エッセイ -日々雑感-

つれづれなるままにひくらしこころにうつりゆくよしなしことをそこはかとなくかきつくればあやしゅうこそものぐるほしけれ

  日馬富士優勝 and“バサラ”照ノ富士

2015年11月22日 | 雑感

2015年11月22日

 

 九州場所、日馬富士が優勝した。

この場所について三回連続投稿だ。

一昨日、日馬富士が白鵬に勝ったのはよかった。日馬富士の完勝だ。白鵬があんな負け方をするのは珍しい。

 昨日、白鵬はにぶい立ち合いで照ノ富士に負けて12勝2敗となった。力相撲になれば、負傷しているとはいえ照ノ富士は強いのはわかっている、

もっと素早く右差しをねらうべきだった。

 

ところが、千秋楽の今日、日馬富士は稀勢の里に負けて13勝2敗となった。稀勢の里はよく戦ったが、せっかくの好機を与えられたのにそれを生かせられられなかった日馬富士の不甲斐さがなさけない。

優勝決定戦になるかと思っていたが、白鵬が8勝6敗の鶴竜に負けて、日馬富士優勝となった。

見ている者は、いらいらと消化不良だ。白鵬のきのう、きょうの二日間の相撲はよくわからない。私同様、そう思った人は多いだろう。

 

 

さて、話は変わるが照ノ富士の負傷が大事に至らなかったのは幸いだった。

彼の幼い笑顔はいい。

それが、大事な勝負になってくると、仕切っている間に表情が変わってきて、新薬師寺にあるバサラ大将のような顔になる。

 

 笑顔は誰でも感情を押し殺して作れるが、怒りの顔というのは結構難しいものだ。

それを彼はくっきりと変えてゆく、これほど表情を変えられる力士は珍しい。

 夏場所だったか、いつだったか、逸ノ城のたび重なる“待った”に頭にきて形相がバサラに変わってきた照ノ富士が、逸ノ城を激しく土俵外に押し出したあとさらに横面をはたいた。普通なら許されることではないが、逸ノ城が悪い、殴られても当然だと私は思った。

 さて、照ノ富士の形相の変化というのはすべての勝負の場合ではない。相手の状態が悪い時、相手が三役から転落しそうなときの勝負ではバサラ表情にはならない。

 彼はいい相撲取りになってゆくだろう。横綱になるかもしれないが、どんな勝負でも常に同じ表情で臨まないと相手を利するだけだ。 まあ、いまのままでも、見ている方は楽しいが。

 

 

 


 きのうは白鵬、本当に負けた

2015年11月21日 | 雑感

2015年11月21日

 

三日前に白鵬の猫だましに苦言を呈した相撲協会理事長・北の湖が亡くなった。

体調が悪いとは知らなかったので驚いた。ご冥福をお祈りします。

 私はあまり好きでなかったが、極め付きの強い横綱だった。いまもし彼が現役だったなら、白鵬はああいう傍若無人な振る舞いは出来なかっただろう。相撲協会理事長だったから白鵬の言動には苦慮しただろう。私も相撲協会はだらしないと言ってきた。 

北の湖は、もし自分が現役だったら白鵬をたたきつぶしたい、と思っていたはずだ。そう思う引退OBはいっぱい居るだろう、その一番が北の湖だったに違いないと私は思う。白鵬はそういうことを肝に銘ずべきだ。

 

           

きのう、白鵬は日馬富士に負けた。

私はこの前の文で、白鵬は“たまには負けてやろう”と思われるくらい余裕をもって相撲を遊んでいるといったが、今回は完敗だった。あれほど手ひどくやられたのはめずらしい。

 きょう照ノ富士は白鵬が相手だ。夏場所彼が優勝した時に日馬富士が援護射撃したように、日馬富士の優勝に向けて援護射撃できないだろうか。

しかし、いまひざ負傷だから無理することはない。

兄弟子の安美錦が自分の体験から忠告はしているだろうが。

 

あと1時間くらいで勝負が始まる。


白鵬の“猫だまし”はいいか悪いか

2015年11月18日 | 雑感

2015年11月18日

 

 昨日の大相撲、白鵬が栃煌山相手に猫だましの奇手で勝った。

家内とテレビを見ていた私が、これ問題になるだろうなと言ったら、家内が「なぜ?」と聞いてきたので、“横綱のやる手ではない、前のやぐら投げ(めったに出ない大技)は皆が弱いから遊んでいるのだ”と答えた。

                   

案の定、北の湖理事長が苦言を呈した。

すると彼は、“また変な質問をするね”と言ったらしい。言葉の不自由さはあるだろう。しかし今のところ白鵬は傍若無人で協会の面目は丸つぶれだ。

 こういうふうに彼を暴言野放しにしてしまったのは、相撲協会の失態だ。

 去年の九州場所で、稀勢の里との一番でとり直しになった時に記者団を前に白鵬は暴言をはいた。“自分が勝っていた、子供でもわかる、(審判部は)もとお相撲さんでしょ”。

相撲協会全体を侮辱した発言だ。

その後のことだが、白鵬は反省し、宮城野親方が伊勢ケ浜審判部長を訪れ謝罪し、北の湖理事長へも電話で謝罪した、これをうけて協会は白鵬への責任追及はしない方針となった、ということだった。

 噴飯ものの結末だった。

 まず白鵬自身の謝罪がない。善悪の判断ができる子供が悪いことをしているのに、親だけが謝っている。そしてこれだけの侮辱に対して協会があまりにも弱腰で、これが今の白鵬・傍若無人の言動の原因だ。

あの時もっと相撲協会が毅然とした態度、白鵬引退も覚悟のうえで、まともに謝らせていればこういう事態にはならなかっただろう。

八百長事件で大打撃を受けた協会が、白鵬一人におぶさってなんとか切り抜けてきたという弱みがあったのだろうが。

 

ところで、白鵬はいま相撲を遊んでいるような気がする。これはいい。

負けるときもあるが、それはたまには負けてやろう、あぶなく見える相撲は、そのように見せたほうが面白いと思ってやっているのではないかとさえ私には思えるほどだ。

いずれ彼も弱くなっていくのは避けられないが、彼と対等に勝負できる力士がこれほど長い間出てこなかった時代はめずらしい。過去の横綱にはほとんど必ずライバルがいた。朝青龍が去っていなかったらどうなっていたのだろう。

いま負傷の照ノ富士が回復して成長するのを待つしかないのだろうか。

こういった事態をつくったのも、今の軟弱な相撲協会の責任だ。

猫だましもいい、やぐら投げでもいい。小錦は“相撲はケンカだ”と云って問題になったが私は何とも思わなかった。ケンカでも何でもいいが、なんとなくの品格が横綱にはほしい。

 

今日も一見危なく見える相撲で白鵬は稀勢の里に勝った。

 


  K先生のこと

2015年11月17日 | 雑感

2015年11月17日

 

今日は、私の肺がん手術の一周年記念日だ。昨年の今日(17日)、私は右肺上部1/3を切り取った。

14日に入院したが一旦準備のために家に帰った。パソコンのメールを開けると、K先生の息子さんから先生が14日に亡くなり、17日に葬儀があるから列席してほしいとの連絡だった。

私は“長い間よく健闘されました、ご冥福をお祈りいたします”という意味の長文の弔電をうつことしか出来なかった。

 

先生との付き合いは14年ほどになろうか。先生が私達の大学の化学科に入ってこられたのは、私が定年になる4年前だった。 当時は独法化に向けて大学が大混乱しているときで、英文学者であるにもかかわらず先生が化学科に所属されたのは、すべての教養科目を各学科が分担して受け持つことになったためだった。

ご自分の専門を、卒業研究のために化学に関係するテーマに適合されるのに苦労されたと思うが、先生は“南方熊楠”をテーマにされた。内容はたとえば、いかに鎮守の森が国策あるいは地方行政の都合で潰されていって環境が破壊されたのか、それに対して熊楠がどう抵抗したのかなどを解析したもので、その異色な卒研発表は評判がよかった。

ところが先生が移ってこられて間もなく、奥様が重度の脳障害にかかられた。京都から遠くのT市から通っておられた先生は、介護の人にもお世話になられたであろうが、どうしようもない時は車で奥さんと共に來学され、大事な会議とか授業の間は適当な人に奥様を見てもらって切り抜けられた。

私ら同僚は先生の負担を極力減らすようにした。

ただし、奥様の世話は昼間だけではない、家に帰ればずっとだ。その負担は相当なもので、先生の身体を弱らせていったであろう。

 

先生が来られてから4年目、2005年に私は退職した。そして、その後も先生とは年賀状やその他の付き合いを細々と続けてきた。

 

2013年の夏、先生から一冊の本が送られてきた。  英国作家ヘレン・ダンモア(Helen Dunmore)の作品(The Siege)で、日本語題名は「包囲」だ。(国書刊行会出版)

ナチによる包囲によって、ただでさえ過酷なスターリン支配下のレニングラードで恐怖の生活を余儀なくされた女性・アンナたち二組の男女の愛の物語だ。

                                                   

先生の葉書にはこうあった。

“妻の介護が11年目になりました、99%の介護生活のなかの1%の別世界での作業の結果がこの本で、アンナの愛と私たち夫婦との生き方の重なりがあり、私たちにとってかけがいのない副産物となりました、私たちの近況報告として読んでいただければ幸甚です”

 

前にも先生から奥様との生活を描いた二つエッセイを頂いている。

 一つは、

どこか奥様を受け入れてくれる美容院を探し歩いて、そして一軒の美容院におずおずと入る、男性の店主がごく自然に迎え入れてくれる、髪をきれいにしてもらう間 奥さんがいつも先生を鏡の中で探す、疲れからうとうとしていて気がつかなかった先生は手を合わせ、無言で「ゴメン」と鏡に向かって眼であやまる、夫婦間のきれいな時間の流れを綴ったエッセイで、「沈黙の会話」と題されていた。

もう一つは「鈴の音」。

夜、起きたいという奥様の意思を聞くために、寝ている時に奥様が動かせる方の左手に鈴をつけられた。鈴は振らなければ鳴らず、その音色は“ふたりの心の振動に合わせて美しい音を奏でてくれる”という。鈴は二人でスイスに行かれた時に買い求められたものだ。

 

そこに二編の詩が紹介されていた。

 その一つ、ロバート・フロストの詩。

    But I have promises to keep

    And miles to go before sleep

    And miles to go before I sleep

                Robert Frost

 私にははたさなければならない約束がいくつもある

私には眠る前に進まなければならない何マイルもの道のりがある 

眠る前に進まなければならない何マイルものみちのりがある――

 

雪深い森の静けさと美しさに魅せられて死に吸い込まれそうになったとき、つれていた驢馬が首を振って付けていた鈴をならして警告してくれた。・・・”                        

                      (先生の原文のまま) 

 

追記)

昨年9月、先生より葉書を頂いた。2月に体調を崩して、診断の結果末期の大腸がんとわかって入院手術、抗がん剤を服用しながら転退院を繰り返しているが、奥さんの介護はもうできなくなった、とのことで、いつもの端正な字ではなく、やや乱れがある字で書かれたものだった。

 

冒頭での、“よく健闘されました”という目下の者に対するようなぶしつけな弔電は私の思いを込めたものだった。

 

K先生、先生の文をそのまま引用したこと、お許しください。


  Hのこと

2015年11月15日 | 雑感

2015年5月22日

 

先週、大学のクラス会があった。30名の同窓生のうち24名が残っている。

みな自分の近況報告のはずが、3年前に亡くなったHの話で盛り上がった。

会社に入ると自分の力ではどうしようもない道にはまり込むことがある。この点Hは運の悪いとしか言えない道に相次いでほり込まれた。

場を与えられたなら、豪胆で人に好かれた彼はちがった道を歩んだだろう。むろん、彼の甲斐性不足もあったろう。


このH、“皆様に大変ご迷惑をおかけいたしました”というか、皆に世話をしなければいけないような気にさせた。

勤めの場を転々と変わったから、その土地、土地の同級生が彼とつきあった。福井、岡山、名古屋、東京(本拠地)、大阪、その他。


関西地区ではNが彼をケアした。Hが来る度にNから連絡が入る。

“Hがくるから、集まるか”とミニ同窓会が開かれる。

彼は酒が好きで、いろいろ病気をわずらったがそれにもかかわらず飲む。

あるとき、Hがハイキングにくるというので、NがJをさそって待っていると、Hは二日酔いで現れた。ハイキングどころでない。2人はとぼとぼ1キロほどHのあとについて歩き、ハイキングは終わり。  NもJも六甲縦走などで一日50キロほどは歩ける強者だ。


“別になにもケアしてない”と謙遜するが、東京のTもよくつきあった。あるとき、一緒に食事した。Hは自転車で来た。彼らの家はお互い近くにある。十分に飲み食いしたつもりで別れたが、Hは途中自動販売機でさらにワンカップ一本を買って飲んで、自転車で電柱に激突、入院。 翌日連絡をうけたTはカンカンに怒って病院に行った。


今回の同窓会幹事役のEもけっこうな目にあっている。Hに言われたので東京での同窓会を企画した。

同窓会があと3週間というとき、Hから“オレ、マチュピチにいくから、欠席する”という連絡が入った。結局Hは体調を崩してマチュピチどころか同窓会にも行けなかった。

してやられたEは、このことを笑い話にしておさめている。

なぜわれわれの学年はこれほどHにやさしいのだろう。彼はなにか特別の雰囲気を持っている。むろん、Hのオーラがきかない仲間もいる。


彼は、昔から日本百名山に挑戦していた。

ところが、先日の同窓会で、百名山を変更させた仲間がいると知った。

“百名山はなんとか登れるやろ、そやけど、外国の山は体力があるうちやないとあかん“、ということでニュージーランド、その他の外国の山に変更したそうだ。

                                                     

それが、最後のマチュピチ願望につながったのだろうか。

だから百名山は、結局達成していない。

 

彼の生活、特に退職後は破格だった。調子がいいと、山に登り、酒をくらう。そして、調子が悪くなるとじっと病をえた獣のように横たわる。

大阪のNが心配して電話をかけてもかからない。

私も彼を携帯で探す。

 

ある日の朝、Nから電話がかかった、

“Hの娘さんから、お父さんがあぶないので!”という電話があったという。

Nは奥さんから“今までのことがあるから、後悔しないように”と云われて私に電話してきたのだ。

二人で東京に向かった。

 

病院で見たNには、もう意識はあるとは思えなかった、看護婦さんに溜まったのどの痰をスポイドで吸いとってもらっている。

 

「お前、マチュピチに行くはずやなかったんか!ここで、なにしてるのや!」と私は呼びかけた。

Nも声をかける。やがてEとMが来た。

 

奥さんは、“もう意識はない”というが、娘さんは必死だった。

“聴こえてますよ、絶対、お父さん。Nさんが来てるのよ、わかってるね!、ちゃんと聞こえてますよ、Nさん!”

これは、すごかった。家庭的にはHは随分いい加減な男だったから、奥さんの冷静な対応は納得できたが、これだけ娘に好かれていたとは感動的だった。

娘さんは、特殊な分野だがそこそこ名の通ったシンガーソングライターだ。

 

その日、Nと私が新幹線に乗って帰る途中に彼は亡くなった。

 

 娘さんは、父親のために、できるだけ沢山の友達に来てもらおうと、彼の携帯を調べて頻繁に連絡のある人物に片っ端から連絡した、それにNがひっかかった。

彼女は、我々が大阪、京都から来たと知って恐縮したが、どこの人、などと考える余裕はなかったようだ。

 

さて、私はこれほど娘に慕われるだろうか。