は、二百五十人あまりになっていた。拘置所の白骨が忘れられないように、医大にいった仲間の骨のことは、まして気がかりである。とうとう墓碑をつくろうと提案した。納骨するために、長大の解剖体提供者の名簿をしらべにゆき、記憶にある限りの人の名を抽きだした。国立大学はさすがに入念に、その遺骨のひきとり手を探し、それぞれおさまるところに収まっていた中に、十人あまり、引き取り手のない、医大に保管された仲間の骨があった。二人は骨格標本としてまだ医学生のやくに立てられていた。その二人もあわせ(用がすめば、この墓碑にいれてもらうことにして)赤迫に墓をつくった。「敬朋」と市長が墓碑銘を書いて下さった。
せめて、たっぷりと墓の夏の日陰となるようにあのサワクルミの木を植えたいと思うが、墓地はせまく、あのクルミは行方を知ることが出来ない。また、あの頃、仲間たちが出していたサークル誌『芽立ち』のなかに、いくつかの反原爆詩や証言が掲載され、私も二、三回短歌などを投稿したが、それも今は行方不明になっている。
4、松尾さんはもう七十二才になる。原爆孤老である。まい日すこし脊をかがめて仕事に出てくる。館内の立てこんだ軒なみの大家さんの家にゲヤをかけて住んでいる。二十年ちかく前の被爆者現場時代から平和公園で働いている。
松尾さんの現場の小屋には、猫がなん匹もすみついている。捨て猫を、みんなが哀れがって御飯をやるからである。松尾さんは、せめてこの猫を一匹、家で飼いたいと思う。すりよって来て、あまえて耳をかんだりする柔らかい生きものと一緒に住めたらとせつなく思う。でも大家さんは、猫を飼わせてくれないのである。
松尾さんは、日曜日やアブレの日、おさかなと御飯をもって館内から平和公園の作業小屋までいく。猫が飢えていそうで心配だから。猫はよく手入れをしてもらい、おさかなをもらっておとなしく松尾さんが、働きに来てくれるのを待つ。松尾さんは被爆者であるが、いまのところ格別痛んだり病んだりというところはない。
松尾さんと親しくなったキッカケも原爆遺体のことにかかわっていた。松尾さんは近くに住んでいたOさんと仲がよかった。Oさんの息子は××学会に入信していて、母親がなくなった時、ABCCに遺骸をわたすように信者仲間からすすめられていて、それがOさんの苦の種であった。「原爆でやられて、また死んだあとまでからだを切り刻まれとうはない。」と、いつも松尾さんは嘆いていた。
「世のため人のためというけれど、私はされとうない。」仲のよいOさんがなくなって、いよいよ遺体をABCCに引きわたすという日、松尾さんが私に電話してきて、あそこにわたさんごとしてくれろ、という。故人の遺志を他人が主張するのもへんなことであったが、ともかく、医師、ABCC,最後にその息子とかけまわって、口説き、とうとうまっすぐ火葬場におくることにした。松尾さんは、ひどく感謝し、ようやくほとけ様に顔むけできますといってその後あつく私を信用してくれるようになった。ABCCは、死体を切り刻んだりはしないのだけれど、Oさんや松尾さんは、被爆者はそうされると、かたく信じこんでいたのだった。(全日自労長崎県支部、長崎市稲佐町三-三五)
※証言誌に掲載されたままの文字・言葉を使っています。