エッセイ -日々雑感-

つれづれなるままにひくらしこころにうつりゆくよしなしことをそこはかとなくかきつくればあやしゅうこそものぐるほしけれ

 続、“万引き家族”について、今回はその倫理性

2018年06月23日 | 雑感

2018年6月23日


前回は、“万引き家族”、を見に行ったことを書いた。

今回は作品の根底に流れる一つの思想、"倫理感の一貫性"、についてだ。

たぶん映画を見た人はみな同様に感じているだろうが。


万引きの主体は小学生くらいの男の子が演じている。

彼はニセ父親から、“スーパーで買われる前の商品はだれのものでもないから万引きしてもいいのだ”、と言われ、納得してせっせと万引する。ここらへんは、なんとなく納得する。

 

 物語の後半、父親が先のとがったハンマーを手に入れ、車のガラスを割って中の物を盗るために男の子に見張りを命ずるが、彼は拒否する。

"それは、万引きではなくて盗みだ"


 彼と彼の偽妹が、駄菓子屋で万引きする。老人の店主が万引きを終えて帰ろうとする二人を呼び止めて、アイスだったかなにか二本を男の子に渡して、“これをやるから、妹にはもう万引きをさせるな”、という。

柄本 明のかもしだす雰囲気は抜群だ。

 

 その後、スーパーで万引きをしようとする男の子が、妹に”手を出さすな”、という。あの駄菓子屋の爺さんの言葉を守ろうとしたのだろう。

 

しかし、わけが分からない妹は、いつものように万引きをしようとする。それに気づいた兄は妹を護ろうと、店員の目を引くためにカンヅメの山を崩してミカンを取って逃げ、追い詰められて歩道橋から飛び降りて、足を骨折する。

 

そして、擬態家族の崩壊となる。 どだい、無理な話だが、 しかし、この映画通して作者は、家族でない人の集まりのやさしさと、人間の持つ倫理を描いた。

貧しさはやさしさで、貧しさは人としての倫理性を育む、と思いたい。

 いずれにしてもこの映画、やさしさに満ちている。

すべての演技者がいい。

 




“万引き家族”を見て

2018年06月22日 | 雑感


 2018621

 

 “万引き家族”、を見てきた。

肉親からはじき出された者同士が集まって、“擬態家族を作る。

 

むかし尼崎で起こった事件を思い出した。

主犯の女性が偽装家族を形成する。その過程で、彼女は他人の家庭をトゲ蟻の

うに食いつぶしていく。

そして偽装家族がつぶれたときに、“生きる希望がなくなった”、と身勝手極まり

ない言葉をつぶやいて自死する。

 

“万引き家族”は、お互い離れ離れになっても、一緒だった時の思いを抱いて一生

懸命に生きて行こうとする。ユートピア的擬態家族だった。

役者が見せるそれぞれの優しい表情がなんとも印象的だ。

優しい、そして切ない。


 

いろいろなシーンで、私が、“彼女は、彼は、この子は、「こう言うだろうな」”、と予

想したことは、ことごとくはずれた。


 最初ユートピア的過ぎると思ったこの映画、よかった。




  父の日の思い出

2018年06月16日 | 雑感

 2018年6月16日

 

“34丁目のサンタクロース”、という古典的映画がある。(リメイク版は駄作)

“クリスマスイブ”、は商売用の日でサンタクロースなどいないとかたく信じている少女が、

ある老人と出会って、最後に彼は本物のサンタクロースだと信じるようになるいい

ストーリーだ。


               

 

この間の新聞で、“父の日に、父に感謝”、の記事が載っていた。

父の日なんぞ、私の子供のころにはなかった。1905年にアメリカで始まった母の日は

ともかく、日本では、“バレンタイン”も、“恵方巻のまるかじり”も昔はなかった。

きょうび、なんでも利用できるものは、“〇〇デー”、にしてしまう。もちろん、それで

経済が活性化するのならいい。明日617日、父の日だそうだ。

 

さて、新聞の“、お父さんの思い出”、の子供の言葉は感謝の気持ちを述べたものが

多い。殺伐とした今の世でも、愛情深いおとうさんばかりがいてほしい。

 

さて、私の娘の場合だ。

彼女は整理整頓が極端に悪く、家内はいつもイライラ嘆いていた。

 

あるとき、自転車の鍵がなくなり、探し回ってやっと出てきた。と思ったら、すぐに、

娘の誕生日にと、母からもらった祝い金が紛失した。

 

続けさまのことだから、私は怒って、娘を正座させ、日ごろのだらしなさをこんこんと

説教した。

 

そして、説教が終わった後、“お前の虫歯はどちらか”、と私は聞いた。

娘は、そのとき虫歯が腫れていて痛がっていた。

娘は、 “右”と答えた。

 

私は、そこで左ほほをかなりきつくはたいた。

娘はわっと泣き出した。やっと説教が終わって、許される!と思ったときの不意打ちだ。

ところで、この時の金封は勉強机の引き出しから、すりぬけて下に落ちていたらしい。

娘にしたら理不尽だったろう。


 

私は息子を三回、娘を二回殴っているが、それぞれ私としての理由がある。

殴ることも必要だ。

息子は、“殴られた理由には一応納得している”、と言っている。

 

父の日に関して、「父の思い出はなに?」と娘に聞いたら、

“一番憶えているのは、はじめて殴られたこと。説教が終わったと思ってたら

“痛い方はどっちや“、無邪気に“こっち”と云うたら・・・パーン、めちゃめちゃ傷ついた”。

 

私は、娘も、息子もずいぶん可愛がった。

ドライアイスを買ってきて、煙を出してお化けの真似をして、クリスマスには部屋中、

天井まで飾って、自転車の乗り方を教えて、夏には海に連れて行って、・・・・・など

したのになあ! 娘の一番の父の想い出はそれらではなかった。


まあ、あれが強烈に娘の心に残っているとしても、私の愛情には変わりはなかった。

 

なお、私の上の行為には賛否両論あって、息子は“理にかなっている”、といい、

家内は“信頼を裏切る行為”、と否定的だ。




 葉書の樹・たらよう

2018年06月15日 | 雑感

 

2018年6月15日

                              


 久しぶりに家内と宝ヶ池まで散歩し、帰り道でタラヨウ(多羅葉)をとってきた。

郵便局のシンボルツリーだ。


この葉の裏にとがったもの、たとえばツマヨウジで字を書くと、しばらくして文字が現れ

くる。  これは紙の役目をたすから、戦国時代には実際に用いられていたようだ。

奥ゆかしいともいえるが、戦いの通信用となれば、ちょっとどうだか。

                        

                                            

これは実際にハガキ代わりに使える。


好奇心だらけの私の友達が、これに切手を貼って郵便局まで持って行った。

局員はそれがハガキとして通じることを知らなかったが、結局納得して受け取ったという。

ハガキ(葉書)の由来は、この葉から来ているらしい。

むろん字は少ししか書けなくて、定形外料金だ。


                              

 

京都の西、広沢の池近くの印空寺が、タラヨウ樹で有名だが、そこまで行かなくても、

あちこちにあるのじゃないかな。

 

タラヨウについては以前にも書いたことがある。




人形供養

2018年06月10日 | 雑感

 

2018年6月10日

去年からずっと不用品を始末している。母が2年前に亡くなったのがきっかけだが、母のものと、棟続きの我が家の

もの。食器類、本、CD、電化製品、包丁、なべかま、古布団、ある時は有用であったもの、そして、なぜこんな不要な

ものを買ったのだろうと思うもの、その他、その他、すべてはゴミとなる。


特に母は物を捨てたがらなかったため、30年前に亡くなった父のものもかなりあった。業者に頼んで、小型トラック

数台分を処理したが、私と家内も何回も京都市北部のクリーンセンターに廃棄しに行った。まだまだある。


私は高校時代の山岳部の集団(建築技術に関してプロにちかい7、8名がいる)とともに山小屋を20年かかって

一新し、その間かなりの技術を習得したから、たいていの家庭品は解体できる。

家内もまた、解体が好きだ。「私の前世は解体業者やったのかな」と冗談を言いながら、手際よく、見事にいろいろな

廃品を分別してゆく。

                   

さて、昨日は人形の始末だった。人形は捨てにくい、魂がやどっているようだからだ。 

そこで、人形供養で受け取ってくれる寺、堀川寺之内にある宝鏡寺にもっていくことにした。

受付で人型の紙に、名前と住所を書いて奉納する。受付の女性は人形の入ったビニール袋を持ち上げて、

“ちょっと重いですから5千円頂きます”、と云った。5千円お払いして、長年の人形たちと別れた。

京都北部のクリーンセンターにゴミを持ち込む場合には、100キロまでは1000円、多くなれば単価は高くなっている

ようで、5000円なら400キロくらいだろう。それから考えるとあの人形たちは4Kgもなかった。

まあ、同じごみになるにしても、お祓いをしてもらうのはたしかだから、よしということか。

だからむやみやたらに、人形を買うものではないと思ったことでした。


最後の写真の人形は我が家で一番大事な、“ポエコちゃん”という人形だ。

家内の友達が家内に似ているとくれたもので、これを幼い娘はいたく気に入っていた。義母さんらからもらった

お雛様と兜、と、そしてこれだけが我が家に最後に残るだろう。 これはいまのところゴミではない。