がんになってもぽじぽじいこか

2012年6月食道がん発見、53歳でした。始めての体験で体当たりの治療とリハビリ。見つけたものも意外にあり!

慌ただしく今までにない年でした

2012-12-31 22:01:49 | 日記
大晦日。
紅白をききつつ。
パヒュームって可愛い、肉体が健康的で踊りもいい。
昔、わたしもあんなだった、かもしれない。(なんとでもいえる)

この半年はかつてない程慌ただしく忙しかった。

でも、静かな時間の流れを感じることが出来た気がしている。
わたしは自分の仕事が好きだったからすごく頑張って来た。
自分が所属するヨットクラブの仕事も抱え込んで働いた。
自分のことは後回しで忙しく日々を過ごして来た。
けど、それは何だったのかと振り返ると、動き回って風の音をきいて来ただけだった。
仕事がばたばたしていただけだというのは、仕事へのスタンスのまずさだったのかもしれない。
自己犠牲的に過ごして来た事が行けなかったと思うのだ。
それが出来なくなってみて、どう動かねばならないのか自分の頭で考えねばならなかった。
きちんと歩いて来た半年が大切に思える。

わたしはまだ病名を多くの知人、友人に打ち明けてはいない。
それでも人の暖かさにこれほど支えられたのは、ありがたい。
わたしが気がついたから何だとおもう。
自由を得たのだとつくづく感じるのだ。
わたしを彩ってくれていたものに感謝することが出来るようになった。
生きてみるものである。
がんになって解ることもあるんだな。
来年はもっと大きくなれそうだ。

今年はおせちをこさえなかった。
毎年、丸一日をかけて腰が痛くなるくらい働くのだが、やめた。
明日は朝、パンとオリーブの塩漬けとハムと大根サラダを食べて新年を祝う。
デパ地下の土産とさっきまで土にいた大根。これでじゅうぶん。
あとは普通に、いつもと大して変わらないものを体調にあわせてこさえていただこう。
いいのだ、それで。

どうぞ、良いお年を。

タイムマシンだと思う事にする

2012-12-30 23:16:04 | 抗がん治療
抗がん治療はタイムマシン的。
半年前のがんの状態くらいまで戻してくれる。
(人によってはくれない場合もあるのが困ったものだ)
だからリスクもしかたない、とする。
そう思う事にするしかない。

体重計に乗るたび、筋肉量が減っている。
食べられないと、体は勝手に生きていくために体を作り替えてしまう。
筋肉はエネルギーをいっぱい食うから、まずそれから落として、脂肪を燃やすのはもっと先なのだ。
キャデラックのからだは軽トラくらい燃費が良くなった、つまり筋肉が減った。
タンパク質をしっかりしっかり取る事がとても大事だ。
切実に思った。
命が元気ない時はいのちの詰まったものを食べたい。
帰宅中はとれたての魚やさっきまで畑にあった野菜をなるべく多く食べた。
初夏だったのですいか、きゅうり、じゃがいも、トビウオの叩き、あじ、いろいろおいしいものがあった。
食生活をしっかりする事しかやることはないのだった。
真剣に食べた。
この一口がわたしを作る、と思いながら食べた。
なんか同じことを思ったことがある。
昔、子を産んで、乳を飲ませたとき。
ちいさないのちはわたしのおっぱいで生きて、育った。
離乳食を始めた頃もこの一口で大きくなるんだ、と思ったなあ。
リアルに思い出し、タイムマシン的効果かも、と思った。

とにかく、食べて乗り切るしかないのだ。

一回めの抗がん治療治療のとき、病院のホールに偽物の笹が置かれていて、短冊がつけられていた。
ビニールの笹なんてあるんだ、と驚いた。
病院には衛生的で確かにいいだろう。
短冊には願いがいっぱい書かれていた。
当然ながらがんの克服への悲願が綴られているのだった。
家族が「また帰って来て一緒に過ごしたい」と願うもの、
患者本人が「こどもが大きくなるまで元気でいたい」というもの。
切実なものばかりだった。
が、中には「○○食堂のご飯がいつまでも大盛りでありますように」というのがあった。
実に丁寧で達筆だから本当にそう思うのだろう。
行ってみたい、そんなすてきな食堂。
面白い人もいるものだなあと思って、さらに隅々まで短冊を読んでいた。
「母が病院でわがままを言って迷惑をかけることなく、無事に治療が終えられますように」という短冊もあった。
なんだか、見慣れた字にも見えた。
本当に願いがみんな叶うといい。

食べる事と、短冊みたいに希望を持つ。
それにつきると思う、今もそれにつきている。


抗がん治療と髪の毛。かつらはどうする?

2012-12-29 22:58:45 | 抗がん治療
がんの治療で髪が抜けるって誰もが知る事なようですが、
ドラマのようにどのケースでもつるつるになってしまう訳でもなかった。
治療薬にもよってちがうし個人差すごく大きい事なので、自分のケースとかを書きます。
あと、髪が抜けるということについて知った事をすこし。

一言で言えば、今では部分カツラもったいなかったな、65,000円。
がんなんだから髪なんてまた生えてくるのでつべこべ言わなくても充分なんですが、
やはり女心。
治療中人前に出る事も、葬式とか、お祝いの席とか、全部キャンセルする訳にもいかない。
ではどうしよう、と言う感じで、ふら~っと買っちゃったけど、よく考えてみてもいいかも。
参考にしてください。

当初、髪の心配など気が回らず、始めての抗がん治療にばたばたして
「あたし、抜けないんだ」といつもながら都合良く思っていたのだった。
わたしはシスプラチンとフルオウラシル(5-FU)を投与。
開始後半月以上過ぎて、頭皮がちかちかと痛くなった。
洗髪時に髪がいっぱい抜け始めた。
それでも頭髪って何万本もあるのでしばらく見た目の変化は目立たなかった。

抜け始めて色々調べる。
薬から調べても脱毛があるという事以上深くは解らなかった。
一番役に立ったのはカツラ業者の販売促進用パンフレットだった。
病院の乳腺患者の階のデイルームにあったもの。
髪はのびている次期、成長期(女性で4~6年)と退行期、休止期があり、がん治療により抜けるのはのびている髪。
頭皮はけがをしている状態なので無理に抜かない、刺激の少ないシャンプーを使う、清潔にする。
など、ケアの仕方を知った。
まあ、常識的な事かもしれないが役立った。

で、いつまで髪は抜けるのか。
投薬終了後1ヶ月くらいで生え始め、見た目にもとに戻るには半年から一年くらい、とパンフにはあった。
しかし、同室の患者(手術後1ヶ月以上たっていた)は
「薬止めてもまだまだ抜けるの」とこぼしていた。
わたしも3ヶ月ちょっと、抗がん治療終了後髪は抜けた。
頭の形がきっちり透けて見えるようになった。
でもよくよく見ると産毛も生え始めてはいた。

抜け始めた時にカツラ、購入してしまう事が多い。
帽子に前髪が縫い付けてあるものなんかも自分たちで作っている人もいるようだ。
それでも良かったかも。
こどもに相談すると
「ガガ様みたいなのがいい、イメチェン」と言った。
びっくりしてじっと顔を見たが、なんとマジでいっているのだった。
それがこども二人とも似たような反応だった!
帽子を、と気を取り直す。
むすめのプレゼントの帽子。
ライオンのかぶり物であった。
一体どこで買ったものか。
「輸入屋さん、これ、2個売れたって。一個は旦那さんが外国人のご夫婦ですっごく喜んでかぶって帰ったって」
それをかぶるとなんとした事か、わたしに似合うのである。
「暗くならないで、回診の時なんかもかぶっていてね」
本人の深刻さとはけたはずれ。
自分で編んでみた。
はまって朝から晩まで何もかも忘れて細い糸で編んだ。
かっこいい帽子を編もう。
ボブマーレーがかぶっていたようなレゲエ帽子ができた。
かなり目立つ、色もきれいなブルー。
ラスタマンみたい。わお。何だこれは。
こどもたちは「いい、いい」とほめたたえてくれていた。
なぜか呆然としてしまうわたし。
で、ひとりこっそり病院の美容室で買ってしまったのである。
丁寧に接してくれて、部分カツラをわたしにあわせてカットしてくれた。
入院中は一回もつけなかった。
さっきまでハゲっぽかったのに急にカツラかぶってベッドに座っている方が恥ずかしい。
外出時にはしばらくつけたが、たいして外には出なかったので10回くらい使っただろうか。
部分カツラの下からくせ毛の地毛が伸びて来て行きつけの美容室に久しぶりに行く。
がんでカツラになった事をカミングアウトすると、2時間もかけてカツラのいらないショートカットを工夫してくれた。
うれしかった。
カツラにあわせて切って、と言ったのに、カツラがなくても大丈夫な形にしてくれた。
確かにハゲっぽいが気にしない事にしてしまった。
だって、すごくありがたかったから。

本当に長い抗がん治療で髪をなくしてしまった場合はカツラもあっていいのかもしれない。
わたしが何故あんなに固執していたのかと思うと今ならば被害妄想的な発想になってしまったんじゃないかと思う。
漠然とした不安だったのかもしれない。
ガガ様バージョンであれば、別の活用方法も長く残ったかもしれない。
わたしもばかな女心だったのでした。
こうして書くとすごくよくわかる。
過ぎてみれば何でもよくわかるのでした。



人間いつかは死ぬ、なんてくくりかた、身もふたもありません

2012-12-28 10:05:33 | 食道がん
食道がん、他に転移があれば5年後の生存率は20%
転移がなければ5年後の生存率は50%
しかし、その生存率って健康で生きていられる率ではない、末期がんの病床にある場合もその生存に含まれる。
こんな数字を知って考え込んでいる時に、
「人間、どうせ一度は死ぬんだから、くよくよしてもしょうがないよ」なんてなぐさめられても、釈然としない。
そんなとてつもなく大きな物差しを出してきて測られるのが悲しい。
わたしという存在は進化過程の一個の個体になってしまう。
名前も顔もない生命体になってしまわないといけない気がしてしまう。
これからの5年間をかけがえのない重さでどうしようか考えているのとはギャップが大きい。
明日とか、今とかほんのちょっと先が重要なわたし。
今の体調に自分を見ている。
どうせ一度は死ぬという言い方は身もふたもなさ過ぎてとまどっていた。

わたしが入院治療を受けたがん病院の5階は建物の屋根部分がガーデンになっていた。
オリーブや月桂樹などの低木や木の根元には成子百合やスズランなどの宿根草が植えられ、ぐるりと周囲を散歩できるようになっている。
インチキの庭ではあるが、ここで風に当たり、日射しを浴びながら過ごすのが入院中の日課だった。
植物を眺め、外の景色を眺め、一階で買って来た苦いタリーズコーヒーをちびちび飲んで結構な時間そこにいる。
思い浮かぶ事を一瞬考えては別のことを思う。
手術がいやだな、とかうちの朝顔はどうなったかな、とか天気の事とか。

キャッキャと笑う子どもの声と大人の女性の声が聞こえた。
松葉杖をついた少年とおそらくその兄弟と母親がこちらに歩いてくる。
きれいな顔立ち、お母さん似だなとおもいながらゆっくり歩く。
すれ違う時、少年はわたしの眼を見て「こんにちは」といった。
明るいはっきりした声で。
わたしも「こんにちは」とていねいにこたえた。

病院の中庭でがん患者通しがすれ違い、互いにあいさつをした。
一人はこどもで、可愛い男の子。
ひとりはその子の親よりも年上の大人で女の人。

同じ時間、同じ空間。そこにいた。
がん病院という外とは違う空間で、互いに眼を見てあいさつを交わした。

その今、がわたしと少年が生きているっていうこと。
そうだと気がついた。
今、生きているってそういうことだったんじゃないか。
少年のあいさつの表情や声に互いに今生きている事に気がつかされた。
生きるってそういう今。

この、いまを大事にしていく。
今は我慢してやり過ごすものでもなく、わたしが持っているのはこの今生きているという事なのだ。
旨い、と心から感じる事とか
電話でしゃべっていることとか
好きなことを見つけたとか
うんこがちゃんとでて気持ちいいとか。
そういう事がわたしで、今をしっかり持っている事に気がつく事を、少年のあいさつに気付かされた。
5年先の生存の保証などほしがることもいらないし、おびえることもない。
そう思える自分に出会えた。

まあ、これは自分の人生なのでこうもすっきり思えるのであろう。
これがもしわたしのこどもが病んでわたしより先に死に向かって追い越していくのであれば心はおだやかじゃない。
切なくてもだえ苦しむと思う。
きっと、わたしの子どもたちはわたしの病気を無限に広がる不安さ、怖さとともに受け入れていかねばならぬのだろう。
今だけで済まないそれぞれの時間を持っているんだろう。

でも、いま、いま。いまでつながっていられる。
ミクロなものなのだ、本来人間て。


病院選び、治療選び

2012-12-27 14:45:16 | 食道がん
わたしのブログは前後します。
なるべくそうしないようにとは思いますが、思いつくままに書くので、お許しください。

がんが見つかってすぐにこれからどこでどう治療していくのかを決めなくてはいけない。
そんなことについてはあまり判断材料がない、というか、どうしたらいいのかな、と思った。
わたしの場合娘が研修医であったので彼女に判断をゆだねた。
がんの専門病院を提案された。
理由は食道がんだからだという。
胃がん程度なら自分の勤務する総合病院をすすめるが、食道がんは大手術なので症例が多い専門の医師に執刀してもらった方が良いという。
そ、そうなんだ・・・・胃がんよりどうも大変らしい、そのことは理解した。
彼女はよけいな事は言わない子でどんな手術で術後はどうなるなど具体的な事は何も言わなかった。
地元の病院ではなく東京のがん専門病院に入院するけどいいか、としっかり確認をとらされた。

食道がんは確かに大手術で、毎日そんな手術をしている先生にかかるのがベターだということは正しい判断だったと後々思った。

取りあえず、専門病院に紹介状を持ってかかったのでありますが、次なる選択肢があった。
わたしはステージ2(どちらかというと3に近い)で、
抗がん治療の後手術してがんをとる。
または抗がん治療後放射線照射。どちらかを選択するのだという。
これだけ聞くと切らなくて済む方法があるじゃん、なら、わたしそれがいいって単純に思います。
が、娘は首を縦に振らなかった。
開腹しないと転移があった場合わからないという。
転移の可能性はなくはないという。
もうがんになってしまったのだからいまさらつべこべいうのもはばかられる。
もう、いいよ、しっかと切ってください。覚悟決まった。

そんななか、心配してくれた友人が色々な治療をアドバイスくれる。
自然療法のたぐいやがんワクチン、保険のきかない放射線治療等々。
みんなわたしを心配して調べてくれている。
外国でゲルソン療法を受けられるところがあるよ、とか。

確かにそれも選択肢ではあった。
自分の体をどう直していくのか、しっかり決めなくてはならないし、決めたら迷わず貫かなければならない。

結局わたしはがん専門病院で抗がん治療後手術を受けることにした。
色々理由はある。
娘の方針が一番わたしにとって重かったこと。
だって、医師になって人の命を救ってね、といってきたから。
それから誰もが受けるような健康保険のきく治療がいいとおもった。
この治療中は健保組合の傷病手当の対象になる。(あとになって知った)
加入していた生命保険、がん保険の給付金の対象となる。
経済的に安心して治療が受けられるのは嬉しいことだと思う。

ちょうどその頃、なかにし礼氏は保険のきかないピンポイントの陽子線の照射で食道がんを克服したとテレビに出ていた。
http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20120911/enn1209111537009-n1.htm
それぞれ一長一短、どれがその人に合うかは結果を見ないと解らないところもあろう。
進行の度合いも、健康の度合いもみんな違う。
決断をまずしないといけない。

当時のノートに書いてあった。

出来てしまったがんは抗がん剤と手術でやっつける。
再発しないように自然療法もこころがける。(食生活など)
どんな結果が出ても最良だったと思おう。
ともかくやってみよう!

積極的な気持ちになれてよかった。
ショックに打ちひしがれている時間はなるべく短く。
どんどんつぎ、次を考えていこう。

抗がん治療中のご飯(なんとたこ焼きのすすめほか)

2012-12-26 07:24:58 | 食道がん
入院中、病院メシについて書きたくなりました。
忙しくても必ず朝ご飯たべるし、家事で一番大事なことはご飯作る事だと思ってきた私。
食べる事が大好きだし、作る事も好き。
おいしいものを皆と囲む事は人生にとって重要な事だと思ってきた。
さらに、食べ物が体を作る事を実感して、良いものを食べようと思ってきた。
他はさておき、食については妙な自信と言うか意識を持ってきたのだった。
そんな食べるのだい好きな私でも、抗がん治療中は別の肉体になってしまったようだった。
抗がん剤の副作用は薬によっても違うし、個人差もすごくある。
同じシスプラチンを使っていても、食後に菓子パンをおいしそうに食べている人もいれば、
口内炎でものが噛めず、ゼリーしか食べられない人もいるし、空腹で吐き、食べようとしては吐き、吐いたのが刺激で吐く人もいる。
私は平気だろうと思っていた。
荒れた海でも船酔いしないし、食欲と関係なくものを食べることが出来る才能も豊かにある。
しかし点滴3日めから胃が石のように固く重くなって気分が悪く、しばしば吐いた。
口内炎も一度なってしまうと結構長く痛い。
二度目のときは少しでも気分が悪くなったら医師に言ってはやめに吐き気止めを出してもらうようにしたので少しはよかった。
でも、きついものだった。
酸味のあるものは痛くて駄目、固いものも痛い。
ぐちゃぐちゃしたものは飲み込む時えっとなる。
食事はたらの蒸したものやトウフ、煮た野菜、おかゆなどのメニュー。
吐く患者は消化の良い離乳食のような献立になるようだ。
食事の時間が憂鬱になる、気分転換と思いデイルームに出ていただくようにするが一向に転換されない。
体重は減りに減って、これから先手術が待っているのに、40kgにまで落ちてしまった。

そんな時に天使は舞い降りてきた。
天使の職業は栄養士、入院患者の栄養指導の為にわたしのベッドを訪れてくれた。
この女性の力はすごかった。
彼女は病院ぽくなくてそこだけがお家の食卓のようにことほいでいる。
いわゆる美女と言うジャンルの顔立ちではないが、いると私まで笑顔が移ってくるみたいで一目で私は彼女が大好きになった。
来てくれてありがたく元気が出る。
働くお母さん、と言う印象で、この人の明るさならさぞやいい子が育つのだろうな、と思わせるオーラがにじみ出ている。
一通りの説明をしてくれた、薬の副作用など、解りやすく。
ありがとう、と言おうと思ったら彼女はにこっと笑ってさらに話を続けた。
「蒸したたらなんか我慢して食べようと思うから落ち込むの、苦く感じるでしょ。努力しても食べられないよ。今、抗がん剤で味覚はばかになっているから味の濃い、ジャンキーなものを食べてみるといいよ。大事なのは体力を落とさない事、栄養バランスなんて二の次。今だけいいんです。一生ジャンクフードを食べる訳じゃないもの。食べやすいのはね、たこ焼き、カップ麺、チーズたっぷりのドリアとか、ポテトやハンバーガーよ、売店で買って来て食べる。ここのご飯なんか残したっていい」
たくさんのがん患者に真剣に接してきたのだろう、その言葉は力強くてすてきだった。
吸い込まれるように聞き、うなずいてしまった。
「5階の子どもたちもね、『やっぱ、たこやきだね!』ってピースマークして言ってくれてるよ」
そうだろう、彼女に二度目にであったら絶対にアドバイスの成果をガッツポーズで伝えたくなるだろう。
解る、と思った。
その日、たこ焼きは売り切れていたのでキャベツいっぱい広島焼きという総菜を売店で購入、夕食に彼女の笑顔を思い浮かべながらほぼ完食する。
あんな仕事が出来るのってすてきだ。彼女の人柄だろう。

抗がん治療をしている皆様、油を使った粉もの、ソースドロドロか熱々チーズでしのいでは?
ヘンかもしれないけど実践力に裏付けられてます、妙な旨さ!食べられなかった胃の腑に滲み渡りました。
また、食べる事で吐き気も治まる部分もあるように感じました。


がん発見、仕事をキャンセル

2012-12-25 09:44:50 | 日記
食道がんは白く盛り上がっていた。
イメージではがんは真っ黒だと思っていたのでちょっとびっくりした。(そのくらい無知だった)
かかった医者が生体検査結果を待たずに紹介状を書くとおっしゃった。
先生は私のがんの進行と生検待ちの時間を天秤にかけて心配してくださる、人間味のある方だった。
わたしにはそれはちょっと暖かかった。
不幸な結果を知っても、心の奥があったかコーヒーをカップ一杯頂いたような程度のほんわか感がはっきり残った。
その小さな暖かさが冷めぬうちにあらゆる仕事のキャンセルを、病院の駐車場でした。
事務的に伝えた。
昨日まで元気に働けたのだから明日も働けるのだが、ここはきっぱり大きな一歩を踏み出した。
大切な人に病名を伝えた。
治療最優先でしばらく頑張ろう!
ショックな事だが、悩んでいても仕方がない、次、次と行動する事で乗り切るしかないと思った。

即座にきっぱり生活を変える宣言をした事は結果的にものすごく良かった。
自分の精神的にも良かったし、
勤め先や自分が役を受けている組織など、相手にとってもしばらくの期間戦力になれないことを前もって言った事は良かった。
すっきり一回で片付いてしまった。
あとはもう限りなく理想的に健康的な生活をスタートする。
考える暇なく生活を切り替えてしまった。
いいと思える事を実践してみた。
サプリメントをとり、ゲルソン療法に準じた食生活をしてみた。
そしてなぜか暑い日差しの中好んで庭に出て草をひき、春に植えた朝顔を愛でた。
はまってしまった。
雑草の生える速さと競争して自分の仕事の結果を感じて当時夢中になれた。
土とか植物とか日差しとか、実にありがたいものだ。
私を遊んでくれて、遊び疲れると充実して休むことが出来た。
いっぱい眠って、朝起きると好きなスイカを好きなだけ頂いて、ゆっくり動き始めて、お腹がすくと食事をとる。
温浴療法も良いと言うので明るいうちにもゆったり風呂につかる。
自分の生命力が高まっていくのが感じられる。
こんなに時間はいっぱいあることに感激する。
仕事中はくたびれて帰ると最低限の事しかしたくなかった。
自分の健康のために一日がつかえる素晴らしさ!
元気になったら(がんを克服したら、の意)あれがしたい、これがしたいという事を事細かに妄想して過ごす。
イメージはもう病気から羽ばたいて健康でやりたい事ばかり考える。
がんになって悪いことばかりじゃないな、朝ゆっくり寝ていられるし、自分のために時間をつかえる。
と、この頃は開放感に酔い、お気楽気分でした。
お気楽気分は幸いにも抗がん治療の2ヶ月間私を助けてくれました。

考えてみればそれまでの生活の中でがん細胞を育んできた訳ですから、無理やストレスがあったのでしょう。
それに気がついて自分の現実に気がついたと思うことにしました。
これまでの生活とはお別れです。

今日はクリスマス、入院中の私にはチキンもケーキもシャンパンもありません。
ま、いいか。
と、いじけずに受け流せるようになっていました。
がん告知の時から半年、自分で納得してきたからなのでしょう。
あの日、がんを思いやって伝えられて、仕事など社会生活をお休み宣言した時のおかげかもしれない。
きっぱり出来てよかった、いい医師で本当に良かったと思うのです。




はじめてのがん、はじめてのブログ

2012-12-24 18:22:42 | 日記
全ては突然やってくる。
徐々に変化していくことってなかなかなくて、人はそれに対応しなくてはいけない。
本当に大変。
たまたま今日までこうして来れた事がきわめてラッキーな事で、何があるか解らないし、あすもあさっても今日と同じように続いていくなんて幻想だと思う。
そろそろなんか来てもおかしくはないかな、という野生の予感があった。
職場の検診では毎年何の問題もなかったのだが、思い切って6月に医者に行き、内視鏡の検査を受けてあっけなく癌が解った。
そこからは時間の流れが違ったものになっていった。

始めてブログを書いてみようと思うようになった。
理由は二つ。
役に立つとまでは言えないが、体験は誰かの参考にならないか?
私の場合、知りたい事をネットで色々調べてもなかなか欲しい情報が手に入らなかった。
小一時間も袋小路に入ってしまったようにサイトを点々としていっぱいウィンドウを広げて自分はこんなに根気強かったのかと思ったりした。
癌の闘病のブログはそのとき参考になってむさぼり読んでこれからの闘病生活のイメージを膨らませるのに役立った。
もう一つはちょっと恥ずかしいのだが生きるという事について書きたいのだ。
癌になるまで気がつかなかったことがいっぱいあって、鈍感に生きてしまっていたのかもしれないと驚いている。
それは死にそうだから、生きる事が素晴らしいというような感じではない。
普段は嫌いなおかずも他に何もなくてありがたく食べていつもの自分の贅沢を反省するようなものではない。
もっと誰もが感じている事、普通の事を素直に感じられる自分に出会えているという事なのだ。
それは人への感謝でもあるし、いっぱいいっぱい湧くようにある。
癌は誰でもがなる病で、自分だけの個別な悲劇ではなく、自分に立ち返るチャンスだった。
どうしようもなく仕事人間で子育てに追われて、いつも自分のことなど打ち捨てて生活が成り立っていた。
誰かのために働くのが悪いと言いたいのではないが、もうこうなるといちいち考えないで暮らすのに慣れてしまうのだ。
そのことに気がつけたのは世が世なら出家したくらい貴重なのだ。

誰かの胸に届くといいなと思ってブログを始めます、
54歳、クリスマスイブ、入院中。