エッセイ -日々雑感-

つれづれなるままにひくらしこころにうつりゆくよしなしことをそこはかとなくかきつくればあやしゅうこそものぐるほしけれ

日本刀で首を切り落とす音

2017年06月24日 | 雑感

2017年6月24日

前回にひきつづき刀にまつわる話。

                

高田浩吉、東千代之助のころの時代劇ではチャンバラ場面での音響効果はほとんどなかった。

刀と刀がぶつかっても竹の刀の音だったりする。   まして刀で人を切る音などほとんどきこえなかった。

 

黒沢明の“7人の侍”(1954年)、私は好きで何十回となく見た。

しかし、ここでも“人を刀で切る、槍で突く”リアルさに欠けるのが唯一の欠点というのが一般的批評だ。   

話の筋、登場人物、すべてが素晴らしいだけにもったいないといつも思っていた。

 人を切るときのバサッというすごい音を出し始めたのは、私の記憶では黒沢明の用心棒(1961年)や

椿三十郎(1962年)あたりからだったと思う。

はじめてその音をきいたときは迫力満点だった。

 

ところで、私が小学校のころだから65年ほど前のはなしだ。

ある日風呂から上がって手ぬぐいを絞るかわりに手ぬぐいの端をつかんでバサッとはたいたら、父親にひどく

怒られた。

 “それだけは絶対やっちゃいかん!”

 手ぬぐいをはたく行為自体も上品とはいえないが、父が云ったのはそのためではない。

 

父の家は代々鹿児島宮之城の島津分家を監視するために本家島津から宮之城に配置された

郷士団(半農半武士)の一つだった。  父の祖父は西南戦争で戦死している。

 

そこで育った父が言い聞かされてきたのが、“手ぬぐいをはたいて水を切ってはいけない。

なぜならば、侍が切腹するときには介錯人が首を落とすが、手ぬぐいをはたいて水を切る音は首を切る音

そのものだからだ。

昔は日本手ぬぐいだったから、今の手ぬぐいよりもするどい音だったのだろう。

 

昔、家内にこの話をした。

家内が言うには 「私、音感もわるいし、音響効果もまるでわからないけど、たった一つ絶対に聞きのがさない音が

あるのよね」

「なに?」とわたし。

「プシュ!」と彼女。

「ワッハッハ!」、了解、私が缶ビールの栓を開ける音だ。

家内は私のだらしない酒に癖々していた。

 


偽物づくし - 竹光よりもっと偽物 

2017年06月23日 | 雑感

 2017年6月17日

  この一振りの懐剣を持って父の祖母ミツは嫁いで来た。 嫁いですぐに西南戦争が起こり、西郷軍として参戦した

ミツの夫は熊本の小川で戦死した。当時身ごもっていたミツは懐剣をふところに村の裏山を逃げ廻ったという。

                                       

 

                                        

ミツが生んだただ一人の男の子が私の祖父だった。この祖父には10人の子供がいた。しかし、そのうちの

4人は結核のために早くして亡くなった。長男だった私の父は次々と生まれる弟・妹のために手がまわらなくなった

母親に代わって、祖母ミツに育てられた。祖母ミツは人格的に優れ、父は生きていくうえでこの祖母から

大いなる影響を受けた。

                                                              ―中略―

ところで昔、この懐剣を父は研ぎに出した。研師が言うには「いいお刀でございますな、そんじょそこらにあるもの

では御座いません。これで銘さえなければよろしいんですが」その銘は“来(らい)國次”だ。

しかし、銘が来國次であろうとなかろうとみつばあさんの大事な守り刀、それは父にとっても大切な宝だった。

と、これは『みつばあさんの守り刀』という題で以前作ったもので、“銘さえなければ”云々が“おち”と考えたのだ。

 

 ところが我が家の刀についてはさらに”おち”があった。わかったのはごく最近のことだ。

銘があるために不当な評価を受けている、まともな(偽物だからまともなという表現はおかしいかな)刀はほかに

二振りあるが、その他に、私が見てもこれはちょっと?という刀が四、五本はある。

いずれも銘はなく、ずいぶん錆びている。

 

最近、私は比較的さびの少ない刃渡り28センチの脇差を山刀にしようと思いたち、Nに研ぎを頼んだ。

Nは山仲間の後輩だ、靴修理のほかに包丁研ぎを専門としている。

年末に高校時代の山岳部の山小屋に薪を補充しに行った時のことだ。 そのときYから、

「あの刀、ハガネがないからN、苦労してまっせ」と聞いた。

 「えっ!」と思って、帰ってすぐにNに電話を入れた。

「いったいどうなってる?」

「いえ、ハガネが入ってへんから、刃が立ちません」

「刃が立たない?」

「そう、そやから刀の波紋が出ませんのや、 あの刃先とみねの間に普通ありますやろ、あの波模様・・」

「ということは、竹光とおんなじか?」

「まあ、そんなもんです」

「それやったらもう柄を付けるのはやめてくれ」

「いや、もうできあがってます、近いうちに持っていきます」

 ということで、わが脇差は一応きれいに研ぎあがって、柄もつけられ、地酒一本と引き換えに私の手に帰ってきた。

 

 しかし、大根など、切るのは切れるがすぱっとというわけにはいかない。これでは山に持って行っても

木を切るのはしんどい。

 ちょうどそのとき親戚から大型タラバガニが一匹送られてきた。それを鍋と焼きカニにするために、太い足を

ぶった切ることになった。するとこの刀、鈍いながらその重さで出刃包丁よりもよく切れる。

研ぎもハガネがないだけに簡単だ。ということで、山刀としてではなくて、太ものぶった切り用料理包丁として

使うことになった。

 ハガネがあっても銘があるためにその本物の刀の偽物といわれる本当の刀があり、一方偽物の刀の代表は

竹光だが、ハガネがない刀をなんと言うのだろう。

 いずれにしても、わが祖先のサムライ度を明確に示すものだ。

ところで後日談。

 

大学の恩師の奥さんにこの話をしたら、大笑いされた。

そして、刀に関してはウチにも同じような話がある、長船だったか、銘があるためにダメだった、でもハガネが

入っていない刀なんてはじめて聞くとおっしゃる。

 

「それと他にもあるのよ。楽何某の箱書きがある朱色の、けっこういい楽焼のお薄茶碗があったの。3代くらい

前からのもので、楽さんのところに持ち込んで鑑定してもらったの」

その“楽さん”というのは、京都の西の方で陶芸関係の仕事をやってる楽一門の人らしい。 

「そしたらね、楽さん、じっと箱書きと茶碗を見て、『教科書通りの立派な偽者です。いや、いいものを見せて

いただいた。でも先祖代々のいい茶碗だから、大事になさってください』 とのことやったの」

箱書きには銘が二つあった。銘は一つのはずで、二つあるのも決定的ダメ理由の一つらしかった。

 

楽さんの最後の言葉は、“何でも鑑定団”が贋物を持ち込んだ依頼客に言う慰めのセリフそのものだ。

 


怪房長官と共謀罪と穴太姫

2017年06月18日 | 雑感

 2017年6月17日

 

「あなた、もっと格調高い話を出しなさい、大文字に行ったとか山小屋にいったとか、おんなじことばかり

毎回出すから人気がないのよ」と朝刊を読んでいた家内が言った。

 たしかに私は世間の不条理を怒っても、いつも茶化している。己の考えを理路整然としたまともな文章にする力が

ない。


 さて、それはともかく、「今日は花壇を縮小する」と家内が言った。

母は花が好きだった。 動ける間、家内に手伝ってもらい、そのころは百花繚乱、庭は所狭しと花々で溢れていた

しかし90を過ぎると気力を失い、家内に任せる他はなかった。

私もずいぶん手伝ったが、我々は花を咲かせるよりは、花を枯れさせる才能のほうが強かった。

昨年母は亡くなった。なんとか10年家内は持ちこたえたが、もう母親を喜ばせる必要はなくなった。

  

私は石庭が好きだ、だから砂利の部分をふやして花壇をつぶそう。

もっともこれまでにもずいぶん花壇は縮小してはいる。

手始めは西すみにあるクロモジ、蝋梅と大学の恩師宅からもらってきたタラの木の周辺の整備だ。

どうしようかと家内は考えている。

 

彼女、花を育てるのはからきしだめだが、石を積み上げたり配置したりするのはうまい。

だから私は有名な滋賀坂本の穴太積の石工(穴太衆:あのうしゅう))にちなんで穴太姫と呼んでいる。

もともと彼女は音楽が好きで詩が好きな文学少女だった。だから母親と同居するまで身体なんか動かしたことがな

かった。 “かわいそうなゆめみるゆめこさん・・・”と、時折彼女は呟きながら己の任務を果たしている。


 ちなみに蝋梅はほぼ寿命に近く、20年ほど前にもらってきたクロモジは貧相なことこの上ない。

元気なのはタラだけだ。

            

           

 次は花壇の処理。つぶして砂利をまく。

つぶすにはブロックの囲いをつるはしでこそぎあげて、土を一般地面と同じ平らにしなければならない。

私にとってもかなりの労力だ。あともう一つで今日はひとまず終了だが炎天下での4時間はしんどかった。

家内はさらに私より1時間30分よけいに働いて仕事を完了させた。お見事!!

            

途中、今朝の会話を思い出して云った。

“川柳一句、「怪文書しか智恵のない怪房長官」こんなのどうやろ”。

“こんな話をしてたら、共謀罪になるのかな”、といったら、せっせと仕事している家内は

「二人で反政府の話してるから、共謀罪になるんでしょ」、とまったくそっけない。


 私4時間でギブアップ、家内は5時間半まで頑張った。

結局、こんども格調高くにはなれなかった。


 ふたたび大文字・・・・競争

2017年06月14日 | 雑感

2017年6月12日

  大文字山の“大の字”の弘法大師御堂で、高校時代に友達と、トリスウイスキーと少量の食料を持って、夜景を見ながら寝袋で度々一晩を過ごしたことは前に述べた。

                        

60年ほど前の写真が出て来た。あの頃はすばらしい夜景だと思ったが、今の夜景と比較すると光としてはてずいぶん見劣りする。写真が古いせいもある。

                      

 しかし、人工衛星でどこでも光って見える今の地球はどうなるのかと恐ろしい。

 

****

 

ところで、今日は夜景の話ではない、早歩きおじさんの話だ。

 私のこのところの“大文字業”は心肺機能の鍛錬だ。だからいつもジョギングスタイルで、今日は短パンだ。

 山ではときどき私は追い抜かれる。追い抜くのは若者だ。周りを楽しみながら登る普通の人は大半私が追いぬく。登る目的が違うからだ。

 今日は一人の若者に簡単に追い越されたが、これは鉄アレイも持った鍛錬型で、登ってすぐに下って行った。

そして若い女性に追い越された。彼女はゆったりとはしながらも、大文字の“大の中心”で休まずにすぐ20分ほど上の三角点に行った。

 それまでに私は、穏やかな何人もの人を追い抜いた。

 

ここまではいい。

 そして、私はそれから、仲間にいつもバカにされる行動をとることになった。

ちなみに、私は地元の小学校を出ているから、65年以上大文字には登っている。子供のころは、ましら(猿)のごとくここらの山を走り回っていた。

高校の時には家から大の字まで走って登ったこともある。銀閣寺横からは今では25分だが、その時は多分10分ちょっとくらいだったろう。陸上部だった。

 大文字の“大”の中央、弘法大師御堂で少し休憩したあと、下り始めた。帰りはかろやかだ、

千人塚を通り過ぎてしばらくすると、背後にドッドッと重い足音がする。なにかと思ってふりかえると、両手にストックを持って軽登山の恰好をした男性が駆けおりてくる。

  とうとう追いつかれそうになった。その時、私の前にご婦人二人がおられたので、止まりついでに、どうぞと先をゆずった。

 

それからあと私は彼を追跡した。

今日は週日だ。だから勤め人であるはずはない、容貌から見てわたしよりは年下だが大差はないような気がする。

彼のあとを追おうとしたが階段、急な山道、の連続で、同じスピードで追って行くことは出来なかった。

彼に追いつくことは出来ても、場合によっては怪我をしかねない。家内の、“けがをせんといてね”、の言葉も頭にある。

  比較的平らなところで走り、足場が悪いところでは怪我をしないようになるべく早く、を繰り返し、何度か彼に近づき、携帯で写真を撮ろうとしたが、ガラ系のカメラ機能は腹が立つほど悪い。

 銀閣寺に近い最後の坂道に出て、彼の姿を撮りにいこうと走っていたら、二、三回会った、いつも私を元気ですねと褒めてくれる人が、「すごいですね!」と云ったが、こっちの目的は違う、すごいことはない。「前のオジサンのほうがすごい・・・」と指さす。

 「あの人はですね・・・・」なにか彼は説明しようとしたが、オジサンを追うことに一生懸命の私は、それに手をふってやりすごした。

銀閣寺近くで50m近くまで接近して写真をとったが、見えますでしょうか。この写真で、あと70mほどを左に曲がると銀閣寺正門に至る。

                                                   

                                             

むろん、歳だから若者には負けるが、同じ老人にあれほどあからさまに負けるとは思いもよらなかった。

 

登りはだめなことはわかっているが、下りの敏捷さはまだあると思っていた。

 

面白い大文字行だった。


 大文字山から“おーい 雲よ・・・”

2017年06月12日 | 雑感

2017年6月8日

 

ここ二月ほど頻繁に大文字山の“大の字”の火床まで登っている。

3年前に肺の手術をしてから日課のジョギングをやる気が全くなくなった。その結果、体力の極端な低下に愕然として鍛錬を再開した。

ジョギングを大文字に変えたのは、どちらかといえば単純運動のジョギングにくらべて山登りはいろんな筋肉を使うのとバランス感覚がよくなるという利点があるためだ。

 家内は私の大文字行を嫌っている。ひっくり返ったら危険だというわけだ。実際大文字でひっくり返って大けがをした友人がいる。

保護者のつもりか、彼女は私に同行した。

家から銀閣寺前までバスで行き、そこから銀閣寺へ、そこを出発点として時間を測る。

                                   

友人Mにバカにされるのは、“お前は山に行ってもどれだけハアハア”走ったかに換算することや“、という。最初のうちは35分ほどで息切れがしたが、今は25分で落ち着いている。これ以上速くするのはあぶない。                                                                          

行程の2/3くらいの地点にあたる千人塚の地蔵に手を合わせる。

                                   

ここでは第二次大戦末期に軍が高射砲設置のために地面を掘ったらおびただしい人骨が出て来た。滅亡寸前の室町幕府の将軍義輝(最後の将軍義昭の父)が三好、松永勢と戦って惨敗した敗軍兵の屍だったという。                                                                      

さらにだらだら坂を登り、最終の石段を経て頂上に至る。この階段がかなりきつい。

                                    

大文字の“大”の中心にある弘法大師御堂で手を合わせる。

                                     

この日は雲がとてもきれいだった。

 

<山村暮鳥>

“おーい 雲よ

悠々と

馬鹿に呑気そうじゃないか

何処まで行くんだ

ずっと磐城平の方まで行くんか“

                               

                             

 トンビが白い雲の中であそんでいるように見える。