エッセイ -日々雑感-

つれづれなるままにひくらしこころにうつりゆくよしなしことをそこはかとなくかきつくればあやしゅうこそものぐるほしけれ

白鳳・照ノ富士 対 栃錦・初代若乃花 

2021年07月18日 | 雑感

2021年7月18日

今日は名古屋場所千秋楽。照ノ富士、白鳳いずれも全勝同士でぶつかる。今場所は概して面白くない相撲ばかりだったが、最後になって盛り上がった。

私は相撲が好きで、羽黒山、名寄岩のころから見ている(というよりラジオを聞いていた)。テレビに出会ったのは小学一年か二年のころ(1950年くらい)、電気屋で名寄岩の相撲をみたのが初めてだった。

私は一貫して栃錦のファンだった。栃錦は小兵だったが多芸、上手出し投げ、二枚蹴り、首投げなどで、あとで一番の好敵手となる初代若乃花が栃錦の上手出し投げで、土俵の端から端まででんぐり返りで飛ばされて、おまけに土俵下まで転げ落ちたことがあった。彼の出し投げは生半可でない勢いで押して行って相手が押し返そうとする力を利用して体をかわして投げをうつものだから、若乃花が一方の土俵の端から端までそして土俵下まで飛んでいったのは、これ納得できる、豪快だった。しかし横綱になってから小細工(今のすもうからすればまったく正当)はなるべく使わないで、正攻法の押しでぶつかるように努力して名横綱となった。

昭和35年(1960年)、大学受験に失敗して浪人となった我々仲間5人は、自分らの不勉強はたなにあげてうっぷんばらしに、有馬の友達の家の山小屋風別荘で1週間ほど寝泊まりしてどんちゃん騒ぎをやった。食料は少し遠いが有馬温泉街まで下りて行って調達した。

ある日のこと、食料がなくなったので温泉街の肉を買い出しに行った。すると二階のほうでテレビの大きな音がしている。考えてみると今日は春場所千秋楽、栃錦と若乃花の全勝横綱同士の対決だった。史上初と後で知った。

我々は顔を合わせ、同時に、“見せてもらっていいか”、と二階を指していった。おじさんがOKといったので、われわれは靴をけとばして、ダダーと二階にあがった。誰かいて驚いていたのだろうが、そんなこと知らん。皆テレビの前でせいざした。

時間いっぱい、両者、立ち上がって、正面からぶつかり合った。力相撲だ。全力を出して闘ったが、ついに栃錦が力尽きた。栃錦はやや下り坂にさしかかり、若乃花はまだ余裕があった。

しかし、きれいな相撲だった。ありありと憶えている。

栃錦は翌場所引退した。

さて、白鵬はどう闘うのだろう、照ノ富士はどうたたかうのだろう。

照ノ富士は、来場所横綱になるようだ。だから横綱同士のたたかいだ。栃錦と若乃花のように、正々堂々と正面からぶち当たって勝負してほしい。

私は照ノ富士のファンだ。しばらく相撲を見なくなったときがあって、彼を初めてみたのは2014年肺を切って入院したときだ。とんでもない力士がでてきたと思ったのが、逸ノ城、つまみに、照ノ富士。

逸ノ城もがんばってほしい。だだ、大きい体にしては、足のサイズが小さいのが気になる、というのは、家内の言だ。

照ノ富士のファンになったのは、初優勝のときの初々しさだ。それと、温和な顔が、強い相手には、塩をまいているうちに、だんだん新薬師寺のバサラ大将なみのすごい顔になっていく。ところが、カド番などの力士にはこんなことはない。プロとしては失格だが、それが私はすきだった。でも、ここまで戻ってきてからの彼はそんなことはない。さんざん苦労しての成長だろう。でも本当によくやった。ひざの状態などで今後、また苦労するだろうが、よく頑張った

 

白鵬は、最後には、栃錦・若乃花のような、まともな相撲をとってほしい。時代はかわって、相撲は格闘技だといわれればそれまでだが、“相撲はけんかだ”、と小錦は云ったが、彼の人柄をみてると、そうです“、と賛成できる。

ノミノスクネ、タイマノケハヤ、と白鵬がたたかったらどうなるのでしょう。

なにかわたし、白鵬に反感もっているように書いてますね?

 

 


 ハンコ廃止、おじいさんのランプ、と、元号について

2020年10月19日 | 雑感

2020年10月19日

 

政府主導のハンコ廃止の話、一瞬、新美南吉の「おじいさんのランプ」が頭に浮かんだ。

ランプ売りを生業とするおじいさんだったが、あるときから電燈が村に入りだした。それでおじいさんは絶望的になってランプを次々と集めて谷川に投げ入れて割っていった、というのが家内、私のぼんやりした幻想的なシーン、記憶だ。

 

 しらべなおした、“孫にきかせる「おじいさんのランプ」の話”はちょっと違う。おじいさんはランプもない村で過ごしていたが、あるときランプが輝く“竜宮城”のような村に行った。おじいさんは、これからは“ランプの時代だ”、と思い、そしてランプを手掛け成功した。ところが、いつしか電灯が村に入ってきる時代になった。おじいさんは絶望的になって、自分のもっているランプ全部に油をいれて点火し、谷川に持っていって木に吊るして、それに石をなげて割った、“これが自分の終わるやりかただ”、と。しかし、数個割ったあとで、“これではだめだ”、と反省した、そして、おじいさんは本屋になった。

 おじいさんが孫に言うには、“自分の仕事が時代に合わなくなったら、それにしがみつくことなく、別の道をさがせ”、というきわめて教訓的なことだった。わたしも家内も誤解していた。

 

 これとハンコ廃止の話は大勢の人間が職を失うという点では同じだが、同じようにみえて、少し違う。たしかに会社内での稟議書でハンコを貰うのは一苦労だ。行政行為としての《ハンコ押印》を他の方式に変換し,行政簡素化,高速化していくと言う流れは,避けられそうにない。しかし、すべてうまくいくのだろうか。重要書類に必要な実印、割り印などはどうなるのだろう。それにたびたび発生する偽ソフト。

ランプの死は機械的で、絶対的に仕方なかった。

 

 ついでに言えば公的書類の元号年記入。昭和生まれの私は、昭和時代は私の生まれ年に25たせば西暦になれたが、平成から混乱した、そして令和。元号年記入のたびに天皇制まで否定したくなる。「西暦でも元号表記でもどちらでもいいですよ」と記入書類を変えるのは、ハンコ廃止・ランプ排除よりもずっと簡単で被害は少ないし、たいていの人は喜ぶはずだ。元号表記をいつまでも強制する国が気持ち悪い。

 

鹿児島の寒村から出てきた父はかなの歳になるまでランプ生活だった。ランプのホヤみがきの役割だった、いま生きていれば110歳位、の叔父が言うには。「ランプのホヤをピカピカに磨くのは、けっこうおもしろかったとよ」。

 


時はもどらない ― 蛍と明日香

2020年06月21日 | 雑感

2020年6月21日

 

これは、むかしだしたものを最近のTVを見て、手直したものである。

 

*老人の自慢・・・時はもどらない

蛍で知られるある山村の池でのTV放映が先日あったが、その夜は結局5匹のホタルしか見られなかった。たまたまその日がすくなかったのかもしれない。いまだに蛍の名所といわれるところがあるようだが、全国的に蛍の激減ぶりはひどい。十数年前はけっこう京都市内でもみられたし、我々の高校の山小屋がある北山の谷川ではたくさんの蛍が見られた。ドライブがてらアユを食べに行った花背越えの広河原あたりでは、いつでも沢山の蛍が飛んでいた。

 小学生の時(1950頃)、夏の夜は毎日近所の仲間と蛍狩りに行った。親は子供が夜出ていっていつ帰ってくるか、まったく関心はない。当時私が住んでいた家は東山連峰の西下の街道(今は京都のいくつかある大通りの中の一番東)で、住んでいたところの町名は「上終町」、すなわち“雅な京のみやこ”の上(京都では北を上と云う)のはてる(終わる)ところだ。これより北はみやこではない、昔の大通りはここで終わる。あとは山沿いに田んぼ道をぬけて蛍をもとめて一乗寺下り松「宮本武蔵と吉岡一門の決闘の場所」までいって引き返す。帰ってくるときは、いつも虫カゴのなかでは蛍でいっぱいだった。あのときでも驚くほどの乱舞と云えるのには3,4回しか遭遇したことがない。

 この話を私の高校時代からの山仲間、Tにメールした。

Tの話は何度か聞いているが、すごい。

帰ってきたメールそのままを載せる。「伊勢の蛍は本当に凄かった。無農薬の(神宮、皇居用神聖な)広い神田一面がまるで濃霧に包まれたような蛍の群れには思わずワーと叫んだような記憶があります。勿論誰も物好きに見に来ているような地域ではありませんでした。」 Tは40年ほど前には伊勢勤務だった。

 

老人の自慢をもう一つ。

私の家内は大学卒業後、市内のある大学の研究室の秘書をしていた。そこには背の高い、鶴のように痩せた、皮肉屋の老先生がおられた。あるとき家内はその先生に“高校三年のとき、国語の夏の宿題で明日香に行ったが、ほんとうに素晴らしかった!”という意味のことを言った。家内は文学大好き人間だった。彼女の高校3年のときといえば1965年だから、いまから55年まえだ。

すると老先生いわく、“今の明日香なんて、私が50年ほど前(100年以上前)に見た明日香と比べたらひどいもんですわ”。

私が彼女と結婚して、子供たちをつれて明日香に行ったときはすでに家内が行った時の雰囲気は消えていたという。すべてが様変わりだった。観光客はレンタサイクルでそこらをすいすいまわり、そして石舞台はといえば、もはや彼女の記憶に残る石舞台ではなかった。1970年代なかごろだ。彼女もあの老先生と同じような心境だったに違いない。

時はもどらない。だからその昔の“いい”ことを経験した人は、経験すべくもない若者に向かって”あの時はこうだった、あのときはよかった“などと自慢し『今』をけなしたがる。

そういえば数百年も昔に書かれた徒然草でもこうだ。

“なにごとも、古き世のみぞしたはしき。今やうは無下にいやしくこそなりゆくめれ。

かの木の道のたくみの造れる、うつくしきうつはものも、古代の姿こそをかしと見ゆれ“。

徒然草の昔からこうなのだから、ましてなにをか言わんやである。


スカ景品はコロナマスク

2020年06月20日 | 雑感

2020620

ランニング用の白い靴下がなくなったので、コーナンまで買いに行った。家内からついでにトイレの消臭剤とボディソープもとたのまれている。

 3点を手に入れて店を出ると、下に降りる階段のわきに男の人が立っていて、“これをもって下でくじを引いて下さい、スカはありません“。階段を下りて奥に行ったらガラガラがある。何の気なしにそれを廻そうとしたら、机にすわって女の人が、「その前にこれに記入して下さい。」

あなたは家族葬を望まれますか、どうですかの質問に始まって、住所、氏名、年齢、家族構成、を書かされ、そんなつもりじゃなかったのだが、最低限度のことを書いた。私の顔は家族葬むきだったようだが、相手も私が乗り気でないのがわかったらしく、あまり強要をしなかった。ある葬儀グループの入会の紹介だった。適当に許して貰って、ガラガラをやったら白玉が出た。最低の玉だが、その景品がなんと“マスク”。スカではない。

450億を投入してまだ届かないところがあるのに、ここではゴミ扱いだ。

安倍さんのやることはパロディの連続ですな、いやはや!

というひとときでした。

 


花と竜と中村哲さん

2019年12月06日 | 雑感

2019年12月6日


以下の文は大学時代のメール仲間二人に送ったものだ。

 

 

ずいぶん昔、「花と竜」という小説を読んだ。多分両兄とも、ご存知だろうが、あえてリフレイン。

 

これは、太平洋戦争前後、気の荒い北九州の波止場で、沖仲仕の若い頭となった玉井金五郎が仲仕達の生活向上のために、子頭連合組合を結成しようと運動し、今でも名が通っている大親分・吉田磯吉の一派、そしてどてらばあさんと云われた親分を敵に回して、自身瀕死の重傷をなんどか負いながら立ち向かっていった長編物語だ。その男を助けた妻がマン。“竜”は金五郎が自戒の念を忘れないために彫った刺青”と言われ、“花”はマンのことだろうと私は思う。

 

これは火野葦平が実の両親について書いた、ほぼ現実に近いものだと云われる。迫力があって面白かった。映画も見た。私の見た映画の金五郎は石原裕次郎だったと記憶する。

 

火野葦平の甥が、中村哲さんと知ったのは30年ほど前だろうか。

 

やはり血筋というものがあって、斜めに下がっていっても、偉い人の血は受け継がれて行くのだなと感じたのはそのときだ。

 

覚悟されていたとは思うが、「花と竜」の信条が彼の頭の片隅にもあったのではないかと思う。

 

つつしんでご冥福をお祈りいたします。

 

(後編)

さて、その後の彼らの返信で、一人は小説も映画も見たが、中村さんと火野葦平との関係はしらなかったとのこと。

もう一人は「花と竜」は読んでいないが、中村さんと火野葦平(玉井金五郎)との関係は昔新聞で読んだ記憶があるという。なお、この男、それとは別に中村さんに感銘をうけてペシャワール会(パキスタン、アフガニスタンでの人道的支援の会・中村さんを応援する会)へ、20年以上,

わずかながら毎年献金しているという。お前もやれと云われた。