中華街ランチ探偵団「酔華」

中華料理店の密集する横浜中華街。最近はなかなかランチに行けないのだが、少しずつ更新していきます。

横浜開港記念みなと祭り 国際仮装行列

2024年05月05日 | レトロ探偵団

 5月3日、横浜国際仮装行列が行われた。昔は現地のどこかで見学していたのだが、もう何年も前から、もっぱらテレビ鑑賞になってしまった。
 映像は山下公園通り。


 一番最初のグループが出発。子供たちによるパレードだ。
 横断幕には「ザよこはまパレード」と書かれているが、もともとは(正式にはというべきか)、横浜開港記念みなとまつり国際仮装行列だったはず。いや、今でもそう名乗っているようだが。


 神奈川県警のマーチングバンド。


 日本フィリピン文化交流協会。


 山下公園にはフィリピンにゆかりのある記念碑が建っている。リカルテ将軍の碑だ。ついでだから、ここでそれを紹介しておこうかね。


 これを撮影したのは、かなり前のこと。その後、園内のどこかに移設されたと思う。現在どこに建っているかは、ストリートビューで確認してね。

 この碑には以下のことが書かれている。

 アルテミオ・リカルテは一八六六年十月二十日フィリピン共和国北イコロス州バタック町に生る。一八九六年祖国独立のため挙兵、一九一五年「平和の鐘の鳴るまで祖国の土をふまず」と日本に亡命、横浜市山下町一四九に寓居す。
 一九四三年生涯の夢であった祖国の独立を見しも、八十才の高令と病気のため一九四五年七月三十一日北部ルソンの山中に於て波乱の一生を終る。
 リカルテは真の愛国者であり、フィリピンの国家英雄であった。茲に記念碑を建て、この地を訪れる比国人にリカルテ亡命の地を示し、併せて日比親善の一助とす。
 昭和四十六年十月二十日 財団法人フィリピン協会 会長 岸信介


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 昭和47年1月11日付けの新聞にこんな記事が出ている。

リカルテ将軍の碑完成 山下公園で除幕式
 記念碑の場所は山下公園中央部の一画でホテル・ニューグランド前付近。
 将軍の波乱に満ちた生涯が日本語とタガログ語で刻まれており、建設費は350万円。
 これはフィリピン協会が募金運動で集めた“浄財”。土地は横浜市の協力で山下公園の一画が提供された。
 除幕式では岸会長が、祖国愛に生きた将軍をたたえるあいさつを述べたあと、フィリピン側を代表してラウレル前駐日大使も「記念碑の完成は日比親善のため大いに意義深い」とあいさつした。
 リカルテ将軍は1866年フィリピン北イコロス州で生まれ、折から全島で吹き荒れた革命運動に参加。1898年、米西戦争が始まると、米軍に協力してスペイン軍を撃退、フィリピン独立に大きく貢献した。独立に際して将軍が作ったフィリピン国旗は現在もそのまま使用されている。
 しかし、間もなく今度は米国との間で戦闘が始まり、捕われた将軍は太平洋の孤島グアムへ幽閉の身となった。二度にわたる幽閉ののち、今度は国外追放処分。
 将軍は香港、上海にのがれたあと、1914年横浜市に亡命、第2次大戦までの27年間を中華街(山下町149)でひっそりと過ごしたという。この間、将軍は「・・・」の日本名を名乗り、小さな飲食店を経営する婦人と共にスペイン語を教えながら不遇の生活を送ったと伝えられている。
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 山下町149番といえば、聘珍楼本店のあった一画。この地で大正3年(1914)から昭和16年(1941)まで飲食店をやっていたのだ。戦争が始まって、おそらくこの年に日本を出国したのだろう。

 話がそれてしまった。パレードに戻るね。


 こちらは在日ウクライナ大使館。


 自衛隊だ。バトンの代わりに持っているのは銃。


 在日米軍軍楽隊。


 崎陽軒のフロート(^^♪


 シウマイ弁当ができて70週年なのか~。


 バックには巨大な弁当が張り付いていた。


 最後は横浜市消防音楽隊♪


 …と思ったら、特別参加のパレードがあった。
 

 帰ってきたあぶない刑事だ。

 ということで、すべてを紹介することはできなかったが、最後までTV観覧していて思ったことは、昔より面白くなくなっているということだ。
 以前はフロートがたくさん出ていたっけ。そして仮装している団体も多かった。まさに「国際仮装行列」だった。


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