エッセイ -日々雑感-

つれづれなるままにひくらしこころにうつりゆくよしなしことをそこはかとなくかきつくればあやしゅうこそものぐるほしけれ

 照ノ富士休場

2017年09月17日 | 雑感

2017年9月17日

  今場所6日目、照ノ富士は正代戦を避けて休場となった。5日目の取組で古傷の左ひざ半月板を損傷した。カド番だから大関転落だが、これでいい、ほっとした。

 このままやっても負けるだけで、ますます状態は悪くなって、再起不能となるだろう。

                              

彼は15年の5月場所で関脇優勝し7月場所で新大関となった。9月場所で稀勢の里との一番で膝を痛めたが、12勝3敗。

ところが11月場所以降の挙動が理解できない。膝に故障をかかえたまま相撲を強行し、その結果、苦しんで、現在に至った。9月場所の12勝3敗が本人・周りの考え“なんとかこれでも行ける”というふうにに悪く影響したのだろうか。

兄弟子の安美錦がひざの故障でさんざん苦労をしている。こういう例を見てきて、なぜ親方(伊瀬ケ浜親方・旭富士)や周辺は11月場所を止めなかったのだろう。本人が断固として出るといったのか。そう簡単に休場はできないのだろうか。

 

私は照ノ富士ひいきだ。荒っぽいが、相手に飛びこまれても組んでしまうと白鵬でもかなわないような怪力で相手をねじ伏せる。未完だが、もう少し自分の相撲を会得すればすばらしい力士になると思っていた。

それと表情が面白い。強い相手となるとだんだん形相が変わってきて新薬師寺のバサラ大将のようになる。ところが相手がカド番力士などの時にはこんな顔にはならずに負けてしまったりする。

                       

逸材であることには違いないからゆっくりと下位で鍛え直して戻ってきてほしい。

琴風は関脇の地位から膝の怪我で幕下まで落ち、それでもくじけず鍛錬し直して最後大関になった。安美錦もいま十両で回復しつつあり、幕内復帰がもうすぐと云われている。

 

琴風をみならって、幕下まで落ちる覚悟でくさらずにやってもらいたいものだ。

 


100歳祝いの銀杯

2017年09月15日 | 雑感

2017年9月15日

 

 私の母は昨年100歳となり、祝いの銀杯をもらった。

今の100歳人口は驚くほどだ。昨年9月では65692名で一昨年より2748名増えている。今年も敬老の日が来たが、この様子では7万人を越えることになろう。

 母がもらったものは純銀製の杯で7600円らしい。

その他に有難くもない日本国総理大臣の名前が入った額縁入りの賞状、同じく額縁入りの京都府知事と京都市長からの賞状と祝いの品、それらも決して安物ではない。おまけに三者からの祝いはばらばらに宅配便で来るから、その費用も合わせると3万円近くになると思われる。

                                  

 純銀の杯は税金の無駄使いだという声が上がり、今年からは銀メッキ製になったらしい。まことに結構なことだ。

母は100歳の祝いの銀杯をもらったことなど理解できる状態でもなく,亡くなった

無意味だったが、偶然にも最後の純銀杯をもらったということは、何一つ不利益を被らないというある意味完璧な彼女の生きかたに見事重なって、あえてある意味という言葉を使うが、感心した。

 私も昨年から敬老の日に地域からタオルか何かのお祝いをもらうようなった。75歳を過ぎるともらえるらしいが、それまでは母へのお祝いとしてしか認識していなかった祝いの品を初めてもらった時はとまどった。

日本人の平均寿命が延びたいま、老人を支える現役は大変だ。100歳を迎えられた方々には申し訳ないが、いまや100歳はめずらしくもなんともない。私の祖父が70年ほど前に88歳で亡くなった時には“長生き”だとかなりの評判だった。だが今は時代が違う。

 むしろこのような制度はやめて(75歳以上も含めて)、日本の最高齢者・男女各1名に純金製の杯を送る、そしてあまった予算は子供たちのために使う、ずっと有益だ。

 これは、わたしたちが悪戦苦闘のすえ母を見送った昨年からの素直な思いである。

 この文、不愉快と叱られるかもしれない。しかし私の個人的事情も含めるが、そういう思いを持つ人間も多いのではないだろうか。


昨日の大文字・長距離歩き

2017年09月04日 | 雑感

2017年9月3日

 

 ひさしぶりに大文字山に登った。常連も含めて数人がたむろしている。

でもなにか違う。

真っ黒に日焼けしたオジサンが一人いる。もう一人は、オジサンとしゃべりだした私に加わったお姉さん。聞くところによれば、嵐山から8時に出発した65キロの楽しみランニングメンバー関係者らしい。

“京都トレイルを走る会・・・・”、お姉さんにもスマでしらべておぼえられないほどの難しさだ。オジサンはボランティアで、大文字の大の字で道案内、お姉さんは友達が参加しているのだが、とても65キロは無理なのでここから山科の毘沙門堂(文殊堂?)までの8キロ余りを伴走するという。

   


             

        

   

一枚目の写真、私はPC音痴だから娘に矢印を描いてもらったが間違って二つ入れてしまったようだ。

そんままほっとかれて、私もめんどくさいのでそのままにしている。わかればいい、ここらが嵐山だ。

正面の高い山は愛宕山。ここから北(右)の方に走ると理解してもらえばいい。次の写真は一枚目の右端のところから。

 

次に鞍馬から薬王坂を経て静原街道を走り、大原花尻橋付近から比叡山の千日回峰行者道に上がる(4枚目の写真で見える比叡山山頂のずっと奥が、行者道で大原街道から直登する。)それから比叡山頂上、じゃが池をへて白幽子洞窟をへて、一旦北白川村へ降り銀閣寺へ、そこからここ、我々がいる大文字の大の字を経て三角点に行き、山科がゴールらしい。

 

これの道程の半分は30年前に私と友達とでやった。でもあのときは叡電で鞍馬までいって、それから、今回のコースで大文字の“大”まできて、鹿ケ谷におりて四条で終わった。だから30キロくらいしか歩いていない。友達は当時六甲50キロほどをやっていた。“お前の歩き方は遅い”と云ったものだから、二人分の食料をいれたザックを背負い(彼は手ぶら)行者道から根本中道まで走って“お前の走り方に文句を言ったのは申し訳なかった”と云わせた。楽しい思い出だ。

 

あれからどんどん長距離ルートマラソンが出てきた。70キロの鯖街道、300キロマラソン、とか。交通整理のオジサンに“えらい時間のつぶしですね”、といったら、“まあ、普通のひとはやらんでしょうが、たのしいんですわ”。

 

女の人の相棒が来た。200番中20位くらいだった。二人に“がんばれよ”と声をかけて下山した。

 

私は日常の大文字のぼりかの経験から、歩行速度にあわせた、銀閣寺からここまでの時間はほぼ正確に把握している。

 

帰りに何人かのランナーとあった。もうランナーとは言えない、わたしの登りより遅いが当たり前だ、わたしならここまでこられない。その歩調から、“大の字迄あと6分です、15分です、あなた女性で一番です、あなた女性で二番です”、などと声をかけて降りてきた。しんどい彼らには迷惑だったかもしれないが。

 

普段は家からバスを使って往復2時間程度だが、3時間ほど遊んだ。