先週、正式な退社日を告げる退職届を会社に提出しました。長年、お世話になった会社をついに去る、ということについて、やっぱり心がざわつきますね。ちょっぴり、これでよかったのかな、っていう猜疑心も残ってたりして。でも99%、これでよかった!これ以上良い退社の方法はない!っていうくらい、絶好のタイミングとなりました。
事情は色々とあるのだけど、最近、会社の経営方針が変わったり、上司や社長も替わったりして、これ以上、この会社に残っても学ぶことが少ないなという時期に来てたというのが大きい。僕も、さらに成長するためには、生ぬるいこの会社でこれまでのほほんと生きてきた自分と決裂する時期が必要だったんだなぁと、昨晩見た映画The Mudge Boyを見ながら考えさせられたのでした。
■ ■ ■
さて、その映画The Mudge Boyについてご紹介しましょう。これ、久々に見た傑作ゲイ映画。SHOW Timeという、アメリカ版Queer as Folkを製作・放送していたケーブル局が作ったテレビ映画の模様。(確かに、一般の映画館でも上映するにはショッキングかも・・・。R指定確実。)
日本人による感想も発見しました。ここで読めます。
ストーリーは、この写真↑が全てを物語ってますね。マッチョなファーム・ボーイ、ペリーと、彼に憧れる、ちょっと変わったチキン・ボーイ、ダンカンのひと夏の物語。
詳しいあらすじは先ほどの日本語のブログに書かれてるのでここでは割愛。僕が、この映画がよく出来てるなと思った理由を少しご紹介しましょう。
<チキン(鶏)が、とても効果的な象徴性を醸し出してる>
しかも、英語ならでは。例えば、ストーリー上、急に他界した母親が取り寄せ、育てていた鶏なので、当然、亡くなった母親の代替役を担ってます。特に、茶色い鶏の雛を取り寄せたはずが、1羽は雄鶏に、そして1羽だけが真っ白の雌鳥に成長したこともあり、息子ダンカンは、この白い雌鳥に執着するようになります。彼は、母親がいない寂しさを紛らわすために、食事を取るときも、お風呂に入るときも、寝るときも、そして買い物や配達のときにもこの鶏を肌身離さず連れて歩きます。(白い色は、清らかさを象徴しているのは言うまでもありません。)
そして、英語でチキンというと、腰抜け、という意味というのはよく知られたことですよね。一人ぼっちで奇妙な言動が多いダンカンは、田舎の同世代からチキン・ボーイ(腰抜けボーイ)と呼ばれ、からかいの対象になってます。ここで、チキンは、母親ではなく、ダンカン彼自信の象徴になってます。これは、ダンカンが、母親の形見である彼女の服やコートを裸体にまとって就寝するシーンなんかと織り交ざって、ダンカンがますます母親と一体化していくことも暗示します。
ショッキングなシーンがいくつか含まれているこの映画で、一つ目の場面が、鶏を落ち着かせるためにダンカンが取る行為。これはまだ映画を見ていない人のためにネタ明かしはしませんが、か・な・り、ショッキングです。演技とはいえ、この10代の役者さんが、よくもこれをやったなと思います。しかも2、3回も映画の中で出てくるシーンなのです。英語の表現で、自慰行為をすることを"to choke the chickin(鶏の首を絞める)"と言うことを知っていると、このシーンをより深く理解できるでしょう。
そして、交流を通してある種の友情が芽生えていた二人なので、この鶏を落ち着かせるための秘密を、ダンカンはペリーにこっそりと教えます。それは、ある種、自分と母親の一体化を、ペリーにこっそり見せた、という暗示になってます。その次のシーンでは、この暗示が、暗示ではなく明示的に表現されています。ペリーとダンカンが、二人で納屋にこもってたわいもない話をしている最中、ダンカンの母親の純白のウェディングドレスを発見します。そして、ペリーに言われるがままに、ダンカンはそれを身にまといます。この純白のウェディングドレスをまとった瞬間、ダンカンは、完全に純白の鶏の化身になります。これは、鶏が母親であり、ダンカンが鶏であり、そしてダンカンが母親、つまり女性に昇華した瞬間でした。
この瞬間的なダンカンの変身を見て、ペリーは我を失います。
この先は、是非、映画で見てください。もうここまで書いたら、次は何が起きるか、簡単に想像できると思いますけど・・・。
僕は、映画を通して、この鶏の運命が一番、気になってしょうがありませんでした。結局、この鶏は、
⇒①母親としての象徴
⇒②ダンカン自身の鶏(母親)との一体化としての象徴
⇒③そして鶏がペリーへと置き換わる大転換としての象徴
という「進化」を遂げていきます。でも、それは進化というより、問題の悪化と呼んだ方がいいかもしれません。純白で神聖なる母親としての象徴であった鶏が、ペリーという血気盛んで性欲旺盛な10代の青年によって「茶色い」鶏へと貶められ、そして鶏は、「小便臭い」ペリー自身の象徴へと変容したとき、ダンカンは自分と鶏との関係性を変えないといけない限界に直面します。そのとき、ダンカンが取った行動とは?!
その後のシーンで、悪ガキたちに鶏を奪われ、自分も同じように羽交い絞めになるシーンが、この映画のクライマックスであり、ダンカンが14歳の少年から、大人になるためにleapして成長した瞬間でもある。それは「母親」との決別であり、チキン(弱虫)である自分との決別でもある――。
ただ、ダンカンの成長は痛いほど表現されつくされているのに、ダンカンへの思いに戸惑い悩むペリーについては救済がなされていない。それが一番残念でした。
皆さんは、この映画を見てどういう感想を持ちましたか?
事情は色々とあるのだけど、最近、会社の経営方針が変わったり、上司や社長も替わったりして、これ以上、この会社に残っても学ぶことが少ないなという時期に来てたというのが大きい。僕も、さらに成長するためには、生ぬるいこの会社でこれまでのほほんと生きてきた自分と決裂する時期が必要だったんだなぁと、昨晩見た映画The Mudge Boyを見ながら考えさせられたのでした。
■ ■ ■
さて、その映画The Mudge Boyについてご紹介しましょう。これ、久々に見た傑作ゲイ映画。SHOW Timeという、アメリカ版Queer as Folkを製作・放送していたケーブル局が作ったテレビ映画の模様。(確かに、一般の映画館でも上映するにはショッキングかも・・・。R指定確実。)
日本人による感想も発見しました。ここで読めます。
ストーリーは、この写真↑が全てを物語ってますね。マッチョなファーム・ボーイ、ペリーと、彼に憧れる、ちょっと変わったチキン・ボーイ、ダンカンのひと夏の物語。
詳しいあらすじは先ほどの日本語のブログに書かれてるのでここでは割愛。僕が、この映画がよく出来てるなと思った理由を少しご紹介しましょう。
<チキン(鶏)が、とても効果的な象徴性を醸し出してる>
しかも、英語ならでは。例えば、ストーリー上、急に他界した母親が取り寄せ、育てていた鶏なので、当然、亡くなった母親の代替役を担ってます。特に、茶色い鶏の雛を取り寄せたはずが、1羽は雄鶏に、そして1羽だけが真っ白の雌鳥に成長したこともあり、息子ダンカンは、この白い雌鳥に執着するようになります。彼は、母親がいない寂しさを紛らわすために、食事を取るときも、お風呂に入るときも、寝るときも、そして買い物や配達のときにもこの鶏を肌身離さず連れて歩きます。(白い色は、清らかさを象徴しているのは言うまでもありません。)
そして、英語でチキンというと、腰抜け、という意味というのはよく知られたことですよね。一人ぼっちで奇妙な言動が多いダンカンは、田舎の同世代からチキン・ボーイ(腰抜けボーイ)と呼ばれ、からかいの対象になってます。ここで、チキンは、母親ではなく、ダンカン彼自信の象徴になってます。これは、ダンカンが、母親の形見である彼女の服やコートを裸体にまとって就寝するシーンなんかと織り交ざって、ダンカンがますます母親と一体化していくことも暗示します。
ショッキングなシーンがいくつか含まれているこの映画で、一つ目の場面が、鶏を落ち着かせるためにダンカンが取る行為。これはまだ映画を見ていない人のためにネタ明かしはしませんが、か・な・り、ショッキングです。演技とはいえ、この10代の役者さんが、よくもこれをやったなと思います。しかも2、3回も映画の中で出てくるシーンなのです。英語の表現で、自慰行為をすることを"to choke the chickin(鶏の首を絞める)"と言うことを知っていると、このシーンをより深く理解できるでしょう。
そして、交流を通してある種の友情が芽生えていた二人なので、この鶏を落ち着かせるための秘密を、ダンカンはペリーにこっそりと教えます。それは、ある種、自分と母親の一体化を、ペリーにこっそり見せた、という暗示になってます。その次のシーンでは、この暗示が、暗示ではなく明示的に表現されています。ペリーとダンカンが、二人で納屋にこもってたわいもない話をしている最中、ダンカンの母親の純白のウェディングドレスを発見します。そして、ペリーに言われるがままに、ダンカンはそれを身にまといます。この純白のウェディングドレスをまとった瞬間、ダンカンは、完全に純白の鶏の化身になります。これは、鶏が母親であり、ダンカンが鶏であり、そしてダンカンが母親、つまり女性に昇華した瞬間でした。
この瞬間的なダンカンの変身を見て、ペリーは我を失います。
この先は、是非、映画で見てください。もうここまで書いたら、次は何が起きるか、簡単に想像できると思いますけど・・・。
僕は、映画を通して、この鶏の運命が一番、気になってしょうがありませんでした。結局、この鶏は、
⇒①母親としての象徴
⇒②ダンカン自身の鶏(母親)との一体化としての象徴
⇒③そして鶏がペリーへと置き換わる大転換としての象徴
という「進化」を遂げていきます。でも、それは進化というより、問題の悪化と呼んだ方がいいかもしれません。純白で神聖なる母親としての象徴であった鶏が、ペリーという血気盛んで性欲旺盛な10代の青年によって「茶色い」鶏へと貶められ、そして鶏は、「小便臭い」ペリー自身の象徴へと変容したとき、ダンカンは自分と鶏との関係性を変えないといけない限界に直面します。そのとき、ダンカンが取った行動とは?!
その後のシーンで、悪ガキたちに鶏を奪われ、自分も同じように羽交い絞めになるシーンが、この映画のクライマックスであり、ダンカンが14歳の少年から、大人になるためにleapして成長した瞬間でもある。それは「母親」との決別であり、チキン(弱虫)である自分との決別でもある――。
ただ、ダンカンの成長は痛いほど表現されつくされているのに、ダンカンへの思いに戸惑い悩むペリーについては救済がなされていない。それが一番残念でした。
皆さんは、この映画を見てどういう感想を持ちましたか?