1日
父親がひっきりなしにチャンネルを変えていたので、正直年末にどの番組を観ていたのか記憶に無い。
ここ数年の恒例となった菩提寺への札の受け取りには、いつもより遅めの0:30出発。それでも結構待たされた。
喉風邪が着々とする中、決死の暗夜行路であった。
ちなみに、待合場所となっているテントではおじさんがひっきりなしに煙草を吸っていた。寒いからストーブの前から逃げるわけにもいかず、まったく苦行である。
そして昼間にはyuz氏といつもの徘徊。

いつも最初に向かう大宮大神は、例年より飾り付けに気合いが入っていた。

雅楽のテープをBGMに流し、お札なども売っているのである。例年の無人神社っぷりとは一味も二味も違う。
更に菩提寺を経由し(ここで長い揺れに遭遇)、長めに歩いていつもより遠くへ足を伸ばす。

2年前、もしくは3年前の夏にも訪れたこの寺である…と書いておいて、まだこのブログで取り上げていなかった事に気付く。

関東三大檀林のひとつ、中村檀林が開かれ隆盛した由緒のある寺であり、この鐘楼は町の文化財にもなっている。
前回yuz氏と訪れた際は、檀林の歴史や資料も実際に見て写真なども撮ったはずだったのだが…まさか書いていなかったとは。

線香一束を買い、火を点けて供える。この方がお寺参りらしくて良い。
帰ろうとすると、お寺の番をしていた方に「せっかくだから鐘を突いていけ」と勧められる。

実はこのお参りをする前に鐘を見た際、こんな張り紙が櫓の入り口に張られており、「許可を取るのが面倒」というおよそ大人らしくない理由でスポイルしていた所だったのだ。お墨付きがもらえたのならば、突かない理由は無い。

だが問題なのは、実際に櫓の上に上がって突くのではなく、下へと長く張られた縄を使って鐘をヒットしなければならない。良い音で鳴らすにはそれなりの反動が必要になるのだが、隣にはすぐ近くに建物があり、それほど大きくフォロースルーを取る事が出来ないのだ。
よって写真のように、実に中途半端な位置から振りかぶらなくてはならず(これでも目一杯なのだ)、僕もyuz氏も「カーン」と情けないよう音しか鳴らす事が出来なかったのであった。
帰り道ではお寺の方に甘酒を振る舞われるも、二人とも苦手だという理由で断ってしまった。なんだかせっかく勧めてもらったのにとても申し訳ない気分で一杯なのだが、僕に至ってはアルコールは匂いですら駄目なのだから仕方がない。
わざわざありがとうございました…とここに書いても仕方ないのだが。
yuz氏と別れた後、親戚宅へ出発。元日を実家以外で過ごすのは久しぶりとなる。
2日
そのまま一泊し、朝から当地を歩く。喉風邪は更なる悪化の一途を辿っていた。
昨年、この街にかつての城主である本田忠勝の墓があることを知り、年末に実際に訪れたもののカメラを持っておらず、スマートフォンも電池切れ寸前で写真撮影は出来なかったのであるが、それのリベンジである。

それなりの距離を経て到着。正月なのに人影は無い。往路も賑わっているのはコンビニのみ。
いや、正月だからこそなのか。

家康の三河時代からの重臣だけあって、本田忠勝には常に重厚なイメージがある。
敵将に「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」とまで言わしめた人物がこの街の初代藩主なのだから、よく考えれば凄い話である。

忠勝の墓地へ続く道には、ちょっとした公園があった。戦国の歴史ファンを見込んでのものであろうか。

上の写真の右方にあった物見台から、遠くの天守閣を望む。実際にはもっともっと小さく見える。

現在でも綺麗に管理されている、猛将・忠勝の墓地。
周りは普通の一般の方のお墓なので、一緒の場所に眠っているというのは特別な事なのだろうなぁ…と思っていたらそれもそのはず、この街の名士ばかりであった…きっとお高いんでしょうね。
3日
久々に馬論とボールを蹴り合う。何となくいつも通りの正月になってきた。
僕らがちょっと場を離れた後、四人家族がとても楽しそうにサッカーに興じているので、何となく申し訳なくなり徘徊へ出発。
昨年僕が見た、小学校時代以来会っていない知人が姿を見せた夢の話や、10年以上会っていない友達から馬論に届いた年賀状の話など、何となく不思議な話を沢山した。
古い友人、というのがキーワードで、どうも僕らも過去の記憶の扉が突然開いてしまうような歳になってきた、ということなのかもしれない。
父親がひっきりなしにチャンネルを変えていたので、正直年末にどの番組を観ていたのか記憶に無い。
ここ数年の恒例となった菩提寺への札の受け取りには、いつもより遅めの0:30出発。それでも結構待たされた。
喉風邪が着々とする中、決死の暗夜行路であった。
ちなみに、待合場所となっているテントではおじさんがひっきりなしに煙草を吸っていた。寒いからストーブの前から逃げるわけにもいかず、まったく苦行である。
そして昼間にはyuz氏といつもの徘徊。

いつも最初に向かう大宮大神は、例年より飾り付けに気合いが入っていた。

雅楽のテープをBGMに流し、お札なども売っているのである。例年の無人神社っぷりとは一味も二味も違う。
更に菩提寺を経由し(ここで長い揺れに遭遇)、長めに歩いていつもより遠くへ足を伸ばす。

2年前、もしくは3年前の夏にも訪れたこの寺である…と書いておいて、まだこのブログで取り上げていなかった事に気付く。

関東三大檀林のひとつ、中村檀林が開かれ隆盛した由緒のある寺であり、この鐘楼は町の文化財にもなっている。
前回yuz氏と訪れた際は、檀林の歴史や資料も実際に見て写真なども撮ったはずだったのだが…まさか書いていなかったとは。

線香一束を買い、火を点けて供える。この方がお寺参りらしくて良い。
帰ろうとすると、お寺の番をしていた方に「せっかくだから鐘を突いていけ」と勧められる。

実はこのお参りをする前に鐘を見た際、こんな張り紙が櫓の入り口に張られており、「許可を取るのが面倒」というおよそ大人らしくない理由でスポイルしていた所だったのだ。お墨付きがもらえたのならば、突かない理由は無い。

だが問題なのは、実際に櫓の上に上がって突くのではなく、下へと長く張られた縄を使って鐘をヒットしなければならない。良い音で鳴らすにはそれなりの反動が必要になるのだが、隣にはすぐ近くに建物があり、それほど大きくフォロースルーを取る事が出来ないのだ。
よって写真のように、実に中途半端な位置から振りかぶらなくてはならず(これでも目一杯なのだ)、僕もyuz氏も「カーン」と情けないよう音しか鳴らす事が出来なかったのであった。
帰り道ではお寺の方に甘酒を振る舞われるも、二人とも苦手だという理由で断ってしまった。なんだかせっかく勧めてもらったのにとても申し訳ない気分で一杯なのだが、僕に至ってはアルコールは匂いですら駄目なのだから仕方がない。
わざわざありがとうございました…とここに書いても仕方ないのだが。
yuz氏と別れた後、親戚宅へ出発。元日を実家以外で過ごすのは久しぶりとなる。
2日
そのまま一泊し、朝から当地を歩く。喉風邪は更なる悪化の一途を辿っていた。
昨年、この街にかつての城主である本田忠勝の墓があることを知り、年末に実際に訪れたもののカメラを持っておらず、スマートフォンも電池切れ寸前で写真撮影は出来なかったのであるが、それのリベンジである。

それなりの距離を経て到着。正月なのに人影は無い。往路も賑わっているのはコンビニのみ。
いや、正月だからこそなのか。

家康の三河時代からの重臣だけあって、本田忠勝には常に重厚なイメージがある。
敵将に「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」とまで言わしめた人物がこの街の初代藩主なのだから、よく考えれば凄い話である。

忠勝の墓地へ続く道には、ちょっとした公園があった。戦国の歴史ファンを見込んでのものであろうか。

上の写真の右方にあった物見台から、遠くの天守閣を望む。実際にはもっともっと小さく見える。

現在でも綺麗に管理されている、猛将・忠勝の墓地。
周りは普通の一般の方のお墓なので、一緒の場所に眠っているというのは特別な事なのだろうなぁ…と思っていたらそれもそのはず、この街の名士ばかりであった…きっとお高いんでしょうね。
3日
久々に馬論とボールを蹴り合う。何となくいつも通りの正月になってきた。
僕らがちょっと場を離れた後、四人家族がとても楽しそうにサッカーに興じているので、何となく申し訳なくなり徘徊へ出発。
昨年僕が見た、小学校時代以来会っていない知人が姿を見せた夢の話や、10年以上会っていない友達から馬論に届いた年賀状の話など、何となく不思議な話を沢山した。
古い友人、というのがキーワードで、どうも僕らも過去の記憶の扉が突然開いてしまうような歳になってきた、ということなのかもしれない。