エッセイ -日々雑感-

つれづれなるままにひくらしこころにうつりゆくよしなしことをそこはかとなくかきつくればあやしゅうこそものぐるほしけれ

畜生塚

2017年10月16日 | 雑感

2017年10月15日

 

二週間ほどまえ、朝から雨が鬱陶しかったので家内と街に出た。河原町三条付近でコーヒーを飲んだあと

一軒の古本店に入った。ここは80歳を少し越えたおばさんが店に座っている。

30年前に亡くなった父の、最後に残った本の中でゴミとして捨てるには忍びないものを去年処分してもらって以来

のつきあいだ。

          

おばさんは博識で、よくしゃべる。店は暇だから、私らはおばさんの格好の相手だ。話が弾んで楽しいが

1時間くらいになると、立ってるのがしんどい。(後ろ向きの家内の奥におばさんがちらっと写っている)

 

たまたま信長の話になった。おばさんは安土城跡にある寺(名前わすれた)の住職と親しくている。

先日行ってその寺にある信長の皮のズボンとか羽織を見せてもらった。住職に、拝観料をとって見せろと薦めたが

彼はめんどくさいからやらない、ということだったそうだ。

 

“・・・信長は残虐ですなあ、比叡山の焼き討ち皆殺し、墓石を階段にするその神経、そらすごいですわ・・”

 

たしかに信長は残忍かも知れない。しかし彼の残忍さは強敵を相手に必死で這い上がる途上の仕業だ。

 

しかし秀吉の場合、人間の所業をはるかに超えているのではないか、と私は思う。

彼の晩年はひどい。そう言うとおばさんは、“三条木屋町をちょっと下がったとこ(南にゆく)の瑞泉寺に秀吉の甥の

秀次と側室ら39人の墓があるし、行ってきはったら”、と教えてくれた。

 

長いあいだ京都に住んでいるのに、その寺のことは知らなかった。

 

400年ほどの歴史があるという瑞泉寺に行ってみた。

        


秀次の廟の両側に殺された側室、身内の39の廟柱が立っている。その一つに“駒姫”という特別の立札があった。

当時15才だった“駒姫”は秀次の目にとまり無理やりつれてこられたのだが、側室になる前に秀次は高野山で

殺されていた。つまり秀次とは会ったこともなかった。にもかかわらず秀吉は駒姫を殺した。

 

昔、(2005年)京都美術館で“修羅と菩薩のあいだで”という特別展覧会があったのを見に行ったが、狩野芳崖、

下村観山、竹内栖鳳、堂本印象、富岡鉄斎、橋本関雪、棟方志功など、なみいる巨匠たちの作品のなかで、

とりわけ私が衝撃をうけた作品があった。

    

甲斐庄楠音((カイノショウ、タダオト)の“畜生塚”という壁一面の大作だった。

 

絵の良し悪しは私にはわからない。しかし、秀吉によって三条河原で殺される運命にある女性群のおののきを

描いた強烈な作品だった。

 

 秀吉は61歳(63歳?)で死んだ。たぐいまれな才能で、あれだけの偉業を成し遂げて天下人にのぼりつめたが、

最後は単なる陰惨な人殺しとなった。

 

東山七条の豊国神社前にある、朝鮮武将の耳を切り取ってうめたという耳塚も気持ちのいいものではない。

 

私たちが子どもの頃、立身出世の手本であった人気者の豊臣秀吉は、今はどう思われているのだろう。

歳をとるにつれて、私はその陰惨な晩年にしか思い至らない。

 

 甲斐庄楠音の絵は土田麦僊から“穢い絵”と酷評されたらしいが、なにが穢いのかわからない。

最後の写真、私は忘れていたが、2005年の展示会にあったという彼の作品、“悪女菩薩”だ。


     




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