エッセイ -日々雑感-

つれづれなるままにひくらしこころにうつりゆくよしなしことをそこはかとなくかきつくればあやしゅうこそものぐるほしけれ

晴明神社・夫婦円満

2015年10月27日 | 雑感

2015年9月26日

 

平安時代の陰陽師・安部清明を祀った清明神社は堀川今出川にあり、幾度となくその前を通るが神社には入ったことがない。

                     

 

今日、家内と行った。

ここは厄除けの神社として有名で、魔除けの呪符である五芒星をかたどったものが沢山ある。境内はいたって狭く、本殿も小さい。丁寧に参拝しても40分もあれば十分だ。

 

                

 

ご神木は推定樹齢300年の楠だ。このご神木に触れると、その力が身体に伝わってくるというので、人々が額をこの木につけていた。家内も力をもらおう!と額を楠につけた。

            

 

さて、祈願を書く絵馬も五芒星の図が多い。

           

子供をつれた若夫婦が「なにを願おうかな、夫婦円満にしようかな・・・」と云いながら通りすぎた。

 

“えっ!この頃の若い人たちは愛情もお願いの対象になるのか・・・これって自助努力やないの? 夫婦円満を祈願するっておもしろいなあ・・”と家内に同意を求めた。

すると家内いわく、“でも、立原えりかの童話にユニコーンと会話をしていた女の子があたりまえに年をとって、あたりまえに結婚して、そしてやがて貧しさが、かつて愛していた夫とかなしい口争いを引き起こす・・・なんてのがあるわよ。やっぱり夫婦仲もかみさまにおねがいしないとだめかもね”。

  ごもっともです。

わたしはあらためて神社に手を合わせた。“金運”


写経(二)大悲閣千光寺にて

2015年10月24日 | 雑感

2013年8月7日

 京都嵐山に大悲閣千光寺という寺がある。

観光客でにぎわう北側から渡月橋を南側に渡った保津川対岸の道に沿ってほぼ1キロ上流まで歩き、そこから急斜面の石段を登ったところだ。この道筋にはほとんど何もないから観光客はめったに訪れない。

この寺は角倉了以が河川開拓工事に従事した人たちの菩提を弔うために建てたという。ただ一つある参拝客用の部屋からは保津峡両岸の山々が眼下に見え、深山の趣がある。

遠くに京のみやこは見えるが、渡月橋からは一曲りしたところに位置するためにその付近の賑わいは見えない。渡月橋から見えないということも観光客の注目を引かない理由の一つだろう。

                

十年ほど前に家内とともに初めてそこを訪れたときは冬だった。本堂が崩れほとんど廃寺に近かったのを、若い住職が再建しようと努力していた。このとき写経をさせて頂いたが、その最中に吹雪いてきた。良寛の歌が思い起こされる。

 “あは雪の中にたちたる三千(みち)大世界(あふち)またその中に沫(あわ)雪(ゆき)ぞ降る                               

 

その千光寺に先日十数年ぶりに家内と訪れた。昔なんともなかった道が長いと感じるようになってきている。

登りついた寺では受付のおじさんが「ここが終点です」という。このおじさんから庭の木陰の縁台で、ペットボトルの冷たいお茶の饗応をうける。

以前とおなじく参拝者用の部屋に入る。角倉了以の像があるほかは訪問記録帳、いろいろな本、その他が雑然と置かれていているだけだ。寺の雰囲気ではないが足を投げ出してくつろげるところがいい、そして眺望がいい。

「写経できますか?」と聞くと、「やらはりますか?それやったら道具もってきます」とおじさん。そして般若心経の台紙と筆ペンを持ってきて写経台を出してくれた。

「おいくらでしょうか?」と聞くと、おじさん“無料”という。

前もそうだった。これが仏法本来の姿かと有難くご好意をうける。

しかし筆ペンも減る、般若心経の薄い下字が書いてある用紙も買い求めたものだろう。

今までのお寺での写経を考えると、やはりどうにも納得がいかない。喜捨としてもいくばくかの代価は取るべきだ。

帰りに、おじさんに筆・文鎮・下敷きを返し、心ばかりをお賽銭箱に入れさせて頂いた。

 

 それにしても、般若心経は唱えればまあ4分くらいのものだが、写経となれば40分はかかる。ここ4年ほどやっていないものだからなかなかすらすらとはいかない。眼はかすんでいるし、手の動きは筆のために驚くほど悪い。結果、誤字だらけとなる。理由はがたがたに字を書いていると、次になぞるべき薄字がその下に隠れてしまうからだ。

“名前のところに小学三年生とでも書いておこうかな”と思ったくらいだ。

  無残な般若心経だったが、1mくらい離れるとなんとか見られる。だから、もって帰ろうとまで思ったのを、先達の皆さんが置いておかれた写経の上に重ねたが、これは失敗だった。

 

山から吹く涼しい風の中での写経、字はともかくも、気持ちのいい一日だった。

芭蕉と会津八一が大悲閣についての詩を作っている。

 

花の山 二町のぼれば大悲閣       芭蕉

 

だいひかく  うつらうつらに のぼりきて

         をかのかなたの みやこをぞみる    会津 八一

 

付記)9月20日

 

今日、友人からメールが来た。

「きのう、高校の同級生と行った千光寺で、お前の奥さんのきれいな字の写経があってびっくりした。そしたら、その下にお前の写経もあった」とのこと。若干いやな予感がしたあの時、私の写経は持って帰るべきだった。

 むかし毎夏写経をやっていた有名寺とは違い、あの千光寺では私らの写経はガンダーラの経典並みに、長期保存されることに気づくべきだった。

 掲諦掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提僧莎訶 般若心経

(ぎゃーてい ぎゃーてい はらぎゃーてい はらそーぎゃーてい ぼうじそわか はんにゃしんぎょう)

“往ける者よ 往ける者よ 彼岸に往ける者よ 彼岸に全く往ける者よ さとりよ 幸あれ 般若心経”  

                              松原泰道著 「般若心経入門」より

            


写経(一)

2015年10月20日 | 雑感

2008年記

               

 

毎年、夏になると家内と一緒に、写経をするのを楽しみにしていた。

場所は京都の西にある落ち着いた寺で、写経場は広い池に面しており池から気持ちのいい風が入ってくるのを我々はいたく気に入っていた。

 まず、般若心経の字がうすく書かれた用紙を500円で買う。ここにはいつも同じ尼さんがいる。血色のよいつやつやした顔の中年女性だ。

この用紙をもって隣の写経場の入口で匂いのいい粉で手を清め、仏様の前に座り合掌する。そして写経台に座りこころを落ち着けて、「摩訶般若波羅密多心経」以下の薄い字をなぞってゆく。

 

これは簡単そうにみえて、なかなか難しい。わたしは筆など普段は持たない、手がこわばっている、眼がかすんでいる。家内とはちがってがたがたの、さまにならない字が連なるが仕方ない。

約40分ほどで写経は終わる。住所、氏名、年齢、願い事を書く欄があり、それらを記入して完了。これを仏様の前のお香の煙にかざし、一礼して前の台において、さらに合掌して写経場を退出する。

そして清涼とした気分にあふれて帰宅の途に着くものだった。

 

ある年のことだ。

そのときは夕方近くで、閉店間際というか、「時間ありませんよ」という尼さんに、“急ぎますから”と頼みこんだ。実際、写経をしていたのは二、三人だけで、その人たちも次々と帰り、我々が最後になった。

なんとなくあわただしい気持ちで写経を終え、それでも書き終えた清々しい満足感で写経場を出てゆこうとした。入口のところに彼女がいた。

 我々は「有難うございました」と声をかけて頭をさげた。ところが彼女はまるで見向きもしない。一心不乱にぱらぱらと、多分その日の売り上げだったのだろう、お札を数えている。我々の千円札も入っていたに違いない。

 

 以来あの寺に行かなくなって久しいが、あの時の尼さんの顔はいまでもよく憶えている。

 

 


 英語もしゃべれる!

2015年10月19日 | 雑感

2015412

 

 統一地方選挙の投票に行った帰りに近くの公園まで散歩した。

そこには大きなきれいな池があり、その周囲を散歩、ジョギングする人は多い。

池には沢山の鯉がおよいでいる。群れをなしたカモ、アヒルなどに混じって、時にはサギが悠然とたたずんでいる。

                 

 

前はつがいだったアヒルが連れ合いをなくして寂しそうだ。

連れ合いがいたときは、よく二人してカモをコツコツいじめていて、家内を怒らせていたが、一人になってみるとかわいそうな気になる。

 

池を一周して喫茶店で休憩していると、すらっとした外人の夫婦が入ってきた。若くはないが、老人でもない。円熟した働き盛りの感じだ。

 

やがて亭主が携帯でしゃべりだした。極めて正確、流ちょうな日本語だ。

彼の話が終わると、今度は奥さんも別の人物に携帯をかけだした。

これで、びっくりした。

「いま京都にいるからね・・・、特講(多分)のほうは〇〇さんにたのんでおいて・・・・」

 彼らの方を見なければ、とうてい外人がしゃべっているとは思えない。しかも我々の関西弁とちがって標準語だ。

  「オレ、あかんな!」と、頭をかかえた私を見て、家内は笑いながらうなずいた。

 私は仕事の関係上英語を使わねばならなかった。読み書きは常時だが、問題は時たましゃべることだった。

 30歳のころ(四十数年前)一念発起。

当時日本で最高の教材と云われた全25巻のテープを手に入れほぼ毎日40分ほど、全教材を二年にわたって二回終了、同時に修道院のシスターに個人教授で3年間ならった。

このシスター教室のいいところは授業料が安いこと。そして欠点は、英会話の教師とはなんたるかを理解しないシスターが、自分が話すことに夢中になることだった。

イエスさまが水の上を歩かれたことは本当、パンをどんどん出されたことは本当・・・・、エトセトラ、エトセトラ。

このように一応は努力してあとは実戦だったが、今の流ちょうな英語時代では私の英語はしゃべれますというレベルではない。

奥さんの携帯が終わって、二人はしゃべりだした。

 

家内が吹き出した。  「あのひとたち!英語もしゃべれるのね!」

二人は英語で話していた。やはりそのほうが楽なのだろう。

 

蛇足)外人のお相撲さんの日本語すごい。


竜安寺石庭(その一・雨の日)

2015年10月18日 | 雑感

2014年6月26日

 

竜安寺石庭に行った。

ここには、屈託することがあったときによく来る。ただぼんやり座る、気持ちがいい。

人観光客と修学旅行生がすごく多かった。

 

空模様があやしくなって、

“雨が降るだろうが、同じ降るなら土砂降りの雨だったほうが気持ちいい”と言っていると、ふりだして本格的土砂降りになった。

みな縁側から退いて雨しぶきを避ける。

 

家内が言うには、なにか石の感じが変わってきたような気がする。

               

“坊さんが少しずつかじってるのかな” と、わたし右手奥の頂上が少しかけた岩を見て、くだらない冗談をいう。 (最初の写真。縁下の溝は激しい雨で ざわざわとあふれかえっている)

 

遠い昔、国語の実力テストに出題されていた井上 靖の“石庭”という詩が高校生の彼女を石庭にいざなうきっかけとなり、以来幾度となく家内が行くこの庭に、私もまた行くようになった。 

 石の様子が変わったことについて、単なる気のせいという私のことばに、“いや、そうではない、あの石も、あの石も、なにかちがう”

と言いながら

「それにしてもわたしたちみな、配置された石の位置を強制的に見さされてることになるのよね?・・・」と言い出した。

 “はあ?!”

家内はさらに続ける。“私らはこれを絶対と思っている。完全な美の世界としてね。だけど、たとえば、あの石をこっち側に置いて、この石とあの石を入れ替えて、それから、こうして、ああして・・・・、そうなっても、私らはそれに満足して見るのではないか。”

私はなんとなく理解した。

 

 二番目の写真は私の父の長年の友達で画家だった人が40年ほど前に描いた石庭の絵だ。

どういう風に描いているのかとおもって、以前、持っていったのだが、決定的に違う点がある。

父の友人が描いた絵の土壁の屋根は瓦だが、今は板葺の屋根になっている。78年以降瓦から板葺になったとのことだ。

このことについて、今回の家内の言葉から再度思いだした。絶対的なもの、そして悠久とはなんだろう。

                    

 雨はまだやまない。もう1時間以上降っている。時に激しく、ひさしをつたって前の石に跳ね返る様は興があって何とも面白い。

もっとも最初は喜んでいても、観光客は雨で捕虜になった人質のようだ。

 激しく降る雨の石庭は初めてだった。今日の石庭はいろいろと想念が浮かび上がって、これもひとえに雨の    おかげだろう。

  

                   『石 庭         井上 靖

     

     むかし、白い砂の上に十四個の石を運び、きびしい布石を考えた人間があった。

     老人か若い庭師か、その生活も人となりも知らない。

     だが、その草を、樹を、苔を否定し、冷たい石のおもてばかり見つめて立った、

     ああその落莫たる精神。

     ここ龍安寺の庭を美しいとは、そも誰がいひ始めたのであらう。

     ひとはいつもここに来て、ただ自己の苦悩の余りに小さきを思はされ、慰められ、暖められ、

     そして美しいと錯覚して帰るだけだ。