エッセイ -日々雑感-

つれづれなるままにひくらしこころにうつりゆくよしなしことをそこはかとなくかきつくればあやしゅうこそものぐるほしけれ

終活(1)バック トゥ ザ スタート

2018年03月14日 | 雑感


母が亡くなってからの、母屋の整理はまだ目下継続中で終わらない。

我々夫婦だけなら大切なもの大切でないものの仕分けは同じ価値観ゆえ簡単だが遠くに住むきょうだいの意向も

考えねばならないからややこしい。

昨日引きだし奥の方から出てきたのは私たちが結婚した時の電報だ。

          

私たちの結婚はちょっと変わっていた。

まず、家内は“結婚式はやらない”主義だった。 私はそれでOKと言った。

というのは当時、私は結婚式に出すぎていたからだ。

生まれてから地元を離れたことがない私は、大学にも普通より長くいた。

中学から始めた陸上競技も大学を出てからも続けていた。

付き合う友達が多すぎ、自然結婚式も多い。

最高、1週間3回の結婚式に出たことがある。 もう結構だ、出るだけならまだいいが、心臓が飛び出すような

スピーチはしたくない。

私の、”結婚式はしない”、というのは、皆をあつめての結婚披露宴=結婚式、はしないというものだった。

ところが家内の場合は徹底していた。 つまり、式そのものをしない、ウエディングドレスも着ない、というものだった。


結局何やかやもめた末、彼女は不承不承で下鴨神社でウエディングドレスで神前結婚式を挙げることを承諾した。

仲人は私の伯母夫婦だった。 この伯母夫婦と双方の親兄弟だけでホテルで式後会食をした。

末娘を可愛がっていたお義父さん、お義母さんは上の3姉妹のようにもっとまともな披露宴で娘の晴れ姿を皆に

見てもらいたかったのだろう。

それでも頑固な娘の無理をきいてくれたのだ。

彼女の、唯一成就した願いはエイプリルフール、4月1日、に結婚したことだけだった。

      

パーシーフェイス楽団のレコードの、“The April Fools・エイプリルフールズ”、の詩に惹かれ、もし結婚するなら

この日に、そしてこの日に結婚通知が届くことを、とひそかに考えた。

そんな彼女の想いは極力皆に知らせないということで、すこしは達成できた。 避けられないほんの少しの親戚、

彼女の勤め先の数人、それと私の友達三人から祝電がきた。

昔の祝電はごく簡単なもので、すべて同じだ。 このごろの電報はなにかにつけて実はまったくなにもないのに

無意味に派手すぎる。

“エイプリルフールズ”、は1969年のカトリーヌ・ドヴーヌ、ジャック・レモン主演の、“幸せはパリで”、

(英語名:The April Fools、監督はチュワート・ローゼンバーグ)の主題歌だ。

この中で、  “  We are just April Fools” 、“私たちはほんとうに四月馬鹿よ”、という句がある。

家内は結婚記念日にはいつも “The April Fools”、をいていたらしい。

CDとちがって、レコードに針を落とす瞬間がなんともいいということだ。

結婚して47年経つ。

そして、30年ほど前に私の母と同居するために、この家に移ってきてから次第にこの曲を聴かなくなり、

今ではもうまったく聴いていない。 彼女も変わった。

“あのとき せめて結納金でも貰っとけばよかったな”、などとせちがらいことを口にするようになった。


しかし、”四月馬鹿”でも、なんとかここまでやってきたのだから、これでよしとしてください。

47年前の結婚式の日は、格別に寒く雪がちらつきそのくせ、桜がちらほらして、朝、強い風が吹くちょっと奇妙な

天気だった。 九州の離れ島への旅行の最後は台風、飛行機欠航となり、<雨降っても地固まらず>の我々の

47年間といえようか。


もうすぐ“4月馬鹿”がやってくる。



絶叫歌人福島泰樹から宮沢賢治へ

2018年03月09日 | 雑感

 今回は、福島泰樹のなかの賢治ではなく、 「宮沢賢治」その人に関して記す。

人間、ちょっとしたとっかかりが、その人への親近感を増したりするものだ。

 宮沢賢治は盛岡高等農林学校卒業だ。

父の友人で三木茂という植物学者がいて、三木さんも盛岡高等農林学校に在籍していた。 

三木さんはメタセコイアの化石からその存在を発見した人だ。メタセコイアは和名を“アケボノスギ”といい、

中国から広がり、今はどこにでも見られる。

 

ある時父が言った、「三木君は盛岡高等農林学校の出身だが、その1年上に宮沢賢治がいた。だから

たぶんあの学校には非常に優れた先生がいたのだろう。」

父の言葉には間違いがあり、予想は当たっていなかったかもしれない。宮沢賢治の生まれは1896年、

(明治29年)、三木さんは1901年1月生まれだから、4、5歳の差はある。

しかし宮沢賢治は卒業後2年間、同学校の研究科に在学して地質学を専攻して1920年に卒業し、

三木さんは1921年卒業だから高校では重なり合っていて立ち話くらいは交わしたかもしれない。

自分に身近な人が、ある傑出した人物と関連があったかもしれないと想像するのは楽しい。

 

宮沢賢治はその40年にも満たない短い生涯で数多くの優れた作品を生み出した。

銀河鉄道の夜、グスコブドリの伝記、やまなし、よだかの星、風の又三郎、注文の多い料理店・・・・・。

いろいろあるが、私が一番好きなのは「セロ弾きのゴーシュ」だ。


下手なセロ弾きのゴーシュが指揮者の罵倒をあび、憤然として毎晩猛練習をする。

その間タヌキ、ネコ、カッコウ、ネズミなどに練習を邪魔されて怒りながら付き合ううちに、自分でもわからない

ままに優れた演奏者に変身してしまっている。

 演奏会が終わって家に引き上げたゴーシュは、水をがぶがぶのみ、

“それから窓をあけて、いつかかっこうの飛んで行ったと思った遠くの空をながめながら、

「ああかっこう。あのときはすまなかったなあ。 おれは怒ったんじゃなかったんだ。」” とつぶやく。

禅の悟り的なものを感じるこの結末がわたしは好きだ。 なんとも言い知れぬ余情がある。

                 

                    

          

ところで、27年前に仕事で花巻に行ったとき、イーハトーブセンター(宮沢賢治記念館?)に立ち寄った。

そこで賢治学会に入会した。会が出来て次の年の1991年、極めて初期で、会員番号は91-〇〇〇〇、

賢治のシルエットと “すべてわたくしと明滅し みんなが同時に感ずるもの”という文字が印刷されている

この会員証を家内へのおみやげとしたのである。


しかし送られてくる学会誌が、まったくアカデミックというか、どんな研究がどこに発表されているかの記録

だけで、楽しい記事を期待する私のような人間には読むところが全くなかった。

家内も同様で、だから結局たった2年間の会員で退会した。




福島泰樹絶叫(その2)闘いのテーマ

2018年03月08日 | 雑感


前回は、中原中也の詩を例にとって、絶叫歌人福島泰樹の紹介をした。


今回は彼の、“バリケード1966年”のライブのビデオテープの中におさめられている「闘いのテーマ」をとりあげる。

ここでは宮沢賢治と福島泰樹が互いの緊張感の中で交感しあう。テープでの聞き取り故、表現は正確でない。


                 


*まず福島自身の短歌が詠みあげられる

 

 ”天にふる微塵の光ああそして跋渉しゆく 若きたまゆら 

 一匹の修羅ゆえ青くほとばしる 涙たたえているほかはなし

 然り、世界中の独り孤りが幸せにならない限り されど賢治よ

 椀に雪 盛りてすぎゆく童顔の わが心象にあおしぐれ降る” (泰樹、ドンと足踏みする)

 

*ここから宮沢賢治の「春と修羅」になる 

  “まことの言葉はここになく 修羅の涙は土にふる  四月の気層の光の底を 唾きし はぎしり 

  ゆききする おれは一人の修羅なのだ”

 

*次いで同じく賢治の「永訣の朝」

 “今日とおくへいってしまうわたしのいもうとよ 

  みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ 

     (あめゆじゅとてちてけんじゃ)

  うすあかくいっそう陰惨な雲から  

  みぞれはびちょびちょふってくる

   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)

       ・

                       ・

          (おらおら で しとり えぐも) ” 

 *そして福島泰樹

 "1968年の別れに際して クリストボテフ、

 泣かないでお母さん 泣かないで わたしが兵士になったことを 

 兵士です おかあさん パルチザンです

 しかもわたしは死んでゆくのです  長男なのにと嘆く 気の毒なお母さんを残して

 でも 呪うなら おかあさん

 悪辣な トルコの仕打ちを呪ってください

 彼らは我々若者をおいはらうのです あの暗い 異境の地に

 そこでは当てもない労働と放浪の日がまっています

 愛もなく 幸せもなく めぐみもなく

 ああ わたしは 明日 渡るのです 静かに輝くドナウの河を 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・

 (このような調子で絶叫してゆき、やがてまた「永訣の朝」になり、最後、「春と修羅」へと戻って行って)

  “おれは一人の修羅なのだあ・・・・”


と観客を少なからず興奮の渦の中に巻き込んでいって絶叫は終わりとなる。

 

まだ私がじゅうぶんに若かったといえるころ、文学に無縁の人間が出会った思い出深い懐かしいシーンの

ひとつである。

 


ビデオテープ廃棄の記(2) ―絶叫歌人・福島泰樹

2018年03月07日 | 雑感


 “終活”、という、好きでない言葉のなかでずいぶんガラクタを始末した。その中には沢山のビデオテープもあった。

前のブログでは、関西のある高級料亭の女将の不正隠しの言動を記録したテープを取り上げた。

の女将の言動は、私の身近な人間とそっくりで、腹を抱えるほど笑えた傑作だったから録画したものだが、

自分でも決して趣味がいいとはいえないこのビデオは廃棄行きとなった。

そんななか、家内の友達、S子さんがくれた、福島泰樹のデビュー25周年記念コンサートのビデオが

見つかった。 長いあいだ忘れていた。 当然これは廃棄の対象ではない。

 

 “福島泰樹”: 私より2歳下、1960年代の大学紛争の早大闘争を経て「バリケード・1996年2月」で

デビューした人だ。

                                        


私と家内は25年ほど前、京都の居酒屋であった福島泰樹のライブに行った。

彼と、4人の仲間、名前は忘れたが、家内が名付けたドラムの“雷さん”、尺八奏者の“虚無僧さん”、

ピアノの恰好いい男、帽子をかぶったギター・ハモニカの・・・・、すべて名前は憶えていない。

彼らの演奏とともに福島泰樹だけが前に置いてあるコップから酒を飲みながら絶叫する。

“この人、毎回これだけ飲んで演奏して、将来どうなるのやろな”、そう思いながら

私もビールを飲みつつ ライブを楽しんだ。

 

音楽音痴の私だが、この破格の絶叫朗読は豪快で楽しかった。

彼は、中原中也とか、宮沢賢治などの優れた詩人の作品を自分の詩と織り交ぜ絶叫する。

私はそれまで彼についてなにも知らなかった。

こういう詩を作って独自の世界観を朗読のステージの中で繰り広げている人だということをこの時、初めて知った。

                 

                                        

たとえば、中原中也の場合。

中也の「雪の賦」、が先に出て、そして「汚れちまった悲しみに」がつづいて朗読される。

 

    汚れつちまつた悲しみは

    なにのぞむなくねがふなく

    汚れつちまつた悲しみは

    倦怠のうちに死を夢む   


そして、次に福島泰樹の「リボン」の短歌が出てくる。

   雪が降るリボン結んでいとけなくきみのおぐしに差してやるのだ

   憂愁に満ちた雪夜はかなしくもまた美しくも・・・・・・


中也も自分の詩も含めてすべて一つの作品として福島泰樹は朗読する。

人の作品を自分の作品に取り込めばふつう許されない。 ところが彼の場合そうではない。 

そのことが私にはきわめて新鮮だった。

中也も、宮沢賢治も福島自身も渾然一体となって、そして演奏者も聞いている者も渾然一体となってその世界に

陶酔する。 (陶酔するのは私ではなく家内、念のため)


というわけで、今回はこれまで。

次は、25年前のあのときに、ビデオテープとライブで聴いた宮沢賢治と福島泰樹の絶叫、そのあとさらに、

賢治について書く。