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がんになってもぽじぽじいこか

2012年6月食道がん発見、53歳でした。始めての体験で体当たりの治療とリハビリ。見つけたものも意外にあり!

低血糖に注意!!ダンピング症候群

2013-01-21 16:34:35 | 食道がん
ある日突然やってきた低血糖
腸ろうを外してもらってから、こまめに食べ続けていた。
本当にこまめに。
虫歯になったらどうしようと思うくらいいつも少しずつものを食べていた。
ヨーグルト、豆乳にコーヒーたらしたもの、食べきれないパンののこり、スープ。
はらぺこあおむしという絵本みたいだ。
ちょっと食後2時間半ほど過ぎたら、空腹で気持ちが悪い。ドキドキして手が震える、血の気が引くような倒れそうな感じになった。
IKEAのチョコをバリバリと食べ、落ち着く。
こういうことが何度か起きた。
そしてチョコレート一枚がなくなった。
さすがに偶然じゃないと思い、ネットで調べ、(もう家にはチョコないし)低血糖を起こした原因を知る。

ダンピング症候群というのだそうだ
控えめに食べても、胃に入った食物はすぐに十二指腸に流れてしまう。
急速に血糖値が上がり、体はいっぱいインスリンを出す。
よっぽど大食いしたと誤作動する。
それで低血糖になってしまうのだという。
胃の摘出をした患者にも現れるのだそうだ。
低血糖を起こしたら糖分を取る事、との事。

高タンパク、高カロリー食
が、いいのだそうだ。
確かに、炭水化物が主でご飯を済ますとその後低血糖になっていた。
蜂蜜をたっぷりつけたパンと紅茶で取りあえず朝ご飯をすますと2時間半後はあはあ、かたかたがやってくる。
それと、食事時、みそ汁やスープ、紅茶など液体をたっぷりとるのもよくないそうだ。
胃の容量がないからプールしてくれず、腸へ全部流れてしまう。
みそ汁は間食に。
ゆっくり血糖値が上がる玄米、全粒粉のパンのほうがよい。
炭水化物は控える。
甘いものもあとが恐いのでとるならほんの少量ずつ。
なんか糖尿病の治療食のよう。
別に、飴とかチョコとかを持ち歩けば良いだけの話、と思っても良いのだが気持ち悪いのはいやだ。
胃がある程度の容量になるまで神経質になろうと思う。

考えようではうらやましがられるかも
ウエイトコントロールのためダイエット療法中の人から見たら、高カロリーなものを本人なりにお腹いっぱい食べているんだからうらやましいかも。
食べたいのを我慢している人は私たちの100倍以上いるだろう。
魚だって私たちは脂ののった旬のブリとか、サバとか、大トロもおすすめ。
よく噛んでお腹いっぱい(でも、すぐなっちゃうんだけど)たべるのだ。
たいてい、皆体重が落ちてしまうので量を我慢しろとは言われない。
ま、いいとしましょ。
いつでもいいとしましょ。







療養ベッドはいいけど、玄関マットでも大丈夫

2013-01-20 18:06:13 | 食道がん
平らになって寝てはいけない
病院ではベッドを起こして寝るように勧められた。
腰に負担はかかるけど、吐かないため。
それでもうっかりすると吐く。
不思議と酸っぱい胃液ではなく、苦い胆汁を吐く。
ちょっと生臭くて緑っぽい。
噴門だけじゃなく幽門もルーズで本当にチューブな胃。
「また食道がんになっちゃうよ」と冗談もいう。
適当に起こして寝る。
術後4ヶ月経つが今でもそう。
この前、MRをとる時、逆流してしまった。
ほんの1~2分だと思うが、(体調もあるかも)まだなんだなあと思った。
本当はマッサージとか行きたいんだよなあ。
仰向けだめ、うつぶせだめ、左下もダメなんじゃ施術してもらえないかもなあ。
でも、頭高くして寝れば良いだけの事。

家庭のベッド、マットレスで頭を高くする、玄関マットがよかった
いろいろ試みたんです。
これがベストかな、ってのを。
まず、マットレスのしたに座布団2枚。
アクリルの玄関マットを買って来て大きさにもよるが4分の1に折る。大きければ三等分し、さらに半分に折る。
これをバスタオルでしっかり巻く。
枕代わりに置く。
高さに差が出て寝難いのでタオルケットを半分の半分の半分、8分の1に折って載っける。
すてきなタオルだとホテルの枕みたいに見えなくもない。
もし、吐いちゃっても布団までしみないし、どれも洗濯可。
クッションだと寝始めは良いんだけど時間とともに平らになってしまうし、寝てるうちに逃げる癖があるようでどうもいまいち。
本当は病院みたいな療養ベッドが良いんでしょうね。
でも、改善するかもしれないという期待があるから玄関マットで参りますわ。
良いの、別に玄関先で人と喋ってる夢ばかり見る訳でもない。

この枕で見たすてきな夢
先週、RCのキヨシローが夢にいた。
すごく穏やかに笑っていて、あまりに気品ある笑い方なので、ああ、キヨシローはもう死んでしまったんだと気がつく。
ずうずうしく一緒にスローバラードをうたった。
がんだから特別サービスだったようだ、ずっと笑っていた。
起きてもずっと本当のことだったように消えない夢だった。


手術後の食事

2013-01-19 11:26:08 | 食道がん
前の体とは違う!嚥下が大変に
一般病棟に戻って、食事はごくゆっくりゼリーから始まり、重湯、みそ汁、となり、2週間後も普通食にはならなかった。
腸ろう(手術の際、小腸にチューブを挿入し経腸用液が点滴されている)があるから、たべるのになれる事。
むせやすい事、肺炎になると大変なことを看護士から強く言われていた。 
首周囲に真綿のかせがあるような違和感がある。
ゆっくり、少しずつ飲み込むが、嚥下の時にのどに異物感を感じる。
「喉に詰まる感じがする」と食べようという気にならない人もいた。
ともかく、この体に慣れる事しかない。
結論から言うと、4ヶ月もするとかなり意識しなくても飲み込めるようになる、でも少量、よく噛んで。
食べるのに気力を使う。
赤ん坊の離乳食と一緒で慣れる事だと感じる。

突然に吐きやすい!どうも理由は二つ
食事後、床に落ちた箸を拾おうとかがんだ瞬間苦労して食べたものが逆流。
胃の噴門がなくなったから。もう、じっとして過ごすしかない。
横になるのもだめ、咳き込むのもダメ。
もう一つは「いやだなあ」「好きじゃないなあ」と思った瞬間我慢していた何かがはじけて吐く。
別の言い方をするなら、食べる事がけっこう苦しいことになっていて限界に達すると体が拒絶する。
好きなものを楽しく食べるしかない。あと、この環境に早くなれる。

クオリティオブライフの低下に対して思う事
このごろクオリティオブライフ(QOL)という言葉をよく聞く。
生活の質、人間らしい生活を医療でも考慮して出てきた言葉のようである。
QOLは著しく下がる、人間の体に本来要らないものはないから切ってしまえば支障は出る。
でも、なくなっても他の器官が補う事で新たな生活も出来るのが人間だとも思う。
現状は固定的じゃない。気にする事ない。
新しい、慣れる場面だと思おう。

赤ん坊、こどもが食べ物に慣れる過程と同じ
私たちみんななんてことなく色々な食品をおいしいと食べているけど、お母さんが努力して繰り返してならしてくれた事を覚えていない。
食品ははじめはみんな未知なもの、べえって出したり飲み込んだら吐いたりしていた。
新しい胃袋の食道で飲み込む事はその復習だ。
味覚というものは実に多くの要素から構成されている。
温度、におい、舌触り、舌でつぶした感触、噛んだ食感、のどごし。
そのうち一個でも気に入らないと好きじゃない食品になる。
こどもの場合、肉など繊維の残るものが苦手な子ははじめのうち多い。
生野菜など形がなかなか消えないものも。
ゆでたまごなど、口の中の水分を奪うものが苦手な子も見かける。
シチューなどドロドロしたものをいやがる子も、たまにいる。
強烈な色のものをいやがったりいやな体験で嫌いになったりメンタルである。
だからこそ、嫌いが好きに変わる。
こどもは咀嚼力がまだ弱いから、調理の工夫が必要になる。
この最後の3行、私たちも同じなんです。
ま、好きなものをよくよく噛んで練習、練習、気楽に。
のどに繊維があたらないようによく噛んで、ドロドロがいやならさらさらのコンソメ仕立てにしたり、食べて楽しいものは必ずある!

あとはゆっくりよく噛んで、たのしく
経過があまり良好で術後2週間で退院する。
普通1ヶ月と聞いていたから早い。
栄養指導に看護士が来た。
いたって簡単「固いものはダメ、よく噛んで」のみ。
「いけないものってあるのですか?」
「おせんべいとラーメンです」
「なぜ?」
「おせんべい固いし、ラーメンは一気に食べられるけど胃でふくれるから」
わたしの欲していた情報量とあまりにギャップがあり、患者の食のレベルとかけ離れていたのでわたしはすっかり不機嫌になってしまった。
担当の看護士に悪いことをした、彼女はあまりに若すぎて聞いた事をそのまま言っただけだったのだ。
無知なまま、帰宅し、普通のものを少量ずつゆっくり食べた。
すぐにせんべいも食べたが、丸呑みしなければ全然問題ない。
よく噛んで食べると胃が、いっぱいになってしまう。
唾液がたくさん出るから。
泡っぽい嘔吐はしばらく続くが徐々になくなっていった。
退院後は半月程息子が一緒にいた。
彼は食に無頓着ではない、おいしいと感じると「おいしい、これ」と必ずいう。
逆に不味いとすごく機嫌の悪い表情になる。高い店でもむっと黙ることがある、すごく素直だ。わかりやすいともいう。
彼といるとだから食べ物が倍おいしくなる。
奮発したくなる。
ミネストローネスープやイベリコ豚、とれたてのイカ刺しなど好きなものをこれでもか、と食べる。
量は少なくても関係ない、食べる事が楽しくなれば良い。
ともかく、時間をかけて食べる。一日5~6食。
どうせなら楽しんでやるほうが絶対良い。
仕事は食べる事、寝る事、少しずつ動くこと。笑う事。
赤ん坊と同じである。

H.C.U.にて

2013-01-15 15:17:13 | 食道がん
集中治療室をでる!
集中治療室を出て、ハイケアユニットH.C.U.にて療養した。
個室ではなく、2~3人の部屋だった。
自由度が増し、一般病棟に移る段階を踏んでいる感じがする。
よくなった感があるが、ケアが薄くなる事に対しての不安がない訳ではなかった。
そこが患者の矛盾する心理なのだ。

スタッフは偉い!
わたしの場合、自力でトイレに行けるようになり、尿道カテーテルがなくなった。
が、トイレに行くというと、看護士さんに点滴台にいろいろ乗せたり、つり下げたりしてもらい、それから動くことになる。
動くのは楽ではないが、動くと予後がいいため、少しでも歩くようにした。
また、皆よくほめてくれる。
「すごいね~」「努力しているね~」拍手までしてくれたこともあった。
ニコニコしながら、こちらこそ、ほめてあげたいと内心思っていた。
わたしは始めてだが、彼らは毎日の風景である、なのに仕事の手を止め、声をかけてくれる。驚いてくれる。
なかなか出来ない事である。
H.C.U.に出た日、看護士さんが髪を洗ってくれた。
嬉しい、気持ちいいし、回復してきた実感にも繋がる。
感謝である。

思いがけず外に出るプレゼントに感激
I.C.U.ではレントゲンは機械が部屋に来てくれていたが、H.C.U.になると、車いすでレントゲン室まで移動する。
個人的にこれは嬉しかった、すごく。
「レントゲン行きます」と言われると「はい!」と元気に返事をしていそいそしてしまう。
ユニットルームをでて長い廊下を行き、一般の患者さん(私服を着ている)のいるところに行くのは嬉しいものである。
タリーズコーヒーのにおいもしている。
そこには普通の生活のにおいがある。
わたしがあまり喜ぶものだから、粋な計らいをしてくれる看護士がいて
「少し、中庭によってから戻りましょうか」と表の風にあててくれた。
本当に嬉しかった。
涙がにじんだ、外の風だ。生きている。なんていいんだろう。
この事は病院生活で最も感激した事だ。
頑張る気力が湧く。外は素晴らしい。
すてきな計らいだった。大感謝。

めきめき回復
表の空気のおかげで?日々確実に回復する。
そして少量の氷を食べていいことになった。
ごく少しずつ、むせないようにゆっくりなめて飲み込むように注意を受ける。
咳き込むと痛いのでびくびくしながら口にした。
管が減るのと、口にものを入れる許可は回復を感じさせて嬉しい。
が、空腹感はない。
痛いと押すボタンがあり、容器から薬が背中に刺された針から入る。
容器は看護士が日々計量している。
麻酔扱いの痛み止めである。
回復はしているものの、一週間くらいはものすごい強さの痛み止めに助けられていた。
空咳が出る、とても苦しい。
空咳はしばらく続くよ、との事。
椅子に座る時間を少しずつ長くしようと決めて、テレビの向きを変えてみる。
窓からはその頃雨ばかりで、雲を眺める。一日、空を眺める。
回復はしている、でもどれだけのダメッジを肉体がトータルで受けているのかは見えて来ない。
それは考えない事にしてとにかくよくなろうと思い、信じていた。
見舞いにくるこどもにも笑顔しか見せなかった。
(怒る事もないし、泣く事もないし、嬉しかったから笑うしかなかったからだけど)
H.C.U.は静かだった。静かに時間は過ぎていった。
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I.C.U.にて

2013-01-14 21:06:00 | 食道がん
雪でした、成人式なのに。
出かけたら、積もってしまって帰るのが大変。
景色はきれいなんだけど、せっかくがんから生還したいのち、事故でなくしたくない!超安全運転を意識しながら倍の時間をかけて帰宅しました。
惜しいっていうのかな。大事にしないとなってすごく思うようになったなあ。この生活。

手術直後の様子(わたしのケース)を書くのですが、あまり参考にならなかったらごめんなさい。
あくまでも個別なケースはこうであったという事で。

手術後の夜は心電図、酸素マスク、足にはエコノミー症候群防止のマッサージャーなどがつけられていた。
痛みはあまり感じなかった。
時々目が覚める程度。
口が渇いて、動く気もしない。
呼吸は口から、小さな息をは、は、とせわしなくする。

実はわたしの場合、覚悟していた痛みはすっか~ん、と空振りするほどだった。
痛くないという訳ではないが、もっと痛かろうと過剰に覚悟していた。
小学6年のときヒョウソウで爪を剥がした時は助けて!と祈りたい程痛かった。
時代も違うから、薬とかも違うだろう。
手指は神経が集中しているのでまさしく拷問のような痛さだった。一晩中痛かった。泣き叫ぶ程痛かった。
母親が「いい加減にして」としまいには怒りだして黙ってこらえようとしても出来なかった。
はがした爪のガーゼを毎日変えるのも息が詰まる程痛かった。帰り道倒れたこともあった。
それを思い出して「あれえ」とおもっていた。
麻酔科の薬が点滴で体に入っていたからだと思う。
わたしの場合がん以外は健康なので痛み止めの制限はなく、この点は感謝。

翌朝先生の回診。
「わたし、交通事故で背骨でも折ったみたいですね」
「本当にそうだよ、あばら骨、折ってる。」
先生たちの表情が明るい、(プロだからかな)よかった~と思う。

足のマッサージャーが外され、支えられて歩く。
これが感染症予防に大事なのだそうだ。
ほんの一二歩でいい、支えられて動くだけ。
歩くと痛いが、ゆっくり、ゆっくり。
椅子に腰掛けさせてもらい、歯ブラシをしてベッドに戻る。
動いてみると実にたくさんのコード類がついていた。
鼻から胃液の逆流を出す管
鎖骨の上から2本リンパ液の管
右胸からリンパ液の管
尿道の管
位かな、出す管。
腕に点滴
お腹に腸ろう、栄養剤が入っている
鼻に空気のチューブ
背中に入っていて痛いと押すと薬が入るお助け管
が、入れる管
書き落としているかも。
チューブは日々減っていく。
鼻の酸素、胃の逆流の、次に胸のリンパ液。
そしてH.C.U.に移るようになる。

何日間か、意識は楽しげに浮遊していた。
病室はすぐにベニヤ板に変わり、そこには落書きがされている。
キースへリングみたい、イタリアの遺跡みたい、若い人はアートな落書きをするなあ、と見ながら眠る。
目が覚めるとベッドの下は海で、すぐ先に浮き島があってマーケットになっている。
わたしはボートにセールをあげて買い物に行く。
白波が立ちはじめ、買い物も大変だなあ、風の高い日は、なんて思っている。
こういうはっきりした幻覚なのか夢なのか。
ともかく部屋はベニヤ張りに変わる。
古い看板がある昔の下町に迷い込むこともある。

毎日あいにくる娘に話すと
「お母さんはいつも楽しいね、よかったね」と笑っていた。

その夢のおかげか、経過はいたって良好であった。

あと、ここにいたとき、起きた頭で真剣に思ったことがある。
わたしに仕事のおおきなプラスを教えてくれた。
こういうところだから、それなりの看護士が配置されているのだろう。
どの人も安心を届けてくれていたが、中にはすごい人もいた。
ケアをする時にまじで人に向かってくれている。
ケアなんて受けた事がなかったから、受けたらどう思うかなんて予測も出来なかった。
こういう風になりたい、とぼけた頭が真剣になった。
仕事だからしている、という枠を感じさせない。
なんて素晴らしいんだ、とおもった。
ケアを与える立場だと受け手にはなれない。
病気になって損ばかりじゃない、この気持ちを持って帰ろうと思った。
すごい財産だ。
昨日までよりいい保育士に、忘れなければなれる。

ここでの事は感謝につきて、退院時、挨拶に行った。
みんな「きゃあ、は、早い退院!!」とすごく驚いて、それから「おめでとうございます」と言ってくれた。

ぼうっとした中ですごし、出られた時は嬉しかったが、いいところだったと思う。

食道がんの手術について(わたしのケース)

2013-01-13 18:09:47 | 食道がん
わたしの場合、2と3の境目、どちらかというと2かな、という進行度合い。
画像診断ではリンパへの転移はわからない、あるかもしれない、ないかもしれない。
と、いわれてきました。

2度の抗がん治療が効果的で担当医師は我が事のように笑顔で喜んでくれた。
「皆が○○さんのように効くといいなあっていうくらい小さくなってる」
「性格が素直だからね」というと即座に
「それはちがう」だって。
わたしは担当医師を信頼し、これでダメならダメなんだ、日本で一番の専門医だ、とずっと思っている。(し、事実そうでしょう)
せっかちな先生との掛け合い漫才も診察時のお楽しみだ。
抗がん治療は4週間のサイクルで行い、次の4週間後に手術。その説明を受ける。
先生は必要なことをコンパクトに話す。だらだら話すの真逆。

わたしの場合は鎖骨の下を横に切って、みぞおちのところからへその上まで縦に切る。
それと右胸の乳房の下から脇の下まで弧を描くようにきる。

鎖骨下とみぞおちはワンセットになっていて食道を取り除き、同時に胃袋をカットして筒状に整形して食道再建する。
食道を除き、胃を引っ張り上げる形だ。
同時進行して胸を開けリンパ節を取り除く。
右を開けるのは心臓がない側だからだという。

鎖骨の下と腹だけ切って、脇下から乳房は切らないで胸に何カ所か穴をあけ内視鏡でリンパ節をとるか、先生は悩んでいた。
「やっぱりしっかり切りましょう」と決まり、
研修医の娘も立ち会わせてくれる事に取りはからってくれた。
通常10時間程度の手術だという。
結構な大手術である。
「○○さんはスレンダーだからもっと早く済むかも。どうしても大きいと時間はかかる」
「さばきやすいと?」
先生クスッと笑い「うん、まあ、そういうことになる。なるべく時間かけないから」
気を使って「普通の服なら傷は見えないからね」とおっしゃった。

リスクについての説明も受けた。
特異体質で麻酔に反応を示したら、手術はしない。
など、細かく。
確か、2%かな、失敗率が。成功率が98%と、あるいは99%だっただろうか。どっちかだ。
もうそれは努力でどうにかなる訳ではないので、あとは得意のよく食べてよく寝るしかないのだった。

手術がずっといやでいやで来たのだが、説明をきちんと受けると「よし、がんをとってもらおう」という気持ちになってくる。
他、麻酔科の医師からも説明があった。
付き添ってくれる麻酔医は途中で交替するそうだ。
長い手術なんだと現実感が増してくる。

手術の朝早く、暖かいミルクとバターをとる。
バターの脂肪でリンパ節をわかりやすくするため。
これから先しばらくものが食べられないから、しっかり味わって残さず頂く。

あとは目が覚めると「終わりましたよ」っていわれてICUに運ばれる。
たくさんの人がついていてくれて、
わたしにはたくさんのチューブなどがついていて、機械もいろいろ接続されている。
喋ろうと思ったら酸素のマスクもついている。
子どもたちが手をつないで「おかあさん」といっている。
その声が心配げで、幼かった日のように母を求めて手を握っている。
いとおしいなあと、その手を握り返す。

そしてまた眠って、うつらうつらを繰り返す。
あまり覚えていないが確か4~5日で集中治療室(I.C.U)をでてH.C.U.というところに移る。
看護の度合いが軽くなった治療室。
それから一般病棟に移るのが手術から一週間後だったと思う。
一般病棟に行くとジュースやゼリーが出てきた。
HCUからはしっかり記憶があるが、最初のうちは所々忘れているような気がする。
手術は問題なく、経過もきわめて良好で、がん細胞は体の外に取り出された。
ので、大成功だった。


人間いつかは死ぬ、なんてくくりかた、身もふたもありません

2012-12-28 10:05:33 | 食道がん
食道がん、他に転移があれば5年後の生存率は20%
転移がなければ5年後の生存率は50%
しかし、その生存率って健康で生きていられる率ではない、末期がんの病床にある場合もその生存に含まれる。
こんな数字を知って考え込んでいる時に、
「人間、どうせ一度は死ぬんだから、くよくよしてもしょうがないよ」なんてなぐさめられても、釈然としない。
そんなとてつもなく大きな物差しを出してきて測られるのが悲しい。
わたしという存在は進化過程の一個の個体になってしまう。
名前も顔もない生命体になってしまわないといけない気がしてしまう。
これからの5年間をかけがえのない重さでどうしようか考えているのとはギャップが大きい。
明日とか、今とかほんのちょっと先が重要なわたし。
今の体調に自分を見ている。
どうせ一度は死ぬという言い方は身もふたもなさ過ぎてとまどっていた。

わたしが入院治療を受けたがん病院の5階は建物の屋根部分がガーデンになっていた。
オリーブや月桂樹などの低木や木の根元には成子百合やスズランなどの宿根草が植えられ、ぐるりと周囲を散歩できるようになっている。
インチキの庭ではあるが、ここで風に当たり、日射しを浴びながら過ごすのが入院中の日課だった。
植物を眺め、外の景色を眺め、一階で買って来た苦いタリーズコーヒーをちびちび飲んで結構な時間そこにいる。
思い浮かぶ事を一瞬考えては別のことを思う。
手術がいやだな、とかうちの朝顔はどうなったかな、とか天気の事とか。

キャッキャと笑う子どもの声と大人の女性の声が聞こえた。
松葉杖をついた少年とおそらくその兄弟と母親がこちらに歩いてくる。
きれいな顔立ち、お母さん似だなとおもいながらゆっくり歩く。
すれ違う時、少年はわたしの眼を見て「こんにちは」といった。
明るいはっきりした声で。
わたしも「こんにちは」とていねいにこたえた。

病院の中庭でがん患者通しがすれ違い、互いにあいさつをした。
一人はこどもで、可愛い男の子。
ひとりはその子の親よりも年上の大人で女の人。

同じ時間、同じ空間。そこにいた。
がん病院という外とは違う空間で、互いに眼を見てあいさつを交わした。

その今、がわたしと少年が生きているっていうこと。
そうだと気がついた。
今、生きているってそういうことだったんじゃないか。
少年のあいさつの表情や声に互いに今生きている事に気がつかされた。
生きるってそういう今。

この、いまを大事にしていく。
今は我慢してやり過ごすものでもなく、わたしが持っているのはこの今生きているという事なのだ。
旨い、と心から感じる事とか
電話でしゃべっていることとか
好きなことを見つけたとか
うんこがちゃんとでて気持ちいいとか。
そういう事がわたしで、今をしっかり持っている事に気がつく事を、少年のあいさつに気付かされた。
5年先の生存の保証などほしがることもいらないし、おびえることもない。
そう思える自分に出会えた。

まあ、これは自分の人生なのでこうもすっきり思えるのであろう。
これがもしわたしのこどもが病んでわたしより先に死に向かって追い越していくのであれば心はおだやかじゃない。
切なくてもだえ苦しむと思う。
きっと、わたしの子どもたちはわたしの病気を無限に広がる不安さ、怖さとともに受け入れていかねばならぬのだろう。
今だけで済まないそれぞれの時間を持っているんだろう。

でも、いま、いま。いまでつながっていられる。
ミクロなものなのだ、本来人間て。


病院選び、治療選び

2012-12-27 14:45:16 | 食道がん
わたしのブログは前後します。
なるべくそうしないようにとは思いますが、思いつくままに書くので、お許しください。

がんが見つかってすぐにこれからどこでどう治療していくのかを決めなくてはいけない。
そんなことについてはあまり判断材料がない、というか、どうしたらいいのかな、と思った。
わたしの場合娘が研修医であったので彼女に判断をゆだねた。
がんの専門病院を提案された。
理由は食道がんだからだという。
胃がん程度なら自分の勤務する総合病院をすすめるが、食道がんは大手術なので症例が多い専門の医師に執刀してもらった方が良いという。
そ、そうなんだ・・・・胃がんよりどうも大変らしい、そのことは理解した。
彼女はよけいな事は言わない子でどんな手術で術後はどうなるなど具体的な事は何も言わなかった。
地元の病院ではなく東京のがん専門病院に入院するけどいいか、としっかり確認をとらされた。

食道がんは確かに大手術で、毎日そんな手術をしている先生にかかるのがベターだということは正しい判断だったと後々思った。

取りあえず、専門病院に紹介状を持ってかかったのでありますが、次なる選択肢があった。
わたしはステージ2(どちらかというと3に近い)で、
抗がん治療の後手術してがんをとる。
または抗がん治療後放射線照射。どちらかを選択するのだという。
これだけ聞くと切らなくて済む方法があるじゃん、なら、わたしそれがいいって単純に思います。
が、娘は首を縦に振らなかった。
開腹しないと転移があった場合わからないという。
転移の可能性はなくはないという。
もうがんになってしまったのだからいまさらつべこべいうのもはばかられる。
もう、いいよ、しっかと切ってください。覚悟決まった。

そんななか、心配してくれた友人が色々な治療をアドバイスくれる。
自然療法のたぐいやがんワクチン、保険のきかない放射線治療等々。
みんなわたしを心配して調べてくれている。
外国でゲルソン療法を受けられるところがあるよ、とか。

確かにそれも選択肢ではあった。
自分の体をどう直していくのか、しっかり決めなくてはならないし、決めたら迷わず貫かなければならない。

結局わたしはがん専門病院で抗がん治療後手術を受けることにした。
色々理由はある。
娘の方針が一番わたしにとって重かったこと。
だって、医師になって人の命を救ってね、といってきたから。
それから誰もが受けるような健康保険のきく治療がいいとおもった。
この治療中は健保組合の傷病手当の対象になる。(あとになって知った)
加入していた生命保険、がん保険の給付金の対象となる。
経済的に安心して治療が受けられるのは嬉しいことだと思う。

ちょうどその頃、なかにし礼氏は保険のきかないピンポイントの陽子線の照射で食道がんを克服したとテレビに出ていた。
http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20120911/enn1209111537009-n1.htm
それぞれ一長一短、どれがその人に合うかは結果を見ないと解らないところもあろう。
進行の度合いも、健康の度合いもみんな違う。
決断をまずしないといけない。

当時のノートに書いてあった。

出来てしまったがんは抗がん剤と手術でやっつける。
再発しないように自然療法もこころがける。(食生活など)
どんな結果が出ても最良だったと思おう。
ともかくやってみよう!

積極的な気持ちになれてよかった。
ショックに打ちひしがれている時間はなるべく短く。
どんどんつぎ、次を考えていこう。

抗がん治療中のご飯(なんとたこ焼きのすすめほか)

2012-12-26 07:24:58 | 食道がん
入院中、病院メシについて書きたくなりました。
忙しくても必ず朝ご飯たべるし、家事で一番大事なことはご飯作る事だと思ってきた私。
食べる事が大好きだし、作る事も好き。
おいしいものを皆と囲む事は人生にとって重要な事だと思ってきた。
さらに、食べ物が体を作る事を実感して、良いものを食べようと思ってきた。
他はさておき、食については妙な自信と言うか意識を持ってきたのだった。
そんな食べるのだい好きな私でも、抗がん治療中は別の肉体になってしまったようだった。
抗がん剤の副作用は薬によっても違うし、個人差もすごくある。
同じシスプラチンを使っていても、食後に菓子パンをおいしそうに食べている人もいれば、
口内炎でものが噛めず、ゼリーしか食べられない人もいるし、空腹で吐き、食べようとしては吐き、吐いたのが刺激で吐く人もいる。
私は平気だろうと思っていた。
荒れた海でも船酔いしないし、食欲と関係なくものを食べることが出来る才能も豊かにある。
しかし点滴3日めから胃が石のように固く重くなって気分が悪く、しばしば吐いた。
口内炎も一度なってしまうと結構長く痛い。
二度目のときは少しでも気分が悪くなったら医師に言ってはやめに吐き気止めを出してもらうようにしたので少しはよかった。
でも、きついものだった。
酸味のあるものは痛くて駄目、固いものも痛い。
ぐちゃぐちゃしたものは飲み込む時えっとなる。
食事はたらの蒸したものやトウフ、煮た野菜、おかゆなどのメニュー。
吐く患者は消化の良い離乳食のような献立になるようだ。
食事の時間が憂鬱になる、気分転換と思いデイルームに出ていただくようにするが一向に転換されない。
体重は減りに減って、これから先手術が待っているのに、40kgにまで落ちてしまった。

そんな時に天使は舞い降りてきた。
天使の職業は栄養士、入院患者の栄養指導の為にわたしのベッドを訪れてくれた。
この女性の力はすごかった。
彼女は病院ぽくなくてそこだけがお家の食卓のようにことほいでいる。
いわゆる美女と言うジャンルの顔立ちではないが、いると私まで笑顔が移ってくるみたいで一目で私は彼女が大好きになった。
来てくれてありがたく元気が出る。
働くお母さん、と言う印象で、この人の明るさならさぞやいい子が育つのだろうな、と思わせるオーラがにじみ出ている。
一通りの説明をしてくれた、薬の副作用など、解りやすく。
ありがとう、と言おうと思ったら彼女はにこっと笑ってさらに話を続けた。
「蒸したたらなんか我慢して食べようと思うから落ち込むの、苦く感じるでしょ。努力しても食べられないよ。今、抗がん剤で味覚はばかになっているから味の濃い、ジャンキーなものを食べてみるといいよ。大事なのは体力を落とさない事、栄養バランスなんて二の次。今だけいいんです。一生ジャンクフードを食べる訳じゃないもの。食べやすいのはね、たこ焼き、カップ麺、チーズたっぷりのドリアとか、ポテトやハンバーガーよ、売店で買って来て食べる。ここのご飯なんか残したっていい」
たくさんのがん患者に真剣に接してきたのだろう、その言葉は力強くてすてきだった。
吸い込まれるように聞き、うなずいてしまった。
「5階の子どもたちもね、『やっぱ、たこやきだね!』ってピースマークして言ってくれてるよ」
そうだろう、彼女に二度目にであったら絶対にアドバイスの成果をガッツポーズで伝えたくなるだろう。
解る、と思った。
その日、たこ焼きは売り切れていたのでキャベツいっぱい広島焼きという総菜を売店で購入、夕食に彼女の笑顔を思い浮かべながらほぼ完食する。
あんな仕事が出来るのってすてきだ。彼女の人柄だろう。

抗がん治療をしている皆様、油を使った粉もの、ソースドロドロか熱々チーズでしのいでは?
ヘンかもしれないけど実践力に裏付けられてます、妙な旨さ!食べられなかった胃の腑に滲み渡りました。
また、食べる事で吐き気も治まる部分もあるように感じました。