2018年8月16日
昨日は戦後73年 追悼式だった。来年の天皇の退位によって、平成最後の追悼
式となった。
天皇、皇后のお二人にとっては、ただただ謝罪の旅と被災地慰問の半生、いや一生だっ
た。長い間、ご苦労さまでした。
ブログ村から1年前の記事についてレビューをかけという案内が来た。
この文の趣旨は一年前にもだしているが、その骨子は2014年8月に戻る。 忘れては
ならないあの戦争に関するものだから、何回出してもいいだろう。今回、大分手直
しをした。
2014年8月5日の朝日新聞に、沢村栄治の記事が載っていた。
京都学園(旧京都商業高校)に銅像があるという。
そこで私は、子供のころから耳にし続けた伝説の名投手に会いに、家内と出かけた。
私は野球にはまったく関心はない。しかし“沢村栄治”にはずっと関心があった。
京都学園中学・高等学校の入口から坂道を下っていくと、木々に囲まれた小さな広場の
一角にその銅像はあった。
均整のとれた体格、左足を大きく上げたバランスのいい投球姿勢。
銅像の足元に、彼と京商時代にバッテリーを組んだ山口千万石氏の書いた碑文がある。
2003年、この像が出来る直前に山口氏は亡くなり、彼の碑文だけが残った。
山口氏は、“彼の遺品は何も持っていないが、えらい形見をもらった”、と沢村の球を受け
続けて変形した左手の指を誇らしげによく見せていたという。
沢村は三度徴兵された。
志村正順アナウンサー(NHK)が、戦地から帰還して再び野球に加わるようになった沢
村を見て愕然とした。
しばらくは彼だとわからなかったが、わかったあと、あれほどの投手が、と涙が出そうに
なった、そして戦争とはこれほど残酷なものかと思ったそうだ。
沢村は剛腕ゆえ、”手榴弾投げ競争”、に度々かりだされた。硬式球の重さの3倍以上あ
る手榴弾だ。その結果、投手の生命である右肩をつぶしてしまった。
三度目の出征で、彼が乗ったフィリピンに向かう輸送船が撃沈され、屋久島沖で戦死。
1944年12月2日。 享年27歳。
あれから70年経つ。 (2014年)
沢村栄治の銅像を見ている私らの傍らを、はじけるような笑い声と共に自転車を押して
上がってくる屈託のない女子生徒のグループが通り過ぎていった。
山口氏の碑文には、”この像を、未来の平和に願いを込めて、母校に学ぶ若人諸君に贈
る”という旨の言葉が記されている。
平和な時代に生を受けたあの女学生らに、沢村栄治の人生と、彼の銅像の下に書かれ
た千万石氏の言葉がどれほどの意味を持っているのか理解できるだろうか。
今日はお盆の最終日8月16日だ。京都では五山の送り火が行われる。
お盆は、日本人にとって、正月以上に意味がある。親のもとを巣立った子供たちが彼
らの子供を連れて故郷に帰ってくる。親だけではなくて、ご先祖様にも会うためだ。
三日前にこの世に帰ってこられたご先祖様の霊、おしょらいさま(御招霊さま)がいろいろ
接待をうけ、今日帰って行かれる。
船形の送り火に乗って帰られるという説もあるが、それなら残る、大文字、妙法、左大文
字、鳥居形の四山の火がその船を見送ることになる。
お盆の真ん中の8月15日は終戦記念日だ。
この二つがぴったりあったことは偶然とはいえ大きな意味を持っていると私はいつも思う。
毎年お盆が来るたびに、我々は祖先に想いをはせる。
同時に大戦で無残に死んで行った人たちの、そして8月6日の広島、9日の長崎への原
爆投下の思いがよみがえって私たちは合掌する。
もし、終戦がお盆以外、たとえば5月のゴールデンウイークの時だったらどうだろう。今の
軽薄な日本を見ていると、大戦の記憶を持った人々がいなくなってしまえば、時の経過と
ともに大戦は忘れ去られてしまう可能性がある。
しかし、終戦記念日がお盆と重なっているかぎり、この日はいつまでも特別な日として日
本人の記憶のなかに残り続けるだろう。そうあってほしいと願っている。
そして、今後、“戦争は絶対に起こしてはならない”、という思いも。
さて、今日は上の文を書いて4年経った2018年8月16日だ。
いま午前11時、大文字の送り火の点火は8時に始まる。天候不順のこのごろだ。雨
が降らないことを祈る。
ふたたび、今日。
いま、6時半、30分ほど前はひどく降っていたが、一応やんだ。
去年は豪雨の中で火送り人たちは頑張った。
このあんばいでは、今年は無事だろう。
実況放送はこれで終わりにします。
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