エッセイ -日々雑感-

つれづれなるままにひくらしこころにうつりゆくよしなしことをそこはかとなくかきつくればあやしゅうこそものぐるほしけれ

選挙の結果ー今日は気分が悪いー

2017年10月23日 | 雑感

2017年10月23日

今日は気分が悪い。

 

昨日風雨をついて投票に行ったが、思った通り、政治センスの全くない男と、都議選で舞い上がった女性のペアが

共同で自民党を助けた。


                

 

前原氏は自民党にまだ少しは対抗できる可能性のある民進党をつぶしてしまった。

民主党時代に代表だった彼は危機管理無能で、ライブドアメール問題で一人の自派議員を死なせている。

だれでも事件の途中から“これは?”とわかるミスだった。

さらに、今回代表になったときに、不倫でつつかれた女性議員を幹事長にして騒ぎを起こした。不倫などは、

京都伏見区のイクメン議員のひどい場合はともかく、どうでもいい。

ある自民大物議員は、徹底的に調査して、つつかれない者だけを側近に起用していたという。

安倍氏はつつかれっぱなしの程度のわるい議員ばかり選んでいるが、野党があんまりだらしないから助かっている。

 

その前原氏が自民党を倒そうということだけで、民進党を希望の党と合流させ民進党をつぶした。

彼がどういう将来を描いているのかわからない。しかし最低限取引相手とはきちんと契約をとりかわしてからでないと

ことを進めてはならない。かくいう私、個人的場面で<信頼>の契約を何度も破棄された経験がある。

 

もう一人の我が世の春と舞い上がった女性。まずいことに、民進党すべてを受け入れるのではく、安保の方針に

関して反対のものは「排除します」という発言をした。それをマスコミは「踏み絵」といういやな常套表現を使った。

これはめったに使ってはならない言葉だ。彼女も舞い上がっていたのだろう、自分の力を過信して気配りがない。

すべては選挙が終わってからにすべきだった。

自民党は助かった。加計学園、森友学園、なんの説明もない。

ただただ、この乱暴きわまりない内閣が生きながらえた。 “一度は聞いてみたい「丁寧な説明」”は一度もなく。

 

救いは、短期間で作られた立憲民主党に、危機感をもつ国民票があつまったことだ。

それと、議席は落としたが共産党が正確な判断をしたことで、これは評価したい。

 


 最近、ちょっと面白い本

2017年10月22日 | 雑感

 

2017年10月20日

 

                          


このところずっと天気が悪く、体調も十分でないから大文字山にもいかない、退屈だ。

先日新聞の書評欄で見た本が興味をひいたので、買ってきて読んだ。

 

「荒くれ漁師をたばねる力」、朝日新聞出版、本体1400円+税。

 

ごく若い女性が、自分自身のため、そしてある島の漁業の将来のために奮闘する物語だ。

 

彼女は英語関係の大学に入ったが原因不明の病気、それが原因ではないだろうが中退、萩市で結婚して、そして離婚、シングルマザーとどうしようもない状態になった。

そのとき、沖合の萩大島で直感的にここでなら生きていけるだろうと思う。

 

漁師の宴会の給仕の手伝いをしているときに、ある船団長にあった。

彼ら自身、漁業が今のままではどうしようもないと感じていたから、一応英語もパソコンも出来る彼女に政府の「総合化事業計画」なるものを丸投げした。

 それから彼女は奮闘した。最初、漁師たちは彼女のことをアルバイトを雇ったくらいに思っていたが、それどころでない力を持っていることがわかった。

 漁師ことばをすぐに習得、漁師とつかみ合いのけんかをする。漁協とのむつかしい交渉、それは収穫の一部を直接販売するということだ。(漁師は仕事が終わればすべて漁協へ丸投げする。それによって漁協は組織として仲買の利益を得る、そのために生活の糧を得る人は沢山いる。これは、その人達にとっては当然賛成できる話ではない)。

だれにも知られず、感謝されず、一人で、大阪の料亭、一軒ずつへ必死の売り込みなど。直販で買ってくれる料理屋が必要なのを漁師はわかっていない。

 

最初は漁師から歓迎されるが、すぐケンカ、反発、離反、そして理解から和解。そして、ふたたびケンカ、反発、離反、和解。その繰り返しだ。

船団の離反、船員の逃亡、その間組織への目配りをせねばならない。

 

政府の出した事業の認可の第一号となり、全国的に有名となる。まだまだそれでは萩市、大島を安定にできないからと他の事業に手を出す。

 

そういう努力のはてに今の段階では彼女は島の漁師を手下にした状態とわたしには読める。漁師さんには不満かもしれないが。

しかし、彼女にはさらに困難が待っているだろう。ケンカ、不和、離反、脱離、また理解、和解。

その連続が人間の性か。そして彼女は楽しみに、それを待っているのかな。

 

しかし、こんな優秀な人間しかやっていけない時代がくるとなればしんどいだろう。


ストレス玉はマスカット色

2017年10月19日 | 雑感

2017年10月19日

 

先月初め、家内は胆嚢摘出の手術をした。結石があったからだ。

昨年100歳で亡くなったわが母と同居して何十年、後半は私のきょうだいとのトラブルが勃発して心痛めるこ

と多大だった。

 

 胆嚢をとることなどなんでもない、簡単なことよという複数の人の経験談もあった。

そこで家内は “5日ほど休養してくるわ” と殆ど予備知識もないままに一冊の本とノートをたずさえて、気楽な気持ち

で入院した。

  

 休養というのは私が3年前に初期の肺がんで右肺の1/3を切り取ったときにごく簡単に手術がすみ、あくる日から

病院内を歩き回り、テレビをみて、読書する快適な休養生活を3週間ほど過ごしたのを見ていたからだ。

 

 手術は1時間半ほどで、切り取られた胆嚢からでてきた約2.6センチの石は光って、まっこときれいなマスカット

だった。娘はそれを見て持って帰るとかなり頑張ったが、家内はストレス玉なんか持って帰らないでね、と言っていた

ので、写真だけとることにした。


       “我が体内で育ちゆくストレス玉はマスカット色”


                     

  

 ところが麻酔医の話しでは結構大変なようだった。

もっとも手術は1時間半くらい、簡単に終わったらしいがそのあとが悪かった。手術室から出てくるのがあまりに

遅くてイライラし、簡単に考えすぎたことを私は一瞬後悔した。


その夜、彼女は同室の3人が気になって一睡もできなかったそうだ。

つまり、自分に取り付けられた機器の音(酸素マスクはずれの警告電子音、血流のとどこおりを防ぐ足マッサージ

器音、血圧計の音)がかなりの騒音となるからだ。

 

 そして翌日から丸1日かけてものすごい幻視を見た。

携帯を取り上げると、端っこが曲線を描いてぎゅーと延びる、そのうえに鋭い直線模様の黒い線が一面に広がる、

鈍い朱色と黒の細かなバラの模様がはっきりと見える。 カーテン、シーツにはバラの花や人形、家などが浮かび

上がり、ベットの柵、壁に眼をやると古代エジプト文字や漢字らしきものがびっしり、本当に目を開けていて見える。

天井からはお坊さんの唱和するお経の声。 とうとうまた寝られなかった。

 

 というわけで、家内は休養どころでない日々を過ごしてほうぼうのていで病院から脱出した。

入院前日にNHKの“美の壺”で小泉八雲(ラフカディオハーン)の耳なし芳一、とか雪女のテレビを見た。

その上、持って行った一冊の本が、ラフカディオハーンの“怪談・奇談”だった。

 

 ところでなぜかわからないが、長年の胃がいたむという症状はなくなった。

母が亡くなってその後始末に奮闘している間も頭痛とともにいつも胃痛があった。


医者は石をとったからといって、あなたのその不調が治るかどうかそれは分かりませんが…と言っていたのだが。





むかしのこと

2017年10月18日 | 雑感

2017年10月18日

 

 金閣寺が放火によって炎上したのは1950年、放火したのは金閣寺の若い見習いの僧侶だった。

 

これを題材として、三島由紀夫が“金閣寺”を、水上勉が“五番町夕霧楼”を書いている。若い頃の私は

三島由紀夫の抽象的な作品より、同郷から出てきた者同士の愛情を描いた水上の、“五番町夕霧楼”のほうが

好きだった。

 

私の伯母、母のすぐ上の姉で生きていれば103歳、ほとんど100歳ちかくで亡くなったが、そのお坊さんをよく

知っていた。伯母の嫁いだ先は金閣寺と関係があったので金閣寺へはよく行ったからだ。

“はあ、よう憶えてまっせ、めったにしゃべらへんしずかなお坊さんでしたわとその坊さんの印象を語っている。

 

もう一つの話。

 

伯母の嫁いだ先のだれかが、竹内栖鳳と姻戚関係だった。もっともこの姻戚関係はのちに破たんのようだった。

 

伯母はあるとき姑にいわれて竹内家に“ちまき”を届けに行った。

すると栖鳳は粽のつるをほどいて、“こういうのがおもしろいのや、言わはって、それをするするっと描かはったんや”。

 

人に話を聞くことは、そのときはいいかげんに聞いていてもあとになって“ああ、そういうことだったのか”とその時の

場面までもが想い起されてけっこう面白いものである。



 

 


畜生塚

2017年10月16日 | 雑感

2017年10月15日

 

二週間ほどまえ、朝から雨が鬱陶しかったので家内と街に出た。河原町三条付近でコーヒーを飲んだあと

一軒の古本店に入った。ここは80歳を少し越えたおばさんが店に座っている。

30年前に亡くなった父の、最後に残った本の中でゴミとして捨てるには忍びないものを去年処分してもらって以来

のつきあいだ。

          

おばさんは博識で、よくしゃべる。店は暇だから、私らはおばさんの格好の相手だ。話が弾んで楽しいが

1時間くらいになると、立ってるのがしんどい。(後ろ向きの家内の奥におばさんがちらっと写っている)

 

たまたま信長の話になった。おばさんは安土城跡にある寺(名前わすれた)の住職と親しくている。

先日行ってその寺にある信長の皮のズボンとか羽織を見せてもらった。住職に、拝観料をとって見せろと薦めたが

彼はめんどくさいからやらない、ということだったそうだ。

 

“・・・信長は残虐ですなあ、比叡山の焼き討ち皆殺し、墓石を階段にするその神経、そらすごいですわ・・”

 

たしかに信長は残忍かも知れない。しかし彼の残忍さは強敵を相手に必死で這い上がる途上の仕業だ。

 

しかし秀吉の場合、人間の所業をはるかに超えているのではないか、と私は思う。

彼の晩年はひどい。そう言うとおばさんは、“三条木屋町をちょっと下がったとこ(南にゆく)の瑞泉寺に秀吉の甥の

秀次と側室ら39人の墓があるし、行ってきはったら”、と教えてくれた。

 

長いあいだ京都に住んでいるのに、その寺のことは知らなかった。

 

400年ほどの歴史があるという瑞泉寺に行ってみた。

        


秀次の廟の両側に殺された側室、身内の39の廟柱が立っている。その一つに“駒姫”という特別の立札があった。

当時15才だった“駒姫”は秀次の目にとまり無理やりつれてこられたのだが、側室になる前に秀次は高野山で

殺されていた。つまり秀次とは会ったこともなかった。にもかかわらず秀吉は駒姫を殺した。

 

昔、(2005年)京都美術館で“修羅と菩薩のあいだで”という特別展覧会があったのを見に行ったが、狩野芳崖、

下村観山、竹内栖鳳、堂本印象、富岡鉄斎、橋本関雪、棟方志功など、なみいる巨匠たちの作品のなかで、

とりわけ私が衝撃をうけた作品があった。

    

甲斐庄楠音((カイノショウ、タダオト)の“畜生塚”という壁一面の大作だった。

 

絵の良し悪しは私にはわからない。しかし、秀吉によって三条河原で殺される運命にある女性群のおののきを

描いた強烈な作品だった。

 

 秀吉は61歳(63歳?)で死んだ。たぐいまれな才能で、あれだけの偉業を成し遂げて天下人にのぼりつめたが、

最後は単なる陰惨な人殺しとなった。

 

東山七条の豊国神社前にある、朝鮮武将の耳を切り取ってうめたという耳塚も気持ちのいいものではない。

 

私たちが子どもの頃、立身出世の手本であった人気者の豊臣秀吉は、今はどう思われているのだろう。

歳をとるにつれて、私はその陰惨な晩年にしか思い至らない。

 

 甲斐庄楠音の絵は土田麦僊から“穢い絵”と酷評されたらしいが、なにが穢いのかわからない。

最後の写真、私は忘れていたが、2005年の展示会にあったという彼の作品、“悪女菩薩”だ。