![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/93/895aad0f3e10c0254d217a9acc5fa961.jpg)
これは昭和20年5月29日のあとに撮影されたものでしょうか、それとも8月15日以後だったのか、月日がよく分かりませんが、6月でも8月でも、こんな光景だったに違いありません。 左端に写っている2階建てのビルは中税務署です。現在はここに「にぎわい座」があります。 ![]() 昭和50年代の旧中税務署。 中税務署(冒頭の写真)の後方にある大きな建物は当時の中区役所。もとは興産館という施設でしたが、太平洋戦争が始まった翌年、市役所内からこのビルに移ってきました。昭和36年に区役所が住吉町へ移転したあとは、しばらく市民ギャラリーとして使われていましたが、のちに桜川新道建設のため解体されてしまいます。 写真の中ほどに煙突が写っています。位置関係から見て、これは柳湯でしょうね。戦後は焼け残った釜と湯船で露天風呂をやっていたという話もありますが、私が利用していたのは昭和50年代。湯あがりには軒下のフライ屋で一杯やったもんです。 道路を挟んで中税務署の右側に鳥居が見えています。ここが野毛の守り神だった「子之神様」です。 ![]() 現在は「ちぇるる野毛」になっている一画に、そのことを記した案内板が建てられています。 ![]() 昭和30年代の地図(横浜市のHPに出ている)。黄色で囲んだ部分に煙突のマークがあります。これが「柳湯」でしょう。 Cは駅前商店街。のちのゴールデンセンター、現在のピオシティですね。青丸で囲んだ(映)のところは「横浜ニュース映画」でしょうか。 Aは中区役所。Bは桜川沿い(クジラ横丁)に並んでいた飲み屋を集めた「桜木町デパート」。肥後盛造という親分が市役所との間に立ち、飲み屋の人たちをまとめました。 昭和47年、桜川新道を造るため桜木町デパートは閉館。中に入っていたお店の一部は長者町8丁目の「エイトセンター」へ入居。地下1階・地上4階建てのビルで、地下1階から3階までに約40軒のバー・スナックが並び、4階が理事長の事務所でした。 この地下に降りてすぐ右側にカウンター6,7席の「美津の家」という酒場があり、婆さんが一人で切り盛りしていました。 私はほとんど毎日、ここで吞んでおり、いろいろな人たちと知り合いになったのですが、その中の一人、エヌというオジサンの話が面白くて、いつも楽しませてもらっていたことを思い出します。 そんな彼が語ってくれた終戦後の野毛の話。 当時こどもだったエヌさんは毎日、野毛で遊んでいたそうです。道路は行き交う大人たちでいっぱい。そんな時を狙って、エヌさんはチョークで路上に大きな円を描きます。 そこで何やら口上を述べて、大人たちを円の中に入らないようにして、その中に小銭を投げて入れてもらうのです。(どんな口上だったのか、もう忘れてしまって思い出せませんが…) ある程度お金が集まったところで、それを小袋に入れ一気に走って逃げてしまうのです。大人を騙して現金を持ち逃げする痛快な話でした。 エヌさんは戦災孤児でした。あの時は話が面白くて、同席していた若いお客たち(含む自分)は笑い転げていましたが、その辺の事情をちゃんと聴いておけばよかったと、今になって思う次第です。 社会人になりたての頃、大先輩たちにはエヌさんみたいな人だけではなく、怖い人やヤバイ人も結構いました。 ヤクザまがいの〇〇さん、いつも命令口調の✕✕さん……、あの当時は「いやだなぁ」と思うだけでしたが、後になって考えてみると、彼らは戦地から帰ってきた元兵隊だったのかとも思うようになりました。もしかしたら特攻帰りだったのかもしれません。 そして、社会人になるもっと以前の中学生時代には、軍隊生活のことをはっきりと喋る先生がいました。 ある日のこと、授業中にふざけているヤツがいたのですが、先生はそいつを立たせるといきなり、ストーブの火かき棒でお尻をぶっ叩いたのです。 これに反抗して口答えをするヤツに向かって、いや全員に向かってこんなことを話し出しました。 自分は海軍に行っていた。日本を守るためにな。軍隊ではこんなふざけたヤツはいなかった。しかし、訓練で失敗する初年兵は多く、そんな時、上官は兵隊に向かって「ケツを出せ!」と言いながら、ぶっといロープでぶっ叩くのだ。ドスンとな。 そうすると兵隊はニョロニョロと脱糞する! それはすさまじい光景だった。 それに比べたら、こんな火かき棒なんて屁でもない! すごい先生でした。 もう一人、高校時代の英語教師。いつも革ジャンを着てくる人でした。あの時代に革ジャンというだけで恐れられていました。しかも剣道部の顧問。授業中に竹刀を使うことはありませんでしたが、よく出席簿の角で頭を叩かれました。 教師に対して反抗的な態度をとると、その場で立たされてパカ~ン! 平らな面ではないですよ。出席簿の背中部分だから固い。ほんとうに痛かった… ![]() もう一人は体育の先生。チンタラしていると一列に並ばされて「入魂式」をやられます。クラス全員が、連帯責任なんですね。 その入魂式というのは、先生が両手をグウにして拳をつくり、中指の第2関節を突出させて生徒のこめかみをグリグリやるのです。これは強烈に痛かった ![]() 当時は戦争のことや引揚者のことなど、ほとんど学んでいなかったし知ろうともしていなかったので、教師と戦争の関係に思いをいたすことがありませんでしたが、大学生にになってから、あの先生たちは「もしかしたら中国戦線に行っていたのか」とか「特攻隊の生き残りだったんじゃないか」と思うようになりました。 8月15日の終戦記念日が過ぎると、戦争関連の記事や番組がほとんどなくなってしまいますが、私は昭和20年8月16日からしばらくは、こんなことを思い出しています。 そうそう、半村良が書いた『晴れた空』、これはお勧めです。8人の戦災孤児、特攻帰りのお兄さん、娘を連れた戦争未亡人ががたくましく生きていきますが……。 ![]() |
かったなー。「戦争中の体験」
だけでなく、「その人の人生の中の
戦争」(上手く言えませんが)の話も
聴いてみたいです。
半村良さん(イーデスハンソンさんと
は無関係でしたね)SFの人と思ってま
したけど、こういう作品もあるのですね
「晴れた空」 _φ(・_・メモメモ
先日、羊名人を頼んだ時に、半藤一利
「日本のいちばん長い日(決定版)」
文春文庫も注文してみました。
頑張って読んでみます。
いまから思えば社会人になりたての頃に接した大先輩たち、
あの方々の中には直接体験した人が多かったはず。
もっと聞いておけばよかった。
半村良はSFや伝奇ものが多いですが、
この「晴れた空」はひと味違います。